PDF: 御生誕祭_教主様お言葉

 

於:グランドニッコー東京 台場(パレロワイヤル)

 

皆様、本日は、「世界メシア教 御生誕祭」おめでとうございます。
 昨年の御生誕祭、そして、本年の春季大祭と同様、本日の祭典行事につきましても、「グランドニッコー東京 台場」の皆様より、格別のご理解とご協力、また、数々のご配慮をいただきまして、開催させていただくことができました。ここに、「グランドニッコー東京 台場」の皆様に、厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございます。

 

明主様は、明治15(1882)1223日、この世に生をお享けになりました。今年は139回目のお誕生日です。
 私どももこの世の誕生日がありますが、明主様も私どもも、主神が天国という霊の世界において、メシアの御名に結ばれた霊の子として生んでくださったからこそ、世に生まれることができたのであります。
 主神が私どもを世に生まれさせられたのは、霊の子である私どもを、意識ある一人ひとりという、個々別々の存在とするためであります。
 それは、一人ひとりを神の子とするため、すなわち、メシアとして新しく生まれさせるためであります。
 主神は、全人類を新しく生まれさせることを天国でお定めになり、恵みという権威をもって、今、私どもの中で、すべてのものの中で、創造のみ業をなさっておられます。
 私どもは、本当の親である神様の子供とならせていただけるのです。
 この福音を主神は、イエスを通して私ども人類にもたらされ、人類の神に対する罪をお赦しになるためにイエスを十字架におかけになって、そのいの血汐とをお受け取りになるとともに、イエスを死人の中から甦らせ、神の子たるメシア、すなわち、イエス・キリストとして復活させられました。
 その二千年後、明主様は、イエスの贖いによる神の赦しを信じ、私ども人類を代表して、この福音に御身をもってお応えになりました。
 すなわち、明主様は、ご昇天の前年、脳溢血の症状が続いているにもらず、ご自身の中で「メシア降誕」「メシアが生まれた」ことを、この上ない喜びと驚きをもってご発表になり、それは、「生まれ変わる」のではなく、「新しく生まれる」ことであることを私どもに告げられました。
 明主様は、私どもを代表して、私どもの模範として、神様の子供として新しく生まれさせる、という福音にお応えくださったのです。
 私どもは、どこの誰であろうと、イエスによる贖いと復活を信じ、その思いが主神の思いと合致し、主神がよしとされるならば、今この瞬間にでも、新しく生まれさせていただけるのです。
 生命の安らぎのうちに、永遠に生きるものとなって、神様にお仕えする子供とならせていただけるのです。
 このような千載一遇の恵みを私どもに分け与えてくださった明主様が、この世にお生まれになったことを心からお祝い申し上げるとともに、主神が、私どものために、二千年前にイエスを、そして今明主様を、この世にお遣わしくださったことを主神に感謝申し上げる祭典を、皆様と共に執り行うことができましたことを大変嬉しく、ありがたく思っております。
 皆様、誠にありがとうございました。

 

さて、皆様お気づきのように、本日の祭典において、私は浄霊をいたしませんでした。
 今後の祭典等の行事においても、浄霊をさせていただくことはありません。
 そのように明主様が望んでおられると信じるからであります。
 先達の方々を始め、私どもは、明主様に導かれるままに、手をかざす浄霊をさせていただいてまいりました。
 特に、先達の方々が、世を救うという使命感に燃えて、浄霊による布教に懸命に励んでくださったからこそ、私どもを始め、多くの方々の明主様との出会いが許され、そして、今の私どもがあることを思いますと、先達の方々のってこられた情熱あふれる信仰と長年積み上げてこられたご努力に対し、どんなに感謝してもしきれない思いであります。
 私どもは、浄霊によって病状や体調の変化などをの当たりにする中で、神の存在とその力に目覚め、感動と喜びの中で、信仰の道へとわれてまいりました。
 しかしながら、浄霊による変化が顕著でなかったり、見られなかったり、また、感じられなかったりした時には、浄霊が足りない、浄霊力が弱いと言ったり、あるいは、信仰心や心掛けが十分でない、御用が十分でないなどと理由を付けて、自分自身を納得させていたような気がいたします。
 神様のお役に立ちたいと言いながらも、神様の光と力、その無限のお働きを自分たちの思い思いの尺度で評価し、神様の思いよりも人間の思いや都合を満足させるために、浄霊を実践してきたこともあったのではないかと思います。
 このように傲慢な私どもであっても、今日まで浄霊の手をかざすことを許してくださり、私どもを忍耐強く導き、養い育ててくださっていた神様の愛の大きさ、深さは、私どもでは到底計り知ることなどできないのではないでしょうか。

