PDF: 春季大祭_真明様ご挨拶

「愛との出会い」

於:グランドニッコー東京 台場(パレロワイヤル)

 

皆様こんにちは。
 メシア降誕本祝典まであと2か月ちょっとということで、皆様お一人おひとり、どのような思いで日々過ごしていらっしゃるのかなと、そんなことを思ったりしています。
 この間も少しお話ししたんですけれども、メシア降誕本祝典というのは、私たち一人ひとりのため、「私」のために執り行われる。でも、それだけではなくて、メシア降誕仮祝典に参列された方、あるいは、仮祝典の存在を知っていたけれども、何かの都合で参列できなかった、でも、メシア降誕仮祝典に思いをせていた方──こういう方たちは、いつか本祝典が執り行われるな、それに出たいなと思われていたわけですから、私たちは、その人たちの思いも受けとめて、メシア降誕本祝典に臨まないといけない。
 またそれだけではなくて、未来の人たちのこともありますね。これからメシア教につながって、「メシア降誕本祝典というのがあったんだ」「私も出たかったな」という思いを持つ人たちも出てくるでしょう。私たちは、「そういう人たちの思いも受けとめて本祝典に臨ませていただきます」と思わせていただかないといけない。
 私がこういう話をしますと、皆様の中には、実は自分の父はメシア降誕仮祝典に出てました、とか、自分の祖母、あるいは祖父が出てました、ということを思われて、その方たちと一緒に本祝典に臨んでいこうと思われる方もいらっしゃるかもしれない。それは確かに大切なことですね。
 だけど、メシア降誕仮祝典に出られた方の中で、一番本祝典に出られたかったのは誰なんだろうか。
 これは、この地上で行われる本祝典のことですよ。来る615日にこの地上で行われるメシア降誕本祝典のことですよ。
 仮祝典に出られた方の中で、誰が一番本祝典に出られたかったのだろうかということを考える時、私たちが真っ先に思い浮かべるべき方は誰だろうか、というと、それは、明主様ですね、当然。
 私たちは、明主様のことを一番最初に思うべきですね。だって明主様は、メシア降誕仮祝典をご自分で挙行されたわけですから、いつかこの地上で本祝典を行って、それに出たいと思われてたと思いますよ。
 その明主様の思いをこそ私たちは受けとめて、メシア降誕本祝典に臨まないといけない。
 ではその明主様の思いとは一体なんだ。メシア降誕本祝典に臨まれたかった明主様の思いとは一体なんだというと、それは、ひと言でいえば、永遠の命ですよ。永遠の命。
 どういうことかというと、明主様は、ご存じのように、浄霊の奇蹟によって病貧争絶無の世界を造る、ご自分が地上にいる間に世界中の病気を全部無くす、また、120歳まで生きる、そのようなことを仰せになった。
 でもその明主様は、なんということはない、脳溢血という病を発症されて、120歳どころじゃなくて、それより50年ほど短い72歳の時にご昇天になってしまわれた。
 明主様は、なんでね、そんなに早く、72歳でご昇天になったんだろう。120歳まで生きるとおっしゃったのに、なんでそこまで生きられなくて、なんで脳溢血という病で亡くなってしまわれたのだろう。私たちは、明主様を、ただの嘘つきだと言って終わりにできないですよね?だとしたら、なぜだろう。
 だからそれはなぜかというと、明主様は、最初、私たちにたくさんの浄霊による奇蹟をくださいましたよね。その目的は、私たちが神様を知るため。私たちが神様というご存在、霊界という存在に目覚めて、そして永遠の命を獲得する道を歩むため。
 明主様にとって奇蹟というのは、ただ奇蹟を起こすことが目的ではなくて、その奇蹟によって神様を知っていく人がどんどん増えていくことですよね。人間の命じゃなくて神様の命こそが大切なんだということに私たちが目覚めて、そして、永遠の命を獲得する道を歩む、そういう人が増えてほしかったんですよね、明主様は。
 だけど私たちは、ひとたび浄霊による奇蹟を味わったが最後、神様の永遠の命のほうが大切だと思うよりも、むしろ、余計人間の命が大切だと思ってしまって、病気が治れば喜んで、悪化したら心配して、もっと浄霊を受けなきゃいけない、自分は救われてない、ということをずっと言ってきた。違いますか?
