PDF:「前のみを、見る」 真明様メッセージ No. 13

 

※英語とポルトガル語でなされたビデオメッセージの和訳

前のみを、見る

明主様は、昨日の吾と今日の吾とは必ず違うところがある、いや、五分前の吾と今の吾とも違っているのだ、とおっしゃいました。昨日の世界は今日の世界とは同じものではない、ともおっしゃいました。
 明主様は、私たちが、毎分、毎秒、常に進化し成長している、日々新しくなっていると、そう仰せなのです。世界も同じです。世界も、毎分、毎秒、常に進化し、改善され、神様によって新しくなっていると、そう仰せなのです。
 しかし私たちは、私たち自身をそのように捉えているでしょうか?世界をそのような目で見ているでしょうか?
 明主様のように、私たち自身と世界が、毎秒毎秒、より良くなっていると思っているでしょうか?
 私たちは、一日一日を、「私たちと世界はどんどん良くなっている」という希望に満ちあふれた中で過ごしているでしょうか?
 毎朝、毎夕、神様に対して、「私を常に新しくしてくださってありがとうございます」「世界をより良い場所にしてくださっていますことに感謝します」と思っているでしょうか?
 あるいは私たちは、「世界はより混沌としてきた。私たち自身も衰えている。世界は悪い方向に向かっているのではないか」という不安の中で生きているのでしょうか?
 どちらでしょうか?
 確かに、今まだ若く、体も元気な方であれば、「私は日々進化し、成長しています」と答えるのは簡単なことでしょう。
 未来への大きな希望をいている人であれば、「世界はどんどん良い世界になっている」と言えることでしょう。
 しかし、もし今、ガンのような病気にかかっていることを知ったらどうでしょうか。余命数か月しかないことを知ったらどうでしょうか。自分の努力だけではどうやっても乗り越えることのできない困難が目の前に立ちはだかったらどうでしょうか。
 そのような時、私たちは、「私は毎分毎分進化しています」と自信を持って答えられるでしょうか。「毎秒毎秒新しくなっています」「世界は確実に良い方向に向かっています」と言えるでしょうか。
 正直申し上げて、そのような思いを持つのは難しいのではないでしょうか。
 ではなぜ、明主様は、私たちとこの世は毎分毎分進化していると仰せになることができたのでしょうか。
 明主様がこのようなことをお書きになったのは、明主様が68歳の時です。たとえ明主様であったとしても、ご肉体の衰え、老化はお感じになっていたであろうと拝察します。そして実際、3年後、71歳の時に脳溢血を発症され、翌年にはご昇天になってしまわれます。
 私は次のような問いが頭に浮かんできます。
 明主様は、脳溢血のご浄化をいただいてからご昇天になるまでの間中、不安の思いで過ごされていたのでしょうか?
 お体が衰え、物事が悪い方向に進んでいると思われていたのでしょうか?
 最終的には死に至る病とそれに伴う苦しみを神様から与えられたことにより、神様に対して不平を述べておられたのでしょうか?
 これらの問いすべてに対する答えは、「否」です。明確な、「否」です。
 むしろ、お体の痛み、そして死に向かわれる中にあっても、神を讃え、神に感謝し、すべての栄光を神にしていたのであろうと、そう私は思わざるを得ません。
 1955210日午後333分、ご昇天の瞬間、明主様は、「神様、私を、ひと時の休みもなく進化、成長させ、新しくしてくださっておりますことに感謝します。私は、毎秒毎秒、いや、今のこの瞬間もより良くなっています」という思いを持たれ、その思いを持たれたままご昇天になったのだと、そう思われて仕方がないのです。なぜなら、明主様というお方はそのようなお方だからです。神様への燃えるような情熱と愛、そして、神様への不動の信仰心を持たれたお方、それが明主様だからです。
 だとしてもなぜ、明主様はこのように思われることができたのでしょうか。
 お体が衰えていく中にあって、なぜご自分は進化し成長しているとお信じになることができたのでしょうか。
 それはなぜかというと、明主様は、ご自分の本体は、「岡田茂吉」ではなく、ご自分の中におられたメシアの御霊であることをご存じだったからです。ご自分の本体は「人」ではなく、ご自分の中におられた神様の御霊であることをご存じだったからです。
 これはどういう意味でしょうか。
 私たちは、「私たち一人ひとりもキリストの再臨になれる」と聞くと、その瞬間、自分を受けるほうの立場に置き、「私の中にキリストの御霊が臨んでくるのだ」ということを思い描きます。
 「私の名前は〇〇で、私は、キリストの御霊をお受けします」──私たちは、このように考えます。
 しかし、もし私たちの本体が神様の御霊、キリストの御霊、メシアの御霊であるならば、私たちは、受けるほうの立場が主体なのでは決してありません。
 むしろ、天からるほうの立場、これが私たちの主体なのです。
 天から降ってくるキリストを仰ぐのが私たちの主体ではなく、むしろ、天から降って行くほう、これが私たちの主体なのです。なぜなら、私たちの本体は、神様が昔私たちに天上で授けてくださった神様の御霊であり、キリストの御霊だからです。
 私は今、極めて単純明快なことをお話ししております。複雑なこと、分かりにくいことを話しているのではありません。
 しかし、もし私たちがこの話を難しく感じるようであれば、それは、それほど私たちが「この世の自分」、また、この世の命に重きを置いてるがゆえに、私たちは、私たちの本体である「霊なる自分」の存在を完全に忘れてしまっているからです。
 「あなたは誰ですか?」という問いに対する私たちの神様に対する答えは、「私の名前は〇〇で、何年何月に、この父と母の間に生まれました」ではなく、「イエスと明主様と教主様を通して、私はあなたの子どもであることを知るに至りました。私は、キリストの御霊そのものです。メシアの御霊そのものです」、であるべきです。
 そのように答えることができれば、神様は、「子よ、その通りである。あなたは永遠に生きる私の子なのだ」とおっしゃってくださるでありましょう。
 では、もし皆様の本体が神様の御霊そのものだとしたら、皆様方は、徐々に衰え、滅ぶべき運命にある存在なのでしょうか?断じてそうではありません。
 もし、皆様の本体が神性を帯びたものだとしたら、皆様の前に待ち受けるのは、輝かしい未来です、否、輝かしい未来のみです。
 神様は永遠に進化されるお方ではないのですか?
 だとしたら、皆様方お一人おひとりも、永遠に進化し、成長し、より良くなっていく存在なのです。
 明主様は、まさにこのような確信を持っておられたから、脳溢血も、そして、死さえも、あふれるような希望でお受けになることができたのではないでしょうか。神の力によって毎秒毎秒進化し成長しているという、計り知れないお喜びをお感じになることができたのではないでしょうか。
 もし明主様がそのような信仰を残してくださったのだとしたら、「わたしたちは落胆しない。たといわたしたちのなる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(「コリントへの第二の手紙」第416節~18節)。

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