PDF: 立春祭_真明様ご挨拶
「浄霊の真実」
於:ホテルニューオータニ大阪(鳳凰)
※以下太字部分は明主様の側近奉仕者の記述をそのまま引用したもの
1954年 4月18日
イースター(イエス・キリストの復活祭)
1954年 4月19日
明主様、脳溢血のご浄化
1954年 4月28日
「毎日御浄霊を遊ばしているが、御手をかざされず、御想念で遊ばすのみである」。「今度の御浄化は特にキリスト教と関係がある」と仰せ。「之からは一切御言霊と御想念で自由に遊ばすのである。奥様でも御浄化遊ばせば、お詫びなさるだけでお治りになるのである」「之からはお詫びの時代ではない。悔改めの時代である。悔改めて想念でおわびすればお許しが戴けるのである」と仰せ。
1954年 5月13日
「『新しい浄霊を発見した』と仰せられる(想念)」
1954年 6月 2日
「御自身が御自身を御浄霊してはいけないと神様から知らされたと仰せ。『浄霊しないでも時期が来たら神様が良い様になさる』」と仰せ。
1954年 6月 3日
「夜中明主様は神様から浄霊を止められていたのにしたので、夜眠れないと仰せられる」
1954年 6月 5日
メシア降誕ご発表
1954年 6月 6日
ペンテコステ(イースター、クリスマスと並ぶキリスト教の三大祝日)
1954年 6月15日
メシア降誕仮祝典
1954年12月11日
ある信徒に対し「御浄霊給わりし由である。おわるい方の御手で一分足らず。『今度は一千人位の御浄霊給わるにも一分とかからぬ』と仰せられし御由なり」
浄霊。浄霊の真実。明主様の真実。
浄霊とは何か。浄霊の真実とは何か。明主様の真実とは何か。
昨年の御生誕祭において、教主様は、手をかざしての浄霊にピリオドを打たれる旨、ご教導くださいました。
そのことについて、私たち一人ひとり、どのように受けとめているのか。
明主様は、「これから想念の世界である。御浄霊は二の問題で、先ず想念である。お念じしなさい」と仰せになった。そのみ心がついに成し遂げられるんだ。明主様が「二の問題」とおっしゃったご浄霊を、私たちは明主様のご神業の中心にしてしまい、明主様のみ心に背いてきたけれども、教主様によって、明主様のみ心がついに成し遂げられるんだということで、その感動と感激と喜びで、涙を流した方もいらっしゃると聞いております。
また一方で、それは受け入れられない、納得いかない、明主様と言えば浄霊じゃないか、明主様がされてた浄霊をしないのはおかしいじゃないか、というふうに思われている方もいらっしゃるのではないのかなと思います。
教主様のおっしゃっていることは明主様のおっしゃっていることと違う、というふうに思われている方もいらっしゃるのではないのかなと思います。
そのように思いたい気持ちは十分理解できますが、そもそも、長年、この世界救世教において、またもちろんこの世界メシア教においては、教祖である明主様の聖業を継承されるのは教主様であると定められている。
これが具体的にどういうことかというと、これは二代様がはっきりおっしゃっています。二代様は、「私の言うことが即ち明主様のおっしゃることであり、私の示す方向が明主様がご指示になる方向である。それをどうしても聞けない人は明主様がやむを得ずお綱を切られて、自然に本教団から去ってゆく運命にある。そうならないよう切に祈っている」という旨ご教導くださっています。
教主様がお綱を切られる、とおっしゃってないですよ。明主様がお綱を切られる、そう仰せですよ。
本教団から去るということも、当然、明主様のいらっしゃるところが明主様の教団ですから、明主様とご一体の教主様のもとから去るのが、明主様の教団から去ることである、そうならないよう切に祈っている、そのように二代様はおっしゃった。
だから、この、手をかざしての浄霊にピリオドを打つということや教主様がご教導くださるすべてのこと、これは、本来、明主様のみ教え、聖言のどこにあるのか、というそんな問題ではないんですよ。なぜならば、教主様がおっしゃることは、即ち明主様のおっしゃることなんですから。
ということは、まさに教主様のお言葉が、明主様のみ教え、聖言そのものである、明主様が望んでおられるみ心そのものである、そういうことですね。教主様と明主様はお一つであられる、そういうことですね。
だから、本来、我々の信仰からすれば、このご浄霊に関する教主様のお言葉に納得がいかない、受け入れられないんだとしたら、明主様からお綱を切られてもうそれでおしまい、ということになってしまいますよ。
いや、それはね、二代様も三代様も否定して、今までの私たちの歩みも全部否定して、また、明主様はご遺言によって二代様に託されたわけですから、その明主様のみ心も否定して、というように、明主様も二代様も三代様も否定する、今までの歩みも全部否定する、という覚悟があれば、教主様を否定されてもいいとは思いますよ。
