PDF: 新年祭_真明様ご挨拶

「光のみ」

於:本部ご神前

 

皆様、あけましておめでとうございます。
 今日は元旦ということで、初日の出をご覧になった方もいらっしゃるのでしょうか。
 私は、家で、妻と子供たちと──あれ?一人起きて来ないかな?と思ったら起きて来ました、日の出を察して起きて来まして──家族で初日の出を拝しました。
 それで、日の出、太陽ということで自分が思わされましたのは、「立別け」ということですね。立別け。
 明主様が世界メシア教を開教になったのは昭和25年。それまではメシアではなく観音。で、明主様は、観音というのは、善悪無差別の救い、どんな人でも救いにあずかれますよとおっしゃった。
 観音は善悪無差別。でも、世界メシア教になって今度はメシアが出てくる。メシアになると、もう善悪無差別ではなくて、これからは善と悪をはっきり立別けるんだと、そう明主様は仰せです。
 初日の出を拝しながら、その、立別け、ということをちょっと思ったりしておりました。
 でも、よく考えると、明主様の「これから立別けていくんだ」という思いと、一方、世の中で、確かに今まで許容されてきたことが許容されなくなるという側面はありますけれども、一般的には、どちらかというと、多様性と言いますかね、いろいろと認めていかなきゃいけない、というそういう流れになってますよね。
 いや、それはもちろん、一人ひとりの人間が表現させられているいろんな生きざまというのは平等に受け入れていかなければいけない、ということはあると思いますよ。
 でも、例えば宗教ということも、いろんな宗教があっていい、いろんな宗教を認めていかなきゃいけない、となってますよね、今。だけど明主様は、むしろ、「立別けるんだ」とおっしゃる。メシア教を受け入れるか否か、みたいにどんどんとなっていかれた。
 その辺が、明主様の方向性と、世の中の、どんな宗教、どんな考え方も認めていかなきゃいけない、という方向性が逆みたいなこともあるのかなと、そんなことを思ったりしています。
 まあ、本当は、真理は一つですからね。でもその真理を我々は受けたくないですから。受けたくないので、「いろんな考えがあっていい」というようにして、物事を相対化して、そして、そのようにしながら真実を受けるのをみにけようとしているという我々の姿もあるんじゃないのかなと、そう思ったりもしています。
 それで、明主様と方向性が逆と言えば、我々のご神業の進め方はどうだったのか。
 明主様は、観音の時代には善悪無差別ということで、要は、間口を広げて、どんな人でも集まって来ていいですよ、というところから、メシアとなってからはどんどん間口をめられていった。立別けていかれた。
 明主様は、メシア教の信仰を伝えて、もし相手が分からなかったら追いかける必要はない、むしろ追い放しなさいとおっしゃった。全人類を救うと言っても神様のほうとしては救う人と救われない人をもう分けてあるんだから、追いかけなくていいと、そうおっしゃいましたね。
 この明主様の方向性と、明主様ご昇天後の私たちの歩みの方向性、これは一体どうだったのかというと、まあ、ひと言で言えば、逆だったんじゃないかと思うわけです。
 観音の働きの一つに「応身弥勒」というのがありまして、その働きは、皆様ご存知だと思いますけれども、要は、相手の状態に合わせて救いの形をいろいろ変えていこうと、そういうことですね。
 善言讃詞にも「光明如来と現じ、応身弥勒と化し」とあるように、「化し」は「ける」という字ですからね、だから、自分の本性ではなく、むしろその本性を隠し、化けた姿をもって救いを進めていこうと、そういうことですね。
 この「応身弥勒」と同じこととしてよく明主様がおっしゃっていたのは、「和光同塵」。この「和する光」というのは、何も、人と和していこうということではなくて──まあ、そういう意味もあるのかもしれませんけれども──ここは、光をらげるということで、要は、自分の本性を隠すということ。そして、同塵というのは、自分は本当はすごい存在なんだけれども、自分をあえてにまみれさせて、俗世間にまみれさせて、そして、そのようにして相手に合わせて救いを進めていく、そういうことです。
 この和光同塵というのは元は仏教用語でして、これは、良いこととされているんですね。自分の主張を抑えてむしろ相手に合わせていこう、世の中で言っていることに合わせていこう、というあり方。
 でも明主様は、世界メシア教になった時、観音はもちろん終わったんですけれども、この「応身弥勒」とか「和光同塵」というのも終わったんだとはっきり仰せですよ。
 自分たちの本性を隠して、ということは、要は、メシアとか宗教とか神様とか立別けるとか、こういうことを隠して、世の中や社会で言ってるレベルに自分たちの業を落として救いを進めていく、この時代は終わったんだとはっきりお示しになった。
 御歌もたくさんありますよ。皆様は『朝夕拝の御讃歌』でご覧になったこともあるかもしれませんけれども、和光同塵とか応身弥勒が終わったということに関連した御歌はたくさんあります。
 例えば、「光こり応身の弥勒の神業はやすみにける」。
