PDF: 「ただ、誠あるのみ」真明様メッセージ No. 10

 

※英語とポルトガル語でなされたビデオメッセージの和訳

ただ、誠あるのみ

「私は正義の為なら世界を相手にしても闘うつもりである」。
 これを言ったのは誰でしょうか。明主様です。
 明主様は、正義のためならば、世界中を敵に回すご覚悟があったのです。世界を失っても──つまり、ご自分がお持ちのすべてを失っても──正義のために立ち上がり、戦われる覚悟がおありだったのです。
 私たちは、明主様の正義感の強さを見くびっているのではないでしょうか。
 明主様は、「善人をあらゆる手段をして救済し、人類世界から暗黒面を徹底的に除去する」「人間は正義が──は形だけではありません──正義というものを通そうという信念だけが人間の値打です。それの強い程人間の価値があるのです。それが無くして、御都合主義や打算主義の人間は形だけです。骨のない人間です。今はどそういう人間ばかりと言っても良いでしょう」と仰せです。
 私たちもこのような骨のない人間に成り下がり、正義の心を失ってしまったのでしょうか。
 それとも、正義のためならば、何があろうとも立ち上がる覚悟はあるのでしょうか。正義のためならば、すべてを犠牲にする覚悟はあるのでしょうか。
 それとも、打算、妥協で生きていきたいのでしょうか。明らかな悪の行為から目を背け、自分の財産、自分の「御都合」にしがみつきながら生きていきたいのでしょうか。

 

尾行、盗聴、盗撮。
 この行為は、世の中においては、正当な理由があれば認められることもあるのかもしれません。しかし、信仰者がした場合はいかがでしょうか。当然、許されることではありません。
 明主様は、「人の目を盗むはに人の物盗むと同じ事にぞありける」と説かれました。
 明主様は、ある人物に対して何かを隠れて行うことは、その人物に対して泥棒をするのと同じことだとお示しになっておられます。
 即ち、明主様にとって、尾行・盗聴・盗撮という行為は盗みの行為であり、泥棒がする行為だということです。
 当然、盗みは悪です。ということは、明主様にとっては、尾行・盗聴・盗撮は悪の行為だということです。人類世界から、徹底的に除去されなければならない悪の行為だということです。
 正直、私は、皆様にこのようなことを言わなければいけないこと自体が恥ずかしいのです。こんな単純なことも分からない私たちなのでしょうか。教主様とその奥様を尾行・盗聴・盗撮する行為は、どう考えれば、許容されるものだと言えるのでしょうか?私たちは、正義の心を完全に失ってしまったのでしょうか?自分たちの「御都合」により、何も見えなくなってしまったのでしょうか?明主様がご指摘になっておられるように、人という形をしているだけで、実際は、人とも言えない存在に成り下がってしまったのでしょうか?

 

