PDF: メシア降誕本祝典_真明様ご挨拶

「世界中のキリスト教徒に告ぐ」

於:ホテルオークラ神戸(平安の間)

 

(鳴りやまない拍手に)ありがとうございます。ありがとうございます。
 皆様こんにちは。
 ついに、この日──メシア降誕本祝典の日──を迎えまして、こうして、一万人の皆様と、またそれに連なる多くの方々のことを思いますと、もう何も話すことはないんじゃないか、共にこの祝典に参列しているということだけでもう十分じゃないか、という思いもあったり、また一方で、何かこう、たくさんのことを皆様にお伝えしたいな、という思いもあったり、やはり、普段の月次祭とか大祭とは違う、特別な──まあ当たり前なんですけれども──そういう特別な感情をいております。
 で、詰まるところ、「メシア降誕本祝典」とは一体何なのか。祝典と言うぐらいですから、何かのお祝いであることは間違いない。今も聞かせていただいたように、祝電とかもたくさん頂戴しまして、また、来賓の方も、今成井理事長にご紹介いただいた方以外にも、たくさん見えていらっしゃる。
 では今日、私たちは、何を祝ってるのか。メシア降誕本祝典で、降誕というのは生まれるということですから、メシアが生まれたということの何かのお祝いをしている、それだけは分かりますね。
 では私たちは、私たちの教祖の岡田茂吉、明主様が、1954年にメシアとして生まれたと仰せになった、それを、今日、68年経って、お祝いしてるのか。明主様だけがメシアだということをお祝いしてるのか。
 違いますね。なぜなら我々はイエス・キリストも受け入れている。イエス・キリストも当然メシアと信じられ、また、められていますから、私たちはそれも信じてる。そうですね。
 では今日は、そのイエスと岡田茂吉、イエスと明主様、この二人がメシアであるということを祝う場であり、それを信じる私たちがっているのかというと、それも違いますね。
 すると人は言うでしょう。ではあなた方は、今日、イエスと明主様のお二人だけではなくて、世界メシア教の信徒もメシアとして生まれる道を神様から祝福されてる、そのことを祝ってるんですねと、そう言うでしょう。まあ、半分は合ってますけれどもね、それも違いますね。
 では私たちは、今日、何をお祝いしてるのかというと、それは、当然イエスが先駆者ではあったんですけれども、二千年の時を経て、明主様。そのイエスと明主様に連なる全人類──私たちだけではなく全人類──その全人類がメシアとして新しく生まれるという道を祝福されてる、このことを今日祝ってるんです、私たちは。
 全人類ですよ。全人類。
 全人類ということは、仏教徒も、キリスト教徒も、イスラムの方も、神道の方も、今そう彼らは受けとめてはいないけれども、全人類、神様の子供であるメシアとして新しく生まれる道を歩むことが定められている。
 今日は、信徒だけではなく未信徒の方も参拝に来てらっしゃると聞いてますけれども、そういう方も含めて、もれなくですよ、もれなく全人類がこの祝福にあずかっている。今日はそれを祝う場なんだと、そういうことですね。
 こういうことを言いますと、いや、あなた方はそういう教えを信じてるんですね、世界メシア教の信仰とはそういう信仰ですね、というふうに言う人がいるでしょう。
 でも、信じる、信じないを超えて、真実というのは存在しますよ。真実。
 太陽が東から昇る、これは真実ですよ。誰も信じてなくても毎朝昇って来ますよ、太陽は、東から。だってそれは真実だから。
 そう言うと、いや、どの宗教も自分たちの信じてる教えが真実だと思ってますよ、と言ってくる人もいるでしょう。だけど、真実というものは存在しますよ。
 そうすると、いや、真実は一つだけれども、いろんな解釈がある、という見方もありますね。一つの真実に対していろんな解釈があって、それがいろんな宗教になってるんだという見方。でも、本当は、解釈も一つですよ、だって、神様はお一人なんですから。
