PDF:五月度月次祭_真明様ご挨拶

「絶望か、希望か」

於:本部ご神前

皆様こんにちは。
 今日は午後から雨ということだったんですけれども、割と早く降り出しましたね。そんな中、また、ゴールデンウィークの最中に、教主様のもとに集ってくださいまして、ありがとうございます。
 メシア降誕本祝典まで、ちょうどあと1か月半ぐらいでしょうか。
 メシア降誕本祝典の前までに、こういう形で皆様に私の思いを伝えられるのは今日が最後ですので、祝典当日までに私たちが知っておかなければならないこと、受けとめておかなければならないこと、また、当日を迎えるに当たってのある種の覚悟みたいなこと、そういうことを共に確認させていただいて、そしてみなで、本当に悔いのない形でメシア降誕本祝典当日を迎えたいなと、そう思っております。

 

で、今日お話ししたいのは、明主様の脳溢血のことです。
 明主様はご昇天前年に脳溢血を発症されたんですけれども、その脳溢血を発症されてからの明主様のご心境というんですかね、それを今日みなで確認したいなと、そう思っております。
 それが起きたのは、68年前の1954419日。今日は51日ですから、大体ちょうど68年前ぐらいですね。その419日の、記録によると午後4時、明主様は、お散歩中でいらしたみたいですけれども、お散歩中に突然体調を崩されまして、そして、当時、当然病院には行かれなかったんでしょうから、症状等から判断して、これは脳溢血であろうということになった。それで、右手と右足はまったく動かない。そういう状況が発生したわけですね。
 その時から即、『栄光』紙と『地上天国』誌はしばらくの間休刊になって、印刷に回してたのも止められたみたいですから、当時、このことは、教団にとってよほどの危機であった、当たり前の話ですが。
 今残っている我々としては教団が普通に存続してますのでね、その臨場感というのがあまり分からないかも知れませんけれども、機関紙誌2つの発行をしばらく取りやめるぐらいですから、危機的状況であったことは間違いないですね。
 一方、明主様のご心境はどうであられたのかというと、419日に発症されまして、20日、21日、22日、3日後の422日の時、記録によると、夕食後、非常に喜びを感じられまして、奥様を──二代様ですね──二代様を呼んでほしいということで、二代様を呼ばれて、そしてそこで、お二人で泣きながら喜ばれたと記録されています。
 右足は少し動かれたみたいですけれども、右手はまったく動かない状況、それはそのままですよ。普通なら喜ぶ要素はほぼ無いですけれども、でも明主様は、「こんなに嬉しい事はない」とおっしゃって、その明主様のご様子に二代様も非常に喜ばれて、そしてお二人で涙を流して喜ばれた。それが脳溢血から3日後の422日。
 そして翌23日の夜、明主様はお休みになるのですが、頭が痛くて眠れない。それで午前2時ごろに起きられたりして、そしてあまりお休みになれないまま、翌424日の午前6時ごろ、とにかく起きられます。そして、車椅子でだと思いますけれども、車椅子で庭に出られて、その時明主様がおっしゃったのは、「希望の朝だ」。「希望の朝だ」とおっしゃった。
 続けて、自分の計画も一通り終わったあとだからちょうど休養できる、神様は気が利くな、ということを仰せになった。これは、まだ右手がほとんどピクリとも動かない状況でですよ。その状況でこういうことをおっしゃった。これが424日。
 そして翌日425日は、ご存じの方もいらっしゃると思いますけれども、御言葉を録音されます。有名な65日の録音もありますけれども、425日にも短い御言葉を録音されまして、これは公式の記録にも残っております。
 だしぬけに来たんでまごついたんであります、とおっしゃって、そして、「神秘極まる病気でして」とおっしゃるのですが、これ、教団の刊行物ですと「病気」が「浄化」と書き換えられて、「神秘極まる浄化でして」となってしまってますけれども、明主様は、「神秘極まる病気」とおっしゃった。
 そして、この病気は良いことなんです、決して悪いことではないということをおっしゃった。これが425日。
 また、別の記録によると、脳溢血を起こされてから1週間も経たないころのことだと思いますけれども、明主様は、この病気になったことが、とにかく、あまりにも大きいことで嬉しすぎて号泣された、という記録があります。今までも嬉しいことはあったけれども、今回のは「嬉しくて嬉しくて堪らない」とおっしゃって号泣された、とあります。