教主様とその奥様への尾行・盗聴・盗撮は、世界救世教が実行した行為です。
 そして、なんとめな方たちなのでしょうか。多くの世界中の教団は、世界救世教と、世界救世教の所有する聖地にがるのは問題ないことだ、と考えているのです。多くの世界中の信徒は、尾行・盗聴・盗撮は問題ないと考えているのです。
 世界救世教を認めること、世界救世教に繋がる教団を認めること──それは、尾行・盗聴・盗撮という行為を認め、許容するのと同じことです。盗み、泥棒という行為を認め、許容するのと同じことです。
 つまり、教主様を追放したこと、また、教主様を追放した教団を認めることは、盗み、泥棒行為を認め、許容するのと同じことなのです。
 「またこの話?」「もうこの話は聞きたくない」と言う方々に申し上げます。いい加減、目覚めなさい。いい加減、明主様がお持ちの正義の心に目覚めなさい。明主様は、世の不正を正し、社会正義をもたらすため、新聞経営をしようとまで考えられたお方です。
 自分たちのやり方で進めたい方たちにとり、教主様が邪魔なご存在であったこと、これは分かります。しかし、その方たちがった手法はとんでもないものです。その方たちが、自分たちにとって都合の悪い人をいかに扱うか、その手法はとんでもないものです。
 彼らは、「話し合い」という道は選びませんでした。そうではなく、彼らは、教主様をコントロールするため、教主様を隠れて付け回し、弱みのようなものを見つけようとんだのです。なんと救いようのない方たちなのでしょうか。
 このような手法、それは、当然、許されざるものです。
 そして彼らは、「教主様にはキリスト教の友人がいる」「聖書を読んでいる」と批判しているのです。ただただ、あきれるのみです。
 「私たちは何度も教主と話す機会を持ったが、教主は私たちの意見を聞きもしなかった」。あなた方はそう言いたいのですか?だとしたら、あなた方は、話し合いがうまくいかない場合の次の選択肢は、話を聞いてくれない人を尾行し、自分たちの意に沿うように行動するよう、弱みを見つけるというものなのですか?
 そもそも、教主様は私たちの信仰を指導してくださるお方であり、あなた方に対して説明責任を負われてはいません。一方、あなた方は、教主様に対しての説明責任を負っています。教主様が説明責任を負われているのはただお一方、明主様に対してのみであります。
 今後あなた方が二度と勘違いしないよう、はっきり申し上げます。誰かを尾行・盗聴・盗撮し、そこで得た情報を裏でその人物に突きつけ、物事を自分たちの都合の良いように進めようとすること、これは、明主様の信徒にとり、いかなる理由があろうとも正当化できることではありません。
 教主様の追放を認めるならば、それは、明主様がお説きになった利他愛の教えを捨て去ることです。
 尾行・盗聴・盗撮をし、そこで得た情報をもとに相手に言うことを聞かせる──この卑劣な行為や手法のどこに愛が存在しているのでしょうか。
 しかしあなた方は、「利他愛は大切だ」「人を幸せにしなければ自分は幸せにはなれない」と言う。なんという偽善者なのでしょうか。
 あなた方は、「教主は明主様のみ教えに反している」と言う。あなた方は何のために明主様のみ教えを読んでいるのですか?尾行・盗聴・盗撮という行為を認めるならば、明主様のみ教えを読む意味など何もありません。
 あなた方は、あのような卑劣な行為を実行したり認めていることにより、明主様に関するいかなることについても話す資格を、一切、完全に失ったのです。それとも、あなた方は、あのような卑劣な行為は明主様のみ教えの一部だとでも言うのですか?明主様がお説きになっていることだとでも言うのですか?
 教主様の追放を認めるならば、それは、地上天国建設をあきらめることです。
 尾行・盗聴・盗撮をし、そこで得た情報をもとに相手をコントロールする──どこの世界にそんな「地上天国」があるというのでしょうか。
 しかしあなた方は、「私たちは浄霊をしている!」「教主は浄霊を否定しているが、私たちは浄霊をしている!」と言う。それで?地上天国建設をあきらめたあなた方が浄霊をする意味がどこにあるのですか?
 あなた方は、「私たちには聖地がある!」「私たちは教主を聖地から追い出したぞ!」と言う。それで?あなた方は聖地を何のために使うのですか?尾行・盗聴・盗撮を実行し、認めるようなあなた方によって維持されている聖地の、どこにさが残っているのですか?聖地は、あなた方のおぞましい行為により、すでにされたのです。聖地の「地」は、あのおぞましい行為を実行し、容認しているあなた方がその上を歩く足により──あなた方の一歩一歩により──今も汚され続けているのです。あなた方は、聖地の尊さ、聖さをすでにどぶに捨て去ったのです。
 あなた方は、「私たちには美術品がある!」「美術館がある!」と言う。それで?あなた方が美術品や美術館を持っていて何の意味があるのですか?明主様は、人間こそが、神様が造られた、「に比ぶべき物なき最高の芸術品」と仰せです。しかしあなた方は、教主様とその奥様に対して、あの、卑劣で、みっともない行為を実行し、また、正当化できると信じ込んでいる。
 人間を大切に、大事にすることのできないあなた方が、どうやって美術品を大切に、大事に扱うことができると言うのでしょうか。とうていできません。つまり、あなた方が美術品を持っていることに何の意味もないのです。
 すべての美術品は、あの卑劣な行為に手を染めたそのあなた方の手がれるたび、され続けているのです。
 私が何を言わんとしているかと言うと、教主様の追放を受け入れている世界中の教団、そして、そのような教団に所属し、その教団を認めている方々──これらの方々は、全員、明主様の利他愛の教えを捨て去り、明主様のみ教えについていかなることをも語る資格を失い、そして、地上天国建設をあきらめた、ということです。つまり、明主様の信徒となることをあきらめた、ということです。
 教主様ご夫妻への尾行・盗聴・盗撮を認めているあなた方、教主様の追放を認めているあなた方、世界救世教と、その世界救世教が所有する世界中の聖地を認めているあなた方──あなた方に対し、本日、私は、明主様、二代様、三代様、そして、教主様の名において告げます。あなた方は、もはや明主様の信徒ではありません。
 というより、どうやって私はあなた方のことを明主様の信徒と呼ぶことができるというのでしょうか?明主様のことを思えば、そのようなことはとうていできません。
 あなた方は、ただの、「自称・明主様の信徒」です。
 教主様と共に立ち上がられたあなた方、あの卑劣な行為を認めなかったあなた方──おめでとうございます。
 しかし、油断してはなりません。あなた方は、もし教主様を追放した方々を、たとえほんの少しでも裁くならば、たとえほんの少しでも見下すならば、「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられる」でありましょう(「マタイによる福音書」第72節)。
 彼らは、私たちが目覚め、私たちが明主様のの信徒となるために、あのような行為を犯したのです。彼らは、神様から命じられて、あのような行動をしたのです。彼らは、私たちのために、あのような行動をしたのです。
 もし私たちがこれを忘れるならば、それは、生ける神のみ手に落ちるのと同じことです。そして、「「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」(「ヘブルへの手紙」第1030節~31節)。

 

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