「神様、善悪の立別けはあなたの恵みです」

 

《 明主様 》
 観世音菩薩は、善悪無差別的の救済であったが、愈よ地上天国が目前に迫り来った、今日茲に善悪を立別け、善を育て悪を滅しなければならない事になった。所謂悪のトドメである。従而救いの力も決定的でなくてはならない。その力こそメシアの揮わせらるる大神力である。
 嗚呼、慶賀すべき時とはなったのである。
1950年24日「開教の辞 世界救世教の誕生に就て」

 

《 教主様 》
 明主様は、「開教の辞 世界救世教の誕生に就て」の中で、「善悪を立別け、善を育て悪を滅しなければならない事になった。所謂悪のトドメである。従而救いの力も決定的でなくてはならない。その力こそメシアの揮わせらるる大神力である。嗚呼、慶賀すべき時とはなったのである」とお述べになりました。
 善悪を立て分けるということは、自分が神様に反していたかどうか分かるようにしていただけるという大変な恵みだと思います。
 自分が神様に反した姿だったこと、自分の中に悔い改めなければならない罪があったことに気づくことができるということ、それは、私どもが段々と本当のことに近づかせていただいているからではないでしょうか。真実に触れさせていただけたから、自分は、悔い改めなければならない、罪深い人間だと、そう思えるようになったのではないでしょうか。
2020
615日「世界メシア教 地上天国祭」

 

《 真明様 》
 ご報告の中で、「スタート地点にもまだ立っていなかった」という言葉がありました。
 明主様は、メシア降誕の時、メシアは「キングオブキングス」とおっしゃいましたけれども、「キング」は王冠をいただきますよね。
 走るマラソンにおいて、勝者は冠みたいなものを着ける場合もありますけれども、我々も、本当は、レースを走らなければならない。最終的に王様となって冠をいただくに至るレースを走らなければならない。
 それなのに私たちは、今までずっと、スタート地点の前で、走る仲間と一緒に、「お互い大変だね」「これから大変だね」みたいにただ打ち解けることのみに時間を費やしていたり、あるいは、スタートしても、何か手でもつないで、「一緒に走って行こうじゃないか」みたいなことで、ふらふらふらふらして、いつまで経ってもゴールにたどり着けない、みたいなことになっていたんじゃないかなと思うわけです。
 でも、最終的には、一人ひとりですからね、走るのは。仲良く、おててをつないで行くわけにはいかないんですよ。
 そして、その命の冠、命の頂に向かうのは大変な道ですよ。そんなね、人と手をつないで仲良く、なんてことでは全然進めない。これは、命懸けのレースですからね。
 走るマラソンも大変ですよね。でも、それよりももっと大変なレースを走ろうとしている。だからね、本当を言えば、人のことを気にする余裕なんて私たちにはないんです。
 だから、人のことうんぬんではなく、とにかく、自分が、神様がご用意くださった最高の栄誉である王冠、キングオブキングスと言われる神様の命の冠をいただきたい、ということで走るかどうか、それだけのことですね。
 自分が「走る」と言った時、「いや、私はそのレースは走りたくない」と言う人も出るかもしれない。でもね、人の言うことを気にする余裕なんてないんですよ、私たちには。
 もう、そのレースを走らなければならない時が来た。来てた。それなのに私たちは、ずっと、「この横の人と一緒に走りたいな」とか、「レース前の準備が大切だから」とか言いながら、ずっと先延ばしにしてきたわけです、今日まで。
 そして、本当はその栄えある王冠をいただけることは約束されている。道のりはどんな道のりかは分かりませんよ。でも約束されている。
 だから、あらゆる人が「その道は走らない」と言ってたり、「走る前にはこれが必要だ」とか言っていることをかなぐり捨てて、自分一人であっても、いかなることがあろうとも走り抜く、と思うかどうかですよ。
 そこを必死になって走って走って、そして、ふと振り向いた時に、あなたの思いに共鳴した方々や同志の方々が、一緒に走ってきているかもしれない。でも、それも、本来関係ないんですよ。自分がその冠をなんとしてもいただきたいと思うかどうかが一番大切なわけですから。
 そうすると、善悪の立別けということで、スタート地点に置いてきた人たちはどうなってしまうんだろう、一生救われないんだろうか、というようなことは思わなくていいんです。
 その人たちは、神様の、「約束のレースを走りなさい」という声を無視し、神様に背く。だけど、そのことによって、のちに「悔い改めることができる」という大いなる恵みが待っているんですから。
 いや、神様に反することは恵みですよ、本当は。だって、それによっていつか悔い改めて神様に本当に出会うという喜びが待ち受けているわけですから。
 だから、その人たちのことは、私たちが心配をする立場にはない。
 とにかく、自分自身がどうしたいか、それだけです。もしその道を進むと決めたら、その道を、たとえ自分一人であったとしても、まっすぐ、王冠に向かって走る。
 そういう揺るぎない思いというのが大切なんじゃないのかなと思います。そういう思いが周りに波及していくのではないのかなと思います。
 メシア教は今まさに過渡期ですよね。今までの信仰から離れられない人たちもいらっしゃいますからね。でも、その人たちのことを気にしてたら、ずっとスタートは切れませんよ。
 だから、自分だけでも、という思いでスタートを切って、そして、命の王冠をいただくに至るレースをしている姿に共鳴してくださる方がいらっしゃれば、我々は、これから、その方たちと共に歩んでいくということなのかなと、そう思いました。
2020101日「教主様ご面会(理事・教区長)」

 

教会誌『グローリー』No. 25, 2022/2月号掲載

This post is also available in: English Português