でも、二代様がはっきり仰せになっているように、教主様がおっしゃることは明主様がおっしゃることそのものなんですから、この、手をかざしての浄霊にピリオドを打つということも、明主様から来ているものだと受け入れられないなら、明主様からお綱を切られてそれでもう終わりの話ですよ、本来はね。
しかし、人によっては、「明主様はご浄霊のことを強調されたけれども、今は新しい時代になって、教主様が、明主様とは違う新しい方向を打ち出されて、私たちはその道を歩んでいるんだ」というふうに思われている方もいるかもしれない。あるいは、もちろん、はっきり、明主様と言えばご浄霊なのに、教主様は全然おかしいと思われている方もいるかもしれない。
では、果たして、「明主様と言えば手をかざしてのご浄霊」ということが本当に事実なのかどうか。明主様がご浄霊について本当は何とおっしゃったのか。今日は、それを皆様とご一緒に見ていきたいと、そう思います。
時計の針を68年前の1954年4月19日に戻しまして、場所は日本、熱海。そこで、明主様は、世界救世(メシア)教の教祖、世界メシア教の明主様、世界メシア教の教主様というご存在として日々御用に励んでいらした。
私たちにとっては、実は、すでにこのイメージからして新しいですね。私たちは、「明主様」というと「世界救世(きゅうせい)教」を連想しますけれども、実際には、明主様は、「世界メシア教の明主様」であり「世界メシア教の教主様」でいらっしゃった。
そのような中、午後4時というふうに記録されておりますけれども、4月19日の午後4時、明主様は脳溢血の症状を起こして倒れられます。
それで、この4月19日は月曜日で、その前日の4月18日は日曜日。以前もお話ししましたけれども、1954年には、4月18日が、ちょうどキリスト教徒がイエスの復活を祝うイースターであった。
明主様は、お倒れになってすぐ、この浄化は「特にキリスト教と関係がある」ということをおっしゃるんですけれども、私は、きっと明主様は、ラジオか何かで、4月18日世界中でイースターをお祝いしていたというニュースか何かを聞かれたのではないのかなと、そう思います。
日本は日付変更線が近くて時間が早いですから、もしかして、4月19日、脳溢血の日に、4月18日に世界中でイースターのお祝いをしたということを聞かれていた可能性もありますね。
そのような中、明主様は、お倒れになった時に、神の子・イエスの復活と、ご自分が感じられた感覚を重ねられたようなこともあったんじゃないかと、そう思います。だから、今回の浄化は「特にキリスト教と関係がある」と仰せになったのかと思ったりしております。
というように、明主様は4月19日に倒れられるわけですけれども、それ以降、ご浄霊に関することも含めて、本当に重要なことをいくつか仰せになります。でも、明主様ご自身は、脳溢血によって右手と右足がほぼ動かない状況でいらっしゃったので、これらのことは、いわゆる、公式なみ教え、聖言としては残っていない。
しかし、このような、明主様が脳溢血のご浄化を起こされてから、翌年ご昇天になるまでの間にいろいろおっしゃったことについては、明主様の側近奉仕者の方々がそれを記録してくださっていた。
もちろんその全貌は、明主様のプライバシーに関わることもありますので、すべてを公にすることは難しいかもしれないと思うんですけれども、でも、少なくとも、ご神業上大事だなと思うこと、特に浄霊に関すること、これらの記録がいくつかありますので、今日は、それを皆様と共に見ていきたいと思います。
4月19日にお倒れになって少ししてからは、『旧約聖書』のノアの箱舟のことについてちょっと触れられたり、また、連日のように、ヘンデルの「メサイア」を聴いておられます。
そんな中、4月28日。4月19日から9日後の4月28日。この日に、側近奉仕者は、次のような記録を残されています。
それは、「明主様は毎日浄霊をされているけれども手はかざされていない。想念だけで浄霊をしておられる」、そういう趣旨の記録です。
左手は使えるんですよ、明主様は。右手や右足はあまり自由に動かなかったですけれども、左手はお使いになれるのに、手をかざしてのご浄霊はされなかった。
この想念での浄霊というお姿がどのようなものであったかは想像しかできませんけれども、何か、祈られているようなお姿だったのかなと、そういうことは想定できますよね。
同じ4月28日。記録によると、明主様は、「これからは一切を言霊と想念でするんだ」というようなことをおっしゃった。
これを聞くと、私たちは、やっぱり明主様は高い位置にいらっしゃるお方だから、晩年にそのような境地に入られたんだ、明主様だけ特別なんだ、ということを思いたいところなんですけれども、実はそうではない。
明主様は、このことをおっしゃった直後に奥様であられた二代様のことについても触れられて、「二代様でも、ご浄化の時、お詫びするだけで治る」ということを仰せになった。お詫びするだけ、ですよ?
