PDF:九月度月次祭_真明様ご挨拶
「愛に始まり愛に終わる」
於:本部ご神前
皆様、こんにちは。
(ご参拝中浄化した信徒がいたことに触れられ)今の方は、大丈夫だったですかね。(スタッフ:はい。)
(外を眺められながら)今日は天気が──今は晴れてるんですかね──朝方にはちょっと雨も降ったりしましたけれども、とにかく今年は梅雨が異常に早く終わりまして、水不足ということで、農作とか育つんだろうかとか、水が足りるんだろうかということがありましたけれども、そのあと、部分的に降ってない地域もあると思いますけれども、全国的に雨がたくさん降りましたよね。
そうなると、我々の見方としては、神様に対して、「もうちょっとうまくできないのか」という(一同笑声)、不調和として見るという見方がありますね。梅雨をもう少し長くして普通の梅雨にして、そして、雨をそんなに極端に降らすのではなくて、バランス良く降らせてくれればいいのに、という見方もありますね(一同笑声)。
でもこれが、神様のほうとしては、「いや、これは調和なんだ」ということですね、本当は。
「調和の理論」という聖言もありまして、そこで明主様は、人間の目に不調和に映ることも、神にとってはまったくの調和、完璧な調和なんだ、不調和と見るのは小乗的、調和と見るのは大乗的なんだと、そうおっしゃってますね。
だから本当は、一見我々の目には不調和に見えるようなことも、神様からすればなにか必要があって、ちょうどぴったり、バランスが良いようにしてくださってる、ということですね。
そしてこれはもちろん天気のことだけではなくて、人間関係とか、また体のことも、一見不調和に見えるようなことがたくさんありますね。隣人と揉める。兄弟とうまくいかない。体のこと。というように、不調和と見える状況がいっぱいある。ですね?
私自身もこの夏、手足と、また首も少し出たんですけれども、湿疹みたいなのが出まして、相当出たんですけれども、今少しずつ落ち着き始めてるところです。
そうなると、最初はそれを不調和と見ますよね、不調和。早く止めてほしいというふうに思う。だけど神様としては、「それは調和だ」ということですよね、本当は。というように、体的に言えば、湿疹ということは汚い血を出してくださろうとしてるわけですから、そして明主様も「出るのは良い」という考え方ですから、湿疹は良いことですよね。だから、止まってほしいという思いがある一方、やはり、汚いものがあるならそれはちゃんと出さなければいけない。
これをもうちょっと宗教的な言い方にすると、「浄めてくださってる」という言い方になりますね。
私の場合は手足に湿疹が多く出たんですけれども、どういうことだろうかと思ったりして、その中で思ったのは、手足というのは人間の体の末端。でも、神様にとっての末端は人間の心ですからね、だからなにか、神様をお受けするという私の心がよりふさわしいものになるように──神様をお受けするのにふさわしいものになるように──今、神様が浄めてくださっているのかなと、そんなふうに受けとめております。
さらに言えば、我々は、体のこととか隣人関係とか、そういうことを通していろいろな思いが湧きますね。早く治りたいとか、いつまでも治らないじゃないかとか、人間関係もずっとこじれたままなんじゃないかとかね、そういう思いが湧く。というように、そういうありとあらゆる人心を神様は一人ひとりの心の中に集めてくださって、そして、私たちを救いのために使ってくださってるということなのかなと、今、自分の湿疹のことを通してそんなことも思ったりしております。
ということで、この、私がこういう場で話す内容と言いますかね、そういうことがありますよね。教主様のお許しと、教主様の権威のもと、今、私は、大祭と月次祭で、こういう形で、皆様に非常に頻繁に(一同笑声)お会いできて──私は喜んでおりますけれども──その中で、結局、何をお話しさせていただこうかということがありますよね。
私の心境としては、「今回はこれもこれもこれもお話しさせていただきたいな」と思う時もあるし、なんにも無い、祭典が近づいてきてもなんにも無い(一同笑声)という状況の時もあるんですよ。
でも結局、不思議なことにと言いますか、近づいてくると、自分がなにか思ってる思ってないに関わらず、なにかこう、いろんなことを通して──日常生活の中で家族と接することを通してとか、あるいは教団の動きについていろいろなご報告を伺う中でとか、またあるいは社会の状況、世の中の状況とか、もちろん自分の体とか、そういういろいろなことがあるじゃないですか──その中で、自分が意図していないような、考えてもいないような方向に、やっぱりどうしても向かっていくと、そういうことがあるんですね。
そうなると、私としては、「もしかしてこういうことを明主様、教主様は私を通して皆さんにお伝えになりたいのかな」というふうに感じるわけなんですね。
ですので、私の感じとしては、私が皆様に一方的にお伝えしているというより、お話ししている内容について、「こういうことを、神様、明主様のみ心として信徒の皆さんと一緒にお受けしなければいけないんだな」という感じなんですね。もちろん、形としては、話す側と聞く側というふうになっているわけなんですけれども。