 ご存じの方は、脳溢血後明主様が泣かれたというのは、伝記の『東方之光』にもありますように、要は、人類が滅ぶのを一番悲しむのは神様だということで泣かれたというエピソード、その涙を私たちは知ってますけれども、明主様が喜びの涙を流されたこと、号泣していらしたこと、これはあまり知らなかったんじゃないのかなと思います。
 脳溢血から1週間ぐらいはそのようなことがありまして、今度は、419日から約ひと月後、31日後の520日のことですが、明主様は、自分は新しく生まれたからということで伊豆山神社にお宮参りに行かれる、ということがあるんですね。ただ、行かれる途中で、ちょっと大変だったので、最終的には側近の方に代参させます。
 明主様は、新しく生まれられたことを架空の話としていらっしゃいませんね。だって実際に伊豆山神社にお宮参りをされたわけですから。これが、520日であろうと思われます。

 

これらのエピソード、これらの事実について私は知っていましたのでね、そういう中から自分が今まで描いていた明主様像というのがあります。
 明主様の場合、とにかく急に右半身不随ですから、それはもう、普通だったらパニックだと思うんですよ。いや、それは、ひと月とかふた月経って少し落ち着いてきてから、「ああ、この病気は何か良いことのためだったんだな」ということは我々でももしかしたら思えるかもしれない。
 でも、脳溢血を発症されてからたった23日ぐらいですよ?その時に明主様は、これはすごい神様の祝福だということで喜んでいらっしゃった。
 だから、僕の今までの明主様というご存在の受けとめ方というのは、私たちは何かつらいことがある時、今お話ししたような明主様のご心境になるのはとうてい無理だ、無理だけど明主様は特別でいらっしゃる、だから、明主様の御神影等を拝する時に、「その特別なご存在である明主様をお受けします」と思うことが大切なんだと、そう思ってきました。
 でも、この私の明主様像の認識を改めさせられることがありました。
 それは、明主様は、このメシアとなる修行があまりに厳しくて何遍も自殺されようとしたという事実。明主様が、自殺ですよ。何遍も自殺されようとしたんですよ、明主様が。
 この自殺のことは、脳溢血翌年の昭和30年の正月ごろにおっしゃってるんですけれども、明主様は、メシアとなるための修行があまりに厳しくて何遍も自殺されようとした。
 この話、今までもなんとなく私の頭の中にはありました。知っていました。でも、最近自分が思わされたのは、この自殺をしたいほど苦しまれた明主様のことを思うと、さっきお伝えした明主様像とは違う明主様像が──それは本物の明主様像というんでしょうかね──それが私の中で感じられてきた。見えてきた。
 それは何かというと、自殺ということは、絶望ですよね、絶望感。自殺されたかったということは、明主様は、絶望していらっしゃったと、そういうことですよね。
 そう考えると、明主様は、脳溢血を起こされてから6日目の朝に「希望の朝だ」とおっしゃったけれども、本当は、その前日の夜も頭が痛くて寝ることができない、手も動かない、という状況で、実は、明主様は絶望しておられたんじゃないかと、そう思ったわけです。
 自殺を何遍も考えられたということは、いつかの時点で絶望を味わっておられるわけですよね、明主様は。ではそれはいつだろうか?というと、痛みがあって眠れない、手も動かないという時に、もう本当に死にたいと思うような絶望感を味わっておられたんじゃないかと、そう思うわけです。
 で、まさにその時、神様は、明主様に対して、「あなたにとって、今の状況は絶望か、希望かどっちだ」「私が起こしたことについて、あなたは絶望するのか、希望するのか、どっちなんだ」と聞かれた。
 それに対して明主様は、心では絶望を感じていらしたけれども、浄化ということも説いておられますので、その絶望の最中にあって、神様の問いかけに対して、「いや、絶望ではありません。希望です」と、そう仰せになったんじゃないか、だから「希望の朝だ」と仰せになったんじゃないかと、そう思うわけなんですね。
 あるいは、自分の計画が済んだタイミングでの浄化だから神様は気が利くとおっしゃったことについても、本当にただそれだけだったんだろうか。
