PDF:七月度月次祭_真明様ご挨拶
「若く、清く、強く」
於:本部ご神前
観音様は一番位の高い所から一番低い位へ落ちて、それから一番高い位へのぼられるのであります。
昭和10年5月1日御講話
皆様こんにちは。
今日はとても暑いですね。私もいつものようにある程度話しますので、もし必要があれば水とかお飲みいただいて、また、トイレも行っていただいて──トイレで挨拶の音は聞こえるのでしょうか?──そして、なんと言いますか、リラックスして話を聞いていただけたらなと思います。
メシア降誕本祝典が2週間ちょっと前にありまして、皆様お一人おひとり、今どういうご心境なのかなと、そう率直に思っております。
私自身は、メシア降誕本祝典の時よりさらに、もう10倍も100倍も1000倍も、燃えるような、燃えたぎるような思いを感じる中で、今日の月次祭を迎えました。
また、もしそうでなければ、この暑い中来てくださる皆様にも申し訳ないことだなと、そのように思っております。
神様も、と言いますか、神様は、当然、昨日より今日、今日より明日、明日より明後日、明後日より明々後日というふうに進化、永遠に進化されるお方ですね。
明主様も、「万物流転」とおっしゃって、1年前の自分と今日の自分は違う、昨日の世界と今日の世界も違う。それどころか、もう、5分前の自分と今の自分も本当は違うんですよ、とおっしゃってますね。
そして、そういうふうに進化してないと、それこそ泥水が停滞するように、どんどん置いてけぼりを食っちゃいますよと、そう仰せですね。
だとしたら、メシア降誕本祝典は、5分前どころか、もう何百分、何千分も前の話ですね(追記:計算したところ、正確には2万分以上前でした)。
であれば、その時から今日にかけて、必ず、大いに進化しているはずですね、本来、万物流転しているわけですから、常に。
だから、メシア降誕本祝典が終わって、「ああ」と一息ついて、「今日は規模の小さい七月度月次祭というお祭りがあるなあ」ということではないと思いますよ。
またね、世の中や自分は、メシア降誕本祝典が終わっても何も変わってない、変わってないけれどもそれでいいんだ、という考え方もありますね。世の中は変わらないけれども私たちの思いが変わったんだ、それでいいんだ、という考え方。でも、そういうことではないんですよ。
というのは、5分前の自分と今の自分、普通、そんなに差が無いように思いますよね。でも明主様は、「神様は常に進化しておられるのだとしたら、そしてその神様が自分の中にいらっしゃるのだとしたら、5分前の自分と今の自分は何か違うはずだ」というふうにして、世の中とか、ご自分の心とか、ご自分の存在を見ておられた。
それに、もし、「メシア降誕本祝典が終わっても世の中は変わってない」と思えば、世の中は何も変わりませんよ。だって我々の思いが未来を造っていくんですから。
我々が、「変わってないな」と思えば何も変わらない。でももし我々が、「何か新しくなってる」「より良くなってる」と思えば、それは神様がそういう未来をくださるかもしれないですよ。だって我々の思い、人類の思いが未来を造っていきますでしょ。
というように神様は、永遠に新しい。どんどんどんどん新しくなられる。明主様もそういうお方ですね。
永遠に進化する、というのは、もしグラフにするならば、ずっと右肩上がりのグラフになりますね。下がることはない。
だけど、人間の実感というのをグラフにした場合、基本的には、生まれて20歳、30歳ぐらいまでは右肩上がりだけれども、そのあとは、右肩下がりのグラフになりますよね。だって、私自身も含めてですけれども、30代、40代くらいになったら、膝がちょっと硬くなるとか、体が衰えていきますし、さらにそれからもっと歳を取ってくれば、当然いろんな病気にもなる。
だとすると、その人間の実感としてのグラフが、永遠に右肩上がりの神様のグラフと一致しませんね。だって、神様のグラフは永遠に進化するグラフ。自分のグラフは完全に下り坂のグラフ。だとしたら一致しようがないじゃないですか、どう考えても。
いや、確かにね、赤ちゃんとかを見て、「赤ちゃんには無限の可能性があるな」とかは思えますよね。あるいは10代の人を見て、自分のやりたいことを見つけてがんばってるな、神様は永遠に進化されて、この若い人たちを通して未来を造っていかれるんだな、みたいなことは何かイメージできるかもしれないけれども、明主様がおっしゃっているのはそういうことじゃないはずですね。
だって、どんな人だって、最終的には、右肩下がりのグラフになりますし、人間の体というのは寿命がありますからね。
癌もありますね、癌。癌という病気。で、これももちろん、とんでもない病気だという見方もあるし、あるいは、明主様のように、浄化ということで、これは良いことなんだ、体がもっとひどくなるのを防ぐために──自分を維持して長生きさせてくださるために──こういういろんな病気を自分の体に発生させてくださってるんだな、なんてありがたいことなんだ、という見方もありますね。
