PDF: 豊穣祈願祭_真明様ご挨拶

「すべては私のために」

於:本部ご神前

 

皆様、こんにちは。
 命とか健康というのは、私たちにとって大切なものですね。
 これは、自分自身のこともありますし、身近な人の命とか健康ということもありますね。ご存じのように私の母も今体調を崩しておりますけれども、一人ひとりの命とか健康というのは、私たちにとって、本当に大切なものですよね。
 明主様も、御歌に、「生命程尊きものは世にあらじひたにりて齢延ばさむ」とお詠みになったように、命の大切さ、健康の大切さを訴えられまして、そして、そのために、浄霊ですね、浄霊。浄霊の奇蹟をもってこの問題に向き合っておられた。
 そして、明主様のご在世中には多くの奇蹟がありましたね。治らないと思っていた病気が治ったり等々、多くの奇蹟があった。
 しかし、そんな中、明主様ご自身は、最晩年に、脳溢血という、この世的に言えば病を発症されて、そして、全信徒の祈り叶わずというのでしょうか──信徒はまさか亡くなられるとは想像もしていなかったでしょうけれども──脳溢血を発症されてから10か月で亡くなられた、ご昇天になった。
 でも実は、明主様は、脳溢血のご浄化をお受けになってから、私たちにとって大切なことをたくさんべてくださっていたんですね。その中心は、「メシアとして新しく生まれる」というメシア降誕。明主様はこれを感得されて、そして、メシア降誕仮祝典を通して私たち信徒にもそのことの重要性についてお示しくださった。
 だけど、ひとたび明主様がご昇天になると、メシアとして新しく生まれるとか、そのにもご浄霊に関してさまざまなことを最晩年にはおっしゃっていたんですけれども、そのことが私たちにはなかなか分かりがたい。また、今まで通りのあり方を継続したいということがあって、結局私たちは、明主様ご昇天後、事実上、浄霊の奇蹟一本でここまで来た。ですよね?
 もちろん、明主様ご昇天後も、浄霊による奇蹟はたくさんあったと思いますよ、実際。そしてそれは、本当に喜ばしいことではありますね。
 でも同時に、どんなに浄霊しても良くならない、病気が治らない、そして、そのまま死んでいった方々もたくさんいらっしゃいます。これは事実ですよ。
 その事実に対して、私たちは、意図的であっても、意図的でなくても、目を背けてきたこともあったかもしれない。
 あるいは、浄化がなかなか良くならないという時に、いや、それは浄霊が足りないからだ、信仰が足りないからだ、感謝が足りないからだ、献金が足りないからだ、何かが足りないからだと言って、何か取り組んで良くなれば、「あっ、感謝したからだ」「感謝行をしたからだ」と言って、また悪くなれば、「何が足りないんだろう」と言って、私たちの今までの歩みはその歩みですよ。一喜一憂の歩み。
 良くなれば喜んで、でも、また悪くなるかもしれないという不安を常に抱えて、何かが足りないんじゃないか、もっと実践しなきゃいけないんじゃないか、心がけが悪いんじゃないか、というね、もうその出口のない歩みですよ。
 でも明主様は、そういう信仰は終わりにしたいということを、ご立教の時にはっきり仰せですよ。罪障消滅中にどんどん人が亡くなってしまうということは笑えないことなんだとおっしゃってね。
 どんな宗教でも、病気になると、信仰が足りないとか献金が足りないとか言ってるけれども、そういうことをしながらどんどん人が死んでいる。明主様は、こんなのおかしいじゃないか、本当は大きな光がもう出てるのに、そんなことで人類が苦しんでるのはおかしい、ということでご立教になったのに、私たちは、明主様がおかしいとおっしゃってる世界を完全にさまよってましたよ。闇路をさまよってましたよ。
 自分の健康が良くなる、悪くなる。それに一喜一憂する。その世界に入り込んで、救いようがない闇の道を歩んでいた。
 でも、そういう我々を明主様はれんでくださって、顧みてくださって、今、教主様を通して、本当の命の道、本当の救いの道というのを私たちに託してくださろうとしている。
 じゃあそれはどういう道かというと、それは、我々が、明主様だけのことだとしてほとんど焦点も当ててこなかった「メシアとして新しく生まれる」という永遠の命の道。この道を歩むことが本当は私たちにも課せられているんですよと、そう教主様はお示しくださっている。
 明主様は、このメシア降誕をご発表になった時、これは、「奇蹟以上の奇蹟」なんだとおっしゃった。じゃあ、奇蹟以上の奇蹟というくらいだから、当然、体的にも脳溢血のご浄化が改善して明主様は元気いっぱいになられたのかというと、なられなかったんですよ、それは、ご存じのように。