 本当は、計画も済んでなくて最悪のタイミングで来たと思われてたかもしれないですよ。まだこれもしたい、あれもしたい、ああいうこともしたいのに、最悪のタイミングだ、と思われてたかもしれない。
 で、その時明主様は、神様から、「私が与えているこの脳溢血という祝福について、あなたはこれは最悪のタイミングで来たと思ってるのか、それとも最高のタイミングで来たと思ってるのか、どっちなんだ」と聞かれた。
 それに対して明主様は、「いや、神様、本当に最高のタイミングです」と神様にご奉告になったんじゃないか。そのことを、「神様は気が利く」という御言葉を通して私たちに教えてくださっていたのではないか、そう思うんですね。
 また、この病気が、決して悪いことではなくて良いことなんだと明主様はおっしゃったけれども、それも、まず、神様が明主様に対して、「この脳溢血は良いことなのか、悪いことなのかどっちだ」と聞かれた。
 自殺したい、絶望している、ということは、心境としてはもう悪いことも悪いことですよ、本来。でも、神様に、「お前これは良いことだと思うのか、悪いことだと思うのか、どっちだ」と聞かれた明主様は、「決して悪いことではありません。良いことです、神様」とお答えになったんじゃないかと、そう思うわけなんですね。
 先ほど、明主様が、脳溢血発症後、今まで感じられたことのないほどの喜び、号泣するほどの喜びを感じられたことをお伝えしましたね。
 これは、明主様ご自身のお喜びというよりも、私は、神様が自分の愛する子供、自分の愛する明主様に対して脳溢血という病を与えられて、それに対して明主様は絶望された。絶望されたけれどもそれを乗り越えられて、そして、神様の問いかけに対して、神様これは希望です、最悪のタイミングだと思ったけれども最高のタイミングです、悪いことだと思ったけれども良いことですとおっしゃった明主様。神様としてはその明主様のお気持ちが嬉しかったんじゃないかと、そう思うんですね。
 我々は、何か都合が悪いことが起きたら、いやタイミング悪い時に来たな、これは悪いことだなと、そういう思いを普通に抱いてますけれども、浄化をお与えになっている神様のほうからしたら、もし我々が、「神様、最高のタイミングで来ました」「私のことを一番配慮してくださってたんですね」「これは良いことです」「希望です」「今いただいている浄化は希望です」というふうに受けとめたとしたら、それは神様は喜ばれますよね、当然。
 だって神様は私たちの親であって、我々の良いことのためだけにしかお働きにならないお方ですよ、人間の目にはいろいろなことが悪いことかのように映りますけれどもね。
 だから僕は、神様にとっては、明主様が──自分の子供が──頭が痛い中にあって、ご自分の親心を受けとめてくれた明主様という存在に対して、親として、本当に嬉しかったんだと思います。
 この世でも、親が自分の愛する子供のために、つらいけどどうしても必要なことだから、ということで何かした場合、もし子供が、「お父さんお母さん、ありがとうございます」と言ってくれたら、親としては本当に嬉しいじゃないですか。
 というように、明主様の中にいらっしゃる神様は、親心を受けとめようとする明主様の気持ちを本当に喜ばれて、そして明主様も、神様が喜んでらっしゃる喜びを感じられて、それが嬉しいと思われて、それで本当に号泣してしまうような、「嬉しくて嬉しくて堪らない」という心境になられたんじゃないのかなと思ったんですね。

 

メシア降誕本祝典は、これからは真に明主様を模範とする、ということですね。
 でも、メシアとして新しくお生まれになった明主様に倣い、新しく生まれることを目指すと言っても、我々の中で、「どうせたどり着かないだろう」みたいになってますよ、実際は。明主様は神様から選ばれた偉大な存在で、我々とは遥かに違うんだ、となってますよ。
 もし我々が心の底ではそう思っているのだとしたら、今話してきたような明主様の心の中での神様に対する努力、これはもう全部無になりますよ。「いや、明主様は特別だからそう思えたんだ」で終わるんだったら、全部無ですよ。我々の教祖である意味もないです。
 心の痛みや苦しみを充分知っておられて、また、味わってくださったようなお方だから、私たちの苦しみや悲しみや絶望も理解してくださる、そうじゃないですか?