でも、それだけではなくて、そういうことも含めて、もっと大きな見方というのがありますよ。
確かに我々は、ある年齢を過ぎたら、もう衰えていく一方ですね。でも、神様は永遠に進化される。そういう中で、もし我々は、我々の実感を主体としてたら、一生神様のグラフとはマッチしないですよ、一致しない。
永遠の進化と言われても、自分はこんな病気も抱えてます、自分の母は認知症です、とても永遠の進化とは思えません、となりますよね。
でも、たとえ外側からはそう見えたとしても、本当は、中側の本体は、どんどんどんどん進化して、常に若返ってるんですよ、本当はね。今、私たちは、常に若返ってるんですよ。だって神様は永遠に進化されるお方であって、その神様が私たちの中にいらっしゃるわけですから。
いや、確かにそのようには思いがたいですよ、だって我々には肉体が非常に大事ですのでね、それが主体になるのはやむを得ない。
だけれども、明主様も、「新人たれ」ということでね、常に新しく、常に新しくとおっしゃってますね。というように、我々の中側は、どんどんどんどん若返ってるんです、本当はね。全員ですよ。全員、常に、若返ってる。
そう考えたら、今日の月次祭も、メシア降誕本祝典のあとのなんか規模の小さな月次祭と思うよりも、本当は、進化してるんですよ。
人間の目からは、メシア降誕本祝典は一番上、そして、その下のほうに月次祭ですけれども、本当は、今日は、メシア降誕本祝典の時よりもさらに進化してるわけです、世界は不断の進化を遂げているわけですから。
だから、メシア降誕本祝典が上で、その下の月次祭、ではなくて、今日の月次祭は、規模の大小の問題ではなく、メシア降誕本祝典を超える「月次祭」。規模が小さいとか大きいという見方は、人間の体を主体とする──外側の世界を主体とする──最終的に右肩下がりになるグラフの見方ですよ。
でもそうではなくて、私たちは今日、メシア降誕本祝典よりもさらに進化した月次祭に参列させていただいている。また、そういう思いで臨まなければ、今日、神様からの祝福を被るというのは難しいんじゃないかなと、そう思います。
メシア降誕本祝典にお上げした明主様の御歌で、特に私が、ああ、これは大切なことだなというふうに思った御歌がありまして、それは、「三千年の桃実るてふ此年に国も高天も御祝典のあり」という御歌。
三千年かかって実がなるという桃の木がありました、これがついに実るこの年に、国も高天も──高天というのは、高天原と言って、天国のことですね──そうだとすると、この「国」は地上のことですね、その地上でも、天国でも御祝典がある、祝典がある、という御歌。
これは昭和3年の御歌なんですけれども、これが本当に今年にぴったりの御歌だな、メシア降誕本祝典を執り行う今年のために明主様がご用意くださってた御歌なんじゃないかなと、そう思いました。
めでたい年に、地上においても天国においてもすばらしい祝典が執り行われますよ、という御歌なんですから、我々の今年の状況にぴったりですね。
教主様も、本当の祭典は天国の祭典だとおっしゃってくださった。これ、普通ちょっと意味は分からないですよね、だって見えないから、天国の祭典は。
僕は、教主様が、何か学者のように明主様の聖言を研究してそういうことをおっしゃったのとは違うと思いますよ。何か、学者的に、「こういう御歌があるから天国でも祭典があるんだな」と思われたのとは違うと思いますよ。
いや、もちろんね、この御歌に触れておられたことはあったと思うんですけれども、そういうことではなくて、もっと総合的な明主様からのお導き、というのでしょうか、そういうことだと思うんですね。
もちろん、教主様の座にお立ちになっておられるということもありますし、そして、キリスト教のことも含めて、明主様から命じられて吸収されたさまざまなものを通して、教主様は、明主様がお持ちのビジョン、そのビジョンを感じられるに至って、そして、奇しくも、「天国にも祭典がある」というように、明主様と同じことをおっしゃってると、そういうことではないのかなと思います。
明主様は、「国も高天も御祝典のあり」とおっしゃってるんですから、天上にも祝典がありますよ、ということですね。ということは、メシア降誕本祝典が地上であったんですから、天国でもメシア降誕本祝典は執り行われていた、そういうことですね。
では、その、天国で行われたメシア降誕本祝典とは一体なんなのでしょうか。地上の祝典の内容は分かりますよね、もう終わりましたし、式次第も知ってますから。歌を歌ったり挨拶があったりお言葉があったり。これははっきりしてますね。
でも、天国のメシア降誕本祝典とは一体なんなんだと、この明主様の御歌を見るとそう思わざるを得ないですよね。