 明主様は、私たちが、神様というご存在とか、天国とか、永遠の命とか、そういうことに目覚めて喜びあふれる生を送ってほしかったのに、私たちはなまじっか奇蹟を味わってしまったがために、むしろ、この世の命がもっと大切になってしまって、体の調子が悪くなると「また奇蹟がいただけるんじゃないか」という思いにわれて、この世の命が大切、大切、大切、という世界にどんどん入っていってしまった。
 そのような私たちの姿をご覧になった神様は、これでは、神様の本来の目的であった、「神様に心を向けて神様と一つになる」ということがとうてい成し遂げられないと思われて、そして、どうされたのかというと、明主様を、脳溢血という病によって、120歳どころか、もう72歳の時にこの地上から召し上げられてしまった。神様が、明主様を、召し上げられた。
 それは、私たちを目覚めさせるためですよ。だってね、もし明主様が健康のまま120歳まで生きられてたら、我々は、もっと人間の健康主体の方向へと行ってましたよ。病はいけないことだ、120歳まで生きられないとしたら神様の祝福が無いからだと、そういうことを言ってましたよ。
 だから神様は、明主様に脳溢血という病をお与えになって、72歳で召し上げられたことを通して、私たちに問うてきておられるんです。「本当に大切なのは、人間の健康、人間の命なのか、それとも神様の永遠の命なのか、どっちなんだ」と、問うてきておられる。
 明主様も神様と同じ思いだと思いますよ。だって、明主様はそのような形で亡くなられたのに、もし私たちが、いまだに、最も大切なのは人間の命だ、人間は120歳まで生きなきゃだめだと言い続けているとしたら、あまりに明主様に申し訳ないですよ。
 だから、もし私たちがこの明主様の思いを受けとめてメシア降誕本祝典に臨むとするならば、我々は、今までの歩みをこれ以上続けることはできない。
 いや、もちろんね、私たちは、これからも自分の健康のことで一喜一憂はしますよ、健康は確かに大切ですから。私はそれがだめだと言ってるのではなくて、そういうふうに一喜一憂しているその最中にあって、ほんの少しでも、ほんの一瞬でも、「あっ、でも本当に一番大切なのは永遠の命なんだな」ということを思えたらいいなと思うんです。
 確かに私たちはこの世で悩み苦しんでますけれどもね、その中で、今までの歩みを続けて、この世の命を、何とか、もっともっと、というだけではなくて、そういう思いのどこか一点にでも、「あっ、明主様も病によって苦しまれて、亡くなられたけれども、永遠の命という本当の希望の道を歩まれたんだな」「その希望が私の中にもあります」「その明主様の道にこれからは生きていきたいのです」ということ、少なくともこの思いだけは自分の中で明確に定めて、そして、私たちはメシア降誕本祝典に臨まなければならない。
 私の母のこともありますよ。皆様が母に思いを寄せてくださっていること、これは大変ありがたいです。でも、これは、私の母でもありますけれども、言わば「教主夫人」という非常に公的な立場の方が脳梗塞になって、そしてそれを皆様が知ることになったということは、ただ、「良くなったらいいな」ということを超えて、何かあると思いますよ。神様、明主様が、私たちに投げかけてきてくださっていることが、何かあると思いますよ。
 で、そういうことを思う中で、私が感じさせられたことがあって、今日はそれを皆様にお伝えしたい。
 母は脳梗塞だったわけですが、71歳の時に発症した。それで、もちろん、母は、明主様と比べられるような存在ではないですけれども、明主様が脳溢血を発症されたのも71歳。
 そして、脳梗塞は、詰まるほうですね。血が詰まる。明主様の場合は脳溢血、脳出血ですから出るほうですね。
 母の場合は脳の右側に脳梗塞が発症したので、左手と左足が不自由になった。明主様は脳の左側の出血だったので、右手と右足がご不自由になった。
 明主様は男、母は女。
 そして、明主様が脳溢血を発症された年には、その数か月後に、メシア降誕仮祝典が執り行われた。母が脳梗塞を発症した今年は、その数か月後に、メシア降誕本祝典を執り行う。
 ちょうど、対になってるんですね。男、女。右半身、左半身。血が出るほうと止まるほう。
 これは一体どういうことだろうか?と思いますよね。私が思ったのは、それは、神様の救いというのはすべてを救う救いなんだということ。男性だけが救われるんですか?違いますよね。男性だけじゃないですよね、救われるのは。女性も救われる。体の一部だけが救われるんですか?違いますよね。全身が救われますよね。右半身も左半身も救われる。
 またね、この脳溢血と脳梗塞ということも、これは、流れ出るほうと、詰まるほうということですけれども、象徴的に言えば、私たちの心の営みも、表現し過ぎる、言い過ぎるほうと、あるいは、言いたかったけど言えなくて失敗したなとか、どっちかですよね。言って良かったな、言ってだめだったな、とか、逆に、言わなくて良かったな、言わなくてだめだったな、のように、心は、常に、どちらかですよね、表現するかそれをめるかのどちらか。
