PDF:祖霊大祭_真明様ご挨拶
「我々は宗教を隠さない、絶対に」
於:グランドニッコー東京 台場(パレロワイヤル)
皆様、こんにちは。
私たちは、「宗教」を信じてますね。
世界メシア教は宗教であって、私たちはその宗教を信じている。
そして、この宗教というのが、日本においては、神道とか仏教という既成宗教は割と受け入れられていますけれども、戦前戦後発生したいわゆる新宗教、新興宗教というのは、日本国民から、ある種の批判的な目を持って見られている。
「宗教」という言葉そのものが、すでに、「あの人は宗教をやっている人だ」というように、信仰を揶揄するかのような表現で使われていますし、また、ある宗教団体が問題を起こせば、多くの人にとってはどの宗教も五十歩百歩であって、「他の新興宗教もだいたい同じようなものだろう」というふうに思われている。これは事実ですね。
そして、そういうふうに見られてるだけではなくて、実際、ある場所を賃借したいと言っても、これが新興宗教の教会として使うということだと、そこを借りることすら難しいというように、宗教団体は不当な扱いを超えて、もはや差別的な扱いを受けている。というぐらい日本においては宗教団体に対して厳しい目がある。
でも本来は、宗教は、ここ日本においては、国が宗教法人という法人格を与えて活動することを許可している。ご存じのように昔日本は、国家神道ということで、全員神道を信じるということだったんですけれども、戦後、事実上の信教の自由が確定しまして、そして、国が宗教を推し進めるんではなくて、日本国民が宗教活動をするということを国が認めて、そして、そのような宗教団体を通して人心を教化していくと、そういうことがあるにもかかわらず、現実的には、宗教は非常に批判的な目で見られている。
で、私なんかは──皆さんの中にもそういう方がいらっしゃるかもしれませんけれども──一種の負けん気みたいなものがありまして、本来なんら問題無いはずの宗教に対しての批判が大きくなればなるほど、むしろ、それを、より表に出したい思いにかられるんですね。
たとえば、もちろんファッション上の問題はありますけれども、「私は宗教を信じてます」という文字をプリントしたTシャツ、あるいは鉢巻きみたいなものを着て街に出たいと(一同笑声)、そういう思いが湧いてきます。
だって私たちは悪いことをしているわけではないですよね。むしろ、「信仰する」というのは尊い営みなのに、そのことについていわれのない批判を受ける筋合いはないと、そういう思いが湧いてくるんですね。
逆に、僕の中で、こういうふうにはなりたくないな、格好悪いなと思うのは、世の中からの宗教に対する批判の声に負けてしまって、宗教色を消したような活動をしたり、また、そんな大きな話だけではなくて、誰かから「お仕事は?」と聞かれたら「MOA美術館と関係してる」とか、「文化活動してる」とか言って、宗教を話題に出すのを避けるような、宗教を隠すような、そういうふうにはなりたくないなと思いますね。
また、日本の場合は、「宗教」と言って敬遠する場合は、結局、唯一の神様ということが多いですよね。日本人は、神道の八百万の神様とか仏教については「宗教」ということで拒絶はしていない。
今日の聖言は、「神の言葉を口に出すように」というものでしたけれども、日本人は、「縁結びの神様」とか「サッカーの神様」とか「野球の神様」とかいうように、神道的な意味で神様という言葉は使いますよね。
だけど、明主様がおっしゃっているのは唯一の神様である「神」、そういう意味で「神」という言葉を口に出しなさいとおっしゃっているわけですよね。
そして、この唯一の神様というものに対して、日本人は本能的な拒否感があって、それが宗教への拒絶感にもなっている。
で、明主様がよく日本と比較しておられたアメリカはどうかというと、今日の聖言にもありましたように、明主様は、アメリカ大統領が就任式の時に聖書に手を置いて宣誓するのを見た時に、大変感動されたんですね。「何んともいえない感に打たれた」、すばらしいなとお感じになった。