では天国においてもね、似たような式次第で、何時に開式します、というふうにしてるのかというと、そういうことではないんですよ。
というのは、天国というのは、神様がいらっしゃって、そして、すべてが神様ただお一方のために存在する世界ですからね。今日も玄関に「主之栄光」の御書が掛かっておりますけれども、あらゆる栄光──祝福とか、力とか、喜びとか、悲しみとか、息とか、命とか、思いとか、言葉とか──その、あらゆるものの栄光を神に帰して、そして、人間では想像もつかないような喜びと、また安らぎと癒しに満ちた世界、それが天国です。
そもそも、神の御座に近づくということ、これを私たちは望んでることになってますけれども、本当の天国の状を知ったら、それを本当に望む人は私たちの中で一人もいないかもしれませんよ。天上のあまりの清さと、あまりにも命に満ち満ちている状にちょっとでも触れた瞬間、とうてい自分ではこんなところに行けないと思うような世界だと思いますよ、本当はね。
だけど神様は、私たちに、「天国に立ち返らせていただきます」とか、「天国に上ります」という言葉を発するのを許してくださっていますね。
でも実際の天国のパワーは、我々の想像を遥かに超えるパワーですよ。
この御神体も、これは紙切れじゃないわけですからね、これは。紙切れとプラスチックで出来たもの、ということじゃないんですよ、本当はね、御神体ですから。
そもそも、神様を背にしてこんなふうにお話をさせていただくこと自身、本来はあり得ないことなんですけれども、でもそういうこともね、神様は許してくださっておられますね。
というように、とにかく天国というのは、すべてを神様に帰す世界であって、もう圧倒的な喜びに包まれている。
でも、我々も、メシア降誕本祝典に臨むにあたって、「神様の魂をいただいてます」ということで、喜びとかいろんな思い、あらゆる思いを神様に捧げるつもりで臨みましたよね。「メシアという魂をいただいてます、神様のものです、すべては神様のものです」ということで臨んだ。だとしたら天国と同じじゃないですか。
でも、天国のメシア降誕本祝典というのは、別に何時から何時とかいうことではなくて、天国の働きそのものが、永遠に神様を全人類でお讃えしている、そういう働きですね。そこには天使的なご存在もいらっしゃるでしょうしね。
だから、天国の働きそのものが、いわばメシア降誕本祝典のようなものですよ。天国は、私はあなたの子供です、あなたは私の親です、と神様を讃え続けている世界ですからね。だから、あえて言うなら、天国は、常にメシア降誕本祝典ですよ。
で、今日の月次祭。これは私たち何をしようとしているのですか?
同じですよ。同じことをしようとしてると思いますよ。違いますか?
メシア降誕本祝典であれ月次祭であれ、我々が臨む心構えは変わりませんね。我々の日常生活、いろいろありますね。でも、そのすべてを神様のみ前にさらけ出して──本来、さらけ出すも何も、ここ(背にしておられる御神体を指し示されて)にいらっしゃって、もう私たち今、見られちゃってますね、心の奥の奥底まで今ご覧になっていらっしゃいますね──そして神様は、「6月、あなたの日常で起きたすべてを私に捧げなさい」「7月もあなたを養い育てるが、それでいいか」とおっしゃってる。
そう考えると、もし天上の働きが永遠にメシア降誕本祝典の働きであって、そして今日の月次祭も、我々はすべての栄光を神様に帰すために集っているのだとしたら、今日は七月度月次祭ですけれども、「メシア降誕本祝典並びに七月度月次祭」と言ってもいいんですよ、だって私たちは、天上の祭典の真似事を現界でもしようとしてるんですからね。
だから、祖霊大祭も、「メシア降誕本祝典並びに祖霊大祭」ですよ。いや、それは気持ちの上で、という意味であって、いちいち毎回言いませんけれどもね、それは。それに現実の上ではメシア降誕本祝典は1回しかしませんのでね。
でも我々は、そのような思いで、準備期間も含めて、この七月度月次祭に臨んでいたんだろうかと、そう思うんですね。
むしろ、「メシア降誕本祝典のあとの規模の小さな月次祭」という認識だったんじゃないかなと思うんですよ。もしそうだったとしたら、そこに神様の思いとのずれができちゃってますよ。
やはりそういう姿勢であったならば、神様に申し訳なかったんじゃないかなと思うんですね。むしろ、今日、メシア降誕本祝典を超える、すばらしい、栄光輝く月次祭を執り行わせていただいて、それに参列してるんだという思いになれば、神様が、我々のありとあらゆる問題をご覧になって、祝福を分け与えてくださるかもしれない。
それで、今日お話ししたい本題がありまして、それは、メシア降誕本祝典に関わることなんですけれども、メシア降誕本祝典は降誕、降って誕生するですから、我々は、私の中にある神様の魂であるメシアの魂をお受けします、神様にお仕えします、という思いで臨みましたよね、メシア降誕本祝典に。