 皆様が、「明主様に倣う」と言う時の明主様像は一体どういう明主様像でしょうか。
 明主様は特別なご存在だと言って祭り上げて、それで、口だけは「新しく生まれることが目標です」「目指してます」と言ったって、それでは一生たどり着かないですよ、そこには。
 だから明主様も、我々と同じような苦しみとか絶望を味わわれたお方であって、特に脳溢血の時は絶望の中にいらっしゃった。
 でもそれを、「神様は愛だとしたら絶望を与えるはずがない」と信じられて、そして、「希望の朝だ」と、本当に、ご自分の信仰を告白する思いでおっしゃってくださったと思うんですよ。
 だからもし我々が明主様に倣うとしたら、100%倣わなきゃだめなんですよ。
 何か特別な人間とか架空のご存在ではなくて、我々とまったく同じ心の苦しさとかつらさとかを味わわれたお方を我々は模範としているし、そして、そういう明主様が成し遂げられたところに我々も今行こうとしてると、そう思わなければ何の意味もない。
 明主様は、脳溢血を通してそういうことを思われた。努力された。だから我々も、明主様に倣うならそういう努力をするところを倣わないといけない。
 「いや、思えません」、そうなりますね。じゃあ明主様をお受けします、となりますけれども、それも、自分の中でどういう明主様をお受けするのかということが曖昧ではいけない。
 だって我々はどうなのかというと、病気になったら、もうずっと五十歩百歩みたいな思いを捧げてますよ。なかなか良くならないなとか、タイミングが悪いなとか、そういう思いを抱きながら普通に生きてますよ。そういう我々を、神様はどういう思いでご覧になっておられるのだろうか。
 でも明主様は、ご病気の時、勇気を持って、これは希望だし、タイミングは最高のタイミングだし、良いことだとされたから、神様が感じてらしたお喜びも味わうことがお出来になったし、また、メシア降誕仮祝典を執り行うことを神様はお許しになったんだと思いますよ、そういう明主様だから。

 

生まれてから31日目に伊豆山神社にお宮参りをされた、ということですね、明主様は。僕もこのお話はなんとなく知ってましたけれども、最近改めて思ったのは、お宮参りに行かれたということは、明主様は、新しくお生まれになる前までのご自分を、死んだようなご存在だと認めていらっしゃるということですよ。だって生まれて、お宮参りに行かれてるんですから。
 だから我々、今、生きてますか?それとも死んでますか?