ただ、もちろんそれは話の大筋であって、実際は、当日、聞かれている皆さんのお顔を見ながら、「もうちょっとこういうことを言わせていただかなきゃいけないかな」ということもあるんですよ。いや、そんなに一生懸命見ているわけじゃないですからね(一同笑声)。ただ、皆さんのことを見ながら自分で感じられることがある時は、それをお伝えしている、ということもあるんですよ。
やはり、私たちが教主様のもとにいるから、なにかこう、明主様の方向性というのが私たちに示されて、そしてそれを共にこういう場でお受けできるんじゃないのかと、そう思うんですね。もし教主様のもとにいないとすると、一生懸命「なんだろう、なんだろう」と言って進めていくしかないわけですけれども、信仰の道、神様の道というのは一生懸命勉強することとは違いますからね、それではなかなか難しいなと思います。
やはり私たちが教主様のもとにいるということがあるから、明主様が、一歩先、一歩先の道を私たち全員にお示しくださっているのかなと、そう思います。
そんなことを思う中で、今日、皆様にお話ししたいなと思うのは、「お受けする」ということ。お受けする。
私たちは「お受けする」とよく言いますね。で、お受けすると言う時、そのお受けする内容はいろいろあると思うんですよ。
教主様のお言葉をお受けします、というのがありますね、まず。あるいは浄化。体の病気とかいろんなそういうことが来た時に、「これをお受けします」ということもありますね。またあるいは、もっと具体的な、例えば上司から来る具体的な指示について、「お受けします、やります」ということもありますよね。
そう考えると、お受けすると言っても、そのお受けする内容はたくさんありますよね。人それぞれ無数にある。
でも結局、そういうことを通して、我々は何をお受けしてるんだろう、その無数にあるものすべてを貫いてる何かがあるんじゃないかと、そう思うわけです。
教主様のお言葉もたくさんある。毎日いろんなことが巻き起こる。それを、お受けします、お受けしますとして、その一つひとつをリストにしたら、たくさんになっちゃうんですけれども、でもそれを貫いているものがあるんじゃないかと、そう思うわけですね。
で、それは何かと言えば、我々で言えば、それは当然、教主様を通して伝えられる明主様のみ心、ですね。ひと言で言えば、「明主様」ですよね。明主様をお受けする。いろいろあるけれども明主様をお受けする。教主様のお言葉、これは明主様としてお受けする。浄化も、明主様として──明主様からの賜物として──お受けする。
でも「明主様」と言っても、それは具体的に言えば、明主様はメシアとして新しくお生まれになったお方ですね。最後、明主様は、メシアとして新しく生まれるとおっしゃった。
ここで僕が本当に大切だと思うのは、「神様の子供」ということ。確かに明主様はおっしゃってないですよ、「神様の子供」という言葉そのものはお使いではない。でも、「新しく生まれる」とおっしゃってるんですから、絶対に生んだ方がいらっしゃる。絶対いますよね、生んだ方が。神様しかいらっしゃらないじゃないですか、それは。ということは、「神様の子たるメシアとして新しく生まれる」というのが明主様の最後のお姿ですよ。
あと、生まれ変わるんじゃなくて新しく生まれるんだと、そう仰せになりましたよね。
生まれ変わるというのは死んでから発生することですよね、「生き変り死に変りつつ果てなの生命」ですから。でも明主様は、生きながらにしてですよ、生きながらにして新しく生まれるとおっしゃった。
ということは、我々も今生きているわけですから、我々一人ひとりも、今の生においても、またこの世を去ったとしても、ずっと、神の子たるメシアとして新しく生まれるということをお受けする。それが、「明主様をお受けする」ということですね。
生活の中で何があったとしても、それを、「神の子たるメシアとして新しく生まれる道をお受けします」ということでそれらのことをお受けする、どんなことがあっても。
でも、それをさらに簡単に言うと、神様の子供となるというのは神様の御心なんですから、いろいろあるけれども何をお受けするかと言ったら、ひと言で言えば、「神様の御心をお受けする」、これに尽きるわけです、この一点に。何があっても、「神様の御心としてお受けします」ということに尽きる。
で、「話としてそれは分かる」と、我々はそうなりますね。
でも、なんと言いますか、私は、受けるポイントというんですかね、それがあるんじゃないかと思うわけです。
どういうことかというと、例えば、誕生日プレゼント。誕生日プレゼントをもらう時がありますね。なにかものすごい高価な物を誰かからいただきましたという時に、相手の気持ちを受けるのは、「いやー、高い物を買ってくれてありがとう!」というそこのポイントじゃないですよね、実際そういうことも往々にしてありますけれどもね(一同笑声)。
あるいは、「あんなに遠いところまで行ってこの非常に貴重なプレゼントを買ってくれたのか」という、その努力に対してありがたい、ということもありますよね。