 むしろ、脳溢血を発症されてから10か月後には亡くなられてしまう。脳溢血の痛みの中、亡くなられてしまう。でも明主様は、メシア降誕のことを奇蹟以上の奇蹟なんだとおっしゃった。
 これはどういうことなのか。それは、最初私たちは、体的病気が治った。これは奇蹟でしたよ。人間の命、寿命が長らえる奇蹟。死ぬかもしれない病気が治った奇蹟。
 でも明主様は、人間の命が長らえる奇蹟じゃなくて、その奇蹟よりももっとすばらしい奇蹟がある、永遠の命を手にすることができる奇蹟がある、そのことを「奇蹟以上の奇蹟」とおっしゃって私たちにお示しくださった、そういうことです。
 最初私たちは、体的奇蹟に出会うことによって神様の道に入った。でも明主様は、この世の命とか健康が長引く奇蹟ではなくて、永遠の命に至る奇蹟がある、それが奇蹟以上の奇蹟なんだ。たとえ病で死んだとしても、誰にでもこの奇蹟以上の奇蹟を神様が用意してくださってるんだと、それを明主様はお示しくださった。
 それでね、この永遠の命という奇蹟について、私たちは、「これは明主様が最晩年になって突然おっしゃったことだ」と思うかもしれませんけれども、そうではなくて、実は明主様は、このことについてはずっとおっしゃっていたんですよ。
 例えば、明主様が非常に大切に思っていらした『文明の創造』という本の「序文」。そこにこう書いてあります。
 「そうして審判の最後に到っては、罪き者はび、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、之を信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来に於ける地上天国の住民として残るのである」。
 「永遠の生命を獲得する」、ですよ。「獲得する」ということは、少なくとも、今我々が感じている命とは違いますよ。我々は普通、永遠の命というと、今生きている状態が生き変わり死に変わり永遠に続いていく、それが永遠の命だと思ってきたじゃないですか。でもそれでは、何も獲得してないですよ。
 でも明主様は、永遠の命を獲得しなきゃいけないんだとおっしゃってますよ。ま、本当は、我々が獲得するのではなくて、神様が私たちを獲得してくださろうとして臨んできておられるんですけれどもね。でも、とにかく、明主様は、獲得しなさいと仰せです。だから、少なくとも、今生きている感覚とは違う命のことをおっしゃってますよ、明主様は。
 メシア降誕のご発表は1954年。この『文明の創造』の「序文」が1952年。どちらも永遠の命のことを仰せですね。でも、もっとさかのぼって昭和10年、1935年の11日、ご立教の日。この日明主様は、次のようなことを仰せになりました。
 これからちょうど夫婦ができる。東洋というお婿さんと西洋というお嫁さんが結婚して子供が生まれる。その子供が人類待望の真文明であり、ミロクの世であり、地上天国である。その玉のような子を生ませる空前の大事業を行うのが観音の力なんだ、そうおっしゃった(193511日「大光明世界の建設」)。
 でも、観音はメシアになったわけですから、もはや観音の力ではなくて、メシアの力によってお婿さんとお嫁さんが結婚して子供が生まれると、明主様はそうおっしゃったということです。
 「生まれた子供が地上天国」という言葉ですけれども、この意味は、本来、なかなか簡単には分かりがたいですよ。でも明主様は、子供が生まれる、とおっしゃった。そして、その子供を生ませる空前の大事業を進めるのが私がすることなんだと、こういうことを、ご立教の日ですよ、ご立教の日に明主様はおっしゃった。
 ご自分の使命は、メシアの力によって、その玉のような子を生ませる、その事業を進めるんだとおっしゃって、で、実際明主様は、それを身をもって成し遂げられてしまったじゃないですか。
 ご自分の中に、ちょうど夫婦のような存在があられて、それが結婚して玉のような子供が生まれなければ、「メシアが生まれた」ということはおっしゃれないですよ。
 だから明主様は、ご立教の日に宣言されたことを、ご昇天になる前にご自分で成し遂げられた。これは大変なことですよ。そして、その生まれた子供が地上天国とおっしゃるんですから、明主様は地上天国のひな型そのものですよ、絶対に。