そして、「いや、実はこれからはもうお詫びの時代ではない。悔い改めの時代なんだ」とおっしゃる。「二代様であっても、悔い改めて想念でお詫びすれば赦される」とおっしゃる。でも、もうお詫びの時代ではないんですから、悔い改めて、想念で神様にご奉告申し上げれば、神様から赦していただける、浄化を取り除いていただける、そういうことですね。
ということは、これから言霊と想念でやっていく、というのは明主様だけのことではないですよ。ご自分のことだけではないですよ。二代様もそうだとおっしゃるんですから。
じゃあ当時二代様はどういうご存在かと言ったら、もちろん、のちには二代様になられるわけですけれども、その時は、まだ、明主様の奥様として、明主様に一番近いご存在として、全信徒の代表として、明主様の最もお側で仕えていらしたご存在であられる。
ということは、二代様が、言霊と想念によって、お詫びするだけで病気が治ってしまうようなことができるということは、それは、事実上、全信徒もその業にお仕えすることができる、ということですよ。
浄化がある時にはお詫びするだけで治るとか、悔い改めて、想念で神様にお詫びすれば赦される──これは、明主様がそういうことをおっしゃった、と記録されているんですよ。
ではね、今、何か精神的にでも肉体的にでも浄化があって、心が苦しいとか思ったり、あるいは、「あの人のことが憎い」と思った時、「この人の姿は本当は私の姿なんですね」ということで悔い改めて、そして神様にお詫びをしたらどうですか、と言ってくださっているのは誰ですか?教主様ですよ。明主様が68年前におっしゃっていたことを、今、教主様が説かれていますよ、まさに。
だって、一切を言霊と想念でするのは明主様だけではないんですよ。明主様は、二代様もそうだとおっしゃってる。当時、二代様は、もう、元気も元気ですよ。手を掲げるご浄霊なんて簡単にお出来になりましたよ。でも、明主様は、その二代様も、悔い改めるだけで赦される、浄化が治るんだとおっしゃる。教主様のおっしゃっていることとまったく一緒じゃないですか。
オフィシャルな記録にもありますよ。それは、明主様がご昇天になってすぐ発行された『地上天国』誌(68号)。そこに、明主様の側近奉仕者が、明主様とのことで覚えていることを語り合っている記事が出ました。
そこには、皆様もよくご存じの、「これから想念の世界である。御浄霊は二の問題で、先ず想念である。お念じしなさい」ということを、脳溢血のご浄化後、明主様が度々仰せになったことが書かれています。
よく考えますと、これは、「浄霊」ということについて大きな方向転換だと思いますよ。だって普通、私たちは、浄霊というと、黙って、何も考えずに浄霊する、というように思いますけれども、明主様は、「お念じしなさい」と言われた。
神様に対して「念じる」。「念じる」というワードは、言葉が介在してくることを示してますよ。だから、それが、お詫びする、とか、悔い改める、ということなんでしょうね。
黙って浄霊するとか、何も考えないで、力を抜いて浄霊する、というのと全然違う世界を明主様はご提示になっておられますよ。
また、側近奉仕者は、通常、浄化をすると明主様からご浄霊をいただいていたけれども、脳溢血のご浄化後のある時、浄化をした側近奉仕者が、いつものように、明主様にご浄霊をお願いしにいったら、「今迄とは違う。これからは特に想念が大事なのだ」と言われて、その側近奉仕者を強くお叱りになって、そして明主様はご浄霊をされなかった。このようなエピソードも『地上天国』誌に記載されています。
今まで、教主様が、ご浄霊は今はしないほうがいい、というようなことをおっしゃると、聞いた方は、明主様のみ心と違う、教主様とんでもない、と思ってきたと思うんですよ。でも、明主様ですよ?明主様ご自身が、もう、側近奉仕者に対してご浄霊をされなかったことがあるんですよ?