 和光同塵や応身弥勒のように、本性を隠して相手や社会に合わせるのはもう終わった。いや、もちろんね、明主様は、自分の主張を一方的に相手に通せばいいという意味ではないですよ。それは臨機応変にしていかなきゃいけないということの応身の大切さはありますよ。でも、ご神業の進め方としては、「応身の弥勒の神業はやすみにける」ですから、本性を隠して、社会などに合わせてご神業を進めていく時代は、「はやすみにける」、もうとっくに終わりましたよと、そうおっしゃってる。
 似たので、「和光同塵応身の業うやくにすみにけらしも夢の如くに」。
 もうね、本性を隠し、社会に合わせてご神業を進めていくのは、過ぎ去ったどころか、「夢の如くに」ですから、過去の産物、もう、過去も過去の話だと、そう明主様は仰せです。
 あるいは、「和光同塵の衣かなぐり捨つる時にけり心せよみな」。
 だから、和光同塵というように、本性を隠して塵にまみれて、俗世間と同じようなことのレベルで明主様を説いていくという衣をもう脱ぎ去りなさいと、そういうことですね。「かなぐり捨つる」と言われるということは、そういうあり方から脱出するのには勇気、覚悟がいりますよ、ということをお示しになってますね。
 「弥よ来にけり心せよみな」。いよいよその時が来たけれども、心の準備はできてますか?今までのように、世の中の人の言ってることと同じようなことで明主様を世に紹介して、そして、それが受け入れられて、「あーよかった、よかった」と言える時代はもう終わりましたよと、そうお示しになっておられる。
 「心せよみな」という言われ方。これは、警告ですね。世の中の人たちの考え方、歩み方はある。でもそれを超えて、自分たちの本性を世に示しながら歩んでいかなければならない、それで世に出る覚悟はあなた方にありますか、という警告ですね。
 「くも応身の衣かなぐりてたむメシアのいさぎよきかも」。
 我々は、くなくてはならない。世に合わせてやっていくあり方は楽ですよ。世の中の人が言ってることですから、それは当然楽ですよ。でも、それをかなぐり捨てて、あなた方は潔くてますか?
 何が起ったかと言ったら「メシア」だったんですよ。「応身の衣」をかなぐり捨てたら、その衣の中、本体はメシアだったんですよ。だから、これからはメシアの救い、メシアを前面に出していく救い、その時期が来てますよと、そういうことですね。メシアを、隠すどころか、それを前面に出していくあり方で進んでいくのが潔いんだと、そう仰せですよ、明主様は。
 ちょっと似たので、「和光同塵世にぞもり吾今し大地を蹴りてでなむ」。
 「大地を蹴りて躍り出でなむ」ですよ。もうね、躍りられるんですから、喜んでいらっしゃるわけです、明主様は。今までは、ずっと、ご自分の中にいるメシアという存在を隠されなければならなかった。でも、世界メシア教になって、ついに表に出られることになった。
 大地を蹴って、躍りながら出られるんですよ?この明主様の喜びと気迫。しかもこれは、今の話ではないですよ。今聞くと、「これからそういうふうにがんばっていこう」と思いますけれども、そうではなくて、これは、明主様が世界メシア教を開教されてからはっきりおっしゃっていることですから、もう軽く70年以上も前の話ですよ。
 というように、これら数々の御歌において、明主様は、本性を隠して、世の中で言っていることと同じようなことでご神業を進めていくのはもう辞めたと、70年以上も前からはっきりとおっしゃっていたのに、明主様ご昇天後の我々はどうだったんだろうか。
 我々の明主様ご昇天後の歩みと言えば、宗教を隠し、神様を隠し、そして、明主様がおっしゃったことを、世の中で言ってることと同じところまで落としてきた。そして、それが「明主様を世にお出しする」ことだと思い込んできた。
 よく、「明主様を世にお出しする」と言うじゃないですか。そして私たちは、社会的に明主様が受け入れられることが、明主様を世にお出しすることだと思ってきたじゃないですか。
 でも、今の御歌からも明らかですけれども、明主様が世にお出しになりたいのはメシアのことですよ。なのに私たちは、どちらかというと、メシアという宗教的なことは明主様を世にお出しするのにはげだ、ぐらいに思ってきたじゃないですか。
 それで、世の中で言われていることに落として紹介した明主様が認められたら、「明主様を世にお出しすることができた」とか言ってきましたけれども、もうね、全然勘違いですよ、完全に。
 だからそれらのことは、象徴的に言えば、私たちも直接的に関わっておりましたけれどもね、MOA美術館と言われるように、MOAの活動とかいうことで、宗教というあり方を隠して、世の中で言っているレベルに明主様のことを落としていくあり方ですね。
 浄霊も、世の中で受け入れられている表現に変える。芸術活動も、世の中で言われているようなことで伝える。農業も、世の中で言われているようなことに変える。
 どんなにそれで明主様を世にお出ししても、和光同塵ですよ、それは。明主様は、そういうあり方が終わったとおっしゃってるんですよ、もう70年以上も前に。