 だから、メシアとして新しく生まれて永遠の命を獲得する、ということは、何も明主様がご晩年になって突然おっしゃったことでもないし、それまでおっしゃってきたことをしたわけでもない。
 本当は、もうご立教の一日目から、神様の子供として生まれるという永遠の命のことについておっしゃっていた。
 だから我々は、聖言を読む時に、永遠の命を獲得する、とか、メシアとして新しく生まれるというその明主様の結論をもって読ませていただければ、明主様の聖言は、もうそれは本当に生き生きとしてきますよ。
 だって、明主様の聖言の結末、明主様のご人生の結末が「メシアとして新しく生まれる」「永遠の命を獲得する」だとしたら、それは、明主様がおっしゃったこと全部に貫かざるを得ないじゃないですか。
 だから、そういう思いで、聖言や明主様のご事蹟に接すれば、今まで気が付かなかったようなことにも気が付けるかもしれませんよ。だって、「永遠の生命を獲得する」、これ、大変な表現ですよ。獲得するということは、今持っている命と違う命がある、ということですからね。
 というように、「本当だ!永遠の生命を獲得する!そうか!」という感じで、「今まで聖言を読んでいてそんなこと思いもしなかったな」という思いも出てくるかもしれないですね。
 でも、なぜ今まで気が付けなかったのか。そういうこともありますね。それはなぜかというと、私たちは、明主様の聖言を、人間の健康、人間の命を主体とする見方で読んでますからね、だから、どうしても分かりがたいですね。どんなに明主様の聖言、御教えを読んでも、自分の健康とか自分の都合を利するという目で見てれば、どうしても分かりがたいですね。
 だから、明主様の聖言全部を、自分の都合を主体とする中で理解するのか、それとも、メシアとして新しく生まれるという永遠の命がある、という中で理解するのかで、もう全然変わってきますよ。
 というように、確かに明主様の聖言は一つのによって貫かれてはいるんですけれども、最晩年、脳溢血のご浄化をお受けになって以降は、特に、ご自分が私たちにお伝えになりたかったことの核心にどんどんと入っていかれた。
 中でも、先日の立春祭の折にもちょっと触れたんですけれども、まずはご浄霊のことがありますね。想念による「新しい浄霊を発見した」と仰せになったり、浄霊は二の問題でこれから想念の世界だとか、これからはすべてを言霊と想念でするんだとか、そういうさまざまなことをおっしゃった。
 また、私は、脳溢血のご浄化をお受けになってからの明主様はそういうご心境であられたのかと思ったことは、明主様は、メシアとして新しく生まれるための修行があまりに苦しくて、何遍も自殺しようとされた、ということ。明主様は、そのようなことを側近奉仕者の方々におっしゃっていた。これは驚きですね。
 普通、僕の感覚からすると、明主様は、メシアとして新しく生まれるという栄光の道を、神様と一つになって確信を持って歩まれて、そこにまっすぐ到達されたと思っていたんですけれども、実は、明主様の中には、大いなる葛藤と言いますかね、そういうものがあられた。神様からの修行の厳しさに自殺しようとまで思われていた。しかも何遍も、ですよ。この修行をしたらメシアとなれないんだと、そう仰せだった。
 自殺されたかったということは、簡単な言葉で言えば、できれば逃げ出したかった、そういうことですね。神様から臨んできているものに対して、できれば逃げ出したい、もう死んだほうが楽だと、そのようなことを明主様は思われていた。
 そうなってくると、この、メシアということに関連して、逃げ出したいほどの苦しみを味わった人がもう一人いる。それは誰かというと、他でもない、イエス・キリストですね。
 イエス・キリストは二千年前地上に来て、そして地上でのいろんなことをされて、最後、自分の時が来る、自分が十字架に上がる時が来るということになって、その直前に、有名な、最後の晩餐といって、自分の十二弟子と一緒に食事をするんですね。絵とかでもありますね、最後の晩餐。
 その時イエスは、十二弟子に対して、「この中のひとりが私を裏切ろうとしている」と言うんですね。そうすると、イエスに特に近かった弟子などが、「それは誰ですか」とイエスにく。それでイエスは、ここは福音書によって描写は少しずつ異なっているんですけれども、とにかく、ある食べ物をして──僕はパンじゃないかと想像しているんですけれども──そのパンを何かに浸して渡す人がその裏切る人だよ、と言うんですね、イエスが。