 明主様はどうか。新しくお生まれになる前までは、もう死んだような存在だったと認めておられますね。だからお宮参りに現実的に行かれたわけです。
 だってですよ、明主様は突然赤ちゃんになったわけでもなくて、これは、ご自分の心の中だけの問題ですよ。
 明主様の場合確かに印みたいなものも少し出ましたけれども、見た目はほぼ何も変わらない。赤ちゃんになったわけでもない。普通の人から見たらただの71歳のおじいさんが──71歳のおじいさんですよ──新しく生まれたからと言ってお宮参りに行くんですよ。普通、「おかしい」と言われるようなことですよ。
 でも明主様は、生まれられたことを、架空の話ではなくて、現実的なこととして捉えておられる。だから、我々には逃げ場ないですよ。だって、現実的にお宮参りをされたということは、明主様は、その前の自分という存在を、あたかも死んでたような存在だと認められたということですからね。
 だから我々は、今、「自分は生きてる」と思ってるかもしれませんけれども、本当に生きてますか?もしかして死んだような存在かもしれないですよ。
 だけど、メシア降誕本祝典というのは、永遠の命、神様の命に生きるということでしょ?だとしたら、死んでるような存在の我々にとって、この祭典は、本当に、命綱ですよ、それこそ。メシア降誕本祝典は我々の命綱。
 今、「自分は生きてます」と思う人にとっては必要ないですよ、メシア降誕本祝典は。永遠の命とか命綱なんて必要ないじゃないですか。神様の命、必要ないと言うなら参列する必要ないですよ、そういう人は。あなたの命を、あなたの人生を謳歌してください、で終わりですよ。
 でも、もし明主様が我々に対して、「新しく生まれなければ、あなたは本当は死んだような存在なんだよ」とおっしゃってるんだとしたら、それはもう、メシア降誕本祝典こそ我々の命綱ですよ。永遠の命が無ければ、「あなたは死んだような存在ですね」ということでもう終わりですからね。
 だから今日拝読された『聖書』にもありましたね、命のことが。何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうかということで思いわずらうな、という言葉でしたね。
 我々はもう、もろ思いわずらってますよ、命のことを。むしろ、死んだらどうしようと思ってますね。でも我々は、本当は、死ぬことを恐れるよりも、今、本当の命をつかめないことを恐れたほうがいいと思うんです、だって明主様はそうだったんですから。
 明主様は、本当の命をつかまれて、そして伊豆山神社にお宮参りをされた。我々はまだお宮参りをしてないんだとしたら、今「生きてる」と思ってるけれども、本当にそうなんだろうか。
 だからそこに、我々がメシア降誕本祝典に臨ませていただかなければいけない必要性というんですかね、避けては通れないことがあるんじゃないかなと、そう思うんですね。
 で、結局今日の『聖書』にもあったように、空の鳥を見るがよい、野の花を見るがよい。明日は死にゆく運命のものに対しても、神様は、ちゃんと何でもしてくださってるじゃないか。何を命のことで思いわずらってるんだと、そういうメッセージでしたね。
 「異邦人」という表現もありましたけれども、これは私たちのことですよ。ユダヤ人以外の人たち、神無き民と言われる私たち。その私たちが求めるものは、何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうかなんだと書かれてましたね。そしてこれは事実ですね、神様には申し訳ないけど。そういうことを何よりも求めてますね、私たちは。
 だけど、「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われてる。まず神の国と神の義とを求めれば、あなた方が望んでる体的なものもすべて添えて与えてあげますよと、そう言われてる。
 神の国と神の義とは一体何だろうとなりますけれども、神の国と言うんですから、少なくともこの地上の国ではなくて、神様の世界、天国と呼ばれるような世界のことでしょうね。だから、「まず神の国を求めなさい」ということは、まず天国を求めなさい、ということですね。