でも、突き詰めると、結局、相手の方が、何もする前にですよ、何もする前に、「あっ、あの人のためにあれを買ってあげよう」と思った瞬間がありますよね。何もする前の段階。
大切な人のために、「あそこに行ってあれを買ってあげよう」と思った瞬間、それがありますよね。それは家にいる時かいつか分かりませんけれども、その瞬間がある。
だから我々は、誕生日プレゼントを受け取った時は、そういうふうに思ってくれた瞬間のこと、自分のことを思ってくれたその瞬間のことがうれしいわけですよね、本当は。まあ、高価な物であれば、よりうれしいという人もいると思いますけれども(一同笑声)。
というように、相手の人が自分のことを思ってくれたというその思いに「ありがとう」と答えると、相手の人も、「私の気持ちを受けとめてもらえた」と感じて、それで友達の思いと自分の思いが一つになるということになりますよね。
そうじゃないと、「いやもうちょっと高価な物なかったのか」とかね(一同笑声)、「これは私好きじゃない」とか、「この店のじゃなくてあっちの店のものだったら良かったのに」とかね(一同笑声)、そうなってしまう。
というように、詰まるところ、その「思い」ですよね。「私のために思ってくれた」というその「思い」、それがありがたいなと、そういうことですよね。
だから神様のことも同じなんです。神様も、何も無い時ですよ、何も無い時に、我々のことを思ってくれていた。
それはどういうことかというと、教主様がおっしゃってるように、神様の創造は、まず、我々を天上で生んでくださって、そして我々を通して万物をご用意になった。でも、それはもう具体的な行動に入ってしまってますね。先ほどの例で言えば、もう誕生日プレゼントを買いに行ってる段階。だけどそれらも含めて、すべてを始められる前の段階がありますね。何も無い時。本当に誰もいない時。神様がたったお一人だった時。そういう時があったんですよね、なんと。
その時神様は、「自分は一人で生きていくんじゃなくて、自分と似た『子供』というのを造って、そしてその子供と一緒にすばらしい『家族』という喜びに満ちた世界に生きたい」と思われた時があったんですよ。
何も無い時に、神様はそれを思われてから、そのあと、全創造が始まってるわけです。
ありとあらゆるすべてが、その神様の思いから始まってるんです、神様お一人の時に抱いたその思いから。そう考えると、本当になんか畏れ多いですよね。
では具体的に神様の創造がその後どのように進展していくのかというと、それは教主様が仰せのように、神様はまず天国をご用意になって、そして、そこに無数の魂をお生みになって、そして、まず、イエス。イエスとなるものを選ばれた。そして、また、その過程で明主様となるものも選ばれた。でも、イエスと我々とか、明主様と我々とか、そこに上下の差は無いんですよ。役割の差はありますけれども、我々全部神様の子供ですからね。
そのあとは、神様の魂である我々を通して、地球も含めた全宇宙と言いますか、この物質の世界を造られた。これは、雲をつかむような話ですね。天国の話、目に見えない世界の話ですからね。だから、ちょっと自分なりにイメージしないと分からないですよ。
ここで、私が大切だなと思ったのは、明主様の「神の経綸」という聖言。ここで、瑞雲郷を造られる時の話をされるんですけれども、そこでの明主様のおっしゃり方。
それは、「最古の時代私が神様であった時」というこの有名な聖言。「最古の時代私が神様であった時、将来の計画を立て、設計したものに違いない」というこのおっしゃり方。今、私は正確に引用しておりますよ。この明主様の言われ方。
我々はそこで、明主様は最古の時代神様であられたのか、すごいな、ということで終わりがちなんですけれども、僕がここで大切だなと思うのは、それは、「最古の時代私が神様であった時、将来の計画を立て、設計したものに違いない」というこの「違いない」。この「違いない」という言葉が肝なんじゃないかなと思ったんですね。
だって、「あれは私が設計したものだ」なら、ああそうですか、すばらしいですねで終わりですよ。
でも、「違いない」という言われ方をされているということは、明主様はそのことを実感としてはお持ちではなかったけれども、きっとそうなんだ、きっとそうに違いないと思われた、そういうことです。
だから明主様は、「この景色すばらしいな」と思われた時に、「でも本当は、昔自分は神様のみもとで神様の魂をいただいて神様と一つであったとしたら、これを自分も設計してたに違いない」と思われた。だから、この「違いない」という言葉の意味は大きいと思いますよ。
要は、ご自分の神様側の立場についておっしゃってるわけです。「最古の時代自分が神様だった時に設計したに違いない」と、そうおっしゃってるわけです。
だから我々も、この地上で、この景色いいなと思った時に、自分はこの景色の創造とは無関係だと思ってもいいし、あるいは、いや、実は最古の時代私が神様と一つで、神様という存在であった時に設計したものに違いない、と思ってもいいんですよ。「私が設計した」とは言いにくいですよね、だって私たちはそれを覚えてないから。
だから明主様も覚えてはいらっしゃらなかったんですよ。だってそうじゃなければ、なぜ「違いない」という言葉を使われてるんですか?