 それでイエスは、そのパンを、オリーブオイルか何かだと思いますけれども、それに浸して、ある人物に渡す。これを渡されたのが、ご存じだと思いますけれども、ユダ。「イスカリオテのユダ」という、キリストを裏切ったとされている人物なんですね。
 そしてイエスは、その時ユダに、「あなたがしようとしていることをするがよい」と言うんです。他の弟子は、イエスが何のことを言っているのか分からない。だけど、ユダは自分がこれからイエスを裏切るということを知ってますから、そのイエスの言葉を聞いて、その場から去って、イエスを捕まえたい人たちにイエスの居場所を教えるために出ていくんですね。
 ちなみに、ユダは悪名を着せられていますけれども、本当は、当時、ユダヤ人はローマ帝国からの圧政に苦しんでいて、その中で、ユダは、もしイエスを追い詰めたら、イエスはとにかくすごいから、何かとてつもないことを起こしてくれて、ユダヤ人のためにイスラエルの王国をもたらしてくれるようなことをしてくれるんじゃないか、と思っていたんですね。そもそも「メシア」というのは、ユダヤ人に王国をもたらしてくれる存在だと信じられてきていましたのでね。
 ユダは、まさか、イエスが本当に捕まってしまって十字架に上げられてしまうようなことになるとは思ってもいなかったんですね。でも、とにかく、銀貨30枚、と言ってね、イエスの居場所を教えてくれたらということで、彼は、イエスを捕まえたい人たちから銀貨30枚をもらったんですね。
 それで、話を戻しますが、最後の晩餐の場所からユダが出ていった。イエスは、自分の時が近づいていることを知っているので、自分も外に出て、自分が捕まる場所まで向かおうとする。でも、その途中、心が苦しみ始めるんですね。
 イエスは、当然、人類の罪をうために自分の血を捧げなければならないという自分の使命は分かっている。分かっているけれども、でも、非常に苦しまれる。とにかく、十字架ですからね。手と足に直接釘を打ち付けられるわけですから、それは恐怖ですね、どう考えても。
 その時にイエスは、弟子たちに、「自分は悲しみのあまり死ぬほどである」と言ったと、そう記されています。自分の使命は分かっているけれども、十字架の試練を想像して、つらい。死にたいほどつらい。そう感じられた。
 そして、その時、イエスは神様に対して祈られるんですね。イエスは、「父よ、あなたはなんでもできる。だから、このを私から取りのけてください」と、そうはっきり仰せになるんですね。ここでの「杯」というのは十字架に上がることを意味しているのだと思います。そして、「でも私の思いでなく、あなたのみ心がなりますように」と言われた。
 そのような内容の祈りをイエスは三回された。
 ご自分の使命は分かっている、自分がしなければならないことは分かっている。でも、神様に対して、できればこの杯を取りのけてくださいと祈った。そういうことです。
 でも、最終的には、「この杯を飲むほか道がないのでしたら、あなたのみ心がなりますように」と言って、十字架に向かっていくんですね。
 このように祈ってる時、イエスは、血の汗を出したという描写があるんですけれども、血の汗というのは、極限のストレス状況に置かれるとそういうことがあるらしいですね。
 だから、我々は、イエスが十字架に上がったことも、明主様と同じで、人類のために簡単にスッといったんだろうと思っていたかもしれませんけれども、決してそうではなかった。神様に、「できれば取りのけてください」とはっきり言っているわけですから、イエスも、本当は逃げ出したかったんです。
 じゃあね、なんで逃げ出さなかったんですか?いや、イエスはね、それは水の上も歩くと言われるぐらいですから、いくらでも逃げられましたよ。でもなんで逃げなかったのか。だから、なぜ逃げなかったかって、それは、全人類の罪をご自分の血によって贖うためですよ。
 イエスの前までは、いろんな文化がしているように、動物の血とかを捧げてそれによって神様に罪を赦してもらっていた。でも、もうそれでは足りなくなって、結局、神の子と言われるイエスの血を神様が必要とされて、そして、それを通して人類の罪を赦そうとされた。
 だから、そのためですよ。その使命を成し遂げるために、本当は逃げ出したかったけれども、逃げるわけにはいかなかったんですよ、イエスは。
 だからそれは、全人類のためであり、私たちのためであり、私のためであり、皆様方お一人おひとりのために、逃げなかったんですよ、イエスは。
 じゃあ明主様のことはどうですか?自殺しようと思うくらい苦しまれた。なんで逃げられなかったんですか?