 今日の祭典での明主様の御歌の一つは、「天国に世人救はむ望みもて吾先づ天国の人となるなり」ですよ。吾先づ天国の人となるなり、ですよ。『聖書』は、まず神の国を求めなさい、ですよ。同じことを言われてますね。
 神の義とは何だろうということもありますね。人間の世界の義はいろいろある。これは正しい、あれは悪い、この人は正しい、あの人は悪い、ちゃんと裁かないといけない、とかね。これは人間の世界の義。
 でも、神様にとって何が正しいかと言ったら、それは、全人類もれなく罪人であって、私の愛である赦しを受けなさい、というのが神の義ですよ。正しい人は生かす、悪い人は滅ぼす、それで終わり、は神の義ではないですよ。
 全人類をしてご自分の愛によって包む、これが神の義ですよ。赦しを受けなさいというのが神の義ですし、それが神様にとっての正しさ。この人は正しい、この人は悪いというのは人間の世界のこと。でも、全部を赦しで包むのが神の義。
 ということは、キリスト教徒にとっての神の義は、当然、贖い主と言われるイエスを受け入れるということになりますけれども、我々は、イエスも受け入れますけれども、メシアとして新しく生まれるということのために血を流された明主様、この二人を受け入れる。
 明主様も血を流されてるんですよ、脳溢血ですから。イエスも十字架で血を流しましたけれども、明主様も血を流されてますよ、二千年の時を経て、イースターの翌日の1954419日に。
 メシア教の我々にとっては、イエスと明主様。全人類の罪の赦しのために血を流したイエスと、そして、神の子たるメシアとして歩む道を示してくださった明主様、この二人を受け入れるのが私たちにとっての神の義ですよ。
 だから、まずそれを求めなさいと、そういうことですね。そうすれば、我々が望んでるもの──食べ物、飲み物、着る物──を与えてくださって、この地上での生活を保証してくださって、困ってることがあっても手を差し伸べてあげるよと、そう神様はおっしゃってる。
 今日の聖言も、我々メシア教は、明主様も含め、全員神様の指令下に入ってると、そういう内容でしたね。そして、実際そうですよね、神様は絶対ですから。
 野の花を育てるのも神様だし、空の鳥を養うのも神様だし、私たちの食事を用意してくださるのも神様だし、その食事を用意する人を用意されるのも神様だし、大自然を用意されるのも神様だし、全部、神様ですよ。神様の赦し無くしては何も動かないですよ。何も動かないし何も始まらない。
 そうなると、この、メシア降誕本祝典。これは615日に執り行われることになってますね。これ、誰が定めたんですか。神様無しでは何も動かないんですよ。としたら神様しかいらっしゃいませんよ。
 2022615日にメシア降誕本祝典を執り行うと定めることができるのは、神様。神様しかいらっしゃいませんよ。
 で、もし神様が、もうメシア降誕本祝典を執り行うのはやめようと思われたら、我々がどんなに努力しても無駄ですよ。
 614日に、あるいは当日になって、神様が、「取りやめる」と思われたら、我々がどんなに努力をしてもその神様を止めることはできないですよ、神様は絶対ですから。「神様、私たちこれだけ準備したんです。これもこれもこれもしました」と言っても、もし神様が取りやめると決められたら、それは誰にも止められない。
 我々の姿を見て、「あなた方は今自分は生きてると思ってる。であるならば、もはやメシア降誕本祝典は必要ない」と思われたら、それでおしまいですよ。
 一方、もし、神様が執り行うと決めたら、人間がいかに妨害しようが、どんなことが起ころうとも絶対執り行われますよ、逆に。神様が定められたらそれは絶対ですからね。
 だから、メシア降誕本祝典は祝典というくらいですから確かにお祝いではありますけれども、やはり我々は、神様は絶対的な力をお持ちなんだという畏れをもって615日を迎えなければいけないし、そのあともそういう思いを持っていなければならない。
 神様が我々の姿勢を見て、「もうやめた」とおっしゃる可能性があるんだと、それくらいのことは思ったほうがいいと思うんですよ。我々そういうことをあまり考えないじゃないですか。むしろ準備のほうとか、自分がどういうことができるだろうかということは思うんですけれどもね。
 もちろん私は、「すべて神様がされてるんだから」ということなら、ただ、「15日、神様がしてくださるなら出よう、してくださらないなら出ないでいいか」というような姿勢になればいいと言っているわけではもちろんないですよ。