 それなのに私たちは、メシアを出すことよりも、愛の権化の明主様、利他愛の明主様というそういう明主様像を作り上げて、それで、明主様の願いは私たちが世のために尽くすことなんだ、ということにしてしまってね、そしたらもう世の中はそういうことをたくさんやっていますからね、人のために尽くしましょうとか言ってるから、それで私たちは、世の中の人も明主様の利他愛の精神を持ってやっている、えらいな、そういう人たちと一緒になってかできた、良かった、ご神業が進んだ、明主様の願いが実現した、とね、もうそういうふうに私たち全員してきましたよ、今日まで。
 だから私たちは、明主様に対してたくさんの教義違反をしてきましたけれども、これらのあり方は、もう、一歩目からえてますよ、方向性を。
 それなのに私たちは、明主様が本当に願っておられたメシアということを出そうとされた教主様が教義違反だと思って、教主様がおっしゃってることはおかしいと言ってきたじゃないですか。
 本当は、大地を蹴って躍り出たいんだ、という明主様の思いが教主様の中に満ち満ちていたんじゃないんですか?だからそれを教主様は表現せざるを得なくなった。
 明主様は、「世にぞもり吾今し」と言って、世にもれてたところからようやく70年前出てこられたのに、我々は、また、生き埋めにしようとしてたんですよ。
 せっかく明主様は大地を蹴って躍り出たのに、我々のほうは、世に対してメシアも出さない、宗教でもない、神様でもない、それが明主様のご神業なんだと言ってる。何なんですかそれは。もうね、明主様としては我慢ならないことだと思いますよ。
 だから、教主様がここまではっきり貫いてくださっているのは、明主様が、教主様の中で、「私は、まためられるようなことにはならない」と思われたからじゃないですか?
 いや、このメシアということも、内部的に、「メシアを受け入れてます」というのは簡単ですよ、「明主様だけがメシアだ」ということで。
 でも、明主様がおっしゃるメシアというのは、絶対にイエス・キリストを含んでますよ、100%
 メシア教を開教になられた時に明主様が受けられたインタビュー。それは、外部ではなく教団機関紙のインタビューですけれども、そこで、記者は、世界メシア教が開教されたことに関連して、明主様に伺うんですね、「メシアというのは普通イエス・キリストに冠されているけれども、それとこの世界メシア教の開教とはどういう関係があるのか」というそういった趣旨の質問。
 それに明主様は何てお答えになるのかというと、いや、イエスは西洋では確かにメシアとされているけれども定義はまだ定かではない、というこれがスタート。続いて明主様は、二十世紀前半までは神様はまだその本当のお力を発揮されていない、でも、いよいよ二十世紀後半からお力を発揮されるんだ、するとどうなるか、西洋では、さぞやキリストも本来の実力を発揮するだろう、東洋においてはメシアだと思う、だから従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない、もっとすごい神秘な力が現れるんだと、こうおっしゃるんです。
 これは、イエスに関連した直接的な質問ですよ。しかもメシア教開教直後の非常に重要なタイミングでお受けになったインタビューですよ。もし、イエス・キリストがメシアではないなら、そこではっきりおっしゃいますよ、「私だけがメシアだ。イエスはメシアではない」とおっしゃいますよ。
 でも明主様はそうおっしゃらなくて、世界メシア教が現れると、神様はもっと力を現して、西洋ではキリストもこれからさぞや本来の実力を発揮するんだ、東洋においてはメシアが力を発揮していくんだと、こう仰せになった。
 ここの、「東洋においてはメシア」の「メシア」は、きっとご自分の業のことをおっしゃっているのだと思いますので、東洋においてはメシア教の業、西洋においてはキリストがどんどん力を発揮していく、こういうことですね。
 だから、一つですよ、明主様にとっては。イエスもご自分も一つ。明主様がおっしゃる「メシア」の中にキリストも含まれていなければその時にはっきりおっしゃいますよ、実はイエスはメシアではなかった、私だけがメシアで、これから私だけが力を発揮していくとおっしゃいますよ。だって、これは直接的な質問ですからね、イエスに関する。
 このような御歌もありますよ。「ハレルヤの歓呼の直中に静かに天降るメシアキリスト」。
 これ、どう理解するんですか?「メシアキリスト」、ですよ。メシアとキリストという別々の存在がばらばらに二つ降りてきているという意味じゃないと思いますよ。
 だから明主様は、キリストでありメシアである魂をお受けになったし、またそれはイエスにも宿った魂であるし、そして今教主様は、明主様を模範として、私たち一人ひとりも、その「メシアキリスト」という魂を受けなさいとお伝えくださっている、そういうことですね。
 ミッションスクールの聖言もありましたね。信徒が明主様に、子供がキリスト教系の学校に行っていると言う。それに対して明主様は、それの何が問題なのかとおっしゃる。すると信徒は、学校ではキリストを拝んで、家では観音様を拝むのがちょっと、と言う。まあ、ここの観音様というのは事実上明主様のことですね。これに対して明主様がなんとおっしゃったのか。「キリストも観音様も同じことですよ」、ですよ?「キリストは西洋の観音様、観音様は東洋のキリスト」、とおっしゃったんですよ?