 この脳溢血と脳梗塞というのは、そういう私たちの、出したり、留めたりという心の営みの動き、それを象徴的に現しているんじゃないかと、そういうふうに私は受けとめております。
 もちろん、男性と女性と言っても、ただ単に性別的なことだけではなくて、一人ひとりの中に男性的な思いも女性的な思いもありますのでね、男とか女とか、男性的とか女性的とか、右半身、左半身、それを合わせた全身、また、表現し過ぎたり、表現できなかったりといういろんな心の動き、これらすべてのことを、神様は、「私は、それらすべてを救ったんだよ」とおっしゃってる。
 仮祝典の時までの私たちは、救いが一部だと思っていたかもしれない。でもそれから68年経って、今、あたかも対のように、右・左、男・女、出る・留まる、というように、神様は両方、そのすべてを私たちに見せてくださってるじゃないですか。
 「私は、あなたの全身も、また心のあらゆる動きも、男性も女性も人種も関係なく、そのすべてを救った存在なんだよ、ということをメシア降誕本祝典までに気づきなさい」ということを神様はおっしゃってくださっている。そうではないですか?
 それは、母がな立場の方だったから、私たちはこのようなことを知ることができた。だから本来、あのように脳梗塞になるのは、教主様や私でもよかったのかもしれない。でも母が、その役を私たち全員のために引き受けてくれたと、そう私は思います。
 だから、回復を祈るということに加えて、私たちには神様の深いご意図というのは分かりようがないですけれども、でも、皆様には、この母のことは、きっと何か、全人類の救いとか、明主様の救いということに関わることなんだな、ということで受けとめていただきたいなと、そう思っております。

 

メシア降誕本祝典ということで、「メシア」ということになりますと、どうしても「立別け」というワードと言いますか、言葉が出てきますね、明主様の聖言を拝見しましても。
 で、立別けということを聞くと、最近の教団の動きとか、あるいはこの世界の動きを見て、我々は、いやあ、あの人はあんなことをしたのでもう滅んでいくんだ、立別けられるんだと思って、自分を善の側に置いて、自分は何とかぎりぎり善のほうに残った、ああいう人たちは残念ながら悪なので滅んでいってしまうんだと、そのように思うような心の動きもありますね。
 でも、私たちの中で、「私は善のほうにいます」と言える方、いらっしゃいますか?「善のほうにいる人は手を挙げてください」と言って、手を挙げられる方いらっしゃいますか?まあ、自信をもってそう言える方もいらっしゃるかもしれませんけれどもね、実際は、なかなか躊躇するものもありますね。
 もしそうならば私たちは悪なのか、というと、それも、自分はこういうことをしてしまったので悪です、なので悔い改めてます、ということも、まあ、言えますね、私たちは。
 確かに、それはそうだと思うんですけれども、私たちは、自分が悪だという時、悪の段階を上・中・下に分けるとしたら、どの辺に位置しているのでしょうか。
 自分はああいうことをしたから、悪の中でも、大体「中の下」くらいかなとか、「上の下」くらいかなとか、まあ、最悪、「下」のほうには入ってないだろうなとか、そういうことを思ったりするかもしれないですけれどもね。でも明主様は、私たちのことを祖先の綜合体だと仰せですよ。「無数の祖先の綜合が、個体たる自分」だと仰せですよ。「現在、生きている人間は、自分一個の存在でなくて、祖先のりで、祖先の延長」なんだと仰せですよ。
 延長だということは、分けられないということです、祖先の方々と私たちを。「自分」という存在がいて、その「自分」にたくさんの祖先の方々が連なってるわけではないんですよ。だって、祖先の綜合したものが個体たる自分なんですから。
 だとしたら、我々は、祖先の人がしてきたことについて、他人事、これは人の問題ですとは言えませんよ。
 前も少しお話ししたことありますけれども、我々が今日生き残っている事実一つ取っても、人を殺したり、戦ってきて勝ち抜いてきたから生きてるんですよ今、私たちは。
 だとしたら私たち一人ひとり、とんでもないものを抱えてるに決まってますよね、生き残ってるんですから、私たちは。途中で殺されてたら生き残ってない。ということは、私たちの中に、人を殺してきたような人もいるでしょうし、多くの人を殺した人もいるでしょう。だって我々は無数の祖先を綜合した存在なんですから。
 だからそう考えたら、私たち全員「悪」なのは間違いないし、そんな「中の下」どころじゃなくて、もう、「下の下の下」ですよ、私たちは、一人ひとり。その定めから逃れられる人は一人もいませんよ。
 ということは、私たちの体には、多くの罪を犯してしまったことによる汚れというかみみたいのがたくさんあるわけです。それを私たちは清めたんですか?