明主様は、自分は昔は神様と一つだったんだ、そしてその時にこの地球を神様とご一緒に造ったんだ、ということを信じられたということですね。
だから我々も、覚えてないから信じないとするのか、どうするのか。
明主様は、発想の前提がもう神様側のお立場を信じてる前提ですよ。昔自分は神様の魂であった時、神様と一緒にこの物質現界を造ったんだ、自分はそういう存在なんだと、そういう前提でいらっしゃる。だから我々もそう思っていいんですよ。
ちょっと似たような話と言いますかね、「メシア降誕本祝典」での聖言がありましたね。ご存じない方はあとで『グローリー』等で見ていただければいいと思うんですけれども、それは、見真実ということについての明主様へのお伺いですね。
お伺いは、見真実は信仰が深ければ誰でもなれますか?というもの。それに対して明主様は最初、それは絶対にできないとおっしゃる。何千年何万年に選ばれた一人しかなれないとおっしゃる。
でもそのあと、もうじきなんですよ、今邪神がいるからね、五六七の御代になれば見真実ということはもう無くなりますよ、みんな誰でも真実が分かるようになるんですよと、そうおっしゃる。
この聖言をどう受けとめるか、ここですね。
最初の「絶対できない」というところで、「ああ、じゃあ絶対できないんだ」と言って終わるのか。それとも後半の聖言のほうを受けとめさせていただくのか。
明主様が、見真実というのは無くなる、みんな真実が分かるようになると仰せになったということは、結局のところ、誰もが、最終的には明主様のところまで行けてしまうということですよ、明主様とまったく同じレベルまで。
見真実ということが無くなってしまう。どういうことだろうか。それは、神様は真実そのものであって、しかもそれが私たちの本体ですからね。だから誰もが真実が分かるようになるに決まってるんです。そういうことです、この聖言は。
追記:ではなぜ明主様は、「絶対に出来ません」「何千年、何万年に一人選ばれた人がなるんです」と仰せになったのか。それは、我々は、我々も見真実になれるということを聞くと、人によってはそれを思い上がって受けとめて、「自分は見真実になった」等の思いを抱いてしまう。そうならないように、「人間の智慧や能力では」絶対にできない、神様によって選ばれなければ、つまり、神様のお許しがなければ、人間に持たされている神様側のお立場を思い出すことなどは絶対にできない、というように私たちを戒めるため、あのような言い方をなされたのだと私は受けとめております。
というようにして我々は、まず、天上において生んでもらって、そして明主様の「神の経綸」にあるように、この地上を、すばらしい地上にしようと思って神様と一緒に造った。
そして、明主様も、最古の時代は神様であったけれどものちにこの世に降りてこられたように、我々もこの地上に来た。
だけれども、長年の人類の状況というのは、私たちはひとたび地上に来たら、今度は出どころを忘れてしまって、「神様なんているもんか」となってしまい、神様に対して罪を犯し、この世的にもいろんな罪を犯して、それでもう天国という清い場所にはとうてい帰れないような汚れた存在となってしまったところを、なんと、贖罪主という、本当にぴったりな言葉ですけれども、イエスが我々の罪を贖って、浄めて、そして、最古の時代神様だった時の世界に帰れるようにしてあげますよとなっている、そういうことなんですよ。
でも、イエスということも、結局、イエスが十字架に上がってそれで話が完結したかというとそうではなくて、今度は二千年経って明主様。しかし、明主様のみ心ですら我々が人間の都合でねじ曲げてしまって、でも、そこに今教主様が来られて、帰る道、いわば家路を示してくださって、そして今度こそ、我々は、天国に人類を迎え入れてすばらしい家族になろうじゃないかという神様の愛にお応えしようとしてる、というのが今の段階ですね。
だから、神様がお一人の時に思われたのは今言ったこのすべてですよ。
神様がたったお一人でいらっしゃった時、今言った教主様までのすべてのことをすでにご計画になっておられたんです、神様は。
そんなね、人間をこの世に送りこんでから、「あっ、大変だ、人間が罪を犯してしまった」「これを何とか浄めないといけない」と思われるような、そんな無計画なお方ではないですよ、神様は。
人間を造られることをご計画になっておられた時から、人間がご自身に背いて罪を犯すというのはもう分かっておられたわけです。一番最初の時ですよ、まだたったお一人の時。