 神様がお一人ということも、いや、いろんな神様がいます、と言いたい人もいるでしょう。でも、神様がお一方であるというのは真実ですよ。それを信じない方がいることは分かります。でも真実ですよ、神様がお一方だというのは。誰も信じてなくても真実ですよ、神様がお一方だというのは。
 そして、神様がお一人だとしたら、神様の願いも一つですから、真実は一つですよ。
 なぜ人間は生まれてきたのか。これについても、みんな、分からない、分からないと言って、あるいは、いろんな真実がある、と言って、もうそれで良しとしてますけれどもね、でも、どんなにそういうことを言っても、真実は存在しますよ。
 だから、確かに我々はこの救いの福音を信じてはいるけれども、たとえ我々が信じてなくても、世界メシア教が10年後、20年後無くなってしまって、私もこの救いの道から外れてしまったとしても、「全人類をご自分の子たるメシアとする」ということ、これを神様は絶対に成し遂げられる。
 我々が努力しようが、しまいが、人類がこの救いを信じようが、信じまいが、神様のことを全然信じなくても、神様は、絶対にこれを成し遂げられますよ。だって真実なんですから、それが。
 だから、今私が話していることを全然信じられない人がいたとしても、これから先のある日、誰もが、神様の、「あなたは私の子か」という問いに対して、「私はあなたの子です」とお答えする日が来るんです。誰もがですよ。
 仏教徒の人も、ユダヤ教徒の人も、神道を信じてる人も、神様を信じてない人も、いつの日かそうなるんですよ。だってこれは真実であり、真理ですからね。

 

我々は、全人類は神の子たるメシアとして新しく生まれる、と言う。するとキリスト教の方々は、いや、イエス・キリストが唯一のメシアだと、そう言われますね。そういうことになってますね。
 で、私は、キリスト教の方々、世界中のキリスト教の方々に言いたい。
 確かにイエスは、二千年前、十字架にかかり、人類の罪をご自分の血によってってくださった。当然それは、イエスが生まれる前の人類の罪、また、イエスが生きていた時代の人たちの罪、また、それだけではなくて、二千年前から今日、そして今後、未来の人類が犯すであろうすべての罪を贖ったと、そういうことになりますね。
 もしそうでなければ、贖い主は何人も登場しなきゃいけなくなりますからね。
 ということは、過去・現在・未来の人類の罪、このすべてを、イエスは、十字架の血を神様にお捧げになることによって贖ってくださった。これは間違いないことですね、確かに。
 そのイエスから二千年、世界の極東の日本の地にお生まれになった岡田茂吉、明主様は、最晩年に、メシアとして新しく生まれたとおっしゃった。
 ではこの明主様というのはどういうご存在かといったら、1223日、冬至の翌日に、世界の極東、東のの日本の、その東の都である東京の、その東京の中でも、当時は一番東の橋場という地でお生まれになったお方である。
 それこそ、世界の端の端の端ですよ。そして、小さい時はご家族が貧乏で、非常にご苦労になった。そのような方が──世界の端に存在していたような方が──メシアとして新しく生まれたということを感得されたということは、本当は、全人類が明主様のようになれる、メシアとして新しく生まれることができると、そういう象徴としての使命を持たれたお方が明主様というご存在であったと、そういうふうに、我々は信じてますね。
 要は、イエスの本当の願いは、ただみんなが、「イエス様、罪を赦してくださってありがとうございます、十字架の血を受け入れます、あなたは贖い主であり救い主であり赦し主です」というふうになればいいということだけではなくて、本当は、我々一人ひとりも神的な存在とならなければいけない。それをイエスは願ってた。これを、イスラエルと日本、また、二千年という時空を超えて、そのイエスの願いを明主様が完結してくださった、そういうことですね。