また、別の側近奉仕者の話ですけれども、この方は顔にひどいやけどを負いまして、エプロンが顔に貼りついてしまうくらいだった。それで、周りの方たちは、あなた明主様のご浄霊をいただきに行きなさいよとその方に伝えた。で、その方──角田さんという方で、私もよく知っていた方ですけれども──角田さんは、明主様は脳溢血のご浄化を受けられた後なので申し訳ないと思われて、結局ご浄霊をいただかずにいまして、そんな中、明主様が繰り返し繰り返し、「お念じしなさい」「悔い改めなさい」とおっしゃっていたから、側近奉仕者みんなでとにかく明主様の言われる通り念じたんですね。
念じた、ということしか書かれてないので、どういう内容を念じたのかは分かりませんけれども、明主様は「悔い改めなさい」とおっしゃっていたんですから、私たちの罪をお赦しください、悔い改めます、みたいなことをみなで念じたのでしょう。
そしたら、翌日そのやけどがきれいに治ってしまった。その一連の顛末を、ある側近奉仕者が明主様のもとにご奉告しに行くんですね。そしたら、それを聞かれた明主様は、その側近奉仕者に対して、「これが唯一の見本だよ」とおっしゃった。これ、『地上天国』誌に書いてありますよ、実際に。
「これが唯一の見本だよ」──これはどういうことでしょうか?確かに、過程の中で、角田さんはご浄霊も受けられたみたいですけれども、でも、ご浄霊によってそのやけどが治ったんだとしたら、明主様は、「これが唯一の見本だよ」とは絶対おっしゃいませんよね。だってご浄霊によってはもう奇蹟はたくさん起きていたわけですから。
ということは、唯一の見本は何の見本かと言ったら、「想念によって神様に悔い改めて治る」というその「見本」という意味しかないじゃないですか。
でもそれは、明主様が、もうご自分がご昇天になることを感じていらして、明主様ご在世中における、言霊と想念による奇蹟はこれただ一つしかないよ、という意味の「唯一の見本」とおっしゃったのか。それとも、言霊と想念による奇蹟は、後にも先にもこの一つの見本しかあなた方には示さないけれども、それでも私の言うこの新しい方向性を信じるか?という意味での「唯一の見本」とおっしゃったのか。これはどちらか、それは分からないですね。
というように、4月19日に脳溢血を起こされて、4月末からはこの想念の重要性のことについて話されていた。
そして、少し進んで5月13日。その日の側近奉仕者の記録にこういうのがあります。ここは正確に引用しますけれども、「『新しい浄霊を発見した』と仰せられる(想念)」と書かれてあるんですよ。明主様が、「新しい浄霊を発見した」、ですよ?しかも想念の。「新しい浄霊を発見した」ですよ?
「新しい浄霊」とおっしゃるんですから、少なくとも「大日本観音会」とか「大日本健康協会」とか「日本観音教団」とか「日本五六七教会」とか、その時代にしていたこととは違いますよ、新しいんですから。私たちは今日までこのことを知りませんでしたけれども、明主様、大変なことをおっしゃってますね。「新しい浄霊を発見した」。それが5月13日。
さらに進んで6月2日には、こういうエピソードが記されておりまして、それは、明主様がご自分のお体に対してご浄霊をされていたことについて、明主様がこう言われたんですね。それは、「時期が来たら神様が良いようにされるんだから、浄霊をしてはいけないと神様から知らされた」という内容、それを明主様がおっしゃった。
でも、その6月2日の夜、脳溢血のご浄化でお体がおつらかったのでしょう。明主様は、神様から止められていた浄霊をされてしまう。それが、手をかざしてのものか想念のものかは分かりませんけれども、浄霊をされてしまう。それで明主様は、「神様からやめなさいと言われていたのに浄霊をしてしまったから夜眠れない」と翌朝おっしゃったと、そのような記録が6月3日には記されています。
これもすごい記述ですね。要は、神様が新しい方向をどんどん打ち出そうとされていることに対して、明主様は、それに必死にお応えになろうとされるんですけれども、抵抗をしてしまう。癖で、と言いますか、神様から止められたご浄霊をされてしまって、そして、それによって神様から怒られるみたいな形で、夜眠ることができなかった、ということがあった。
明主様は、脳溢血で本当に痛い最中にあって、神様と対話していらした。明主様は、「メシアとなるための神様の修行があまりに苦しくて何回も自殺しようと思った」「この修行を乗り越えないとメシアにはなれない」というようなこともおっしゃっていたようですよ。本当に、神様の御心に対して必死にお仕えになろうとしていらっしゃる明主様だなと思いますね。
もうね、今私がずっと話しているこの内容は大変な内容ですよ。
「新しい浄霊を発見した」ですよ?「お詫びするだけで治る」ですよ?