その時に、私は子供を造る、でも彼らは私から一旦離れる、離れるけれども浄めて迎え入れる、そしてすばらしい世界を造る、というそのすべてを一番最初に決められて、そして初めて、そこから、創造の一番最初のきらめきを造られるんです、そこに。
だから、今日拝聴した聖書に「初めに言があった」とありましたでしょ?「メシア」という言葉ですね、それは。
その言葉に全部入ってるんです。お前たちを生んで、お前たちは私から離れるだろうけれども、赦して迎え入れてすばらしい世界でまた共に住もうじゃないか、というのが、もうその一番最初の言葉に全部入ってるんです。
だって「初めに言があった」と言っても、言葉は思いと共にありますでしょ。しかも、思いのほうが先ですよ。
だからもう、本当になんにも無い時に、ですよ。我々がもう「最古の時代私が神様であった時」のそのさらに前に、神様はすべて決めておられたんです。
だって今日の聖言にもありましたよね、「何千年否何万年以前より決定していた神のプログラムなのである」と仰せですよ、明主様は。だから、決定してたじゃないですか、そこで。もう何万年以前に神様は決めておられたじゃないですか。だから、それは、一番最初、たったお一人の時のことですよ。これほど大きな愛があるんだろうかと、そう思います。
だから、今日の御歌、「誰が眼にも映らぬ程のひそけさに神の仕組は已に成りけり」。
「ひそけさ」と仰せですよ。ひっそりと、お一人で、神様の思いの中ですでに神様のご計画は成っていたと、そういうことです。だとしたら誰の目にも映りようがないじゃないですか、まだ誰も生まれてないんですから。だから、すべてが始まる前にもう成ってたんですよ。お前たちは罪を犯すだろうけれども、浄まって私のもとに帰ってこい。いや、お前たちが帰ってくることはもう決まってるんだと、そういうことですね。最初にもう成ってたんですよ、すべてが。
「ひそけさ」というのは良い表現ですよね。何となく神様がお一人のご様子が想像できますよね。子供がまだ誰もいない、神様たったお一人の時、神様の思いの中で成ったんですよ、すべてが。そして、思いの中で「よし、これを成し遂げる」と決められてから全創造を始められたんです、神様は。
でも次の御歌は、「幾万年待たれ給ひし大神の仕組は今し成らむとするなり」。
そうなると、あれ、1首目の御歌と矛盾してるじゃないか、となりますよね。もう成ったんじゃなかったの、となりますよね。でも、矛盾があるわけではなくて、確かに、神様の思いの中では成ったんですけれども、今度はその神様の思いを自分の子供が受けてくれるまで神様は何万年も待たれた、そういうことです。「幾万年待たれ給ひし大神の仕組は今し成らむとするなり」。
だからそれは、皆様お一人おひとりがその神様の思いを今お受けすれば、今、成りますよ、ということですね。今皆様お一人おひとりが、「神様がずっと前に成し遂げてくださった仕組を、今、私の中でも成し遂げてくださろうとしておられるんだな」とすれば、今、初めて、神様の思いと、その思いを受ける子供である我々の思いが一つになりますよ。
さっきの卑近な例で言えば、誕生日プレゼントを渡す側と渡される側の思いが一つにならないと、本当の喜びにはならないですよね。渡す前は確かにワクワクするし、受け取るほうも、受け取る前は、「あの人からもらえるかな」と思ったりしているけれども、いざ本当に受け渡される時がお互いにとって一番うれしい時のはずですよね。
だから、それが今、成ろうとしてるんです。皆様お一人おひとりの中でですよ。そしてその時を神様は幾万年も待たれてたんです。
だから、今話しているようなことを、言葉にすれば「あまりにも尊く深く大いなる…」。あれ、なんでしたっけ?(真明様、参拝者に尋ねられる。参拝席より「驚く時」などの声)。そうでしたね、「あまりにも尊く深く大いなる経綸に驚く時来ぬるらむ」、ですね。皆さんありがとうございます(一同笑声)。
だから、驚く時が来たんですよ、今。明主様は、あまりにも尊くて深くて大きい神様の仕組みに驚く時が来ますよと仰せになって、我々は「何のことだろう?」と思って今日まで来た。ですよね?
でも、今お話ししていることは、ビッグバンからの140億年だけの話じゃないんですから。140 億年前のその前の世界、さらにその前の神様がたったお一人だった時の世界。そこから含めてのすべてを網羅しての神様の仕組ですよ。だから、本当に、驚く時が来たんですよ。本当にすごいことだと思いませんか?