 でもね、言いますよ、キリスト教徒の方々は。いや、イエスは唯一の存在です、唯一のメシアです、イエスは絶対ですと、そう言いますよ。
 でも、そのイエスの唯一性であり絶対性というのは、本当は、唯一の神様の唯一性であり絶対性なんですよ。そして、その唯一の方が、唯一の神様が、なんと、人類一人ひとりの中にいらっしゃる。
 キリスト教の方々は、これはとんでもない発言だと思われるかもしれませんけれども、でも改めて、私たちの中にいる存在というのは何だろうかと考えると、もし命というものが自分のものではないとしたら、当然それは唯一の神様のものですよ。そして、イエスとか明主様をお使いになった神様も、同じ唯一の神様なんでしょ?だとしたら、自分自身という存在は──自分の中にいらっしゃるお方は──唯一の神様というご存在ですよ。それ以外あり得ないじゃないですか。ということは、最高最貴のお方が、自分の中にいるんです。
 だから、イエスが水の上を歩いたと聞くと、すごいなと思うかもしれませんけれども、我々もできないことないんですよ。だって神様ですから、我々の中にいるのは。
 そもそも、明主様は、「キリスト教と呼応する」とか、「よほどキリスト教に近くなる」とか、「イエスの予言を実行してるのが自分だ」という趣旨のことを仰せになって、キリスト教を受け入れていらっしゃる。
 ということは、我々も、イエスは贖い主であり、救い主であり、赦し主であるということ、信じますよね、当然。
 聖書。聖書をお創りになったのは、当然、天の父であられる。そして明主様は、「メシア教の神様はキリスト教のエホバだ」とおっしゃるんですから、我々は聖書も信じますよ。
 だから我々は、キリスト教徒の方々が信じてることは丸々受け入れてるし、信じてる。
 だけど、次のステップがあるんですよ、次のステップ。残されてることがあるんです。キリスト教徒の方々もまだ未解決のことがあるんです。
 それは何かというと、キリストの再臨の問題です。キリストの再臨。
 今日の明主様の御歌にもありましたけれども、キリスト教徒の方々は、いつかキリストが雲に乗ってってくることを待ち望んでる。
 いつかイエス・キリストが雲に乗ってやってきて、そして、その時に最後の審判が行われて、人類の善悪が立別けられる。キリスト教徒の方々はこれを待っていらっしゃる。
 でも本当は、これから先、イエスが雲に乗って、我々が見える形で来るということは起きないんです。起きない。
 というのは、実は、私たち一人ひとりの中に、栄光を携えて、キリストとかメシアという存在は、イエス・キリストという存在は、それこそ雲に乗って、栄光輝くようにして降ってきちゃったんですよ、すでに。それこそ、盗人が来るように、もう降ってきてしまった。
 盗人が来るようにということは、気づかないに、ということですよ。目に見える形で、「今来た」ということだったら、盗人が来るように来たことにはなりませんね。
 明主様は、メシアはキリストの再臨のことだと仰せになったりもしていますが、我々は純然なキリスト教徒ではないので、キリストの再臨ということは、我々にとっては神秘ですね。
 でも、キリストという存在が、我々一人ひとりの中に、我々が気づかない間に、来てしまったんですよ、もう。
 だってイエスは、すぐに来るとおっしゃったじゃないですか。今すぐに来る、これは信ずべきことであるとおっしゃったじゃないですか。今すぐに来るとおっしゃったのに、そんな二千年も待たせるはずないじゃないですか。
 イエスは、二千年前、雲に乗って去られた。そして、それと同じ姿で帰ってくるとされてますね(「使徒行伝」第111節)。
 でも本当は、イエスが雲に乗って去って、その姿が見えなくなった時に、それを、「あっ、去ったなあ。もういないなあ」と思うのか、それとも目には見えないけれども、「イエスは今すぐに来ると言ったんだから、今もう来ました」とするのか。どっちですか?