というように、今私が話しています新しい方向性があるんですけれども、この6月3日から約半年後の1954年12月11日、この時に水晶殿が完成しまして、その時に、いわゆる資格三条件ということを明主様は仰せになった。
それは、今後教団の組織を考えていくのに、一つは最もご浄霊の優れた人、もう一つは信者をたくさん導いた人、最後の一つは、神様に対して奉仕の心が強い人──これはご献金とかそのようなことだと思いますけれども──このようなことを踏まえて組織を考えていきなさいと明主様は言われた。
そうなると私たちは、今私がずっと話してきたような明主様の願いは置いておいて、明主様は、最もご浄霊の優れた人と言っているぞ、もうこれで想念の話は関係ないんだ、浄霊していいんだ、となっているのが実状ですね。
でも、果たしてそれは正しい歩みなのでしょうか。こういうことがありますよ。同じ日の12月11日、水晶殿のご遷座で資格三条件を仰せになったのと同じ日、次のような記録があります。
それは、その日、明主様は、一人の信徒に対して、悪いほうのお手──右手ですね──悪いほうのお手で浄霊をされた。一分あまりされた。その時明主様は、「今度は千人にするのに一分とかからない」と仰せになった。そのようなことが記録されています。
明主様は資格三条件の中で、最もご浄霊の優れた人、とおっしゃって、我々は、よし私たちは浄霊をしていいんだ、となっていますけれども、その明主様がおっしゃるご浄霊は何かと言ったら、「千人にするのに一分とかからないご浄霊」ですよ。
それは、光が強くなっているからでしょうね。前は浄霊するのにもっと時間がかかっていたけれども、光がどんどんどんどんどんどん強くなって、千人に対して──今日もちょうど千人ぐらいの方がいらしていますけれども──千人に対して浄霊するのに一分とかからない。一分、じゃなくて、一分もかからないんですよ。一分より短い。
私は、じゃあ、その浄霊であれば、一人に対しての浄霊の時間はどれくらいだろうと思って、一分は60秒ですから、60割る1000をしました、スマホの電卓で。出てきた数は、0.06。一人に対して0.06秒ですよ?もう手をあげる時間もないですね。0.06秒の浄霊、できますか?手を上げて、もう、すぐ、一瞬で下げなきゃいけない。
我々は、2年前、ご浄霊の時間が、集団浄霊は7分、個人浄霊は3分となった時、何でそんなに短いんだ、短過ぎるじゃないかと言っていましたけれども、はっきり言って明主様からしたら長過ぎますよ。一人に対して0.06秒でいいところを、もう3分もしてるんですから。明主様から、そんなにずっと手を上げて、いつまで何してるんだ。私の光と力を馬鹿にしているのか、と言われてしまいますよ。
でも、これは、68年前のことですよ?明主様が1950年にメシア教とされて、光はどんどん強くなって、たった4年しか経っていない1954年には、千人に対して一分とかからないほどの浄霊になった。それからもう68年も経っているんですよ?
だって、1931年6月15日の夜昼転換からどんどんどんどん光は強まってるんでしょ?1950年から1954年の間にそんなに短くなっているのだとしたら、その1954年からさらに68年も経った今、どうなっているのか。ま、少なくとも、長くはならないですよ。
でも我々は、長い間浄霊しよう、長い間浄霊しよう、できるだけ大人数でしよう、2、3人でしようとか言って、あたかも光がどんどん弱まっているかのようですね。
夜昼転換以降太陽はどんどんどんどん出ているんでしょ?そしたら、もっともっともっと時間は短くなりますよ。そんなね、マッサージしたりとか探査するとか、絶対そっちの方向性ではないですよ。
だから、1954年の時点で、一人に対してのご浄霊の時間がもう0.06秒だとか、もう言霊と想念ですべてされるとか、ご浄霊は二の問題というご発言とか、それらのことを総合的に考えたら、もう明主様の方向性はあまりにもはっきりしてますよ。それは、もう我々は、言霊と想念の世界に完全に入ったと、そういうことですね。
だから、昨年の御生誕祭の時、教主様は、「手をかざしての浄霊にピリオドを打つ」と確かにおっしゃってくださいましたけれども、明主様は、「今更か」「遅いぞ」とおっしゃっていると思いますよ。「もう68年も前に私はその道を示していたのに、遅過ぎるぞ」とおっしゃっていると思いますよ。いや、教主様に対してはちょっと失礼になってしまいますけれども。
だって明主様は、「お詫びするだけで治る」ですよ?悔い改めて想念でお詫びするだけでいいんだ、一切を言霊と想念でするんだ、想念による新しい浄霊を発見した、ですよ?明主様のおっしゃってることは、教主様がずっとおっしゃってきたこととまったく同じじゃないですか。
我々は、教主様が、「手をかざしての浄霊にピリオドを打つ」ということを言われたら、納得いかない、明主様のみ心と違う、と言ってますね。でも、明主様のご浄霊は、本当は、今話してきた「想念による新しい浄霊」なのだとしたら、そのように教主様に対して反発するということは、実は、それは、そもそも、明主様のみ心に従わないということになりますよ。
教主様にも従わない、明主様にも従わないんだとしたら、じゃあ我々は一体何に仕えているのか、ということになっちゃいますよ。で、結局、何に仕えているのかと言ったら、それは、自分たちで作り上げてきた、「明主様信仰の中心は浄霊だ」という虚像。「明主様と言えば手をかざしての浄霊だ」という虚像。ただそれに仕えているだけのことですね。
教主様は、長年、お委ねするだけでは発展しないとか、お委ねしても何も変わらないと批判されてきましたね。