そもそも、今現在も、アメリカの大統領選において唯一の神様を信じてなければ当選できませんからね、当然。キリスト教を信じてなければアメリカ大統領にはなれない。だから、アメリカにおいては、「私は神様を信じます」というのは、むしろ積極的に宣伝する種類のことですね。
またアメリカのお金ですね、お金。これは、お札にもコインにも、英語で、ある文字が刻まれてるんですけれども、それが「IN GOD WE TRUST」。「IN GOD WE TRUST」、ですから、「我々は神にこそより頼む」というような意味、それがお金に印字されている(より頼む=信頼する、頼るの意)。
生活の糧であるお金、そのお金に普通我々はより頼みますけれども、そのお金に、「我々は神にこそより頼む」と印字されている。
より頼む、ということは、信頼するという意味ですね。我々は神こそ信頼すると、そういう意味ですね。
この「IN GOD WE TRUST」というのは、ちょっと調べたら、アメリカ合衆国の国全体としてのモットーというか標語でもあるみたいですね。アメリカの国としての標語は、「我々は神にこそより頼む」。
もちろん、こういうアメリカの状況は今後変わっていく可能性はありますよ、そういう文字を印字しなくなるとか。そして、皆様も、アメリカのありようについていろんな思いをお持ちかもしれませんけれども、少なくとも明主様は、神様を全面に受け入れているアメリカは非常にいいなと思われていた。
明主様は、アメリカでは一家に一冊の聖書があるのは羨ましいな、ともおっしゃってますよ(「日本人と宗教心」)。
だから、もしアメリカではお金に「IN GOD WE TRUST」という言葉が印字されてるのをお知りになったら、明主様は、「羨ましいな。日本もそうなったらいいな」ときっと言われてると思いますよ。
というような、神様を表に出したいという明主様の気迫に対して、我々は長年どうだったんだろうか。もちろんメシア教になってからは違うと思いますけれども、我々は、長年、自然農法のことにしても、神様のことは言わないで、「大自然の力」とかそういう言葉を使ってこなかったですか?
「神様」というのはちょっと言ったとしても、基本的には、むしろ、いかに神様ということを出さないようにするかですよね、発想として。
MOA美術館にしても、浄霊のことにしても、神様を──宗教を──いかに出さないようにするか、それを考えてきたんじゃないんですか?
浄霊で言えば何か科学的なデータを集めたり、また、芸術に関しても、「本当の創造主である神様を思い出すために芸術に触れるんですよ」なんて、今までそんなこと言ってきたことなかったじゃないですか。
だけど明主様は、今日の御歌は8首ありまして、1首1首どれもすばらしい御歌だなと思ったんですけれども、その1首目は「吾は今有神論を振り翳し無神謬論打砕くなり」、という御歌。
私は今、神様が有るということを主張して、神様がいないというその誤った考え方を打ち砕くんだと、そう仰せですね。
明主様は、神様というご存在を、世に対して出そうとしておられますよ。
今日の、「神の言葉を口に出すように」と書かれた聖言も、あれは、『東京日日新聞』という、当時の一般紙に明主様が書かれたものです。信徒向けの聖言ではなくて、一般紙において、明主様は、政治家も神様という言葉を口に出すべきだ、アメリカ大統領が聖書に手を置いているのはすばらしいと、そう書かれた。全然隠しておられないですね、宗教であり神様を。
本日の御歌の2首目は、私の好きなと言いますか、「神を恐れ正しき道を守る人つくるぞわれの使命なるらん」。
神を恐れる人をお造りになりたいんです、明主様は。
我々はよく「信仰継承」ということを言いますが、そういう時、我々はどういう信仰を継承してほしいと思っているのでしょうか。
明主様は、神を恐れる人をお造りになりたいわけですから、もし信仰継承をするなら、そういう神を恐れるような信仰をこそ継承していかなければならない。また、もしメシア教に入っていただくとしたら、神を恐れる信仰をお伝えして、それで入っていただかないといけない。そうなりますね。