 だから、目には見えなくても、「今もう来ています」とするのが本物の信仰ですよ。
 だって、イエスが復活した時、十二弟子の一人のトマスは、「自分の目で見ない限りは信じない」と言ってた。でも、実際イエスの姿を見たら、「あっ、信じます」となった。イエスはその時、トマスに、「見ないでも信じる者はさいわいですよ」ということを言った。ですよね?(「ヨハネによる福音書」第2024節~29節)
 だから我々は、イエス・キリストが雲に乗って来るのを目で見て、その時初めてキリストの再臨を信じるのだとしたら、二千年前から何も進歩してないことになりますよ。
 イエスが去った。そのあと、まだりてきてないと思うかもしれないけれども、その時こそ、「もう私の中に降りてきてます」「一人ひとりの中にられてます」と、そう思わせていただくのが本当の信仰だと思いますね。
 じゃあ、もう降ってきたのだとすると、次は最後の審判の問題がまだ残ってますね。
 いやね、最後の審判も、もう終わったんですよ。最後の審判も、もう終わった。
 これから、神様が今の人類の歩みを見て、「あなたはだめ。あなたは良い」ということは発生しないんですよ。発生しない。
 では最後の審判でどういう審判が下されたのかというと、それは、「赦す」ですよ。
 そうでなければ、自分たちだけ一生懸命信仰を固く持って、自分を善の側に置いて、そして、いつか最後の審判が来る時に自分は善の側に入れていただけるようにしようと、そういうことでこれからも生きていくんですか?もしそうだとしたら、悔い改めということはどうなるんですか。
 だって、イエスの、あの、不義を犯した女性を律法学者とかが連れてくる話がありますね。
 律法学者たちは、この女は不義を働いていたので石打ちの刑にすべきだと言って、その女をイエスの前に連れてきた。要は、イエスはユダヤ教の教えを守っていないと見なされていましたから、イエスがちゃんとこの女を罰するかどうか試みようと思って、この女は不義を働いたので石打ちの刑にすべきですけれどもどうですか、ということでイエスの前に連れてきた。
 その時イエスは、何か地面にものを書かれてるような仕草をされてて、それでイエスが言ったのは、「この中で罪を犯してない者が、まず石を投げなさい」。石投げたいんだったら、どうぞ、誰も罪を犯したことがないんだったらどうぞと、そういうことを言った。それを聞いた人たちは、石を投げずに、一人また一人と去っていって、最終的には誰もいなくなった。そして、その不義を犯した女の人と、イエスの二人だけが残された。そこでイエスは、その女に、「わたしもあなたを罰するようなことはしない」「もう罪を犯すのはやめなさい」とおっしゃったというエピソード(「ヨハネによる福音書」第81節~11節)。
 だから、同罪だと、そういうことですよ。誰が、「この人は悪でこの人は善です」と裁く権利を持ってるのか。私たちは人の罪を裁ける立場なのか。裁けないですよ。同罪ですよ。
 だから、善と悪の立別けも何も、神様は、もう「悪」そのものを全部赦されたんです、最後の審判で。
 だって、イエスは、「汝ら悔い改めよ、天国近づけり」と言ったんでしょ?「悔い改めなさい」ということは、本当は、もう最後の審判は終わったよということですよ。「赦す」という審判が下ったということですよ。
 でも、世の中の状況がありますね。世界情勢もいろいろあるし、悪い人がこんなにはばかって、混沌としているような世の中の状況。コロナもある、戦争もある、人をだますこともいっぱいある。それを見ると、「最後の審判終わってるはずないじゃないか」「キリストが再臨してるはずないじゃないか」と言いたいですね、私たちは。
 でも、本当は、もし我々は人の罪を裁けないんだとしたら、我々も同罪だということですよ。同じものを持ってるよ、ということですよ。
 だから実は、世の中でいろんな問題が起きているのは、本当は、「あなた自身もそういう姿だったじゃないか」「同じような要素があなたの中にもあるじゃないか。そういうあなた自身の姿を私は赦したんだということに気づきなさい」ということでいろいろと起きてるんです、これは。
 もしそうでなければ、周りだけは悪い人で、自分だけは、「いや、自分は悪いことしてません、悪いことしてません」、そして、「悪い人が滅びますように」というそんな生き方をずっとしてくんですか、私たちは、これから。「自分は良い行いしてます」「悔い改めてます」「悪い人はいつか滅びます」とずっと言っていくんですか、私たちは。
 そうじゃなくて、本当は、周りに起こるありとあらゆる問題は、「そういうあなたの姿を赦したよ。それに気づきなさい」という神様からのメッセージなんです。「最後の審判は終わったよ。全部赦してあげたよ」と、そういう神様からのメッセージなんです。
