「すべて見抜かれている」
《 明主様 》
私は何故悪事は、必ず暴れるかという其原因を明かにしてみるが、先ず何より肝腎な事は、成程人の目は誤魔化す事が出来ても、自分の目は誤魔化せないという点である。どんなに人に知れないようにしても、自分だけはチャンと知っている以上、自分には暴露されている訳である。
1951年12月26日「悪は何故暴露するか」
《 教主様 》
人間の心の中には、これは人に知られていないから、と思っていることもありますよね。神様はすべてをご存知ですよね。でも我々は、神様に知られてる、とは思ってないんですよね。だって神様がいないかのようにして生きてますからね。
それで思ったのですが、明主様の御歌に、「人の眼は偽り得ても神の眼は偽り得ぬと知る人の幸」。神様の眼は偽ることはできないと、そういう御歌ですね。
こういう御歌もあるんです。「よしやよし人の眼はかくすとて己が眼は隠すよしなき」。自分の目は隠すことができない。ということは、何か人に隠れてしていても、本当は、自分でそのような人道に外れたことをしていることは分かっている、ということですよね。自分で分かっている、ということは、自分の中に神様がいらっしゃる、からですよね。
でも、こういう思いは、我々誰しも持っていますよね、〝ここまでは神様に知られていない〟とか〝そんなことまではご存知ないだろう〟とか〝これは神様に見せたくない〟ということがありますでしょ。でも神様は全部ご存知ですよね。だって、我々自身が神様の表現なんですから。だから本来は、知られている、とか、知られていない、という問題じゃないんですよね。
でも人間というのは、神様と自分とを離してしまって、神様を利用するだけ利用して、ごまかせると思っている。そういう人間の思い上がりのようなもの、神様を見くびるようなもの。そういうものが我々の中にもあります。そういう思いを、我々のすべてを、今起こっている問題を通して、赦してくださったんです。赦して、受け取ってくださったんですよ。本当にありがたいことだなと思います。赦していただかないと、我々生きていけませんもんね。心がけだけだったら難しいですよね。…
しかし、すべて赦されているんですけれども、現実にそのようなことをする、ということはやはり認めてはいけないですよね、この世では。だって、すべてが許されているんだから犯罪もしていいんだ、と言ったら、すべてがおかしくなっちゃいますよね。
2017年11月23日「ご面会(信徒)」
《 真明様 》
アダムとエバの話でもありますように、私たちは最初は裸だった。それが自我意識を獲得して「自分」という存在になった。すると今度は「自分」という存在がありますのでね、裸なのが恥となって、服を着て隠した。そこまでは良いんですけれども、我々は今、今度は、それを脱いで神様のみ前に戻る、という段階に入っている。それがなかなかうまくできないんですね、私たちは。取り繕おうとして、服をなかなか脱ごうとしてないのが今の私たちの状況ですね。でも、本当はね、私たちは、神様のみ前では裸の王様なんですよ。裸の王様。
2021年9月1日「教主様ご面会(理事・教区長)」
教会誌『グローリー』No. 26, 2022/3月号掲載