でもね、悔い改めて神様にご奉告するとか、お詫びするだけで治るということをおっしゃっているのは明主様ですから、その教主様への批判は、即ち明主様に対する批判になりますよ。「一切を言霊と想念でされる?それでは何も変わりませんよ、明主様」「お詫びするだけ、悔い改めるだけ、念じるだけで治る?そんなことでは発展しませんよ、明主様」と、明主様に対して批判することになってしまいますよ。
だから、教主様はずっとご教導くださってきたじゃないですか。自分の心が苦しい、体が苦しい、あるいは人の姿を裁きたいと思った時、その湧いてくる思いを、これは今までのありようを悔い改めるためなんですよ、だから、悔い改めたらどうですかと、教主様はずっとおっしゃってきたじゃないですか。
だからそれは、本当は、教主様は、ずーっと、ご浄霊のことを説いてくださっていたんですよ──明主様のおっしゃる本当の浄霊を説いてきてくださっていたんですよ。
でも私たちは、「教主様のお言葉は尊い」とか言って、何か高い位置、自分とは離れたところから出てきているお言葉として、そうすると「なかなか理解できない」みたいになってしまいますよ。
でも、明主様がご用意くださった教主様ですよ?そんな、私たちの立場、実状を理解してくださらないお方なはずないじゃないですか。
だから、なぜ教主様が尊いのかというと、それは、本当は、教主様は、私たちの心の苦しみとか悩みのそのど真ん中にいてくださって、そして一つひとつのお言葉を私たちにくださってる。だから尊いんですよ、教主様は。
それなのに私たちは、教主様は私たちとは次元が違う、と勝手に決めつけて、自分から離したご存在として受けとめて、そしたらなかなか理解できないに決まってるじゃないですか。
でも、本当に自分が今悩み苦しんでいること。見栄とか体裁じゃなくて、本当に自分が一番悩み苦しんでいることを心に持って、そして、そのことについて今教主様はお言葉をくださっているんだと信じて、その上で皆様にはお言葉を聞いていただきたいんです。
だって、明主様は、「一切を言霊と想念でされる」「新しい浄霊を発見した」「想念の新しい浄霊」ということを遺してくださったお方ですよ?もう一直線じゃないですか、明主様と教主様は。
いや、確かに、今日私が話していること、私たちは今まで知らなかったですね。でも、事実明主様が「新しい浄霊を発見した」と仰せになったのだとしたら、それは、私たち明主様の信徒として大変な問題じゃないですか。
でも、ではなぜそれが、今日まで私たちが知ることなくここまで来たのか。なぜ闇に葬られてきたのか。
幹部の先生とか、そういう方たちは知っていたと思いますよ、明主様がそういうことをおっしゃっていたということ。でもそれが、信徒の皆様に伝えられることなく今日まで来た。なぜなんでしょうか。
ま、それは分かりますよね。そんなね、「お詫びするだけで治る」なんて言われてしまったら、目に見える活動がなくなってしまって、これはなかなか組織運営として難しいな、発展しないかもしれない、経営的に不利かもしれない、というようなことを考えたであろうことは十分想定できますよね。
それとまた、明主様がご昇天になって、今私が話しているような明主様が遺されたことの真意というのは、実際なかなか分かりがたいですよね。私たちは教主様によってお導きいただいているから、なんとなく、もしかしてこういうことかな、と思えますけれどもね、やはり明主様ご昇天後、想念に関することとか、言霊がどうだとかあったとしても、それは分からないから、「やっぱり明主様と言えばご浄霊じゃないか」ということくらいしか思えなくて、そしてここまで来てしまった。
でも、今それを知った私たちはどうするんですか?今私が言っていること、全部嘘ならいいですよ。私も、嘘であってほしいと思うくらいですけれども、でも、嘘でなくて事実そういう記録があるんだとしたら、もう逃げられないじゃないですか。明主様がそうおっしゃっているんだとしたら、もう逃げられないじゃないですか。
だから我々は、明主様の聖言、み教えを見れば、浄霊が中心であることは間違いない、と簡単に思ってますけれども、今私が言った話からしたら、もうすべてひっくり返りますよ。今言った明主様の最晩年のこと、無視するわけにいきますか?いかないですよね。
そもそも、明主様が、「御浄霊は二の問題」だとおっしゃって、新しい浄霊の方向性を出しておられたにもかかわらず、私たちは直接は関わっていないかもしれませんけれども、私たちの仲間が、長年、その明主様のみ心を隠し、明主様のみ心に反してきたじゃないですか。
明主様は「二の問題」だと仰せになったのに、我々は二の問題どころじゃなくて、浄霊こそが明主様信仰の中心だとしてきたじゃないですか。これは完全に反逆ですよ、明主様に対する。
だとしたら、私たちは、明主様から、「私の願いに従わないなら、もうあなた方は私の信徒ではない」と言われてもおかしくない。でもそれを、教主様が、私たちのため、私たちを代表して、明主様に対して悔い改めてくださって、とりなしの祈りを捧げてくださった。「明主様お許しください」「明主様の願っている方向に必ず信徒を導いていきますのでお許しください」としてくださった。これ、教主様のご姿勢に現れているじゃないですか。だって、断固として、一貫して、想念の大切さをお説きくださっていますものね。
その教主様のお祈りのお姿を良しとされた明主様は、二の問題だったはずの浄霊について、二の問題どころか、もっと大きな、「本当の浄霊」を、今、私たちに託してくださろうとしている。
それはどんなご浄霊かというと、明主様が「新しい浄霊を発見した」とおっしゃった浄霊ですよ。一切を言霊と想念でされる浄霊、お詫びするだけで治る浄霊、悔い改めて想念で神様にご奉告するだけで赦される、救われる浄霊、という、「本当の浄霊」を私たちに託してくださろうとしている。
もうね、これは、明主様がその方向を示してくださっているんですから、だまされたと思って、そこに飛び込まれたらどうですか?
