初代教主ご命日祭

2022年2月10日

 

明主様御歌

浮草のところ定めぬ我心愁れと救ひませる主はも

天国の道を知らずば吾は今世のうたてさに泣きくづれけむ

嬉しさの湧く喜びを知りにけり神に額く事を知りてゆ

眼にみえぬ神の縁の糸強くひかれて真道を我は来にけり

佯りや秘密なき世を造らむと夜昼心を砕く吾かも

 

聖言

光への道 昭和24年12月30日

之は私の自舒伝である。最初わが半生の記と名づけたのであるが「光への道」の方が感じがいいのでそう名づけたのである。私の前半生は洵に平凡で世間ありふれた経歴で、面白くないから書かない事にしたのである。それが38歳の時私は運命の一大転換に逢着した。それからが波瀾万丈の生活が始ったのである。或時は高山へ登り或時は谷底へ転落したというような経路を経つつ、凡ゆる人生の苦悩を嘗め尽して来たのである。とはいうものの38歳は私の第二の誕生でもあった。それからは予期しなかった信仰生活に入り、初めて私に課せられたる天の使命を知ったのである。宗教人となってから苦悩の大きい代り、又実に欣喜雀躍する程の喜びもあり、全く文字通り悲喜交々の人生を経て来た訳である。勿論神幽現三界に渉り神仏の存在、生と死の本義や、過現未に渉る世界の動向、人生の意義等々、何人も窺知し得なかった処の彼の釈尊が72歳にして到達し得た処の所謂見真実の域にまで達したのである。此の喜びは如何ばかりであったであろう。恰度達磨が面壁九年八月十五夜の満月を仰いで悟道に徹したという歓喜に勝るとも劣らないと思ったのである。

由来一宗の開祖たる人は、昔から非常に奇蹟に富んだ事は普く人の知る処であるが私も同様幽玄にして神秘極まる奇蹟の生活を続けつつ今日に至っている。

私の若い頃は不正を憎む心が旺盛で困る事がある。特に政治家の不正や、指導階級の悪徳ぶり等を、新聞や雑誌でみたり、人から聞かされたりすると、憤激が起ってどうにも仕様がない事がある。全く信仰上からいえば厄介な小乗的人間であった。此様な性格が私をして不正を行わしめない処ではなく、何か社会人類の為、役立つ事をしたい。社会悪を少しでも軽減したいという気持が一杯で、それにはどういう事をしたら一番効果的であるかを考え抜いた末、先ず新聞を経営し、新聞によって大いに社会悪を矯正しようと考えた。それが恰度大正7,8年頃で其頃大新聞でなくとも中新聞位を経営するにも先ず100万円の金を用意しなくてはならないという事を知ったので、よし一つその100万円の金を儲けようと決意した。其当時私は小間物問屋を経営していたが、とに角25才の時の私が商業には素人で、親から貰った資金が3500円位でそれで開業したのであるが、うまく当って10年間で15万円位の資産が出来たので、些か自惚れも手伝って一日も早く100万の金を得ようとしたのだから大いに無理があった。処が世の中の裏を知らない私は、世間を甘くみて、資本金200万円の株式会社を作り、私は社長に納って、大いに発展しようとした。それが大正9年の2月であった。右のような訳で一時は商品も充実さした。処へ翌3月15日彼の有名なパニック襲来が始った。株は大ガラとなり、商品は一挙何分の一に下落したのだから、生れたばかりの株式会社岡田商店は一たまりもなく転落、二ッチも三ッチもゆかない事になった。それでも何糞と社運挽回に大努力をし、10年、11年、12年頃は漸く瘡痍も癒えかかり、之からという時、天は飽く迄無情であった。同年9月1日、彼の関東大震災に遭い、店舗も商品も全部烏有に帰し、貸倒れも莫大な額に上り、もはや再起不可能の運命に陥ったのである。

これより先、大正6年頃より例の100万円獲得の為其の勧めに従い、その頃景気の好かった株式仲買店に対し、金融業を始めた。それが高利なので仲々馬鹿に出来ない程の収益があったので、段々拡張して、当時日本橋蠣殻町にあった倉庫銀行に私も些か信用が出来たので、手形や小切手の割引をし、金を貸し、その利鞘をとっていたのである。処が8年春右の銀行は、突如支払停止となり、破産にまで転落した。それが影響を受けて私も一大苦境に陥り、搗(か)てて加えて、妻の死に遭ったので実に内憂外患悲観のドン底に陥った揚句、苦しい時の神頼みで、無神論者のコチコチの私も、種々の宗教を漁り始めた。どれもこれも面白くない。処が当時華やかであった彼の大本教に少からず魅力を感じたので入信するにはしたが、あまり熱が出なく一年位で忘れたようになってしまった。というのは事業を建直して再興する見込がついたからで、それが信仰熱冷却の原因でもあった。又先に述べた株式会社の、陣容を新たにすべき意味からでもあった。それが不幸にして大震災に遇い、致命的打撃を受けたのだからどうしようもないという訳で、愈々決心し、再び大本教に接近し、今度は頗る熱烈な信仰者となったのである。

そうして漸次信仰生活の時を閲するに従って斯ういう事を悟ったのである。それは私の失敗の原因であった社会悪減少の為に、志した新聞などは未だ効果が薄い。どうしても神霊に目醒めさせる──之だ。之でなくては駄目だ。どうしても人間の魂をゆり動かし目覚めさせなければ、悪の根を断つ事は不可能である事を知ったので、それからというものは、寝食を忘れ、神霊の有無、神と人との関係、信仰の妙諦等の研究に没頭したのである。と共に次から次へと奇蹟が表われる。例えば私が知りたいと思う事は、何等かの形や方法によって必ず示されるのである。そうだ確に神はある。それも頗る身近かに神は居られる。否私自身の中に居られるかも知れないと思う程、奇蹟の連続である。それ処ではない。私の前生も、祖先も神との因縁も、私の此世に生れた大使命もはっきり判って来たのである。これは一大事だ。一大決心をしなくてはならない──という訳で、営業は全部支配人に任せ(後に全部無償で譲渡した)それからは全身全霊を打込んで信仰生活に入ったのである。それは忘れもしない昭和3年2月4日節分の日であった。

*抜粋