「メシア教信者よ、
あなたがたは神人合一を成し遂げたか」
《 明主様 》
世界中黒雲がオッ被さって大暴風雨今や来たらんとする様相物凄しだ。すると、天の一角に光輝赫々栄光の雲に乗って、静かに天降らんとする神人がある。之が眼に映るもの、メシア教信者のみなりといったら、どうだ、嬉しいだろう。
1951年3月7日「寸鉄」
折角貴き人間と生れ乍ら、獣類に堕して生を終るという事は、何たる情ない事であろう。人間堕落すれば獣となり、向上すれば神となるというのは不変の真理で、全く人間とは「神と獣との中間である生物」である。此意味に於て真の文化人とは、獣性から脱却した人間であって、文化の進歩とは、獣性人間が神性人間に向上する事であると私は信ずるのである。従而、神性人間の集る所―それが地上天国でなくて何であろう。
1948年9月5日「善と悪」
抑々宇宙とは何ぞや、それは無限大の空間の中に、太陽、月球、地球及び星辰が存在している事は誰も知る処である。そうして吾々の住む此地球こそ宇宙の中心であり、主である。又日、月、星、辰は地球の為に存在し、地球は日月星辰によって存在するのである。故に、その経綸を行わせ給わんが為に、神の代行者として人間なるものが造られてあるのであり又万物は人間の為に造られたのである事は言う迄もない。従而、人間の使命たるや、実に重且つ大であって、神の理想を此地上に顕現せんが為に生れさせられたのであるから、それを自覚する事によって、真の人間たり得るのである。
1943年10月5日「神の経綸」
《 教主様 》
私たちは、人間はこの世だけの存在としか思っていませんからね。お父さんとお母さんの間に生まれた時から人生が始まり、そして、死ぬことですべてが終わる。ある程度まで生きて、いつかは死ぬ。それが人間の存在だと思っているんです。その限られた人生の中で、いろいろと悩みながらも何とか幸せに生きていきたい。こういう人生しか考えないですね、私たちは。
でも、「先ず自分が天国に上って」とありますね。それから、「人間、個人が天国人とならなければならない。否、なり得る時期が来ているのである」と述べられています。
私たちは、神様によって造られた存在ですから、造った方の所から出てきたのですね。
私たちの出発点はどこにあるのか。出発点は神様の所にあるのです。〝おぎゃー〟と生まれた時が出発点ではありません。私たちは本当は神様の所から生まれ出てきたということです。その出発点が「天国」と言われる所です。
天国から出てきて、こちらの世界にいると言っても、天国から離れてはいないのです。天国を今も持たせていただいているのです、自分の中に。完全な神様の霊の体を持たせていただいているのですよ、私たちは。私たちは光り輝いているのです。その体がなかったら、私たちは今生きてはいられないんです。呼吸することも、喜ぶことも、悩み苦しむこともできないのです。不思議ですよね、私たちはあまりそんなことは考えないんですけれど。
肉の体があるということは、霊の体があるからです。肉の体があるから霊の体があるとも言えるわけです。だから、明主様が「先ず自分が天国に上って天国人となり」「人間、個人が天国人とならなければならない」とおっしゃっているのは、「みんな本当は天国に属する存在なんだよ」「天国から来ているんだよ」「そのことに気づきなさい、そのことを思い出してほしいんだ」とおっしゃっているからなのではないでしょうか。スタートラインを、この世から考えるのではなくて天国から考えていく、発想のスタートラインをね。
2017年5月14日 別冊『真善美』京都・滋賀布教区信徒大会
《 真明様 》
「神人合一」というのがありますよね。明主様はまず神人合一になられて、そのあと、メシアになられた、というの。
それで、神人合一、というのは神と人が一つに合わさっている、ということですけれども、じゃあ改めて思うとですよ、「人」の持っているもので、神がお造りになっていない部分は一つもないですよね。「人」の存在自身がもう心も思いも身体も全部神様のものですよね。
だから、明主様は、「自分が人と思っていた部分が実は神様のものだったんだな」ということを思われた。ということで「神人合一」を感得された。だから、これはむしろ、人間として最も謙虚な姿ですよね。
普通我々は、その真逆の発想で、神人合一というと、明主様が偉くなられた、みたいに思うんだけど、むしろ、明主様は、神様に対してどんどん謙虚になられたんですよね。
明主様は、最初は、「わたしはこれだけ持っている」と思っていらしたけど、「あ、これも神様のものだったんだ。あ、これも、これも」、というように、神様に全て返されて、「なんだ結局全部神様のものだったんだな」と思われた時が「神人合一」ですよね。だって、ご自分は何も持っていらっしゃらない、ということは一番謙虚ですよね。自分のものは何もない、ということですから。
我々みたいに「人」として存在しているのが本当は一番偉そうですよね。だから、「神人合一」とか「メシア」というのは、神様に対してどんどん謙虚になられた姿の表現ですよ。だとすると、我々の今まで思ってきたのと逆じゃないのかなと思うんですね。
でも、人間の世界でよくいう「謙虚」とは違いますよ。人間の世界でいう「謙虚」は、「私はもっと謙虚にならないといけない」とか言って、「私」という人間の部分をしっかり自分の所有物としたままやろうとするから、全然謙虚じゃないんですよ。むしろ本当は偉そう、なんですね。
「神様に対して謙虚」ということは、全部神様のものである、と同時に、全てが自分のものである、ということだから、人間世界の見方からすると、偉そう、みたいに写ることかもしれないんですね。
でも、神様に対してそれだけ謙虚であられた明主様だから、神様は、明主様に、「赦し」という権限もお与えになったじゃないですか。「全人類の罪をお赦しください」に対して、「うん」とうなずかれた。その時、神様が明主様をお止めになったら、明主様はうなずかれることもできなかったと思いますよね。でも、ご自分の御心に本当にかなった子供である明主様だったから、赦し、という権能も神様はお授けになったと思うんですね。
我々でも、子供がいいことをしたらプレゼントあげたいってなりますでしょ。最新のスマホでもなんでもプレゼントしてあげたいって。そういうことと比較するのは申し訳ないんですけれども、「赦し」っていう権能すらお与えになった。それは、謙虚だからお与えになったんですね。明主様が、人間として偉くなったから、ではないんです。
だから、我々も、分霊、本守護神に付いている名前が「メシア」だということは、神様に対して本当に謙虚にならなければいけない、ということだと思うんです。
「なんだ我々みんなメシアになったら、偉そうな人ばっかりになって大変じゃないか」とかそういう次元の話じゃないと思うんですね。
2016年4月14日「若手専従者との懇談会」
教会誌『グローリー』No. 31, 2022/8月号掲載