〔明主様〕
 抑々本教が出現したという意味を判り易くいえば斯ういう事である。例えば大きな池があるとする。勿論、濁った水が満々と溢れている。それへ向って明礬(みょうばん)を投げ込む。そうすると明礬が溶けるに従って池の濁水は漸次澄んでゆく、それと同様である。
 吾等が常に言う処の夜の世界が永く続いた結果、人間社会は曇りに曇り、汚れに穢れ、神様から観れば足の踏み処もないようになって了った。それが実相である。そこへ忽然と表われたのが光の本教である。
 処が、さんざ世を紊し、人間を自由に操っていた邪神の驚愕は一方ではない。夢にも思わなかった神の光が表われたのである。そうなると悪魔の方は手も足も出なくなるばかりか、善に移らないと永遠に滅亡する危険さえある。といって今更悪を捨て善の方に仲間入りする気には到底なれない。それは執着という奴が頑強に邪魔しているからである。
 本教が盛んになればなる程、何とかして光を防ぎ止めようとする。その表われが本教へ対する非難攻撃や悪宣伝である。本教に関する凡ゆる問題は悉く右の原因によって発生するのであるから、右の点をよく認識すれば、明白に首肯され得る筈である。
19491120日「巻頭言」『地上天国』10

 

〔聖書〕
 あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい──光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである──主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。
「エペソ人への手紙」第51節~14

 

教会誌『グローリー』No. 25, 2022/2月号掲載
 出典:『口語訳聖書 1954/1955年改訳』(日本聖書協会)

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