我々は今までそういうふうにしてきただろうか。むしろ、御神体をご奉掲できて、浄霊を実践できて、というような基準だったんじゃないですか。
3首目は、「誤れる文明吾は立直し神の勲輝かせんとす」。
神様の勲。不思議な表現ですね、神様の勲。
神様の勲ですから、「神様が成し遂げた功績」という意味ですね。神様が成し遂げた功績を私は輝かせたいんだという御歌。
だとしたら、誤れる文明というのは何かと言ったら、それは人間の功績をお讃えするのが誤れる文明だということですね。それを立て直して、神様が成し遂げた功績を輝かせたい。
これは不思議な御歌ですね。だって、神の勲ですよ。神様の功績。何か成し遂げられたわけですよ、神様が。一体何を成し遂げられたのだろうか。と言ったらそれは、我々の中に、完成した世界をもう造ってくださったじゃないですか。その功績ですよ。そのことを今教主様が教えてくださってると思いますけれどもね。
次。「如何ならむ非難譏りも来れかし吾には破邪の剣ありせば」。
どんな非難も譏りも来い、私には破邪の剣があるんだから、という御歌。
「破邪の剣」と言っても、私には神様の力があるということですね。神様の力がある。
今、日本においては、宗教に対する批判、いろいろありますね、いろいろある。そうすると、「信仰に反対している家族とかにいろいろ言われちゃうかな」とか、「人に伝えるのはやめておこう」とか、「教団どうなってしまうんだろう」とか、そういう思いが湧いてくる人もいらっしゃるかもしれません。
でも我々が最も心配すべきことは、この信仰が人間にとって必要かどうかということよりも、神様が必要としてくださるかどうかですよ、私たち一人ひとりの存在と、この世界メシア教という宗教を。
神様が必要としてくだされば、たとえどんな批判があったとしても──いや、それは悪いこととか、世の中に迷惑はかけちゃいけませんよ──だけど、神様が必要とされれば、それは、どんな批判があっても、どんな譏りがあっても、絶対にそれでやられることはないですよ。
だから我々は、「只神の御心に叶ふやうにせよ人の目口に心惹かれそ」。「只神の御心に叶ふやうにせよ人の目口に心惹かれそ」。
私たちは、ずっと人の目口に心惹かれてきましたよ。宗教というふうな目で見られるのがどうだとか、宗教に対する批判とか、それに心惹かれてきた。
でも、非常に難しいことではありますけれども、我々は、神様の御心にのみお応えしなければならない。そうですね?
だけど我々は、周りの人の目、周りの人の口、それを恐れて、本当は宗教は隠すべきことではないのに、それを人に隠すような心の動きが出たりしちゃうんじゃないかと、そう思うわけなんですね。
でも本当は、そういうことを恐れるよりも、神様から「あなた方はもはや私には必要ではない」と言われることを恐れたほうがいいんですよ。
御歌に戻りまして5首目。「諸人の闇をさ迷ふ中にありて光の道を勇みゆく吾ら」。
世の中の人にとっては、宗教をしている我々こそが闇をさまよってる、ということになってると思いますけれどもね、でも、唯一の神様を信じるのは正しいことですよ。人間としての本来のあるべき姿ですよ。
そしてここ、明主様は「勇みゆく吾ら」と書かれていますね。ということは、私たちに怖気づく思いがあることがお分かりになるから、勇んで進んでいきなさいとおっしゃっているわけですよね、明主様は。光の道を勇んでいきなさい、非難もあるでしょう、譏りもあるでしょう、でも神の道を、光の道を進んでいきなさい、ということですね。「勇みゆく吾ら」、と断言しておられますよ。
しかも本来は、我々が、次の御歌にあるように、「奴羽玉の闇の夜路にゆきまどふ世人誘はむ光の道へ」、ということなんですよ。
世の人は、自分は宗教をやってない、神様を信じない、自分自身で生きてる、自分はゆきまどってない、と思ってますけれども、本当は、神様を知らなければもう迷子ですよ、それはね。だから、そういう迷子の人を光の道に誘いなさい、あなたが歩んでる道に誘いなさいと、そう仰せですね。