キリストの再臨ということも、キリストが再び臨むですから、キリストの魂が私に臨んでくださってるんですね、それをお受けします、という思いを持たせていただいた。
だから、メシア降誕本祝典には、人類一人ひとりにメシアの魂、キリストの魂をいただいてる、それをお受けします、ありがとうございます、感謝いたします、ということで臨んだ。
それはそうなんですけれども、それだと、このメシア降誕本祝典は50%しか受けてないことになるんですよ、本当は。50%。
どういうことかというと、それは、メシア降誕、メシアが降ってくる、お受けする、お受けします、信じます、メシアの魂を信じます、お受けします、キリストの再臨をお受けします、信じます、それは全部すばらしいですよ、確かに。
だけど我々の本体は、教主様がいつもおっしゃってるように、人間側の立場ではなくて、神様の魂のほうですよね。それが本体なんでしょ、我々の。
我々は、「メシア降誕」という言葉を見た瞬間に、「メシアが降ってくる」というのをイメージしますよね。メシアが降って生まれる、ということをイメージする。
だけど本当は、メシアのほうが我々の本体ですから、だとしたら、我々は「降るほう」ですよ。「お受けします」ではなくて、「これからお前のところに行くぞ」が、我々の思いのはずですよ。
キリストの再臨も、再び臨んでくださるのですね、という見方もありますよ。でも我々の本体は、再び臨まれるほうではなくて、再び臨むほうですよ。
「あなたがわたしになる」。これも、人間側の思いとしては理解できますね、「あなたがわたしになる」。でも本当は、我々は、本体の立場から言えば、「わたしがあなたになる」ですよ、本当は。神様の「わたし」が、我々の本体なんですから。
もちろん神様としては、このことをあまり強調しておられませんね。というのは、こういう話だけになると、人間は、「私は神だ」と言って思い上がる傾向がありますからね。だからきっと、神様としては、受ける人間の立場のほうを強調しておられる。
だけど本当は、私たちの本体は神様ですよ。だから、お受けするほうではなくて、降るほう、受けさせるほう。
我々は、「お受けして信じてお仕えします」が自分の取るべき立場であり、またそれが信仰だと思ってますけれども、それでは一生新しく生まれられませんよ、ただそれだけでは。人間のほう、受けるほう、信仰のほうを主体としてれば、一生新しく生まれるということには到達できません。
だって明主様も、光のお言葉で、「神は光にして光のあるところ平和と幸福と歓喜あり」「無明暗黒には闘争と欠乏と病あり」「光と栄えを欲する者は来れ」「来りてメシアの御名を奉称せよ」「さらば救われん」と仰せじゃないですか。
「来れ」ですから、ここ、「来い」と仰せですよ。「来い」。でも我々は、いつも、「帰らせていただきます、帰らせていただきます」「天国に帰ります、帰ります」「お仕えします、お仕えします」というほうを主体とした表現しかしてませんよね。でも我々の主体は「来い」と言うほうですよ。「わたしのところに来なさい」と言うのが私たちの立場ですよ、本当は。
いや、でもこれが、我々にとっては、「難しい話」みたいになっちゃうんですね。なんか難しいな、と思ってしまう。でも本当は、これは、我々にとって最も簡単な話ですよ。だって本当は、我々の中にいらっしゃる神様の魂が我々の主体ですからね。
だからこれは、本当は、当たり前の話なんだけれども、我々が自分と神様という存在を分けたいがゆえに分からないんですよ。何の話をしてるんだろう、となるんですよ。自分とは関係のない話だな、となっちゃうんですよ。
でもこれは、人間としての基本の基本の基本みたいな話ですよ、本当はね。だって人間一人の力では生きられないじゃないですか、どう考えても。
しかもこの問題は、今日の聖書拝読にもあったように、二千年前から同じ問題を抱えてましたよ、人類は。
ユダヤ人の人がイエス・キリストを糾弾してる。イエスは、「いや、私は良いわざしかしてないのに、なんでそんなに私を責めるんですか」と言う。そしたらそのユダヤ人の人たちは、「いやいや、私たちは、あなたの良いわざについて話してるんじゃない」と言って、そして、「あなたは人間であるのに自分を神としてるじゃないか」「それが神様に対して不敬であり無礼だ」と言う。それに対してイエスが、「いや、あなた方の預言者たちも言ってるじゃないか。『あなた方は神々なんだ』と言ってるじゃないか」と言う。
神々ですよ。私たちみんな、人間じゃなくて「神々」ですよ。
続けてイエスは、「神様が私たちのことを神々と呼ばれているのだとしたら、私が『神の子』だと言って何が悪いんだ」と言う、そういう内容でしたね(「ヨハネによる福音書」第10章31節~36節)。
我々は神々なんですか、それとも人間ですか?