 明主様は「頑張り」という聖言の中で、神様にお任せしなきゃいけないとお説きになって、でも、お任せしなきゃいけないけれども、同時に、人力は最大級に尽くさなきゃいけないともおっしゃってる。そこの難しさが信仰の妙味でもあるんだとおっしゃってるんですね。お任せしなきゃいけない。だけど人力は最大級に尽くさなきゃいけない。そう明主様は仰せです。
 その意味は、何か強制して努力させるというよりも、今日の祭典でお上げした御歌にもありましたけれども、「救はれし幸を思へば身を竭し心尽して酬はでやおかん」というように、自分は本当に死にかけてた、死にかけてたんだけど、神様から、命を与えてあげるよと言っていただいた。死ぬような存在で終わらすことはしないよと言っていただいた。それだけではなくて、この地上においても、食べ物も飲み物も着る物もあげるよと言っていただいた。
 その神様に、何としてでも報いたいな、ということでいろいろさせていただくこと、そういうことかなと思っております。

 

今、この、争いがありますね。地上の争い。争い。
 今起きてることに、私たち一人ひとり、どう向き合っているのか。
 「国と国人と人との涯もなき争ひ止むるは神の外なき」という御歌、ありますね。この御歌自身、一体どういう意味なんだろうかと私は思っております。
 こういう争いがあると、止めるのは神様なんだから神様にお祈りしよう、という人もいれば、いや、お祈りだけでは何も変わらない、具体的に何か行動しなきゃいけないんだという人、大きく分けて大体こういう2つのことが議論されますね。ま、確かにね、具体的に何かすることも必要なことではありますね。
 でも根本的に、これは一体何なんだ、この争いというものは一体何なんだ、というと、これも明主様の御歌ですけれども、「国の悩み次つぎ起る嘆てさよ神に背ける尤にありせば」。国の悩みが次々に起こるのは嘆かわしいな、でもそれは神に背いた尤なんだよと、そういうことですね。
 神に背いたのは誰ですか。国ですか。一部の人たちですか。それとも私たちですか。誰が神に背いたんですか。
 それはね、当然、私たち全員ですよ。私たち一人ひとり、みな、神様に背いた。
 だからそういうことなのに、それを忘れて、自分があたかも神様に対していい子のようにして、そんな、平和が来ますようにとか、戦争が終わりますようにと祈ったって、なんにも変わらないですよ。自分を善の立場に置いて、自分が本当は神様に背いた存在なんだということを抜かして、そうして人類70億人が世界平和を祈ったって、なんにも変わらないですよ。
 またそういう思いで何か具体的な行動をしても、神様からは、「そうじゃないだろ」「あなた自身が私に背いてたじゃないか」と、そう言われてしまう。だからそのことを抜かして、ああこれは国と国との問題なんだ、人と人との問題なんだ、ということで人力でいろんなことをしたって、なんにも変わらないですよ。
 だからこの争いは、第三者的問題でもないし、他人事でも全然ない。むしろ私たち一人ひとり、当事者も当事者ですよ。でも、そういうふうに思ってる人はあまりいないかもしれないですよ。
 でももしメシア教である我々が、この問題について、「ああ、これは本当は私が当事者だったんだ。私があなたに背いたことによってこの争いを起こさせてしまっているんだ」ということに本当に気づけて、そして、もしその我々の思いと神様との思いが合致すれば、それは、もう今でも止まるかもしれないですよ、一瞬にして。もう明日終わるかもしれないですよ、この争いは。
 ということを神様は簡単に成し得るご存在だということが我々の中に希薄なんじゃないかと思うんですよ。人間的な目で見て、まだまだかかるなあ、この問題が解決しない、あの人がこうだ、あの人がこうだ、この国がこうだと言って。
 神様ですよ。なんでもされますよ、神様は。
 世の中の人は、平和の祈りを捧げると言いますね。まあ、私はそれを完全に否定しているわけではないですけれどもね、でも我々は、神様に対する本当の祈りを捧げなければならない。
 だって明主様は、最後、「お念じしなさい」とおっしゃったんでしょ?浄霊は二の問題で、お念じしなさいとおっしゃったんでしょ?