 だからそれは、全人類のためですよ。イエスは確かに十字架で全人類の罪を贖った。でもイエスの後、神様の本当の願いである、全人類が神の子たるメシアとして新しく生まれるという道、この道を人類にすため、明主様は逃げられなかったんですよ。
 ご自分のことだけを考えれば、それは逃げられたってよかったと思いますよ。でも、全人類のため、私たちのため、私のため、皆様方お一人おひとりのため、明主様は逃げられなかったんです。
 いや、だから、メシア降誕本祝典、これ、誰のためなんですか?
 と言ったらそれは、全人類のためであり、私たちのためであり、私のためであり、皆様方お一人おひとりのためですよ。漠然と教団がしてることじゃないんですよ。
 だってイエスは十字架に上がって、そのあと死んだんですか?甦ったとされてるじゃないですか。それを信じるかどうかですよ。
確かに、「甦る」というんですから、甦らせた方がいらっしゃる。それは神様ですよ。明主様は新しくお生まれになった。ということは、生ませた方がいらっしゃいますね。それも神様ですよ。
 それはそうなんだけど、私たちは、こう言いながら、明主様のことは受け入れてますけれども、場合によっては、「神様が甦らせたんだ」ということで、イエスという存在を受け入れてないかもしれませんよ。
 明主様は受け入れられますよ、私たちは、明主様の信徒なんですから。でも私たちは、「イエスを甦らせたのは神様なんだから、えらいのは神様だ」ということを言いながら、我々の罪を贖うためにあそこまで苦労したイエスという存在を、真正面から受け入れるのを微妙に避けている姿もあるかもしれないですよ、思いの中に。
 私たちは、我々のために、本当に苦しい思いをしながらも逃げずに戦ったイエスと明主様。このお二人を真正面から受け入れないと申し訳ないですよね。この二人が我々の本当の先達の二人なんですから。
 いや、確かにね、イエスを受け入れないという選択肢はありますよ。だけど、その選択をするなら、クリスマスもおかしいし、街中でリースやクリスマスツリーを飾っているのもおかしいし、西洋の文化、音楽、芸術、全部おかしいということになりますよ。
 だから我々は、我々のために逃げずに戦ったそのイエスと明主様のお二人を真正面から受け入れて初めて、メシア降誕本祝典に臨めるんじゃないかと、そう思います。
 皆様、このメシア降誕本祝典は、後にも先にも一回だけですよ。一回だけ。
 616日になって、「こうしとけばよかった」、はもう通じないんですよ。メシア降誕仮祝典は1954615日。これも一回だけ。メシア降誕本祝典、これは2022615日の一回だけですよ。人類の歴史の中でメシア降誕本祝典をするのは、後にも先にも一回だけですよ。616日になって、「ああしとけばよかった、こうしとけばよかった」というのは、あまりにもったいないんじゃないんですか?