 

明主様は、何のために、ご自身がなされたように、私どもにも浄霊の手をかざすことを許してくださったのでしょうか。
 それは、浄霊を通して、私どもが少しでも神様に心を向け、神様あっての自分であることを認めることができるようになるためであり、そして、神様の救いの手が自分の中にあることに気づくことができるようになるためではなかったのかと思います。
 明主様が、たくさんの御手をお持ちの「千手観音」のご尊像をおきになったのも、そのためではなかったのではないでしょうか。
 明主様は、御歌を通しても、私どもの中に神様の救いの御手が、恵みという権威をもって厳然と存在することをお示しくださっています。
 「魂機張る命の主は己にあらで神の手にあるを知れかし」
 「万人の命を手に握りますメシアにる人ぞ賢し」
 「大いなるメシアの手に地の上の一切万有救はるるらん」
 「常暗の道にふ小羊をいとろに手にふ」

 

私どもは今、主神が私どもの中に生きておられ、メシアの御名にあって、すべてのものを、贖われ、赦され、救われ、浄められたものとして、その御手の中に迎え入れてくださっていることを知るに至りました。
 メシアの御名にある、この救いを私ども一人ひとりが認めること、そのことこそ生きた浄霊のみ業なのではないでしょうか。
 この浄霊のみ業を主神は、私どもの中で、一瞬もることなくなさっておられます。
 明主様は、様々な病気や悩み苦しみは「浄化」であるとお説きくださいましたが、私どもが浄化と受けとめさせていただくということは、そこに主神の御手による浄霊のみ業が行われていることを認めさせていただく、ということになるのではないでしょうか。
 主神は、浄化と浄霊をご自身の一つみ業として成し遂げておられるのです。
 浄化と浄霊は一つです。

 

明主様は、「からだ出すぞ大きな救ひの手」と色紙にお書きになりました。
 この聖言にありますように、明主様と共におられる主神は今、その大きな救いの御手をもって、ますます力強くお働きになろうとしておられます。
 私どもは今、私どもの中に存在する主神の御手を自分たちのもののようにして、浄霊の手をかざしていたことを認めなければならないのではないでしょうか。
 そのことを主神に、そして、明主様にお詫び申し上げ、その尊い御手を、メシアの御名にあって主神にお返し申し上げるべきではないでしょうか。
 そして、主神の浄霊の御手が私どもの想念と息の中に存在していることを信じ、「これから想念の世界である。御浄霊は二の問題で、先ず想念である。お念じしなさい」と仰せになった明主様のみ心にお応えし、今日までの手をかざしての浄霊にピリオドを打ち、想念と息をもってお仕えする、全く新しい救いのみ業にお仕えしてまいりたいと思います。
明主様がイエス・キリストと相呼応して仕えておられる主神のお許しをいただいて、この全く新しい救いと永遠の生命に至る道をまっしぐらに進ませていただきましょう。

 

先程の成井理事長のご挨拶にありましたように、皆様すでにご存知のことと思いますが、新たな決意と慎みをもって皆様に申し上げます。
 来年615日、畏れ多くも、主神、そして明主様のお許しをいただいて、「メシア降誕本祝典」を皆様と共に執り行わせていただくことといたしました。
 明主様が67年前の昭和29(1954)615日に「メシア降誕仮祝典」を挙行されて以来、初めて開かれる「本祝典」となります。
 この祝典を迎えるにあたって、私どもは、明主様が仮祝典において、メシアとして新しくお生まれになったという生命の喜びを全信徒と分かち合おうとされた、その尊いみ心に少しでもお応えさせていただくべく、新しい未来を創造するみ業に精一杯お仕えし、明主様にお喜びいただけるような祝典とさせていただきたいと思います。

 

終わりに、本年一年、世界メシア教信徒としての道を、勇気と希望をもって歩んでくださった皆様に感謝申し上げますとともに、まもなく迎える新しい年が、恵みと安らぎに満ちた、実り多き年でありますようお祈りいたしております。
 ありがとうございました。