 一つですよ。絶対に一つですよ。明主様が「メシア」とおっしゃる時、イエス・キリストとご自分の働きを絶対に一つのものとしてご覧になってますよ。
 だから、そう考えると、この今話題になってる「メシア降誕本祝典」。今日の御歌にも「夢のとならん日の近み胸のふくるるこの日かも」というのがありまして、ここの「我夢」の「夢」を「メシア降誕本祝典」と読み替えてもいいんだと思いますけれども、そのように、明主様の夢がいよいよとなる日が近づいている。
 というように、メシア降誕本祝典は確かにお祝いですよ。大きなお祝い、大慶事ですよね。だけど、同時に、ひとたびそこに関わるとか、参列する以上、もう後戻りはできないですよ。
 今まで私たちは、メシア降誕仮祝典を明主様が挙行されて、本祝典はまだされていなかった、でも、本祝典の意味は、我々一人ひとりも明主様の姿に倣わせていただくということなんだ、それを決心するのが本祝典なんだ、という信仰的な受けとめで来たわけです。
 でも、実際に、地上においてメシア降誕本祝典をしたら、もう後戻りはできませんよ。
 このメシア降誕本祝典に参列するということは、「自分は、教主様のもと、イエス・キリストと明主様に連なって、メシアとして新しく生まれる道を歩みます」と決心することですよ。そういう場ですよ、メシア降誕本祝典というのは。
 だから、この本祝典に参列したにもかかわらず、もしそのその道はもう歩まないとしたら、もう次のチャンスは無いですよ、私たちには。
 ですので、確かに大変なお祝いですけれども、覚悟は必要ですよ。というのは、ひとたびその場に居合わせた以上、神様からは、「じゃあこれからはあなたをそういう存在として見なす」ということになりますね。それは神様の子供となる道ですから、それは喜びの道でもありますけれども、神様は本当の親ですからね、厳しさもありますよ。だから、その道に入っちゃうことになるわけです。私たちにその覚悟があるのかどうか。ただ、「ああ、すばらしいなぁ」というわけにはいかないと思いますよ。
 そもそもね、私たちは、今まで、教主様がいろいろご教導くださってきた中で、明主様だけがメシアなんだから教主様がおっしゃってることはおかしいとか、キリスト教との交流はおかしい、と思ってきませんでしたか?
 ではね、もしそのように批判するのだとしたら、私たちは、「明主様だけがメシアのメシア降誕本祝典」を開けばよかったじゃないですか。
 いや、それはね、個人とかね、ちょっと小さい団体でそのような本祝典を開催することはできるかもしれませんよ。でも、そこそこ規模の大きな団体が、「明主様だけがメシアのメシア降誕本祝典」を執り行ったとしたら、それは、世に対してはイエス・キリストの否定ですよ。キリスト教の否定ですよ。キリスト教との対峙宣言ですよ。本当のメシアはどっちだと競う世界に入る、そういうことですよ。
 だから私は、「明主様だけがメシアのメシア降誕本祝典」を行う、というその覚悟があって教主様を批判するなら、百歩譲って理解できますよ。
 でも私たちは、それすらもしないですよね。しないのに、教主様に対しては、「明主様だけがメシアなんだから、キリスト教との交流はおかしい」と言ってる。だから卑劣ですよ、私たちのやり方というのは。
 本当に教主様への批判の姿勢を貫くなら、「明主様だけがメシアのメシア降誕本祝典」を覚悟を持ってやるべきだと思いますよ。やってくるべきだったと思いますよ。そして、世の中に対して、はっきり、「私たちはキリスト教とは敵対する宗教です」と、宣言してくればよかったじゃないですか。
 でも明主様は、メシア教を開教になられた時、「キリスト教と敵対する」とおっしゃってないじゃないですか。むしろ、「キリスト教と呼応」するとおっしゃってるんですよ?