だけどそこで、我々は神様を知ってる側、世の中は知らない側、というふうにならないように、次の御歌は、戒めの御歌でもありますね。「無神論有神論を結ぶこそ真の文化の基なりける」。
これも不思議な御歌ですね。
でも、無神の要素、神様を信じてない要素は我々の中にはないんですか?あるじゃないですか。
「あなたは神様を知らない人。私は知ってます」ということではないですよね。
だって我々、入信する前は神様のことなんて大して知らなかったですし、神様に反発する思いは今でもありますよね。何かが起きたら、「神様なんかいるもんか」となるじゃないですか。
神様とか宗教ということに関して、今、世の中や私たちの中にいろんな思いが湧いてきてますね。神様を信じる心も、神様を信じない心も、宗教を非難する心も、それを恥じてしまう心も、無神論者のように演じたい自分とか、あるいは神様を信じてるということによって自分を優位に置きたい心の動きとか、そういう人心のあらゆる思いが湧いてきてる。
人心というか、我々一人ひとりの思いですね、それは。それを結ぶ。どこに結ぶんですか?神様のもとですよ。それを神様のもとに、「あっ、こういう姿を赦してくださったんですね」とさせていただくのが、人間の本当の文化の土台になるんですよと、そういう御歌ですね、この御歌は。
これは、簡単そうな話に聞こえるかもしれませんけれども、どこも説いてないですよ、実はね。
世の中の宗教は、私たちは信じてる、あの人たちは信じてない、私たちは赦されてる、あの人たちはまだ赦されてない、これですよ。世の中の宗教全部そうですよ。世の人もそうですよ。私は信じてない、あの人は信じてる、その世界ですよ。
でも我々メシア教というのは、その全部ですよ、全部。自分自身の心の動きとか、周りの人のいろんな反応、その全部が救いと関係がある。
声を掛けたら拒絶されました、ひどいこと言われました。普通はそれを、「あの人たち分かってないなあ」となる。でもメシア教というのは無神論と有神論を結ぶんですから、「ああ、こういう姿が私の神様に対する姿だったんですね」と、そうなるわけですね。
家族に信徒であることを言いたいけど言えないとか、参拝すると何か言われちゃうという事態があったとしたら、普通は、「家族が理解してくれない」で終わりですよ。
でも、我々はそこで、「あっ、こういう家族の姿を神様が赦して現してくださったんですね。これは私の姿ですね」というのがメシア教ですよ。
だから否定材料は一つも無いんです、メシア教においては。
相手がどういう反応をしてもいいし、相手の反応に対して自分がどういう思いを持ってもいいんです。問題は、現れた相手の思いとか自分の思いを神様に対してどうするか、そこですよ。
ただ、「あの人はああいう人だ」「私はこういう人だ」で終わりにするのか、それとも、「ああ、ここを神様が赦して現してくださったんですね」とするのか、どちらかですよ。
そういうことは、非常に身近な人とのことが多いですよ。友達とか旦那さんとか奥さんとか息子とか娘とかおじいちゃんとかおばあちゃんとか隣人とか、そういう相手の姿や私の姿。その中で現れる無神の姿や有神の姿を含めたありとあらゆる姿や思い、ここに否定材料は無いんです。ゼロですよ、否定材料は。
神様は、「神様なんていない」と思ったことについてはお怒りにならない。でも、「その思いをお前はどうするんだ」と訊いてきておられるんです。
今までの宗教は、こう思いなさい、こう思いなさい、こう思いなさい、ですよ。でも、メシア教は「こう思いなさい」は無いんです。
怒りとか優越性とか劣等感とか恥とか、そのようなありとあらゆる思いを携えて私のもとに帰ってこいと、そう神様はおっしゃってる。
だって世の中は、ありとあらゆる思いによってもうがんじがらめになってるじゃないですか。人を裁くけれども、じゃあ実際はどうしていいか分からない。人間関係も、どんなにがんばっても相手が変わらないとなったら、もう形の上ではどうしようもないですよ。