 「お念じしなさい」ということは、言葉が入ってきますね。それまでのご神業からするとものすごい転換ですよ。だってそれまでは、黙って浄霊、でしたよね。でも明主様は、最後には、「お念じしなさい」とおっしゃった。念じる、というんですから、言葉が入ってきますよ。ですよね?言葉をもって、念じるわけですから。
 ということは、「祈る」ということじゃないですか。「お念じしなさい」ということは「祈りなさい」ということじゃないですか。
 じゃあ何を念じるんだろう、となりますよね。もちろん、明主様が生きてらっしゃったらもっといろいろ教えてくださったかもしれないですよね。でも今それを教主様が教えてくださってるじゃないですか。
 今の世界情勢の中でメシア教の我々なんて全然相手にされてませんけれどもね、でも我々が、もし神様が本当に望んでおられるお祈りを捧げることができれば、世の中変わっていくかもしれませんよ、それは。
 我々一人ひとりが、一人また一人と、「ああ、私のせいだったんだ」「私が背いた尤だったんだ」ということに目覚めることができたら、もしかしてもっと長引くはずだったものを、神様が半分ぐらいにしてくださるかもしれない。5分の1ぐらいにしてくださるかもしれない。それよりもっと小さい被害で済むようにしてくださるかもしれない。だから、私たち一人ひとりにかかってるんですよ。全然他人事じゃないんですよ、今のこの世の中の問題は。
 でね、そのようなお祈りをお捧げするのは、いろんなニュースを見聞きする時ももちろんありますけれども、より具体的には、本当は、私たち一人ひとりの生活の中で現れてきてるんですよ、自分の家族のこととかで。
 世の中の問題は大きいですよね。一見、自分の生活と関係ないみたいになってますね。でも実は違うんですよ。
 具体的に今一人ひとりが担わされてることがありますね、隣人関係とか、家族とか、夫婦のこととか、職場でのこととか、体を通して感じてることとか。それは、我々の底辺の思いですよ。人に一番知られたくない思いですよ。私たちはそういう思いを一日中感じてますね?それが今の争いと密接に関係してるんですよ、実はね。
 だからそういう日々の中で湧いてきてる思いに対して、ただ、「この思いをお赦しください」とするだけではなくて、その思いは本当は救いを求めて皆様の心に現れてきてるんですから、3月の豊穣祈願祭でもちょっとお話ししましたように、そういう思いに対して、「赦されてるんですよ」「永遠の命があるんですよ」ということを伝えてあげなければならない。
 我々の中に結ばれてる全人類と先祖の思いが、私たちの心の中に湧いてきてるんですよ、今。その方々に対して、11回でもいいですよ、11回でも。だってずっとは大変ですからね、いろいろ自由に思いたいですから、我々も。
 でも、11回でいいから、自分の中に湧いている思いに対して、「あなた方は赦されてるんですよ」「永遠の命に至る道が用意されてるんですよ」と言ってあげること、実はそれこそが本当のお祈りであるし、それが絶対この世の中を変えていく、良くしていく。もちろん、我々はたらればのことは分からないし、結果しか分からないですけれどもね。
 でも、私たち一人ひとりのその思いが、祈りが、必ず光にあふれた世界を造っていくんです。
 だから、メシア降誕本祝典ということは、今までの人間のお祈りのように、ただ、お赦しください、じゃなくて、今度は神様側の立場としてのお祈りができるようにならないといけない。
 だって、神様というのは祝福を分け与える方ですよね。だから私たちも、その真似事をしていいということですよ。自分の中にいる多くの人たちに、「あなた方は赦されてますよ」「生きたものとなってますよ」と言っていい、ということですよ。
 今まで私たちは、「悪いことしちゃった、お赦しください」でずーっと来ましたよ。でも明主様は、天国の人となれますよとおっしゃる。そして明主様はもうなられてる。そうなんですから、今までの私たちの歩みを大きく超えて、天国の人となって、そしてその天国の祝福を分け与えてすばらしい世界を造っていく、という契機になるのがメシア降誕本祝典なんです。
 でもそういう生き方は、実は、人間本来の生き方なんですよ。だから、メシア降誕本祝典は何もゴールではなくて、これからは人間に与えられている本当の生き方に目覚める、その時がきた、だからメシア降誕本祝典を執り行うんですよ、私たちは。
 というように神様がそれだけの使命を私たちに託してくださってる。また、そういう神様の本当の道にお仕えするのが我々人として生まれた幸ですよね。
 だって、もう、天国の歓喜を味わってるんですよ、今。あるんですよ、天国が、皆様方お一人おひとりの中に。だからそれを確信して、そして大いに歓喜して、メシア降誕本祝典をお迎えして、そしてまたその後も、この世の中が本当に光あふれる世界、喜びあふれる世界になるようにね──私たちの一日一日のことは一見小さいことかのようですけれども、それが人類の救いに関係あるんですから──そのように日々、私たちが神様に真にお仕えすることを通して、光の世界をね、共に造っていきたいと思っております。
 ありがとうございました。