この聖書の箇所は、キリスト教においては、預言者とか、そういう特殊な一部の方々のみが神々だという解釈だと思いますけれども、我々は違いますよね。我々は、全員平等。一部の人たちだけが神々ではなくて、全員神々。
もちろん役割の差はありますよ。イエス・キリストとか明主様という存在と我々では役割の差はありますよ。でも兄弟姉妹ですよ。神様の魂によって結ばれた兄弟姉妹であり、神々である、我々は。
もちろんそれは思い上がって言うことではないですよ。自分の「人間」のところに神様を引きずり降ろして、自分が望んでいることを全部実現したい、自分の利己的な願いを叶えたい、自分は神だから言うこと聞け、ということではまったくないですよ。そこは注意しないといけない。
でも、というように、二千年前からこの人間と神の問題はあった。ありましたね、今。イエスは、「あなたは人間なのに自分を神としてる」と問題にされてた。でも結局、その問題は二千年の間解決されないまま来て、そういう中で明主様がお出になった。明主様。
今日の「明主様御歌」の1首目。「神人と唱ふる深き言の葉の謎はいよいよ吾証さなん」。
明主様は「神人合一」ということをおっしゃってますけれども、その神と人との問題は、実は、もう二千年前から謎だったわけです。だってユダヤ人の人はその謎が分からなくて、結局、「神の子」だというイエスを殺しちゃいましたよね。そして、その謎は残されたまま二千年経ちました。
でも明主様は、神と人との問題についての謎をいよいよ私が証明するよと、そう仰せですね。何か謎があるんですよね、謎が。
でも我々は、「神人合一」のことを、全然「深き言の葉」として理解してなかったと思いますよ。単純に、明主様を生き神様みたいな存在として、明主様はすごい、神人合一の境地に立たれた、明主様がおっしゃることは神様のおっしゃってることだ、ぐらいですよ、我々の理解は。そんな理解は、深くも謎でもなんでもないですよ。他の宗教でも大体そうですよ。教祖をただ生き神様のように崇めてる。
でも我々は、教祖のようになれる、これを訴えている。
そしてそれは、絶対に明主様も願われてたことですよ。そうじゃなければ、なんで明主様ご自身がされてた浄霊も含めて全部私たちにもさせてくださってたんですか?
というように明主様は、神様と人という問題についての謎を、いよいよ証すぞ、と仰せになった。だって二千年間解決されなかったんですからね。当時、大部分の人がイエスの言っていることが理解できずに、イエスを殺してしまったんですから。
2首目。「思ひきや賤の男子の現身に宿かり給ふ観音畏し」。
思いもしなかったことだけれども、こんな賤しい自分、こんな賤しい男の子である自分に、観音という存在が宿を借りに来てくださった、なんと畏れ多いことだろう、という御歌。
これは明主様の人間側の思いですよ。「神人」の中の「人」のほうの思いですね、これは。こんな賤しい自分なのに畏れ多い、自分は本当は観音が降ってくれるような存在ではないのに、ということですよね。
そういう意味においては3首目も似たような御歌ですね。「ハレルヤの歓呼の声に輝いて降るメシアを仰ぐ嬉しさ」。
明主様は、メシアというご存在を、ご覧になってますね、仰いでらっしゃいますね。
そして、明主様がおっしゃる「メシア」の中には、当然、イエス・キリストも含まれてるということが、次の4首目の御歌ではっきりしてきますね。
「ハレルヤの歓呼の渦の直中に静かに天降るメシアキリスト」。
メシアとキリストは一つ、ということですね。
イエスが、「私は神だ」と言った時、もちろんイエスの見た目は人間ですよ、「あなたは人間であるのに」とユダヤ人に言われたわけですから。でも、イエスをお使いになってらっしゃったお方、イエスと一体であられたお方が神様であった。そのイエスをお使いになっておられたお方と同じ存在が、明主様の中に、我々の中に、静かに降ってきてる、そういうことですね。
そして次、5首目。「吾こそは罪ある者を救はんと権威を有ちて世に降りける」。
「権威を有ちて世に降りける」、「降りける」、ですよ。
仰ぐのではなくて、今度は降ってきてますよ。「私は世に降る」となってますね、この御歌。
だとしたら2首目とか3首目の御歌と矛盾するじゃないですか、本来。
「賤の男子」の明主様、「降るメシアを仰ぐ」のを嬉しいとおっしゃる明主様。その明主様と、一方、「吾こそは」「権威を有ちて世に降りける」という明主様。
明主様は、2つのお立場についておっしゃってますよ、ここで。その両方のお立場をご自分のこととして表現しておられますね。降ってくる神様のお立場のほうも「吾」と表現しておられるんですから。
で、次の6首目。「弥果てに万人悉我膝に鰭伏す時のたのしまれぬる」。
最後の時になったら、万人、すべての人は、私の膝の前にひれ伏す、そういう御歌ですね。
だから、これ、神と人との関係のことが分からなくて、ただ単純に、人間明主様に全人類がひれ伏すんだと言ったら、それは普通、カルトですよ。この「我」というのを明主様に当てはめて、全員が自分にひれ伏すのを楽しみにしてる教祖、そういう御歌だ、という解釈をするんだったら、もうそういう宗教はカルトですよ。
だけど、この御神影がありますね?(ご神前脇の御神影を指し示される)