 絶対イエス・キリストを受け入れていらっしゃいますよ、明主様は。
 だから、これが一つの立別けであったと思いますね。「明主様だけがメシアのメシア降誕本祝典」を開き、イエスを否定し、キリスト教と対立していくのか、それとも、イエスとキリスト教を受け入れ、その中で、教主様のもと、明主様がに願われている「メシア降誕本祝典」を開くのか。
 だって、この「メシア」ということについて、明主様は、「従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない」とおっしゃいましたでしょ。従来のような宗教的観念でのメシアとは何ですか。それは「一人しかメシアがいない」という考え方ですよ。
 でも明主様は、世界メシア教の誕生とともに、イエス・キリストも力を現すとおっしゃってるわけですから、メシア教のご神業はイエスと共に進む、ということですね。
 ですので、メシアに関すること、イエスに関すること、これは今回の教団浄化で立別けられていきましたね。
 でも明主様は、「善悪の立別け」とおっしゃるじゃないですか。神様が善悪をはっきり立別けられる、とおっしゃるじゃないですか。観音は善悪無差別、でも、メシアは善悪はっきり立別ける。
 確かにね、メシアを受け入れた人は善で、メシアを受け入れない人は悪だ、という説もあると思うんですけれども、これだと、「はっきり」ではなく、少し分かりにくいですよね。というのは、「メシアを受け入れる」と言っても、その度合いはいろいろですよね。それを思えたりする時もあるし、思えなかったりする時もありますのでね。
 でも明主様は、善悪を「はっきり」立別けるとおっしゃるんですよ、「はっきり」。ということは、誰の目にも分かるように、ということですよね。また明主様は、同時に、メシア教内の信徒も立別けられると仰せですよ。2割くらいしか残らない、そうご晩年におっしゃってる。
 そうすると、この、善悪をはっきり立別けるとか、メシア教の信徒を立別けるとか、これは何だろうと、そういうことになりますね。で、僕は、これらのことはもう過ぎ去った話なのかなと思っていたんですけれども、実はそうではなくて、最近、「そういうことだったのかな」と思ったのは、何度もお話ししていますように、この尾行・盗聴・盗撮ということがありますね。
 尾行・盗聴・盗撮という行為は、世の中においては、こういう理由があれば認められる、ということはあるじゃないですか。だけど、我々は宗教者ですよ?神様の裁き、神様の力を信じてる者ですよ?それはね、悪ですよ。尾行・盗聴・盗撮は悪ですよ。
 だって明主様の御歌、「人の目を盗むはに人の物盗むと同じ事にぞありける」。尾行・盗聴・盗撮は人の目を盗む行為ですよ。尾行のような行為は、明主様にとっては、人の物をるのと同じ、つまり、泥棒だとおっしゃる。泥棒は、間違いなく悪ですよね。
 するとすぐね、皆様の中には、「その話は何度も聞きたくない」となりますけれどもね、明主様は、社会正義を実現するため、世の不正を正すため、新聞経営をしようとまで考えられたお方ですよ。正しいことを貫くことが根底にあるお方ですよ、明主様は。なので、もし、皆様の中で、「こんな話聞きたくない」と思われるような方がいらっしゃるとしたら、もうそれ自身、私たちが、明主様の正義の心を忘れ去っているからそう思うんだと思いますよ。
 で、そういう行為をしたり容認している団体に所属し、その団体を認めるということは、結局、明主様がそういう泥棒というような行為を認めている、ということになりますよ──人の目を盗むようなことは泥棒と同じだとおっしゃるわけですから、明主様は。でも明主様がそのような行為を認められるはずないじゃないですか。
 ですので、尾行・盗聴・盗撮という行為。これは、明主様の信徒であれば、正当化する余地はゼロですよ。ゼロ。もちろん、悔い改めは残されていますよ、誰にでもね。
 ですので、今回の教団浄化によって、はっきりと善と悪を立別けたと思うんですよ。尾行のような行為を実行した人、認めている人、また、なんとなく何が起きたかを知りながら、それらの人によって構成されている執行部に連なっている専従者、信徒。これを立別けたと思うんですよ。
 でね、一見、今回の教団浄化、それだけを立別けたように見えますけれども、よく考えると、あのような行為を認めるということは、それだけの立別けではなかったと思うんです。
 それは、明主様は、利他愛を非常に大切にされましたね。他人の身になって考え、行動しなさい、を愛しなさいと言われた。そうだとして、この尾行というような行為は、絶対、利他愛の精神の発露ではないですよ。
 そして彼らのとったやり方。自分たちにとって都合が悪い人たちがいた時に彼らが取った手法。それは、話し合いとかで解決するんじゃないですよ。教主様、少しお話を聞いていただけませんでしょうか、じゃないんですよ。そうではなくて、教主様のプライベートな時間を、教主様に気づかれないような人を選んで、付け回して、撮影して、そこで得た情報をもとに自分たちの言うことを聞かせようというこの手法、これは大変なものですよ。そこに利他愛は無いですよ、絶対に。
 「いや、何度も話したけどだめだった」?相手が話を聞いてくれなければそういう手法を取ることは許されるんですか。許されないですよ、当然。尾行のような行為は、明主様の信徒であれば、いかなる理由があろうとも正当化できる行為ではないですよ。それを正当化するようになったら、もう明主様の信徒としてはアウトですね。
 だから、尾行・盗聴・盗撮という行為を認めるか認めないか、これを立別けたことによって、明主様が説かれた根本的な、この「利他愛」ということについても受け入れるか受け入れないか、これを立別けたんですよ。明主様の利他愛という教えを取るか取らないか、これを立別けたんですよ。
 だからね、そのような行為をしたり、認めながら、明主様の利他愛を人に説いたり、利他愛は大切だと言ったって、そんなのただの欺瞞ですよ