 そうなのに我々は、メシア降誕本祝典に自分は参拝するかな、しないかな、とか、そうやって自分のことばかり考えてますけれどもね、このメシア降誕本祝典は、我々のためだけではないんですよ。
 68年前、メシア降誕仮祝典に出た人も、「仮」というくらいですから、いつか本祝典がされるんだろうと思っていたと思いますよ。
 我々は、その人たちの思いも受けとめる責任があるんですよ。今の時代に生きている我々は、その人たちの思いも受けとめて、そしてその上で、一回しかないメシア降誕本祝典に臨む責任がある。
 また、未来の人たちも、10年後、20年後、50年後、100年後、200年後に、「メシア降誕本祝典に出てた人たちがいるんだな」と言いますよね。その人たちは、どうがんばっても出られないんですよ、メシア降誕本祝典には。今生きている私たちは、その人たちの思いも全部受けとめて、そして、メシア降誕本祝典に臨まないといけない。
 だからそう考えると、確かに我々の使命は重たい。重たいけれども、だけど、少なくとも、今日私が話したように、明主様。自分は、明主様というご存在をどのようなご存在として受け入れるのか。また、イエス。イエスという存在を自分としてどのように受け入れるのか。少なくとも、これについては明確な決心をして、615日に臨まなければならない。
 今私たちが知らされているのは、本当に、唯一の真実の道ですからね。だから、それを知らされている私たちの責任は重大なんです。
 ですから、もし可能であれば、この本当の命の道、救いの道を、身近な人に分け与える、知らせることができたら、それはすばらしいことだなと思いますね。
 だけど同時に、知らせると言っても、自分の周りの人たちだけじゃなくて、本当は、全人類の今までしてきたことのすべてが私たち一人ひとりにのしかかってるんです、今。
 今の世界情勢ありますね。今現れているこのいろんな姿。本当は、これが私たち一人ひとりにのしかかっているんです、今。だからニュースとかで見させられるんですよ。他人事じゃないんですよ、今起きていることは。
 もちろんニュースもありますし、また自分の身近なところで起きているそのすべてのこと、それは、今までの全人類が積み残してきたことが私たちにのしかかっているということなんです、私たち一人ひとりに。だから、毎日身の周りでいろいろ起きるし、またニュースでも見させられてるんです。
 なんでこういうニュースを見させられるのか。私たち一人ひとりに人類の営みすべてがのしかかってるからですよ。
 でもね、だからといって、我々一人の力でこの世界情勢について何ができるのかと言ったらね、確かに我々は非力ですよ。でも少なくとも、その見聞きした私たちがすべきことはあると思いますよ。
 それは何か。それは、身近な問題もそうだし、今の世界情勢を見ても、心がいろいろと動きますね。不安だとか、これが正しいとか悪いとか、いろんな思いが湧いてくるじゃないですか、心の中に。
 でも明主様は、罪障消滅の光が出たんだとおっしゃる。罪障を消滅させる光ということを聞くと、我々はなんかぼわっとした思いでこの言葉を受けとめますけれども、罪障を消滅させる光ということは、「赦しの光」だということですよ。罪障を、罪を消すんですから、赦す光ですよ。だから、我々の中には、「あなた方を赦す」という光があるし、それが臨んできている。
 しかも私たちは、永遠の命を獲得する道にもう入っているんですよね?ということは、「生かすよ」「死なないで生かしてあげるよ」ということだし、「あなたを赦して生かしてあげるよ」ということですよ。そういう光が我々に臨んできてくださっているんです。
 だからね、確かに身の周りの人たちにこのすばらしい救いの福音を伝えるということはある。と同時に、今、私たちの心の中に湧いてきてるいろんな思い、ニュースとかを見たり日常の中で感じている思いがある。ありますでしょ?だって、いつも猛烈に心が動いてますでしょ?あっちに行ったりこっちに行ったり。そのような思いに対して、もう光は出たんですから、「あなた方は赦されたんですよ」「もう生きたものとなってるんですよ」ということを知らせてあげなければならない。