自分が本当に苦しんでいることについて、悔い改めをもって心で神様にご奉告になったらどうですか?そんな、人に言えないことでもいいんですよ。人に言えなくたっていいじゃないですか、そんなの。
自分の中で本当に苦しんでいることについて、「これは、何か私が悔い改めなければいけないことがあって神様が教えてくださっていることなんですね」「明主様と共にあるメシアの御名にあってお受け取りいただきたいのです」としてみたらいいじゃないですか。
絶対何か起きますよ。絶対に良い方向に導いてくださいますよ、神様は。
なぜ私が「絶対」と言えるか。確信を持って言えるか。だって、明主様がおっしゃってるじゃないですか。教主様がおっしゃってるじゃないですか。明主様が、「お詫びするだけで治る」とおっしゃってるじゃないですか。
私は、明主様を信じるだけですよ。その明主様のみ心を教えてくださる教主様を信じるだけですよ。だから私は「絶対良くなる」と言えるんです、だって信じてるから。
だから、皆様方は、手を掲げるご浄霊、これに仕えるのか、それとも、今、明主様が教主様を通して教えてくださっている、手を掲げないけれども、神様との心の通い合わせによって進むご浄霊に仕えるのか、どっちにするんですか?どっちですか?
もし手を掲げるご浄霊だと言うなら、昨年は日本においてオリンピックとかパラリンピックもありましたけれども、パラリンピックにおいては、手の無い方もたくさんいらっしゃいましたよ。ね?もし手を掲げるご浄霊だと言うなら、私たちは、そのような手の無い方たちに、「あなたは浄霊できません」と言うんですか?明主様が遺された浄霊はそんなスケールの小さいものなんですか?一部の人しかできないようなものなんですか?もうそんな時代じゃないですよ、今は。
でも、手を掲げるご浄霊を選ぶのであれば、その方たちに、「あなたは浄霊できません」で終わりですよ。
だから、そういう道を選ぶのか、それとも、それともですよ、その方たちに対して、「本当はあなた方も浄霊の業にお仕えできるんですよ」と言うことができる道を選ぶのか。どっちですか?どっちを選ぶんですか?
あるいは、浄霊してもなかなかよくならない、もう死にゆく人がいる。何人も何人もご浄霊しても治らない。そして、「そのうち偉い先生が来るから」「奇蹟が起きてほしい」とか言っているうちに奇蹟が起きないまま死んでしまう、という道を選ぶのか、それとも、その人に対して、「なんにも心配することはない」「あなたの中に神様の愛の手がある」「それがあなたを光で包んで、今、大きく抱きしめていらっしゃる」「死んだとしても何の心配もない」「死んだとしても、そのまま、神様の子供となるという神様の愛の養いの中で、ずっと生きていくんだよ」「私もその道を歩んでいるんだよ」「死んでも共にその道を一緒に歩んでいこうね」と言うことができる道を選ぶのか。どっちにするんですか?