 あるいは、信仰者がそのような行為を行うところが地上天国なのだろうか。だから、あのような行為を実行したり認めたことにより、そういう方たちは、地上天国建設を、机上の空論ではなくて、実際の生きざまとして成し遂げるということをもう諦めちゃったじゃないですか。だから、それも立別けたんですよ。
 地上天国建設。我々一人ひとりの生きざまによって周りの人を感化していって、人類みなで本当に清い存在になっていこう、ということも放棄しちゃったじゃないですか。
 聖地は地上天国のひな型ですね。そんなね、尾行のようなことをしながら、わー聖地だ、美術館だって言ったって、何の意味も無いですよ。
 あるいは、これは少し尾行の中身に入っていきますけれども、明主様は、宗教の力で世界平和の実現が可能ですかという問いに対して、「絶対可能と信じている」、キリスト教の人と力を合わせ真面目に戦っていけば世界平和は実現できるんだとおっしゃる。で、教主様がキリスト教の人たちと交流しているのがだめだとしたら、もう世界平和も諦めるんですか、世界平和の実現。
 だから、尾行・盗聴・盗撮の内容を受け入れる、おかしいと思うということは、明主様のおっしゃる「世界平和の実現」も諦めるということですよ。
 あるいは単純に、他宗教と手を取り合ってより良い世の中にしていこうという、その否定でもありますよ。
 だから、この尾行・盗聴・盗撮とか、それに関わる手法ですね、自分たちにとって都合の悪い人がいた時に取った手法、これは、それだけの小さい問題みたいに思っていらっしゃる方もいるかもしれませんけれども、結局、それを受け入れるか受け入れないかを立別けたことによって、結果的に何を立別けたかと言ったら、それは、明主様の利他愛の精神を受け入れるか受け入れないか、地上天国建設を推進するかしないか、世界平和の実現のために生きていくかいかないか、他宗教と手を取り合って世の中をより良い場所にしていくかいかないか、これも立別けたんですよ。
 ということは、それを立別けたということは、今回の教団浄化によって、事実上、明主様の信徒であるかないかを立別けたんですよ。
 だって、利他愛とか地上天国建設とか世界平和ですよ?それを全部取り去ったらもう明主様のご神業じゃないじゃないですか。
 この、尾行・盗聴・盗撮を受け入れるか受け入れないかの立別けというのは非常に分かりやすいですよ。神様を信じてるか信じてないか。これははっきりしませんね。この人は50%信じてる、あの人は70%信じてるとか、そうなってしまいますから。
 でも、そうではなくて、尾行のような行為を受け入れるか受け入れないか、それをはっきり見せてくださった。そして、誰が明主様の信徒で、誰が明主様の信徒ではないか、これがはっきり立別けられたんだと、そういうことですね。
 いや、だってですよ、そのような行為を認めている人たちについて、明主様に、「この人たちはあなたの信徒です」と言えないじゃないですか。だから、そのような方々はもはや明主様の信徒ではない。
 もちろん悔い改めれば別ですよ。でも、そのような行為が行われたことを何らかの理由で正当化して、悔い改めずに、教主様はおかしい、私たちが正しい、だから追い出したんだとしていれば、もう、明主様の信徒ではないですね。
 裁判とかに関することで言えば、どちらに正当性があるかということで「自称」というような言葉を使ったりしますけれども、これに関しては、本当に、ただの「自称」ですね。「自称・明主様の信徒」。
 もはや明主様とは何の関わりも無いのに、勝手に明主様が書かれた御神体を拝んだり、明主様が遺された財産を使っている、ただそれだけの話ですね。
 教主様は「メシア」というものをもって我々に迫ってこられた。しかも、架空の話ではなく、「私たちの中にいる」とおっしゃる。だから、私たちとしてはもう逃れようがなくなった。逃れようがないから、これはね、いわば私たちの中にいる邪神が、大変だ、なんとかしなきゃいけない、止めたい、封じ込めなきゃいけない、と慌てて、一部の人たちにああいう行為を担わせた、そういうことですね。
 だから明主様の御歌通りだと思いますよ。「善と悪たて分け給ふ力をふメシアの神業畏し」。
 メシアが現れて私たちに迫ってきた。それによってあのような卑劣な行為をはっきり現してくださったじゃないですか。はっきり。それは、追い詰められたことによって、そのような行動として現れたんですよ。
 だから、そのようにして、善と悪を、誰の目にも分かるようにはっきり見せてくださって、そして選択をさせてくださった。
 明主様は、だいたいほとんどの人が「中ブラ党」で、いつか決めなきゃいけない運命になる、というようなことをおっしゃっていますけれども、まさにそうなりましたよね、今回。
 決めなきゃいけない、となりましたよ。もしまだ決めてない方がいるんだとしたら早く決めなきゃいけないと思いますよ。というようにして、立別けてくださった。

 

ということで、「私たちは善で、あの人たちは悪だ」で話が終われたら楽ですよ。「やったー、私たちが正しいんだ、善なんだ、明主様に受け入れられている信徒なんだ」で終われたら楽ですよ。
 もちろん、皆様方の決断は本当に尊いんですけれども、そこで話が終われるかというと、実は、終われない。
 確かに、「では、善の私たちでこれから一年がんばっていきましょう!」と言って終わりたいところですよね。でも、そうもいかないんですね。というのは、悪の分野のこと、これは他人事ではない。全然他人事ではない。
 僕が、「善悪無差別」というのを聞いてイメージするのは、曇りの天気、みたいな感じですね。太陽が出てなくて曇ってる。その時代は、太陽も出てないので、影も見えず、はっきりしないわけです。
 でも、何が善で何が悪かはっきり分からなくても、神様が、「私のもとに来なさい」と呼びかけてくださったことに、「はい」とお応えすればそれで救われた。