 れと染み、そりゃあありますよ、だって我々は無数の祖先の綜合体なんですから。体中がれて、染みだらけみたいになってるわけです。それは清められたんですか?その罪は清められたんですか?
 だからこれについて、明主様はね、い主という存在がいるよと聖言くださっていますよ。それは誰か。イエスですよ。
 明主様は、イエスは贖い主であると明確におっしゃってますよ。イエスは世界人類の罪を贖い救うために来たんだと明確におっしゃってますよ。だから明主様は、贖い主であるイエスを認めていらっしゃいますよ。
 だとしたら私たちは──「下の下の下」とも言われる罪人である私たちは──少なくとも、我々のれを贖って、清めてもらわなくていいんですか?
 我々はこういう言い方をしますね。「自分はイエスをあまり大切に思ってこなかったけど、最近大切に思えるようになってきた」とか、「イエスと距離を置きたい思いがあったけど、最近お言葉などを聞いているうちに大切に思えるようになってきた」という言い方。
 でも、そうではなくて、我々は、まず、イエスという存在に対して、無意識のうちにでも距離を置こうとして、自分とはあまり関係ないようにしてきたという、このことの重大性をまず認めなければならない。
 だって、なぜ我々は、明主様がイエスは贖い主だとおっしゃってるのに、その存在を大して大切じゃないと思ったり、距離を置こうとしてきたんですか?
 だからそれはね、全人類の罪の贖い主という存在を受け入れるということは、自分が罪人だということを認めなきゃいけないんですから、我々にとって、こんなに都合が悪いことないですよ。イエスを積極的に受け入れる理由はどう考えてもないですよ。だからですよ。そうやって心を巧みに使ってイエスを受け入れないようにしてきた私たちの姿というもの、私たちは、まず、これを認めないといけない。
 だって我々は、むしろ自分が罪人にならないために一生懸命努力してますよ。ああいう悪いことをした人がいる、自分はああならないようにしようと言って、自分はいいことしよう、いいことしようと言ってる。当然、贖い主なんて受け入れたくないに決まってますよ。だからイエスと距離を置くような思いを持つんですよ、私たちは。
 でも明主様は、イエスは全人類の罪を贖い救うために来たとおっしゃるんですから、少なくとも、まず、自分が罪人であることを認めて、そして、我々は罪によってれてるわけですから、贖い主であるイエスを通して、きれいな存在にしてもらわなきゃいけない。
 今まで我々は、贖い主という存在を受け入れてきれいになるよりも、染みが付かないように努力するとか、その染みをゴシゴシ一生懸命洗ったり、染み抜きの方法をいろいろ考えて、今度はこの洗剤を使ってみよう、次はこれを使ってみようと言いながら、ゴシゴシゴシゴシ自分を必死に洗ってきた。それが今までの私たちの信仰の姿ですよ。でもそういう自分をよく見つめたら、洗い過ぎで服がもうボロボロになってたり、どうしても取り切れない染みがまだ残ってしまって、それを隠そうとしたりしてる。
 でも明主様は、メシア降誕仮祝典に出られた時、上下真っ白な服装で出てこられたんですよ。上は白い着物。下の袴も真っ白。純白、真っ白な服装で出てこられたんですよ。そういう服を着るという選択を明主様はされた。
 そこには絶対何かありますよ。もちろん、脳溢血のご浄化によって頭の痛みがなければ、本当は何か言葉を宣べられたかったでしょう。だけど、それがどうしてもできない。でも、何とかして我々信徒にご自分のメッセージを伝えたい。
 ということで、上下真っ白という服を着られる選択をされた。絶対そこに何かありますよ、明主様の思いが。「私の罪はもう清められて、染みもれもない存在になったんだよ」──明主様は、それを私たちに教えてくださろうとしてたんじゃないんですか?