またね、私たちは、浄化中の人の家に行く時とか、浄霊をしにいくつもりで行きますよね。浄化の人を浄霊しにいく。浄化中の人も、「浄霊してください」と言うじゃないですか。でも、本当は、浄化を受けているということは、神様が、ご自身の光をふんだんにその方のもとに注いでくださっているわけですから、本当は、もしかしたら私たちは、今まで、そういう人たちに対して、「いや、むしろあなたの浄霊を私はいただきたい」と言うべきだったかもしれないですよ。
私たちは、何か、自分は治す側、光を注ぐ側で、相手は、病気になって浄霊を受けないといけない側、惨めな側としている。そうなると、浄化をしている人に対しても、「自分は光を注がれなければいけない惨めな存在なんだ」と思わせてしまってるじゃないですか。
だから、逆ですよ。本当は、我々がその人に対して、「あなたの浄霊を一分でもいいから受けさせていただけますか?」と言ったらね、そしたら、「えっ、こんな浄化中の私なんかが浄霊していいんですか?」となって、「いや、あなたの中に光がありますから」と言ったら、その人も、「私の中に本当は光があるんだ」と思って、元気になってたかもしれないですよ。
だから今も、浄化の方のところに行った時に、こっちが施すんじゃないんですよ。「共に浄霊の業にお仕えしましょうね」と、そういうことですよ。相手の方は、浄霊してほしい、浄霊してほしいと言ってきたとしても、「いや、本当はあなたの中にこそ浄霊の光があるんですよ」と言えるじゃないですか。
だから、この、本当の浄霊の業は、誰でも、どこにいても、どんな人も、手があっても無くても、浄化で苦しんでても、苦しんでなくても、誰もが平等にお仕えすることのできる浄霊なんです。それが明主様が私たちに託そうとしていらっしゃる本当の浄霊の業だと思いませんか?
だから、やはり決めなければいけない。手を掲げる時にだけ出る光、一部の人にしかできない浄霊の業、死んでしまったら一巻の終わりの浄霊の業に仕えるのか、それとも、すべてを、あふれんばかりの光をもって包んでる浄霊、永遠に死ぬことのない、永遠の命に至る浄霊に仕えるのか。それを決めないといけない。
それでね、手を掲げるご浄霊は明主様信仰の中心だから、ということで離れてもいいんですよ。でも僕は、決めることが大切だと思いますね。だって、たとえそれが反発であったとしても、それを決めれば、最終的に待ってるのは神様との出会いですよ。
神様が、「あなたは、最初、明主様という存在を通して本当の浄霊の業を知った。そうだね?でも、それに背いたね?」「背きました」。「そのあと私は、教主という存在を通して改めてあなたに本当の浄霊について教えた。でもそれに背いたね」「はい、背きました」。「今は受け入れるね?」「はい。悔い改めて受け入れます」という、その救いが待っている。
というようにして神様との出会いを先延ばしにするか、それとも今、今までの私たちのあり方を悔い改めて、明主様が本当に願っていらした本当の浄霊の業にお仕えするのか。これを決める時が、今、来た。
昨年の御生誕祭に教主様がああいうお言葉をくださったことによって、これを決める時が来た。
これは本当はすごいみ恵みですよ。だって、もし明主様が脳溢血のご浄化もお受けにならず、ものすごい長生きされて、この本当の浄霊の業を遺されなかったら、救いが無いじゃないですか。病気で死んでいく方や不治の病の方に救いが無くなってしまうじゃないですか。浄霊で奇蹟が起きませんでした、で終わりじゃないですか。
そのように我々が絶望しないように、神様は、明主様に脳溢血というご浄化をお与えくださって、そして本当の浄霊を私たちに教えてくださった。
浄霊とは何か。浄霊の真実とは何か。明主様の真実とは何か。
それは、教主様ですよ。
教主様が今お説きくださっていること、それが答えですよ。
今日まで私たちは、手をかざしての浄霊を通して地上天国建設をしようとしてきた。でも今度は、本当の浄霊によってそれを成し遂げる時が来たんです。
誰もが何か抱えてますよ。心の中に憎しみとか、妬みとか、あるいは病気がなかなか治らないとか、あの人許せないとか、誰もが何かを抱えてる。
でも、それを、「明主様と共にあるメシアの御名にあって、今抱えている思いを神様にお捧げします」と言うこと。これ、一人でできるじゃないですか。どこにいてもできるじゃないですか。その救いにもし全人類が目覚めることができたら、それは、地上天国ですよ。
明主様は、最晩年、脳溢血の苦しみの中、命懸けで、自殺しようとまで苦しまれた中、神様との対話の中から、搾り出すようにして本当の浄霊を私たちに遺してくださった。
そうなんですから、可能であれば、それを多くの方たちに分かち合って、そして、明主様が願われた光の世界、地上天国を皆様方の手で打ち樹てる時がいよいよ来た。
この業に参加できるのは、大変な名誉であり光栄なこと、なんですよ、本当はね。
今、明主様は、教主様を通して、明主様の真実を、明主様の本当の救いを私たちに託そうとしておられる。ですので皆様、本当の浄霊を信じて、そして、私たちの手で、地上天国を造ってまいりましょう。
ありがとうございました。