次の御歌、「光なり嗚呼光なり如何ならむ濃き暗とてもうち霽らすなり」。
光はどんな闇もうち霽らすということですが、これもこれからの話じゃないんですよ。これから光が出て、わーすごい、闇をうち霽らしていくんだ、じゃなくて、もう一番最初、一番最初に決まってたんですよ。だって「やみはこれに勝たなかった」と書いてありましたよ、聖書に。やみは光に勝たなかったんですよ。
明主様も、「夜昼転換して暗黒時代は終わってすばらしい世界になる」というのをもう神は決定してたとおっしゃってましたよ、聖言で。「夜の世界が没落して昼の世界になる」「昼の世界が勝つ」ということは何万年以前より決定していた神のプログラムだと仰せじゃないですか、明主様は。
だから、「如何ならむ濃き暗とてもうち霽らす」ということ、これを神様はお一人の時にもう決めておられた。光は闇に勝つとお定めになって、それから創造を始められたんです。
で、この救いの光にあずかるのは、当然、我々だけではなくて、次の御歌に「三界万霊」とあるように、霊界もご先祖様も含まれてますよ。だって、「三界万霊もれなく歓喜に浸るらん救の光仰ぐたまゆら」ですから。
「たまゆら」というのは、この御歌の中では、要は、「その瞬間」という意味ですね。我々は、我々だけで存在しているのではなくて、ご先祖様と共に生きている。その我々が救いの光を仰ぐ瞬間、もれなく歓喜に浸ることができる。だから我々は、我々の中に三界万霊を持ってるんです。
光と言っても、光の出どころが神様の一番最初の光じゃなければ救いにはならないんですよ。というのは、我々、心の闇もあるし病気もあるし人間関係でいろいろ思うこともある。それについて、確かにいろいろな解決策はありますよ。一見光的な解決策は世の中にいろいろある。だけど、最も強い光は神様の光ですから、救いはそこにしか無いんです。しかもその光は、どこか途中から出てきている光ではなくて、一番最初の光ですよ、根源の光──と言っても光というのはちょっと創造のほうに入った状況ですけれどもね──この光が我々の中にある。
だから、「三界万霊と一緒にそれを仰ぎます」とさせていただければ、もれなく歓喜に浸ることができるんですよ、我々はね。
次。「大神の勲し高く褒め讃ふ清き言霊天地に響かむ」。
大神の勲しですから、神様が成し遂げられた功績ということですね。それはいろいろあるじゃないですか。明主様をお生みになったこととか、こういうことされた、こういうことされたと、いろいろある。でも、神様が成し遂げられた功績で最も尊いのは、なんにも無い時に、思われた神様の「思い」ですよ。すべてを成し遂げよう、全人類を赦して自分のもとに迎え入れよう、それで創造を始めようと思われたその「思い」、それが我々が讃えるべき最も大切な神様の勲しですよ。
もし病気が治るとしてもそこですよ、力の源は。だってその時にすべてを定めておられたわけですから。
だから我々が神様をお讃えするところは、人間では立ち入ることのできないところですね。だって神様お一人ですからね、そこは。その次の段階の「天国」という世界までは我々は行けますよ。天国だって造られた世界ですから。
でも我々がお讃えするのは天国を造る前のことですから。神様お一人の時代。だとしたら褒め讃えるしかないじゃないですか。我々では手も足も出ないところにいらっしゃる神様。その高さと清さと強さをお讃えする。我々が神様をお讃えするならその神様をお讃えしなければいけない。
次の御歌は、「此教へ知らぬ人こそ哀れなれ真の幸を掴み得ざれば」。
ここ、「教え」とありますけれども、教えと言ってもそれは愛ですからね。神様の愛。神様の愛が教えという形になってるわけですね。そして、神様の幸せなくして真の幸は掴めませんよね。
だから、今私が話してることもそうですし、教主様がずっとお導きくださってることもありますね。そういうことを受け入れずに、この世的な幸せを追い求めてもどうにもなりませんよね。真の幸にはたどり着かない。ただの「幸」にはたどり着くかもしれないですけれどもね。
だからそう考えると、「救はれし幸を思へば身を竭し心尽して酬はでやおかん」。
救はれし、ですから、救われた。では我々がいつ救われたのかというと、ずっと話してる、最初の時、その最初の時に、神様の思いの中で救われたんですよ、私たちは。
我々は、「救われた」というと、「あっ、あの病気が治った時だ。1900何十何年の何月何日だ」となりますけれども、もう、一番最初に、神様の思いの中で全部救うと決めておられたんですから、この時にもう救われていたんですよ。こんなにありがたいことないですよ、本当はね。
この世の命はいろいろですよ。だって明主様でさえ脳溢血という病でお亡くなりになったわけですから。明主様でさえですよ。大変なことですね。でも明主様は、その時、「救われてない」なんて思ってらっしゃらなかったと思いますよ、微塵も。脳溢血の痛みの中にあっても、「神様は私のことを救ってくださったんだ」という、もう大いなる喜びの中にいらっしゃったんじゃないですか。
だから、もし「お受けする」なら、この一点なんですよ。もうこの最初の一点のみなんですよ。神様が、まだ誰もいらっしゃらない時に、我々が誰かに誕生日プレゼントを買ってあげようと思うように、我々のことを思ってくださったんです。
自分の子供を造って最高の幸せを分かち合いたいと思われたんですよ。どんなことがあっても救ってあげよう、癒してあげよう、迎え入れて完璧な存在にしてあげようと思ってくださったんです。
