「祈る」

 

《 明主様 》
 ──明主様側近奉仕者の記述より

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 毎日御浄霊を遊ばしているが、御手をかざされず、御想念で遊ばすのみである。今迄お喜びの御事はあっても、何か一抹真からのお喜びはあらせられなかった。今度はもう嬉しくて嬉しくて堪らない。今度の御浄化は特にキリスト教と関係がある。

之からは一切御言霊と御想念で自由に遊ばすのである。

之からはお詫びの時代ではない。悔改めの時代である。悔改めて想念でおわびすればお許しが戴けるのである。

 

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 「新しい浄霊を発見した」と仰せられる(想念)。

 

ご浄化直後
 御浄化になられてすぐおっしゃられました事は「これから想念の世界である。御浄霊は二の問題で、まず想念である。お念じしなさい」と、 度々おっしゃられました。

 

《 教主様 》
 「数ならぬ身にしあれども御心のままに召さしめ給へと祈るも」。明主様ご自身が祈ってらっしゃるんですよ。み心のままに召してくださいますように、迎え入れてくださいますようにと、お祈りしてらっしゃるんですよ。
2017312日「ご面会(評議員)」

 

我々は手足だから、頭なしで神様と交流できませんよね。中心である頭に全部繋がっている。中心である脳が手足を統括している。そこは無視出来ないと思います。今言われた「交流のお祈りから」というお祈りも、委ねるのと同じように明主様が常に祈ってらっしゃる。私達のために、明主様が常に祈ってくださっている。だから、我々も共に祈らせていただく事が出来る。赦されて祈らせていただく事が出来る。祈るとか委ねるというのを、何か自分の力で、自分の手柄のようにやってますって、自己発のように感じられるけど、そのように呼び掛けてくださって、我々はお応えさせていただいている、少しでも。そういう事が実践なんだという事でね。実践というと日常的にいろんな事がありますよね。…その実践もあるけども、今のような、思いを発生するっていう事、思いでお応えするっていう事もやっぱり大切な実践だっていう風に受け止めていただきたいなと思います
2013年310日「教主様との会食ご面会」

 

〝祈る〟ということにつきましても、こうなればいい、ああなればいい、ということを先に思い描いてしまって、その自分の思いが実現することをひたすら待ち望むことに心が縛られてしまい、主神のみ旨、明主様のみ心を尋ね求め、そのみ心が成し遂げられるようにと願う、ゆとりある祈りではなく、自分の人間的な思いを優先させた祈りになっているのではないかと思います。
 これは、〝祈る〟ということには値しないような気がいたします。
 これでは公平な神様ではなく、言わば、えこひいきをする神様を求めていることになり、神様を侮り、自分のために利用しようとしている、と言われても仕方がないと思います。
200741日・2日「春の芸術祭」

 

《 真明様 》
 「心を通しての救い」とは一体何なのでしょうか?
 私たちは、日々の暮らしの中で、さまざまなことを通して──特に家族や友達や近所の方々との関係において──多くの思いが心に去来してきますね。
 そのような思いは、なぜ私たちの心に現れてくるのか。それは、神様が、私たちの心をご自身の光によって照らしているからです。光は影を生み出しますね。それと同じことではないでしょうか。心に感じるマイナスのような思いは、影のようなものなのではないでしょうか。
 神様の光が、私たちの心を照らしている。それによって、影を見せてくださっているのです。そしてそれは、神様がその影の部分を救うためであります。
 私たちの役目は、感じたことを、そのまま、ありのまま、神様の御手にお捧げすることです。なぜなら神様は、私たちに向かって常にご浄霊の御手を掲げてくださっているから、そして、私たちの心を常に照らしてくださっているからです。
 明主様は、「お念じしなさい」、つまり「お祈りしなさい」とおっしゃった。それが私たち明主様信徒の務めであるとお示しくださった。ですから私たちは、感じ、思うことのすべてを、神様の御手にお捧げするというお祈りをさせていただこうではありませんか。なぜならそれが、「想念の世界」における真のご浄霊の業にお仕えする道だからです。
2020年9月「新時代へ」

 

教会誌『グローリー』No. 29, 2022/6月号掲載