七月度月次祭
2022年7月1日
明主様御歌
神人と唱ふる深き言の葉の謎はいよいよ吾証さなん
思ひきや賤の男子の現身に宿かり給ふ観音畏し
ハレルヤの歓呼の声に輝いて降るメシアを仰ぐ嬉しさ
ハレルヤの歓呼の渦の直中に静かに天降るメシアキリスト
吾こそは罪ある者を救はんと権威を有ちて世に降りける
弥果てに万人悉我膝に鰭伏す時のたのしまれぬる
只一人吾只一人主の神の任しを帯びて世ぞ救ふなる
人にして神にしありぬ神にして人にあらねば世ぞ救へまじ
聖言
本紙一周年を記念して 人類幸福の道拓けん 自観教主感懐を語る「神の力顕現 宇宙に加護の時来る」 昭和25年3月11日
問 メシア(救世主)はイエス・キリストにも冠されているが、それとはどんな関係がありますか。
明主様 西洋では一応キリストをメシアと称しているが、まだしっかりした定義のもとに謂っているわけではない。救世主といっても、真にその目的を達成したものはない。二十世紀前半まではその実力を顕現するまでにはゆかなかったかもしれないが、然し、愈々、これからが神の実力が発現される時期に入ってきたといえる。西洋においてはキリストもさぞや本来の実力を発揮されることと思う。而して東洋においてはメシアがほんとうに御神力を発現されることと確信する。だから従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない、もっと神秘にして幽邃な御神力がはじめて登場することになる。私はもちろんメシアの代行者であるから、今後、如何なる形態によってメシアの御働きが行われるか、想像だに許されないが、しかし、現在の僅かではあるが、神の御動静から推察してこれはまた大ヘンな御霊力が宇宙に御加護あられるということが申してもよいと思う。
『救世』53号
*抜粋
昭和10年5月1日 御講話
観音様は一番位の高い所から一番低い位へ落ちて、それから一番高い位へのぼられるのであります。
聖書
ヨハネによる福音書 第10章22節~39節
そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである」。そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。
『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(⽇本聖書協会)