いや、それはね、自分自身に課すことではないですよ。「お委ねしなければいけないのに神様にお委ねできないな」というふうになってしまうんではなくて、それは、実は、自分の中で明主様がそれを神様にすでにお捧げしてくださってるんですから、「ああ、明主様をお受けします」だけで、もういいんですよ。
「お委ねしますと思えないな」という反発する思いを感じたということ自体、もう明主様がその思いを委ねてくださって神様がそれを受け取ってくださったというサインなんですから、何かがんじがらめの状況とか思いにぶち当たった時は、「ああ、ここを受け取っていただいたんだな」でいいんですよ。「明主様!」だけでいいんですよ。
だから最後の御歌。「抜きも差しもならぬ此世にメシア教出でずば未来は如何になるらむ」。
どん突きまで行ってるんです、世の中は。宗教批判をするけれども、かと言って信仰すべては否定できない。もうどうしようもないじゃないですか。行き詰まってますよ。人類全部が行き詰まってる。
でも、そこで、メシア教が存在してるじゃないですか。皆様方が存在してるじゃないですか。
今日この場にいらっしゃる方だけでも、今話しているような思いで生活されたらそれは大変なことですよ、人類の救いにとって。だって今世の中は抜きも差しもならないんですから。未来はどうなってしまうんだろう、で終わりですよ、世の中は。
我々は自分の中に善悪の基準みたいのがあって、これは思っていいとか、これは思っちゃいけないとか、そういうたががあって、そこで苦しんでる。でもそれを思い切って取っ払って、そして、何を感じたとしても、何を思ったとしても、「ああ、救いのためにこの思いを感じてるんですね、この状況があるんですね」とさせていただく。
もちろんね、その問題が一日で解決はしないかもしれないですよ。でも薄皮を剝ぐように、あ、少し変わってきた、少し変わってきたといって、たとえばそれが我々の日常生活の中での旦那さんの姿とか、子供の姿とか、それがちょっと変わってきた、ちょっと変わってきた、という、そのちょっとのことがすごい救いなんですよ、人類にとっての。
だって我々は、人類全部、何十億人分の救いですよ。というか、何十億人分の人類プラスそのご先祖様すべての救い。
だから、一人の人が変わると言ったって、その一人の人がたくさんのものを持ってるわけですから、もし自分の身近な人がほんのちょっとでも変われば、それはすごい救いなんです。それがメシア教の皆様方に託されてる救いの業なんです。
我々は、「私たちは善だ。世の中は悪だ。だから善の世界を推し進めよう」という救いではない。
今日の聖書にもあったように、「わたしは福音を恥としない」。ですよね?
我々はメシア教のこと恥ずかしいんですか?この救いの御用、恥ずかしいんですか?
だってこの福音は、信じるすべての人に救いを与える神の力なんでしょ。じゃあ恥じゃないですよね。いや、恥と思ってきたかもしれないけれども、恥じゃないですよね。
世の中からはね、「宗教だ」と揶揄されて蔑まれてるかもしれない。でも我々は、すべての人を救う神の業を託されてるんですから、恥どころかすごい名誉なことですよ。
私は教主様を通してこの救いに目覚めさせていただいた。
で、私の挨拶が長いと、そう思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれどもね、でも、何て言いますか、言わざるを得ないんですよ、もう。
いや、皆さんにご迷惑をおかけしないよう努力はいたしますけれどもね、でも、今日の聖書の「ローマ人への手紙」はパウロが書きましたけれども、「果すべき責任がある」と書いてありましたね。そして、私の切なる願いはこの福音を伝えたいんだと、そう書いてありましたね。
私も、そういう思いが湧いてきちゃうんですよ。この教主様を通して知った救いの福音をどうしても皆様にも知ってほしい。ま、皆様には付き合っていただいて申し訳ないところもありますけれども(一同笑声)。
でも、知ってほしい、どうしても知ってほしい。知ってほしいというか、共にそれをお受けしてるわけですけれども。