 このことを明主様は、「怒鳴って知らせる」とおっしゃいましたね。だから我々は、自分の中にいる人たちに、それこそ怒鳴って知らせる。だって我々は、無数の祖先の綜合体なんでしょ?違いますか?明主様はそうおっしゃってるじゃないですか。だから自分の心の中にいろんな反応が出てくるんですよ。
 そういう方たちに、「赦されてますよ」「生きたものとなってますよ」と知らせてあげなければならない。
 いや、それを放置してたらね、簡単に人と言い合いみたいになりますよ。自分はこう思う、あの人はこう思う、というように。いや、もちろん議論はしてもいいですよ。何もしゃべっちゃだめだということを言おうとしているのではなくて、でも、自分の中でいろいろ湧いてくる思いをそのままにしてたら、それが増幅して、どういう行動となって出るか分からないですよ。
 だから、罪障消滅の光である赦しと、また永遠の命を賜っているんですから、私たちは、少なくとも、自分の中にある多くの方たちに対して、「明主様と共にあるメシアの御名にあって、イエスと共にあるメシアの御名にあって、あなた方は赦されてるんですよ。永遠の命が約束されてるんですよ」ということは言わなければならない。

 

というように、私たちにとって、この世の命とか健康というのは本当に大切なものですけれども、でも、本当に大切な命は永遠の命なんですからね。
 明主様の御歌にも、「永遠生命を作れかし此現世に生くる間に」とありますように、この地上にいる間に永遠の命の幸を作りなさいと仰せですね、明主様は。
 そう考えると、冒頭で引用した御歌、「生命程尊きものは世にあらじひたにりて齢延ばさむ」。どの程度延ばすんですか?5年ですか?10年ですか?それとも永遠ですか?
 だから我々は、この御歌を、明主様は、12年寿命が延びることを「齢延ばさむ」とおっしゃっていると見るのか、それとも永遠に延びる命、その命が尊いんだとおっしゃっていると見るのか、どっちなんですか?
 それはね、永遠の命ですよ、絶対。だとしたら、「死」はもはや無いんですよ。これは大変なことですよ。
 だけど我々、「死が無い」と聞いた時の心の反応はどういう反応かというと、ちょっと戸惑うぐらいですよね、よく分からないなということで。でも大変なことですよ、死ななくていいんですから。
 としたらね、「永遠生命」というくらいなんですから、私たちが今その道を知って、そこに導き入れられているということは、少なくとも幸せなことですよ。
 しかも明主様は、実際に、「永遠の生命の幸を作れかし此現世に生くる間に」という御歌通りのことを身をもって成し遂げられてしまったじゃないですか。地上に居ながらにしてメシアとして新しくお生まれになって永遠の命を獲得されたじゃないですか。
 でもこの御歌は、明主様のことだけではなくて、我々に対して、「作れかし」とおっしゃってますよ、明主様は。我々に対して、永遠の命の幸を作りなさい、手に入れなさいとおっしゃってますよ。だからそれは、この地上にいる間に、「神様の子たるメシアとして新しく生まれる道を歩みなさい」という意味ですよ。
 だとしたら、我々はそんなに至る道を今歩んでいること自体、自分が今どんな境遇にあったとしても、幸せですよ。幸せ。幸せであり、喜びですよ。
 だって、たとえどうなったって、何が起きたって、神様は我々に永遠の命を約束しておられるんですよ。だから、幸せ、幸せ、幸せですよ。喜び、喜び、喜び。それしかないんですよ、私たちには。
 今生きている状況でいろいろありますよ、確かにね。でも、それも救いのためにそうなっている。我々一人ひとり、人類の積み残しを全部責任を持って救わなければならないから、いろいろ抱えている。でも約束されているんですよ、幸せの道が。
 幸せ。喜び。これは約束されているんですよ。だから、もうね、本当に、そういう道を、神様、イエス、明主様がご用意くださって、そして今私たちは、教主様を通してそのことを教えていただいている。だとしたら、もう、幸せと喜びに包まれる以外にないんですよ、私たちには。
 幸せと喜びに包まれたままメシア降誕本祝典の日まで歩んで、また、メシア降誕本祝典の後も、我々一丸となって、そのあふれんばかりの幸せ、あふれんばかりの喜びの中、神様に本当に喜んでいただける道、明主様に本当に喜んでいただける道、そして、イエスにも本当に喜んでいただける道を、「幸せと喜びがある」と確信して、歩んでまいりましょう。
 ありがとうございました。