明主様はこの御神影のお写真を撮らせた時、このお腹辺りに焦点、ピントを合わせなさいと仰せになった。顔じゃなくて、お腹。
普通はピントは顔に当てさせますよね。でも、そうじゃなくて、腹中に神様の魂が宿ってるということで、丹田辺りにピントを合わせなさいと言われて写真を撮らせた。だから、この御神影を見ますと、お腹と同じような位置にある手が非常にはっきり写ってますね。
でも、せっかく明主様はそうされたのに、我々はその意図が分からないから、「いや、人間明主様がすごいんだ」「明主様だけがすごいんだ」ということの発想から、今まで我々が使ってきたいわゆる御尊影というのは、顔のほうに焦点が行くように修正をかけてるんですね、人間のほうで。
顔の辺りをもっと明るくしたり、そのような修正を加えてしまっている。明主様のご意図が分からないから、そんなことをしてしまっている。
でも明主様は、明主様ご自身ではなくて、明主様ご自身の中にいらっしゃる神様を見てほしかったんですよ。「賤の男子」じゃない、明主様の中におられるご存在をこのお写真を通して見てほしかった。でも我々は、ずっと、「賤の男子」の中に神性を見出そうとしちゃってますよ。そうではなくて、私の中にいる神様を仰いでほしいというご意図で、明主様はこのお写真を作ってくださった。
だからこれは、メシア教においては、いわゆる尊い人のお写真という意味の御尊影という言葉ではなく、神のイメージ、ということで、御神影と呼んでおられますね。
メシア教の御神影は何も修正されてないんですよ。明主様が願われた通りのイメージが、メシア教の御神影。今までの御尊影は、明主様のお顔に焦点が行くように修正してしまったもの、そういうことです。
だから、この御神影を拝する時、外見の明主様に焦点が行ってしまうのではなくて、明主様の中にいらっしゃる神様に焦点が自然と合うように明主様はこの御神影をお作りくださったんですよ、元は。
だから、成井理事長に言われたわけではないですけれども(一同笑声)、まだ御尊影から御神影に替えてない方がいらしたら、それは替えられたほうがいいですよ。だってこの御神影は、明主様が願われた通りのもので、なんにも修正してないんですから。
この御神影にさせていただいて、そして、このお写真を通して明主様の中の神様の魂を拝すれば、我々自身の中にある神様の魂が共鳴すると思いますよ、きっと。そういうことが起こるように意図して明主様は作られたんですから、この御神影を。
そういうことで考えると、次の7首目の、有名な、「只一人吾只一人主の神の任しを帯びて世ぞ救ふなる」。
この御歌を、我々は、長年、「明主様ただお一人」というふうに解釈してきた。そうですね?でもそうではなくて、この「吾只一人」の「吾」というのは誰ですか?
それは、私たち一人ひとりの中にいらっしゃる、「吾こそは罪ある者を救はんと権威を有ちて世に降りける」の「吾」ですよ。神様の「吾」。
神様は唯一のお方ですよ。でも、神様は、その唯一性というものをたくさん創ってくださった。これ、普通は理解できないですよ、頭では。でも明主様は、「一神にして多神」とあっさりおっしゃってますね、「一神にして多神」。
御歌にも、「ヱホバを負うて降るメシアは」というの、ありますね。ええと、「立罩むる世の暗雲をうち払ひヱホバを負うて降るメシアは」でしたね。
エホバを──神様を──メシアが背負ってるんですよ。「ヱホバを負うて降るメシアは」ですから。
だから、メシアの魂が我々一人ひとりの中にあるのだとしたら、その我々の中のメシアが、神様であるエホバを背負って、「任しを帯びて世ぞ救ふなる」ですから、神様が、我々の本体であるメシアに、つまり我々に、これを救え、これを救えとおっしゃってるんです、我々一人ひとりの中で。だから我々はいろんな境遇に遣わされてるじゃないですか、一人ひとり、今。
私が救うんだ、救うのは私だけだ、と、そう皆様お一人おひとりの中におられるメシアの魂がおっしゃってるんです。その「メシア」を、明主様は「吾」と表現しておられますね。お受けしますのほうの人間の立場ではなくて、私が救うんだ、の神様のほうのお立場を、ご自分の「吾」と表現しておられる。
だから、明主様の聖言の深さというのは、人間の知恵で簡単に理解できるものではない。
普通の人間の頭で考えれば、「明主様だけがすごいんですね」で終わりですよ。吾只一人と聞けば、「明主様だけがすごいんだ」「他の宗教全部だめだ」「明主様のみが真実なんだ」で終わり。でももし本当にそうだとしたら、なんでキリスト教と呼応するとおっしゃったんですか?そこにも矛盾が出てきちゃいますよ。
だから最終的に、今日の御歌の8首目は、ぱっと見てまったく意味が分かりませんけれどもね、「人にして神にしありぬ神にして人にあらねば世ぞ救へまじ」(追記:挨拶中御歌の意味を誤って伝えたので、以下の段落一つのみ内容を修正)。
私は人間であって神である。神であって人間である。そうでなければ世は救えないんだと、そういう御歌ですね。
この御歌の内容自体、確かにね、なんか難しいな、と思いますよね、我々はこのような発想に慣れてないから。我々はむしろ人間的な考え方に慣れてますからね。
だけど、この御歌のようでなければ世が救えないんだとしたら、それは我々にとって問題ですよね。だって我々、自分がただ被るためだけじゃなくて、世を救うためにいるんでしょ?