 でも、そのようなやり方では、ほとんどの人が神様のもとに来なかったので、神様は、今度は太陽を出そうということになられて、雲間から、メシアの光である太陽を照らされたんですね。
 というように光が出ると、今度は影が見え出しますね。すると、ようやく、これは善で、これは悪だということが分かるようになった。それが今の私たちの状態ですね。影を見て、あの人たちは悪い、尾行・盗聴・盗撮は悪だ、イエスを否定しているのは悪だ、キリスト教と呼応するのを否定しているのは悪だと言って、自分たちは善の側に立っているように思ってる。今、この状態ですね。
 雲間から太陽が出たことによって、今、影をはっきり見てる。そして、自分たちは太陽側、あの人たちは影側、そう思っている、ということですね。
 でも、実は、ここで終われないんですね。
 明主様の御歌に、「天心に日の赫々けば地に立つものの影さへ見えず」というのがあるんですけれども、「天心」は、空のど真ん中、その空の真ん中に、太陽が「赫々と」というのはく照らしている、燦々と輝いている、そうなると、地に立っているものの影さえ見えない、という御歌です。
 この御歌はどういう意味なんでしょうか。
 だって、地上の太陽の光では、影、見えますよね。赤道直下でも影は見えますよ。赤道直下の太陽でも、影が消えるほどの明るさにはならない。ということは、この御歌での「日」、太陽は、物質的太陽ではなくて、霊的太陽に他ならないですよね。その目に見えない太陽が、空のど真ん中、天心、天の心、天の中心、ということは、私たちの中心に燦然と輝いている。「地に立つもの」、この場合の地に立つものは、私たちの中に多くの方々がいらっしゃる、ということですね。要は、私たちの中に存在するいろんな要素が──いろんな方々の姿が──霊的太陽によって照らされている。
 だから、私たちは、尾行・盗聴・盗撮は悪いことだ、あの人たちはとんでもない、というように、今、その影を見ている状況ですね。自分で善悪の判断をして、あの人たちは悪い、この人たちは良いということをただ言ってる、それだけの状況ですよ。
 でも、「影さへ見えず」、影が見えないほどの明かりが照らしている、これはどういうことかというと、ただね、自分たちは善だ、あの人たちは悪だと言って、その影をずっと見続けているだけだとしたら、自分たちは善い人側、でも、ああいう悪い人たちがいました、で終わりの話ですよ。
 でも、影も見えなくなるということは、それを、「あ、この悪い人たちの姿は、この影は、なんと、ところがどっこい自分の姿だったんですね」「神様、この私の姿を、明主様と共にあるメシアの御名にあってお赦しいただいたんですね」とさせていただく。他人じゃないですよ、「私の姿を」ですよ。利他愛が無い姿とか、世界平和を拒絶する姿とか、そういう私の姿。
 ということでそれを神様が受け取ってくだされば、それは、今度は影じゃなくて光ですよ。今まで全部、影だと思っていたもの、悪い、悪い、悪いと思っていたもの、このすべてが、もし神様の光に包まれれば、今度は全部が光ですよ。そしたらもう影はないですよ。
 確かに、私たちの中には多くの者たちの罪がありますよ。これは、教団的なことで言えば、もちろんこの尾行の問題ですけれども、それだけではなくて、私たち、日常生活の中で、毎日毎日いろんなことで影を見させられてますよね。
 誰かと接して気に入らないとか、家族のこと、子供のこと、仕事のこと、そういうことで、影をずっと見てるじゃないですか。
 それを、いや、この問題は困ったもんだ、あの人たちはとんでもない、自分はこういうことをしないとか、ただそれだけのことだったら、ただ、「善と悪を立別けました」で終わりの話ですよ。自分は光側にいるという自己満足にって、影の人たちは悪い人たちだ、で終わりですよ。
 でも、影さえ消しちゃう光があるんですよ。地上の光では消せないですよ、影は。でも神様の光によって包まれれば、私たち自身の中にどんな暗い思いが湧いたとしても、どんな暗闇があったとしても、その影が見えなくなるほど明るい光で照らしてあげるよと神様はおっしゃってくださってるんです。
 だから、この御歌のことは、ただ事実として受けとめるだけではだめですよ。いつか影はなくなるんだ、ではだめですよ。そうではなくて、自分が、この影は私の姿なんですね、ということで神様に意思表示しなければ、ただ影を見て、自分は善で光、相手は悪で影だと言って、そういう生き方でずっといくだけですよ。
 今までの人類の歩み、私たち一人ひとりの生きざま、そのすべてが善と悪みたいになってますね。でも、そのすべて、影さえも見えなくさせる光と愛に包まれれば、すべてが光となることができるんです。
 良いことは良いですよ。でも悪いこともあるじゃないですか、現実的に。それはどうするんですか。そこに自分が関わらないということで偽善者のように生きていったってしょうがないじゃないですか、救いのために来てるんですから、私たちは。
 だから、初日の出。初日の出が出たら、めでたいな、ありがたいなと思うじゃないですか。でも12日になったらもう初日の出ではないですよ。でも、その11日に出た初日の出を見て、ありがたいなと感じる、それを遥かに超えてありがたい光がずっとあるんですよ、私たちの中に。
 その光が常に私たちを照らしてくださって、どんな闇があったとしても、その影を消して光にしてあげるよ、光に包んであげるよ、どんなことがあっても赦してあげるよと、そう神様はおっしゃってくださってるんです。
 「赦し」ということを聞くと、「そうだとしても、私はあの人のことは一生許せない」という人もいますね。でも、それも赦されてるんですよ。「人のことを一生許せない」という気持ちを持つことすらも赦されてるんですよ。
 だから、初日の出を見て、ただ一年に一回ありがたいなで終わるのではなくて、それを見た時に、少なくとも年に一回くらいは、「本当はこんなに眩くてありがたい光が私の中にあるんだな」「私の中にあるどんな闇も、どんな影さえも消してくれるすばらしい光が常に私の中にあるんだな」と思われたらいかがですか?
