「信徒よ、
 〝御浄霊は二の問題、これから想念の世界である、
  お念じしなさい〟
とは、人間に内在せる神の御手に目覚めることなり」

 

《 明主様 》
 大審判が今や全人類の頭上に蔽い被らんとする此秋一人でも多くの人間を救い給うのが神の大愛である以上大審判の執行者であり人間の生命を握られ給うのであるから神の御手に縋って罪を許されるより外に此難関を切り抜ける方法は絶対ないのである。即ち人類が負える罪の重荷を神の御手によって取除かれ清められる以外救われる道はないからである。
19491231日「夜の終り近づけり汝等悔改めよ」

 

《 教主様 》
 本当の浄霊の意味ということを我々は受けなければいけないんじゃないかなと思いますね。
 それで、明主様が、晩年、浄霊についてなんと仰せになっていたのかという記録がありますので、今、申し上げたいと思います。
 明主様は、昭和29419日にお倒れになってからあまりお話ができませんでしたけれども、当時、教団の執事であり明主様の最側近であられた井上茂登吉先生という方が、明主様のご様子について記録をつけてくださっていました。その時の記録なんですけれども、次の部分は、昭和29428日に記されたものになります。申し上げます。

 

御浄化の御模様は、去る十九日御右腕と御右足が御不自由とならせ給いし由なり。最初はあまりに大きい結構なる御事にて、御嬉しさに号泣し給いし御由である。毎日御浄霊を遊ばしているが、御手をかざされず、御想念で遊ばすのみである。今迄お喜びの御事はあっても、何か一抹真からのお喜びはあらせられなかった。今度はもう嬉しくて嬉しくて堪らない。今度の御浄化は特にキリスト教と関係がある。

 

と仰せになったと記されています。
 また、

 

之からは一切御言霊と御想念で自由に遊ばすのである。之からはお詫びの時代ではない。悔改めの時代である。悔改めて想念でおわびすればお許しが戴けるのである。

 

とあり、また、

 

毎日御手や御足を御浄霊遊ばされるが、御手はかざされず御想念だけで遊ばされているのである。

 

という記録があるんですね。
 さらに、明主様ご昇天直後の『地上天国』誌68号(昭和30315日)に、「碧雲荘御奉仕者を囲んで」という座談会のやり取りを記した記事がありまして、そこで明主様の奉仕者の方々が、明主様とのいろんな思い出を語っておりまして、その中で、お一人の方が、

 

御浄化になられてすぐ仰言られました事は「これから想念の世界である。御浄霊は二の問題で、先ず想念である。お念じしなさい」と、 度々仰言られました。

 

とあり、また、

 

いつもなら、御側の人が御浄化した時は、すぐ〔明主様に御浄霊を〕御願い申し上げるのですが、御浄化間もない頃にこういう事があったのです。御守護御願いの電報が溜りましたので、これまでの例によって、御工合の良さそうな時に〔御浄霊をお願い〕申し上げようとして、それを申し上げたのです。そう致しましたら「今迄とは違う。これからは特に想念が大事なのだ」という意味の事を仰言られ、すごく御叱り戴いたのです。

 

ということなんですね。
 また、もう一人の奉仕者の方も、

 

私が箱根で顔を火傷した時、本当に想念が大切だという事を思いました。実は、今お話がありましたように、樋口さんの所に行くまで、阿部先生や皆さんに御浄霊をして戴いていたのですが、前掛で顔を蔽っていたのがくっついて取れなくなり、余りみじめな様子に、皆さんも明主様にお願いなさったらと言って下さいましたのですが、今はこういう時ですからと思い、とに角観山亭へ行って樋口さんに相談してみて頂戴とお願いしましたら、使いの人が観山亭に行きつくその時間に一寸楽にして戴き、それから間もなくしてすっかりよくして戴きました。

 

と言われ、それに対して、

 

その翌日、実はこうこういう事がございましたが、皆でお念じし、阿部先生に御浄霊戴いて、その結果今朝は何事もなかったように、寧ろ前より綺麗になりましたと〔明主様に〕申し上げました処「これが唯一の見本だよ」と仰言って下さいました。本当に有難い事ですわね。

 

ということになるんですね。
 火傷をしたことに対してみんなが一生懸命想念でお念じになって、それに対して楽になったということについて、明主様が、「これが唯一の見本だよ」というふうにおっしゃった。もしご浄霊の結果そうなったのであれば、「これが唯一の見本だよ」とは絶対におっしゃらないですよね。
20181021日「教主様と思いを共にする岐阜信徒の集い」

 

主神は今、恵みと権威をもって、ご自身のみ力を、私どもの中で最大限に発動しておられると思います。
 世界中の多くの人々の心配や不安に満ちた心に御手を差し伸べてくださって、私どもの想いの中に集め、私ども一人ひとりの想念を通して、今日までの私ども人類の営みを赦され、生きたものとして、ご自身の御手に迎え入れ、すべてを新しいものに造り替えるという浄霊のみ業をなさっていると思います。
 なぜならば、私どもの中には、夜昼転換の基である主神の赦しがあるからです。
 私どもの中には、すべてを贖い、浄め、救い、新しく甦らせるメシアの御名の教会があるからです。
 そのことを私どもは認め、明主様がお受けになったように、自ら進んでメシアの御名にある主神の赦しをお受けし、多くの方々と共に、万物と共に、天国に立ち返って、すべてのものと共に、自らを主神の救いの御手に委ねさせていただく、その御用にお仕えする時が今なのではないでしょうか。
 畏れ多くも、私どもの中には、主神の浄霊の御手があるのです。
 私どもは、一瞬たりとも、主神の浄霊のみ業に使われていない時はないのです。
2020
615日「世界メシア教 地上天国祭」

 

《 真明様 》
 私たちは、この救いの道を、本当に歩みたいのか歩みたくないのか。いや、もしね、浄化療法とか、あるいは手を掲げる浄霊ということで歩みたいなら、昔、日本浄化療法普及会を明主様が解散された時に辞めた方たちのように、潔く明主様のもとから去ればいいと思うんですよ、「これは私のやりたいことと違います」ということで。明主様を捨てて、自分で手かざしの創始者か何かになって、それで、手を掲げる浄霊をすればいいと思うんですよ。
 あるいは、ですよ、教主様のもと、明主様にどこまでもしがみついていくのか、どっちにするんですか?
2021年102日「道は開ける、絶対に」

 

教会誌『グローリー』No. 24, 2022/1月号掲載