だって、少なくとも皆様の多くは救世教に入りましたよね。世を救う教え、ということですね。世を救いたくない、自分だけ何か御利益にあやかりたいんだとしたら、明主様の宗教に入る必要ないですね。だって明主様は全人類を救うのが目的ですから。
ただ参拝して、なんか良いことあったらいいな、じゃ意味ないですよ。明主様の信徒でなくていいですね。近くのお寺とか神社に行って、お賽銭投げて、もうそれで十分ですよ。
でも、もし我々世を救いたいんだとしたら、今私がしている話が一見分からないなと思っても、やはり、「只一人吾只一人」という存在が自分の本体なんだということを思い出さないといけない。だってそうじゃなければ世が救えないんですから。
だから、メシア降誕本祝典。私自身も含めて、「降誕」という言葉を聞いて、受けるほうが主体で臨んだんじゃないかなと思うんですよ、メシア降誕本祝典に。だけど、それじゃあ50%ですよ、本当はね。
でも今日の明主様の多くの御歌を見れば、明主様が我々に望んでおられることは、「あなた方が人間であるのはもうよく分かりました。でもあなた方は神でもあるじゃないか。そうでなければ世は救えないんだぞ」ということだとしたら、遅ればせながら、今日の月次祭において、メシア降誕本祝典にそういう思いで臨めなかったという神様と明主様に対する悔い改めの心をもって、明主様に、「メシア降誕本祝典は、降ってきたものを受けるほうの立場だけではなくて、降るほうの立場を思い出させていただくための祝典でもありました。神様の魂が私の本体でした」と言わせていただくべきではないでしょうか。
では、もし自分の本体が神様だとしたら、最初に言ったグラフの話、あれはどうなりますか?
それは、もし自分の本体が神様だとしたら、これからの人生は、最終的に右肩下がりになるグラフの人生じゃないですよ。そうではなくて、もし自分の本体が神様だとしたら、これからは、永遠に右肩上がりのグラフですよ。我々に待ってるのは、永遠に栄える道しかない、ということです。
だって、「輝く未来へ進みゆく」、なんでしょ?教主様の「新しき世」にありましたよね、「輝く未来へ進みゆく」。
人間を主体としたグラフなら、全然輝く未来じゃないですよ、待ってるのは。これからも悩みが多い未来だな、ですよ、待ってるのは。これも心配だな、あれも心配だな、自分の体も、家族のことも、子供のことも、お金のことも心配だな、ですよ、待ってるのは。
でも、もし本当は自分に神様の立場があるのだとしたら、これから先は進化しかないんです。
でもそこで、「でも現実的にいろいろあるじゃないか」となりますね。「いや、そう言われても」と、そうなりますね。自分には人には言えないいろんなことがある、こんな病気も持ってる、もうがんじがらめのことがいっぱいあります、となりますね。がんじがらめ。
でも、今日の聖言にありましたね。観音様は一番高いところから一番低いところに行かれて、そしてまた一番高いところにのぼられる、そう明主様は仰せでしたね。
我々は、自分はがんじがらめだ、孤独だ、救いようがない、自分にしかこの苦しみは分からない、どん底だと、そう思ってるじゃないですか。でも、神様が行かれるのはそのどん底ですよ、だって一番下まで行かれるというんですから。
自分一人で悩み苦しんでると思ったら、なんと、一番高いところにおられるお方が、そこから、自分がいる一番低いところまで来てくださる。そこを救うためですよね。だから神様は、「あなたは救いのために今この経験をしてるんだよ」と、そう仰せになってる。
一番低いところに来てくださるんですよ。一番低いところと言ったら、我々の生活そのものじゃないですか。生きていく中で感じることとか思いとか、生活の状況とか悩み苦しみとか、我々はそういうのを常に持ってますね。その一番低いところまで、メシアが──観音はメシアになったわけですから──メシアという魂が一緒に行ってくださる、私たちの中で。
でも、それで終わりじゃないんですよ。だって、一番低いところから──救いようがないようなところから──今度は、一番高いところまで戻ってくださると、そう明主様は仰せですね。
私が言いたいのは、今、我々が抱えていることそのものについてですよ。一番悩んでることそのもの。そのことについて、それを、一つの言い方としては、「ここに遣わしてくださってありがとうございます」「ここをあなたが救おうとしていらっしゃるんですね」「天国に迎え入れたいのですね」と言わせていただく。
一番低いところから一番高いところに戻っていかれるということは、神様としては、その一番低いものを迎え入れたいからですよね。