 だからね、それが本当の浄霊の光ですよ。ずっと消えない光、それが本当の浄霊の光ですよ。
 初日の出だけで終わる、1日だけで終わる、あるいは浄霊の手を掲げている時だけに出ている光じゃないですよ。それを知った以上、子供が入院しないといけない、心配だな、浄霊してあげられないなと言って、もはや心配することはないんですよ。その光を認めなければ、ずっと心配、心配、心配となりますよ。浄霊してあげられてないから大丈夫だろうかと、ずっと心配するだけですよ。
 教主様が祭典でご浄霊をされなくなった。でもね、今までずっと教主様がご浄霊をしてくださっていたのは、「あなた方の中に光があるでしょ」「神様の手があるでしょ」ということを知ってほしかったからですよ。だからもういい加減知ったんじゃないんですか?
 皆様の中にそのようなことを信じる心が養われてきたから、明主様は、「次のステージに行きなさい」「今までのことをかなぐり捨てて次のステージに行きなさい」とおっしゃってくださってるということだと思いますよ、「大地を蹴りて躍り出でなむ」の御歌のように。
 この、新しい本当の光は、手を掲げている時だけに出ているようなそんな小さな光ではない。だって神様は、全人類の中で、常にご浄霊をしてくださっているんですから。
 「光のお言葉」、ありますね。
 「神は光にして、光のあるところ平和と幸福と歓喜あり。無明暗黒には闘争と欠乏と病あり。光とえを欲する者はれ、来りてメシアの御名を奉称せよ、さらば救われん」
 もうこれに全部入ってますよ。「光のお言葉」に全部入ってますよ。
 でも我々は、「神は光にして」と聞いたら、光に照らされてるほうばっかりを思ってね、治った、治らないとか、科学的に数値を出すとか、そんなことばっかり言ってますよ。
 でも、明主様が光を見せてくださってるのは、「来れ」ですから、光のところに来なさいとおっしゃってるんです。光を見たら、光が出てるところに帰ってきなさいとおっしゃってるんですよ。でも我々は、照らされたほうばっかりを見てね、影だとか、病気治ったとか、治らないとか。
 明主様は、病気が治ったりして光のことを知ったとしたら光のところに帰ってきなさいとおっしゃってる。影みたいなものがあってもメシアの御名を奉称しなさいとおっしゃってる。そしたら、「さらば救われん」ですから、救われますよ。影が光になるじゃないですか。
 だから、全部入ってますよ、「光のお言葉」に。救いのすべてが入ってますよ。
 だからね、初日の出を見てありがたいな、どころの話じゃないんですよ、本当はね。どんな影があっても消してあげるよとおっしゃってくださっているんですよ?
 今、まだ空に太陽出てますけれども、太陽を見たということは、本当の太陽を思い出しなさいということですからね。
 あなたの中にあるいろんな影を、本当の浄霊の光によって包んであげて、愛と光によってあなたの中を全部満たしてあげるよ、影を一切取り去ってあげるよ、という神様の心を、今日、我々は思い出させていただいた。また、そのように光にすべて包まれることが、救いの御用でもあるわけですからね。
 本当に、神様は、全部してくださってるんです、影があっても消してくださるんですから。だとしたらもうあとは恩返ししかないですよ。
 だからこの一年、私たちは、本当に、「私はそのような光に包まれています」という喜びの中で歩ませていただいて、そしてまた、もし許されるのなら、一人でも多くの方に──だってこんなに素晴らしい救いは世の中に無いですよ──それをね、多くの方々に分け与える御用にお仕えさせていただけたらなと思っております。
 ありがとうございました。