 我々はこれからメシア降誕本祝典に臨みますけれども、今の話はメシア降誕仮祝典の話ですよ。メシア降誕仮祝典の時に、明主様は真っ白な服で出てこられた。メシア降誕本祝典にはもっと違う装いを考えていらっしゃるかもしれないですよ、もっと華やかなものとか。
 だから我々も、もしこれからメシア降誕本祝典に臨むのであれば、このメシア降誕仮祝典での明主様の純白なお姿、これをクリアせずしてメシア降誕本祝典には出られないですよ。
 ということは、我々も、メシア降誕本祝典に臨む前に、もう68年も前に明主様が純白のお姿によってお示しくださっていたんですから、罪やれを贖いの血によって洗い清めていただく他ないじゃないですか。
 いや、確かにここまではキリスト教でも説いてますよ。でも我々メシア教信徒は、それは当然クリアして、そして今度はその次のステップである、「全人類神の子たるメシアとして新しく生まれる」という、この最高で最後の救いの象徴であるメシア降誕本祝典に臨まなければならない。
 だとするならば、メシア降誕仮祝典での明主様の純白のお姿をスキップしてはメシア降誕本祝典には出られないですよ。もしそこをスキップするならば、明主様から、「乗り越えてないことがあるぞ」「受け入れてないことがあるぞ」「私の服装を見たのか」と、そう言われてしまう。

 

まあ、私たちは、人生の中でいろいろありますけれどもね、結局、神様の愛、この神様の愛というのがなかなか分かりがたいですからね。だから、いくら話を聞いても、分からないとか、実感が無いとか、自分は愛されてないとか、私たちはずっとそういうことを言ってます。今も言ってる。ですね?
 でも、実は、神様が私たちを愛してくださってるのは間違いない。
 明主様の御歌にも、ご存じの方も多いと思いますけれども、「大空の広きを仰ぎてふかな限りも知らぬ大心を」。
 大空だけではなくて、大空を越えて、さらにその先にずーっと広がるその無限の空間よりもさらに大きな愛で、神様は私たちを愛してくださってる。
 また、だけでもないですよ。明主様は、「山よりも高く海よりも深し神の恵みの限り知らねば」。
 山よりも高い。高いけれども、また同時に海よりもなおも深いという神の恵み、その神の恵みには限りがないなあ、というほどの大きな神様の愛。
 しかも神様は永遠の存在ですから、永遠の愛ですよ。永遠の愛。
 また明主様は、一部の人だけではなくて、全人類を無限に愛するのが神の愛なんだと仰せですね。人間の愛は限定的だけど、神様の愛は全人類を無限に愛すると、そう仰せですね。
 ということは、神様の愛は平等であるという意味でもありますよ。神様の愛はより好みしないんですよ、誰に対しても。私たち一人ひとりに対し、限りない愛をもって永遠に臨んできてくださっている。
 これは全部いい話のようですけれどもね、じゃあそれが具体的にどういうことかと言ったら、それは、今日、今、この瞬間より、神様が私たちを愛することはないんですよ。今日の今、神様は私たちを一番愛してくださってるんです。ですよね?だって、限りない愛を、平等に、永遠にお持ちのお方なんですよね、神様は。
 我々は、10年後、20年後いつかもっと愛されたらいいなと思うかもしれないけれども、神様は、今、この瞬間、私たち一人ひとりを、一番愛してくださってるんです。
 で、明日。明日どうなるんですか、というと、明日も一番愛してくださってますよ、神様は。だって変わらないんですから、神様の愛は。
 だから神様は、私たちに対して、「私はあなたのことを一番愛してるよ。誰よりも愛してるよ」と思ってくださっている、今。
 そしてまた、「あなたのことを誰よりも愛してるよ」という愛を、全人類に対して持たれていらっしゃるんです。
 「垂乳根の子を憶ふ如億兆愛まふ神の心畏し」。
 神様は、親が子を愛するように、「億兆を」──すべてのもの、ということですね──すべてのものをんでくださってる。ここ、「恵む」じゃなくて「む」というように「愛」という字を使われてますよ、明主様は。その神様の御心はなんと畏れ多いのだろうかという御歌。
 だから神様は、明日でもない、明後日でもない、昨日でもなくて、今日の今、「私はあなたのことを誰よりも一番愛してるよ」「今日、一番愛してるよ」という愛を私たちに注いでくださってる。
 昨日もそうだったんですよ。昨日も一昨日も10年前も20年前も、私たちが「おぎゃー」とこの地上に生まれた時も愛してくださっていた。生まれる前もですよ。
 未来もですよ。明日も明後日も10年後も20年後も永遠にずっと、「お前のことを一番愛してるよ」という愛で私たち一人ひとりを愛してくださってる。
 私たちは、神様が私たちをそんなふうに思ってくださっていると、一度でも思ったことありますか?