 だから、実は、神様のほうとしては、善と悪を立別けるという段階はすでに終わって、今や、すべてを赦してご自分のもとに迎え入れるという段階に入ってる。
 最後の審判の前までは立別ける世界だった。でも、神様はもう審判を下したんです、「赦す」という。で、今や世界はまったく新しい世界になってしまって、神様が、我々の犯したすべてを赦しと愛を持って迎え入れてあげるよ、という段階に入ってる。
 だって我々は、一人ひとりいろいろ抱えてる。抱えてますね?抱えてますよ、一人ひとり。
 でもそういうことは、年を重ねると、処世術みたいなことで、いろんな問題を乗り越えることは少しずつ得意になったりしていきますね。いろんな的なことを駆使して乗り越えていく。そうやっていくうちに知恵と経験がついてきますから、そのうち、そうやって乗り越えていくことが全部になっていっちゃうんですね。
 だけど本当は、何か問題にぶち当たった時、確かにそれは対処はしなきゃいけない、いけないけれども、本当は、一人ひとり、「自分のこういうところを赦していただいたんですね」とさせていただかないといけないんです。
 今一番悩んでることですよ、一番問題なこと。そのことについて、「これは相手の姿、相手の問題だと思っていたけれども、この相手の姿は、実は自分の姿だったんですね」「このような姿をメシアの御名にあってお赦しいただいたんですね、ありがとうございます」と、そのようにさせていただく、これが大事なことだと思います。
 しかも、これは真理、真実なんですから、メシア教の信者じゃなくてもいいんです。声に出さなくていいし、誰に言わなくてもいいし、メシア教の信者であっても、なくてもいい。ただ、心に抱えていることについて、「ここをメシアの御名にあってお受け取りいただきたいのです」、それだけでいいんですよ。
 もしそれをしたら、それは神様の心と合致するわけですから、自分が想像もしてないような良い方向、物事が良い方向に動くということも十分あり得るんですよ。

 

メシア降誕本祝典。メシア降誕。降誕は、生まれるということですね。だから、メシアが生まれる。メシアとして生まれる。
 では、私たちが一番最初に生まれたのはいつですか?一番最初に生まれたの、いつですか?
 そうすると、いや、自分が一番最初に生まれたのは、1950何年ですとか、昭和何年何月何日ですとか、そういうことになりますね。
 でも本当は、ずっと昔、天上で生まれてたじゃないですか。
 生まれてたじゃないですか、私たち。生まれてましたよね、神様のみもとで。生まれてましたよ、絶対。それが最初に生まれた時ですよ。
 それをまあ、覚えてないと、なりますね。そう言われても覚えてませんと、そうなりますね。
 しかも、我々だけ、世界メシア教の信徒だけじゃなくて、人類が、神様のみもとで生まれましたよね。生まれたじゃないですか。生まれて、神様にお目にかかって、神様のお声を聞いて、抱きしめていただいたじゃないですか。忘れちゃったんですか?
 でも、よく考えると、我々はこの地上で生まれた時のことも大して覚えてませんね。物心が付く、34歳とか5歳くらいまでのことは覚えてない。いや、まれにね、そういう記憶を持たれてる方もいるけれども、基本、忘れてますね。病院で「おぎゃー、おぎゃー」と生まれた時のこと、そして、その時に、親に声かけてもらったり抱きしめてもらった時のこと、ほとんど忘れてますね。
 でね、じゃあそのことを忘れてるからといって、自分の親に対して、「私はあなたに生んでもらった時のことを覚えてないので、あなたは私の親ではありません。愛してもらった記憶もありません、抱きしめられてません」とは言わないじゃないですか、自分の実の親に。
 むしろ、大して覚えてないのに、「自分は子供の時愛されてた」とか、「あなたは私の親です」と言うじゃないですか。でも、生まれた時のこと、全然覚えてませんよ。
 だから、それと同じで、天上で生まれた時のことも忘れちゃってるんです、我々は。
 この世で生まれた時のことも忘れたように、神様に生んでいただいた時のことも、人類全部、忘れてるんです。だって人類全部が、皆、その時の記憶がないですからね、ほとんど。というように忘れてる。
 もしそうだとしたら、神様に対して、「覚えてないのであなたは私の親ではありません」「あなたの声なんか聞いたことありません」「愛されてハグされて抱きしめられたことなんてありません」と言うのか、それとも、「あなたは私の親です」「あなたが生んでくださいました」「あなたのお声を聞いておりました、愛されておりました、抱きしめられておりました」とするのか、どっちかですよ。
 覚えてないからといって、「神様は存在しません」と言うべきだと思いますか?
