〔明主様〕
最後の審判が済むや、続いて新世界設計の順序となるのは勿論だが、其転換期に於ける凡ゆる文化の建直しこそ、空前絶後のものであって、言う迄もなくそれは旧文明の誤謬の是正と共に、新文明の指針を示すのである。処が茲に悲しむべき事がある。というのは人類が数千年の長い間に堆積された処の罪穢であって、当然此大浄化作用が発生するのである。それを之から詳しく説いてみるが、幸い之を読む人々は救いの綱を目の前に出されたのであるから、何等の躊躇なく掴まれん事である。それを前以て人類に知らせ、悔改めを私は神に代って勧告するのである。之ぞ神の大愛でなくて何であろう、従って之を知った以上、一時も早く頭の切替えは固より、心の準備に取掛るべきである。そうして審判の最後に到っては、罪深き者は亡び、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、之を信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来に於ける地上天国の住民として残るのである。
1952年8月20日「文明の創造 序文」
〔聖書〕
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
「コリント人への第二の手紙」第5章1節~15節
教会誌『グローリー』No. 27, 2022/4月号掲載
出典:『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(日本聖書協会)