そもそも、観音様が、メシアが、一番低いところに行かれる目的はなんですか?救うためでしょ、一番低いものを。
一番低いもの。我々の目から見たらとんでもない、何の役にも立たないみたいなもの。それが一番高いところで役に立つんだと、そう神様はおっしゃってくださってる。我々が一番低いことだと思っていることが神様のお役に立ってるんですよ。だってそうですよね、我々は救いのために遣わされてるんですから。
だからそれは、「お捧げします」「お委ねします」という思いでもいいし、また、時には、本来私たちは神様側なんですから、分かっても分からなくても、「私はこの思いを救いに来た」「私はこれを救いに来たんだ」と思ってもいいんですよ。
「大変だ、大変だ」「お願いします」ということだけではなくて、思い切って、「吾こそは罪ある者を救はんと権威を有ちて」の明主様の御歌を思い出して、それを自分に当てはめて、そして、「私は罪ある者を救うために来たんだ」「神様の権威を預かってここに来た」と言わせていただく。それで、今度は一番上まで帰るんですから、「これを神様のところにお持ちします」というね、そういうような言葉を発してもいいんですよ。
人間の子供も、どんな子供であっても、親が話してる言葉の真似をしながら言葉を覚えていきますよね。親が日本語を話してたら、子供も日本語を話すようになるし、親が下品な言葉を使ってたら、子供もそれを覚える。
そうだとして、確かに我々では神様の声は聞こえない、分からない。でも、神様側の立場があなた方にはあるんだよと、それを明主様は教えてくださってるわけですから、自分がそういう立場の存在だという前提に立って、「私はこれを救いに来た」という言葉を発してみる。
だから、「赦してください」ではなくて「私は赦す」ですよ、むしろ。そういう言葉を発する、ということです。
自分が今抱えている問題について、自分自身はそれにどっぷり浸かってますけれども、本当はそれを救いに来てるんだとしたら、自分自身の中に向かって「赦す」「祝福を与える」、そういう言葉を発しなければならない。
だってそれが神様がおっしゃる言葉ですよね。神様は、「迎え入れてください」「お赦しください」とはおっしゃらないじゃないですか。
我々は神様の真似事をしたいんだとしたら、神様のおっしゃる言葉はこういうことかなと思って、「赦す」「祝福する」という言葉を、真似事でもいいから使ってみる。そうしたら、いつか一人前の神様の子供になれるかもしれないですよ。だって人間の子供でも、人間の親の真似事をしていつの日か一人前になりますからね。
だから、我々では神様のことは確かに分からないけれども、でも、神様というご存在がいらっしゃるとしたらきっとこうだと思って、そういう言葉を発していったら、もしかしたら、グラフがこれからずっと下がっていくグラフではなくて、永遠に進化するグラフ、ずっと右肩上がりのグラフの存在として神様は見なしてくださるかもしれませんよ、私たちのことを。
我々の日常生活はいろんなことがあって、我々は低いところに行っている。でも、そういうこと全部を使って、神様は、どんどんどんどんより良い世界、よりすばらしい世界を造ってくださっている。
しかも、神様にお仕えするというのは、死んでも続くんですよ。
死んだとしても、そのあとも、もっともっと喜びを持って神様にお仕えすることは続いていく。そうなんですから、もうそれを今日から始めたらいかがですか?
だとしたら、今日からの人生は、ずっと若返りの人生ですよ。だって神様にお仕えする道は、ずっと若返る道、永遠の進化の道、永遠に新しい存在となっていく道なんですから。
というようなことを明主様は、絶対我々に願っておられたと思うんです。我々が苦しんで死んで終わりの存在ではなくて、永遠に栄えて、そしてすばらしい世界を造っていく、それを願っておられた。「世を救ってくれ」と、それを私たちに願っておられた。
だから、本当に、私たちは、メシア教全員で「輝く未来へ進みゆく」んです。ですよね?
そしてもちろん、神様のお許しがあれば、神様の光に触れて、もっと仲間が増えるかもしれない。
我々は、本当にね、低いところに遣わされてますよ。遣わされてるけれども、それは救いのためですよ。救いのためであり、世の中のため。
だって、衰えていくということに誰も例外はないですよ。誰でも衰えていくし、死んでいく。でもそれも、すべてを命に満ち満ちたものとするために、私たちは一時苦しんでるだけなんですから。いや、確かに、長くて、本当に苦しいこともありますよ。だからそういう時は、お互いを励まし合いながら、神様の救いの道、これを皆様と歩んでまいりたいと思います。
ありがとうございました。