 だから本当は、覚えてなくてもね、「あなたは私の親でした」ということで勇気を持って神様のもとに飛び込む──それが親との再会ですよ。本当の親との再会。
 だからこれは理屈でも何でもない。私は今、なんにも難しい話をしようとしているんではないんですよ。親がいる。そして、その親の愛を受け入れるか否か、それだけの話ですよ。
 「覚えてないので親はいません」「記憶がないのであなたは存在しません」と自分の実の親に言えますか?
 しかも、本当は、神様こそが実の親ですよ。私たちを一番愛してくださってるお方。
 だから、その方に、「私はあなたの子供でした」と申し上げるのがメシア降誕本祝典ですよ。だってそれはお祝いすべきことですから。
 再会。本当の親との再会。この世でも、親と子が離れ離れになって再会したら喜びますけれども、本当の親であり、一番我々を愛してくださってる方との再会ですから、これ以上祝うことないですよ、人間にとって。
 しかもこれが、じゃあ、今日、2022615日がメシア降誕本祝典だから、このあとの人類はそういう機会が失われるのかといったら、違いますよ。だって最初に生まれたのは天国なんですから。天国は永遠の世界、まったく微動だにしない世界ですよ。
 だからそれは、明日でも明後日でも明々後日でも、もし、「そうだったんだな」と思えば、それがその人にとっての親との再会ですよ。
 ということは、「本当の親との再会」であるメシア降誕本祝典に連なるというのは、今までも可能だったし、今日も可能だし、またこれからも、ずっと、永遠にそれは可能なんですよ、だって天国は永遠なんですから。
 我々は、形あるものが具体的で動かないものだと思ってますけれども、最も具体的なものは、永遠の世界なんですよ。
 我々は滅ぶべき運命にある。この体は朽ちますよ、朽ちる。だけど、我々が目指してるのは人間の命じゃなくて、神様の永遠の命ですからね。
 そしてまた、神様と出会って一つになって永遠に生きる存在になる、というのが救いですよ。本当の救い。
 世の中は、この世の命が救われるのが救いだと完全に信じ切ってますね。
 テレビでドラマとか見ても、お医者さんが、「救える命があるんだ」と言ってがんばる。いや、それは尊いことですよ、本当に。
 だけどじゃあね、それで死んでしまったら救いは無い、ということになりますよ。救える命がある、ということでがんばった。でも失敗した。そしたらその時点で救いが無くなっちゃうじゃないですか。
 健康法もいろいろありますよ、健康法。すごい健康法を実践して、運動もして、食事もちゃんとして、100歳、200歳、300歳、400歳まで生きたとしても、永遠の命を失えば一巻の終わりですよ。400歳まで生きました、で終わりですよ。健康でしたね、で終わりですよ。
 だから本当にね、我々は、この演台とか、会場とか、生身の体、これが確かなものだと思い込んでしまってますね。うつろわないもの、確かなものだと思い込んでしまってる。
 でも本当は、最も具体的で確かなものは、実は、我々のまったく目に見えない、天国とか天上と言われるすばらしい永遠の世界。これが最も確かなものなんですよ。これが最も具体的で、最も実感があるべきものなんですよ。
 だから神様は、それに私たちを目覚めさせたい。なんとしても目覚めさせたい。
 いや、だってですよ、体はずっと元気で、世の中何もなければ、なんにも思わないですよ、神様のことなんて。だから神様いろいろ起こされてるじゃないですか。
 今世の中大変なことになってますけれども、この先神様がどうされるか分からないですよ。目に見える現象においては、もっと混沌とした状況を創り出されるかもしれない。ぐちゃぐちゃになるかもしれない。でも、たとえそうなったとしても、神様がそうされてる目的は一つですよ。
 いかに自分がいろんな病気になったり、世界が戦争だらけになったり、そういうことがあったとしても、神様の目的はただ一つ。私のことを思い出して、私のもとに帰ってこい、それだけですよ。そのためにすべてのことを起こされてるんです、神様は。
 だから私はね、この先何があったとしても、その神様の目的を信じられる心を与えていただきたいのですと、伏して神様にお願いしたいです。だってそう思えなければ地獄ですよ、地獄。何か起きたら、大変だ、人類滅んじゃうんだ、病気で死んでいっちゃうんだ、となるんですから、地獄ですよ、それこそ。
 でも世界メシア教である我々は、この先何が起きたとしても、神様の愛を信じ切る、ですね?