だから、何をお受けするかと言ったら、それをお受けしなければいけないんです、我々は。その神様の「思い」をお受けしなければいけない。
でも、そこにずれが出ちゃってますよ、大体。というのは、我々は何か巻き起こると、「良くなってほしい」という経過の世界でその問題を見ますからね。その問題について「お受けします」と言っても、「この問題はいつ解決するんだろう」とか、「良くなってほしい」とか、「どうなるんだろう」ということでそれをお受けしてるから、折角神様は「私は全部成し遂げた」とおっしゃってるのに、我々は、「いつか成し遂げてください。神様よろしくお願いします」としてるから、ずっとそこにずれがあるんですよ、神様の思いと。だからすっきりしないんですよ、なかなか。
でも、何か巻き起こった時に、「あっ、もうこれを全部解決してくださる道を整えてくださって、一番良いようにしてくださるんですね」と言えば、神様は、「よし分かった」とおっしゃってくださって、いくらでもお力くださいますよ。我々にとって必要な道を整えてくださる。
だから、自分の思いと神様の思いとが合致しない限り、ずっと中途半端なままでいきますよ。ずれたままでも問題は解決するかもしれませんよ、確かに。それを、「ああ良かった、神様ありがとうございます」としてますけどね、我々は。それはそれでいいですけれども、でも、一つのことが解決したら、すぐまた次の問題が出てきますよ。自分の体とかいろんな人間関係とか。だから、神様と自分との思いが合致しない限り根本的な解決にはならない。
またね、「お受けする」「お受けする」というのは確かに大切ですけれども、我々が忘れてはいけないのは、我々は、自分にとって都合の良いことには(一同笑声)、結構「お受けします」と言えるけれども、神様の創造というのは霊界だけではなくて現界も含めて全部ですからね、日常生活も含めた全部。そうすると、いろいろお受けしたくないものがいっぱいあって、そのような側面を神様の前に出さないよう、隠して生きてますよね。でもね、実は、そういう我々の姿すらも赦してくださってるんですよ、神様はね。
我々人間は人の心の痛いところに結構土足でどんどんと入り込んでいきますけれども、神様のほうは、それを、「お前の『時』が来るまで待ってあげるよ」「私にそれを手渡して、見せてくれる日が来るまで待ってあげるよ」とおっしゃってくださっている。
でも神様は、最終的には、「お前の日常生活のすべてを私はお前と共にしたいんだ」と思ってらっしゃるんです、本当は。
というように、今私が冒頭からお話ししてること、これはすべて目に見えない世界の話ですからね、だから、「分からない」「難しい」と思いたい我々の心がありますよね。それは分かります。
でも、私は思うんですが、この神様の最初の時の思い、これは愛以外の何物でもないですよ。ご自分お一人でいいところ、わざわざ我々を生んでくださって、そして、我々は背くことになるけれどもそれも赦して迎え入れて、しかも、「三界万霊もれなく」ですから、誰一人ももらさず喜びの世界に迎え入れてあげるよとおっしゃってくださってる。
確かに今、「善悪立別ける」とかいろいろ厳しいことを言って、神様は我々にプレッシャーをかけてきておられますけれどもね(一同笑声)。でもそれも、我々が神様に背いてきたがゆえに、そういう厳しい表現になっているわけなんですね。
でも、神様は愛ですからね。そして、愛は理屈ではない。
理屈ではないのに、それを理屈で捉えようとすれば、難しい、なかなか理解できないとなると思うんですよ。でも、これは愛の話なんだ、教主様のお言葉も愛の話なんだ、その愛に触れたいなと思えば、もしかして神様の真実が分かるかもしれないという糸口が自分の中に見出されるかもしれませんよ。だって皆様本当は、見真実となるお立場を持たされてるわけですからね。
理屈で理解しようとすれば難しいですよ。でも愛ですからね、このことは。
かと言って、じゃあ愛だから何もしなくていいのかというとそうではなくてね、私としては、やはり何とか言葉を尽くして神様の愛について共にお受けしていこうと、そういうふうに思うんですね。
今日の聖書は、有名な、「ヨハネによる福音書」の冒頭部分の、「新しく生まれる」ということに関連している内容のところでしたね。
彼を受けいれた者、その名を信じた者は神によって生まれると、そうありましたね。「肉の欲によらず」「人の欲にもよらず」とあって、そして、「血すじによらず」とありましたね。「血すじによらず」。
いわば、例えば私が岡田家の人間だから、明主様が新しくお生まれになったんだから、私も新しく生まれられるかというと、そういうことではない、ということですね、血筋によらないんですから。
血筋にもいろいろありますよね、天皇家とか、王家とかいろいろある。でも、神様の子として生まれるには、それにはよらないんです。
そして我々は、人間的な世界においての血筋はそれぞれ別々ですけれども、実は、神様の血によっては一つですよ、私たちはね。神様の血筋ということでは、一つ家族ですよ、私たちは。
だって私たちの血は贖われたんでしょ。贖われた。イエスが贖罪主なんですから、イエスの血によって私たちの血は贖われた。ということは、今我々の体を流れてる血は、もう浄められて、今や神様の黄金の血が流れてるんです、私たち一人ひとりの中に。そういう意味では家族ですよ、私たちは。神様の血によって結ばれた家族。神様の黄金の血によって結ばれた家族。