 でも、もし神様がそう私たちにおっしゃってくださっているのだとしたら、私たちも、神様に対して、「私もあなたのことを一番愛してます」と言うべきじゃないですか。違いますか?
 今日、一番愛してくださってるんですよ。今日ですよ。今。
 今、神様は、私たちに、「あなたのことを一番愛してるよ」と言ってくださっている。それに対して私たちも、「神様のことを一番愛してます」と言わせていただく。
 だから、もし、神様の私たちを愛する思いと、それに応える私たちの思いが一つになれば、そしたら、私たちは神様の子供になれますよ。本当の子供。
 じゃあそれが具体的になんなのかというと、それは、言葉にすれば、メシア降誕本祝典ですよ。だって祝うべきことですよね、神様の子供となるのは。
 だから、メシア降誕本祝典とか、メシア降誕仮祝典とか、そういう言葉とか歴史的なことで複雑に考えてしまうのではなくて、結局、信仰と言ったって親子関係しかないんですから。この世において、我々も、誰もが親子関係を持たされてますよ。だって誰にでも親はいるし、誰かの子供ですよ、絶対に。
 だとすれば、私たちの親である神様が私たちを一番愛してくださってる思いに対して、「私も神様を一番愛してます」とお答えさせていただくのがメシア降誕本祝典ですよ。
 でもね、それは簡単なことのようですけれども、我々、この世の親子関係もそんな簡単にうまくいかないということによって、我々の神様との関係が、そんな一筋縄のものではなかったし、ない、ということを示してるじゃないですか。
 「神様のことを愛してます」と口で言うのは一見簡単ですよ。でも本当は、愛するどころか、我々は、むしろ神様の愛をんで、家出をして、自分一人で生きたいと思ったりしたものがあったじゃないですか。あるじゃないですか。
 神様に対してそういう思いをいていたから、この世の親子関係もいろいろあるんです。神様との間に何かあったからですよ、それは。
 神様はそれを私たちに教えてくださるために、この世の親子関係にも、いろんな障害かに見えるようなことを見せてくださって、そして、神様と私たちとの親子関係がうまくいかなかったことを教えてくださろうとしてるんです。
 罪とか染みとかれということも、難しく考えるんじゃなくて、要は神様との親子関係の中で、神様を拒否して、「自分の力で生きていきたい」という思いが私たちの中にあるじゃないですか。そんなのありますよ、絶対、誰にでも。そういうことが罪とか染みとかになってる。
 だから、私たちは家出して、もうずっとさまよい歩いてきたんです、今日まで。家出をして、自分の力で生きてた時、最初は良かったんでしょうね、きっと。でも壁に当たってもう限界がきてるんですよ、みんな。その我々に対して神様は、今、救いの愛の手を差し伸べてくださってるんです。
 我々は家出をしてさまよい歩いて、もう泥んこになってるんですよ、今。だから、贖い主を受け入れて清めていただく他にはない。
 そして、それだけではなくて、我々メシア教に託されてる道というのは、神様の子供として新しく生まれる道なんですから、そのイエスと明主様の道を歩むことができれば、メシア降誕仮祝典に参列された方々も、「本当の明主様の願いはこういうことだったんですね」という思いで、私たちと一緒に、メシア降誕本祝典に臨めるじゃないですか。
 分からないかも知れませんけれどもね、今、ここに我々がいて、メシア降誕本祝典に臨めるとなるまでに、我々は本当に多く神様に恵んでもらったんですよ。今も恵んでもらってるし、愛してもらってる。
 だから、皆様も、メシア降誕本祝典まで待つんじゃなくて、今日、今、「神様、あなたは、今、私のことを一番愛してくださってるんですね」と思わせていただく。そしたら神様は喜びますよ。
 だって、神様は私たちのことを愛してくださってるのに、私たちは、「神様の愛はまだだ、まだだ」と思ってるわけですから。だから、「あなたは、今、一番私を愛してくださっているんですね。私も、今、あなたのことを一番愛してます」と言ったら、それは喜びますよ、神様は。
 だから、そういう、神様の愛との出会いと言うんですかね、それに私たちが目覚めて、その思いでメシア降誕本祝典に臨んで、そして神様に本当にお喜びいただける、そういう祝典にしたいと思っております。
 ありがとうございました。