 愛という言葉があるということは、愛せない状況があり得るから愛という言葉があるんです。だからたとえ、全然愛がない、神様の愛なんて皆無だと思ったとしても、その時こそ、世界メシア教の我々は、「神様の愛はあります」というふうに思いたい、そう思います。
 このあと、ハレルヤコーラスのあとに演奏する祭典の最後の曲のタイトルは、「あなたがわたしになる」。これは、私が作詞したんですけれども、「あなたがわたしになる」んですよ。神様が「私」になってくださるんです。
 神様は、「あなたになっていいか」と聞いてきておられるんです。「あなたになっていいか」「それともあなたは自分で生きたいか」と、そう聞いてきておられる。
 なっていただいたほうがいいに決まってますよ。だって我々は、もう朽ちていくべき存在、罪の重荷をしょってて、もう救いようの無い存在ですよ。有限の存在。でもこの有限の存在である我々が、永遠である神様と一つになれば、それは栄光ですよ。栄光ある存在ですよ。
 そうじゃなければ、長く生きたって、もう8090歳で終わっちゃいますよ。後悔と、少しくらいは良いことしたかな、でもう人生終わり。そんなことでいいはずないじゃないですか、我々全人類が。
 だから、もし、人間にとっての喜びとか幸せが本当に存在するのだとしたら、それは、神様が私になってくださること、それ以外にはないんです。
 だって、こんな「私」ですよ。私たち一人ひとり、自分のこと誇れますか?こんな私のために、私のところにも来てくださって、神様のような存在、永遠に生きる存在になっていいんだよと神様はおっしゃってくださってる。
 だからイエスですね、イエス。それはもう、イエスのことは否定しようもない存在ですよ。偉大な存在。最初に神様がメシアとして選ばれた存在。でも実は、我々一人ひとりも「メシア」という魂をいただいている。
 だから、本当に、そこに上下は無いんです。役割の違いでこの世では上下関係はあったりしますけれども、私たちは兄弟姉妹なんです。兄弟姉妹ですよ、我々。もし全員が神様の魂をいただいてるなら、本当は、全人類が兄弟姉妹なんですよ。だとしたら、すばらしい世界になるに決まってるじゃないですか、家族なんですから。
 だから、そういう「新しき世」、新しき世がもう来たんです。来た。
 我々が一つの家族となって、兄弟姉妹となって抱き合って喜ぶ世界がもうあるんです。目の前にあるんですよ。だって神様が用意されてるんですから。神様は、それを、絶対に成し遂げられるんです。そして今、私たちは、その道に向かって歩んでる。全人類が本当はその道を歩んでるんですよ。そんな喜びありますか?本当の親のもと、全人類が兄弟姉妹となって、思いやりと、愛情を持って、光り輝く存在として生きていく。そんな喜びありますか?
 だからそうなるんですよ、これから。2022615日、今日、メシア降誕本祝典の日から世界は変わっていく。本当はもう変わってたんですけれども、でも、これから、本当にすばらしい光り輝く世界になっていくというそのスタートの日が今日である。その人類史に残る今日の日を、皆様とご一緒できて、感無量です。
 ありがとうございました。

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