私が「知ってほしい」というよりも、私の中で、明主様が、私に対して「お前これ言え、これ言え、これ言え」と急かしてらっしゃるように感じられるわけですね。いや、挨拶が長いことを、明主様をだしに使って正当化しようとしてるわけじゃないですよ(一同笑声)。
でもそれぐらい、この、教主様を通して知った救いの福音のすばらしさ、これをお伝えしたい。
だって今まで私たちは、何とかいい人になんなきゃいけない、いい人になんなきゃいけないと言って、そう言いながら他の人を裁いて、そして、もう抜きも差しもならないような一人ひとりになってたじゃないですか。でもそれを教主様が解放してくださった。
だから、今日、僕が何を言わんとしてるのかというと、宗教ということに批判はあるのは分かるけれども、本物の宗教というものは存在する、それを言いたいわけです。本物の宗教。そして、それが、世界メシア教である。
僕自身も、何の縁があってこの真実の道に導き入れられたのかは分かりませんけれども、少なくとも自分の手柄ではないですね。
皆様方も、人間関係の中で、いろいろあってメシア教に結ばれた。それは偶然みたいなんですけれども、本当は必然なんですよ。
神様が、人類の救いのために、抜きも差しもならないこの世の中を救うために、最初から皆様方を明主様と共に選んでくださって、そして、「如何になるらむ」というような未来で終わってしまうのではなくて、輝かしい未来にしたいと、そういうことで皆様方を選んでくださった。
この救いを知らなければ楽だったのに、という説もありますね。「あの人ひどい」「私の旦那ひどい」「息子は理解してくれない」「あの人も理解してくれない」という世界で生きていくほうがまあ幸せだったかもしれない、実は。
だけどもう、皆さん知っちゃいましたのでね(一同笑声)、だから逃れられないんですよ。
お言葉とか私の話とかを聞く中で、反発する思いとかいろいろおありだと思いますよ。そんなこと自分はできないとか、自分だけで生きていきたいとか。でも、そういうことがあったとしても、神様は、「私はあなた方一人ひとりの心も体も全部、尊い救いの業に使うよ」とおっしゃってる。
確かに世の中では今宗教に対するいろんな批判もあって、皆様方もさまざまご苦労はおありだと思います。でもこういう時だからこそ、むしろ、宗教、神様を信じる者としての誇りを持ちたい。ですよね?だってそれを明主様がお持ちだったんですから。
明主様もありとあらゆる迫害を乗り越えられた。その明主様のご努力があったから我々今日信仰してるわけですよね。
だから、宗教ということでこれから人も離れていっちゃうかもしれませんよ。今までは関係があったのに、世の中で一斉に宗教批判が始まったら、離れていく人もいるかもしれませんよ。
でも私は、宗教の看板は下ろしませんよ、絶対に。だって神様を信じるのが我々の実体ですから。
どんなに人が離れようとも、いかに見下されようとも、揶揄されようとも、馬鹿にされようとも、宗教の看板は下ろしませんよ、絶対に。だって本当は、人類一人ひとり、光の道に導き入れられるのを待ち望んでるんですから。
それは、時間がかかるかもしれない。身近なことにも劇的な変化は起きないかもしれない。でも、我々一人ひとりの生活の中で巻き起こるさまざまなことについて、「ああ、神様はここを救えとおっしゃってるんだな」と、そういうことですよね。
それは、先ほども申し上げたように、薄皮を剝ぐようにかもしれませんよ。でも、薄皮を剝ぐように、世界が少しずつ少しずつ神のもとに結ばれていく。そして、光の道へ、と明主様がおっしゃるんですから、「光」ですよ待ってるのは。光の世界が待っている。
だから我々は、忍耐力と、そしてその救いを託された誇り、これですね。全然恥じゃないんですよ。恥ではない。
私たち一人ひとり、誇りを持って、世の中を光の世界にしていく時が来たし、神様、明主様も皆様お一人おひとりに期待しておられる。
そうなんですから、私たちは、今こういう世相の中だからこそ、表の道を、正々堂々と、隠さず、共に歩んでまいりましょう。よろしくお願いします。
ありがとうございました。