PDF:「明主様は私たちのために死なれた」 真明様メッセージ No. 12

 

※英語とポルトガル語でなされたビデオメッセージの和訳

明主様は私たちのために死なれた

今、皆様は生きておられますか?それとも死んでおられますか?
 今、神様は、皆様のことを、生きた存在として見ておられますか?それとも死んだ存在として見ておられますか?
 今、皆様は、栄光の未来に向かって歩まれていますか?それとも、いつの日か病気か事故か年老いて死ぬという、呪われた未来に向かって歩まれていますか?

 

195465日、明主様は、神様の子どもとして新たに生まれられました。
 その2週間ほど前の520日、明主様は、お住まいにほど近い伊豆山神社に、赤ちゃんが生まれたことを奉告されるため、数名の側近奉仕者の方を遣わされました。
 日本においては、赤ちゃんが生まれてから30日後以降に、地元の神社に参拝する風習があります。
 脳溢血のご浄化をお受けになった419日に新しく生まれたと信じられた明主様にとり、520日はちょうどその参拝をする時にあたり、明主様は、まさにそれを実行されたのです。
 私は、このことについては知っておりました。長い間知っておりました。しかし、明主様がされたことの重大性について、最近、初めて気づくことができました。
 考えてみてください。明主様がご自身の誕生を近くの神社に奉告されたということは、1954419日以前のご自分は、ほぼ存在していない者、ほぼ死んでいたような者であったと明主様が認められたことに他なりません。
 さらに言えば、新たに生まれられた時、明主様は、これは生まれ変わりではないと仰せになりました。つまり、419日に神様が明主様にお与えになった命は、過去から続いてきていた命ではなく、全く新しい命であった、ということです。
 明主様は、新たに生まれられる前のご自分は、生きた者ではなく、死んだ者であったと、そうお示しになっておられるのです。
 では私たちはどうでしょうか。
 皆様方の中で、すでに永遠の命を獲得された方はいらっしゃいますか?
 すでに神様の子どもとして新たに生まれられた方はいらっしゃいますか?
 もしいないとすれば、皆様方は、ご自分のことを、今、「生きてる」と言えますか?皆様方は、今、本当に生きておられますか?それは確かですか?神様が皆様方のことを生きた存在だと見なしてくださっていることは確かですか?
 正直に申し上げて、もしまだ私たちが新たに生まれてないのだとしたら、私たちは、今、死んでいるのと同じことです。
 私たちは、今まで、このように考えたことがあったでしょうか。今は死んだような存在で、生きた者にならなければならないのだ、と思ったことがあったでしょうか。私たちは、むしろ、命を失うことを恐れてはいないでしょうか。死ぬことを恐れてはいないでしょうか。
 私たちが真に恐れるべきは、今、死んだ者のようになっていること、そして、永遠の命を獲得できないことではないでしょうか。
 皆様。明主様は、伊豆山神社に赤ちゃんが生まれたこと、ご自分が新しく生まれられたことをご奉告になったのです。白髪混じりで、脳溢血の症状に苦しまれていて、ほぼ半身不随の71歳のおじいさんが、ですよ?
 明主様はお気が狂われたのでしょうか。
 「今、我々は死んでいる」と言っている私も、気が狂っているのでしょうか。
 「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである」(「コリント人への第二の手紙」第513節)。
 もし私が気が狂っているのだとすれば、それは、皆様方のため、我々のため、我々が真に明主様に倣い、永遠の命を獲得するためです。
 明主様は、この伊豆山神社へのお宮参りのことを通して、私たちに、神の子たるメシアとして新たに生まれない限りは死んだ者と同然なんだぞ、ということをお示しくださっているのです。
 私たちは、世界に対して、人間は、メシアとして新たに生まれることが運命づけられている、ということを訴えています。これにより、私たちは、世の中から、あなたがたはおかしい、「気が狂っている」と言われているかもしれません。
 私たちは気が狂っているのでしょうか。おかしいのでしょうか。馬鹿にされるようなことを信じているのでしょうか。明主様の聖言を、神の真実を、誤って受けとめているのでしょうか。
 断じて違います。私たちは気が確かです。ですね?私たちは真実を知っている。ですね?明主様が真にお伝えになりたかったこと、イエスが真にお伝えになりたかったことを知っている。ですね?
 私たちの多くは、浄霊による奇蹟を経験させていただいた。それにより病が癒え、この世の寿命が延びた。それはなんのためですか?私たちが、この世の命と体を大切に思い、できるだけ長生きしたいと思うためですか?断じて違います。そのようなことのために明主様は私たちに奇蹟を与えてくださったのではありません。
 そうではなく、明主様は、私たちが永遠の命に目覚めるために、私たちにあのような祝福を与えてくださったのです。
 しかし、私たちの歩みはどうだったのでしょうか。
 ひとたび奇蹟を経験したがゆえに、もっと奇蹟がほしいと思うようになり、そして、この世の健康と命をどこまでも至上のものとし、そのようなことのためのみに浄霊をしてきてしまったのではないでしょうか。
 皆様。悔い改めと目覚めの時が来たのです。
 明主様の死を無駄にしてはいけません。明主様の死を無駄にしては、いけません。
 明主様は、私たちに、人間の健康と命より、永遠の健康と命のほうが大切であることを教えてくださるために、病によって死んでくださったのです。
 もし私たちが、かつて奇蹟を経験した時、永遠の命という真の宝に目覚めることができていれば、明主様は病によって死なれる必要はなかったのです。明主様は、120歳まで生きられると仰せになっておられたのですよ?なぜそこまで生きられなかったのでしょうか。
 それは、私たちのせいです。奇蹟を与えていただいた私たちが、なぜそのような奇蹟を与えていただけたのかを理解しなかったせいです。
 明主様は、私たちのために死んでくださったのです。
 奇蹟によって大切なものを見失った私たちのために、死んでくださったのです。
 人間の健康と命を最も大切な宝だと思ってしまった私たちのために、死んでくださったのです。
 明主様のみ心に反して歩むことになる私たちのために、死んでくださったのです。
 私たちが生きるために、死んでくださったのです。
 私たちが神の命に生きるために、死んでくださったのです。

 

来月の615日、私たちは「メシア降誕本祝典」を執り行います。
 これは、私たちが、教主様の名において、神様と明主様とイエス・キリストに対して、「これからは神の子たるメシアとして新しく生まれる道を歩む」という約束を誓う日です。
 今現在自分が「生きている」と思われている方にとって、この祝典に出ることは意味の無いことです。
 しかし、今現在自分が「死んでいる」と感じ、そして、何を失おうとも永遠の命を獲得しなければならないと思われている方にとって、この祝典は命綱です。
 皆様は、615日の前に、決心しなければなりません。今現在自分は生きていて、これからもこの地上での命をこそ大切にしたいと思うのか、それとも、今現在自分は死んでいて、明主様とイエスに倣い、永遠の命を獲得する道を歩みたいと思うのか。
 もし永遠の命よりも人間の命を選ぶなら、神の国よりも人間の世界を選ぶなら、その方に未来はありません。なぜなら、「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」からです(「ヨハネによる福音書」第1225節)。

 

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