そして、神様のお血筋によれば、我々だって新しく生まれられますよ、それはね。
でも私たちの血がすでに神様の黄金の血になってるがゆえに、我々の中にある多くの救われなければならないものを浄めんとして、我々の体が病気とかを含めていろんなことになってますよ、今。
それは、見方として、自分の血が汚いから自分の体が病気になってしまって、これからどんどん悪くなってしまうのかな、じゃないんですよ。
そうではなくて、むしろ、もう浄まってしまったから、我々の中に黄金の血が流れてるから──そして黄金であればいろいろなものを照らしますから──だから、我々の中の汚いものを浄めてくださっている。
ガンなんていうのはその中でも非常に顕著なものですけれどもね。血に関わる他のいろんな病気もありますしね。でもこれらすべて、「病気」という悪いものではないんです。むしろ、神様が、我々の中にある清い血を使って、人類のいろんな罪を浄めてくださってると、そういう働きなんです。
でも世の中の人は、「此教へ知らぬ人こそ哀れなれ」という御歌にもありますけれども、病気になれば、「良くならないかな、良くならないかな」ということで苦しんでるじゃないですか。だから、もし可能であれば、そういう方々にお伝えしたいですよね、病気になったってそれは悪化していることではないんだ、そうじゃなくて、あなたの中に黄金の血があるじゃないか、あなたは救いの御用にお使いいただいているんだと、そうお伝えしたいですよね。
だから、もし我々が、自分はすでに浄められて救われたんだということを受け入れるならば、その時点で、神様の最初の目的は達成されたことになるんですよ。で、今度はその次の段階。積極的に救いの御用にお使いいただくという次の段階。
我々は今その段階ですよ。ただ被る側に立って、「自分は救われた!」と言って終わるんじゃなくて、その次の段階に進まないといけない。
だって、先ほどの御歌にあったように、私たちは、救われた幸を知って身と心を尽くして神様に酬いたいわけですよね。もし自分が完璧に元気にならなければ神様に酬えないんだとしたら、もう死ぬまで神様のお心に酬えないですよ。
だから今ですよ、今。
「今、自分は救われました。清くなりました」とするかどうかですよ。救われて、浄められたから、だから、自分の心がいろいろになるし、病気にもなるし、ということなんですよ。そういう救いの御用にお使いくださってるんだな、ということなんです。
だから絶対、この一点しかないんです。
神様はもう成し遂げられた、すべてを救って天国に迎え入れられた、というこの一点を外しては、もう我々は歩めないんです、絶対に。だってそうじゃなければもう迷いの世界ですよ。「良くならないかな」という迷いの世界。「この世の中は大変だな」「また戦争起きちゃった、大変だな」の世界ですよ。まあ、世の中の人はそういう思いで生きてますけれどもね。
でもそうではなくて、親心があるじゃないですか。神様の親心。それが本当の愛なんですよ。
確かに、この世的な意味での刑罰とかそういうことは必要ですよ。でも、我々がどんなになっても、どんなにひどいことをしても、そのすべてを、「お前たちを赦して迎え入れてあげるよ」という親心。その親心があるじゃないですか。
そしてそれに応える我々の子心。今度はそれに、「ありがとうございます」と応える私たちの子心がありますね。
だから、その親心と子心が一つになる、これですよ。
親心に対して、「成し遂げてくださったんですね」「完璧なものを用意してくださったんですね、ありがとうございます」とお応えするその子心。その親心と子心が一致すればそれはもういくらでも力が出ますよ。だって霊体一致するわけですから。
だから我々は、手を掲げる浄霊とかそういうことがあって、ずっと被るほうを意識してきたんです。
いや、もちろんね、世の中をより良くしていかなきゃいけない、というのはいいですよ。だけど、自分の中に、「神様はすでに全部成し遂げられたんですね」という前提があってなにかするのか、それとも、その前提が無くて、ただ、悪い世の中を何とか人間の力で良くしていかなきゃいけないと思うのか、そこは大きな差ですよ。仕組がすでに成ったと見るのか、成ってないと見るのか、大きな差ですよ。
だから我々は、これから、今までの被る時代を大きく飛び越えて、そして全人類とそれに結ばれるすべての先祖を私たち一人ひとりで救っていかなければいけない。
いいんですよ、知り合いとか友達がいなくたって。自分の中で、「自分は大切な使命を持たされてるんだ」と思って、「あいつ憎い」と思ったら、「あ、ここですね!」ということ、そういうことなんです。
病気も大変ですよね。もちろん、この世的にその病気をどう対処するかということはいろいろありますけれども、でも、そういう中にあって、ほんの一瞬でも「ああ神様、多くの人を救うために私の中の黄金の血を使って浄めてくださってるんですね」ということを思えたら、神様は、「そうだ」とおっしゃってくださいますよ。
だから、皆様方お一人おひとりの使命は大きい。
我々は病気とか人間関係で苦しんでるようですけれども、違うんですよ。
神様は、我々一人ひとりに大いなる救いの業を託しておられる。だから、そのためにも、まず、お受けする。「天上で成し遂げられたあなたの愛を、あなたの親心をお受けします」ということですよね。そして、「あなたの愛を信じます」ということですよね。だって理屈じゃないんですから、これは。
ということで歩めば、神様の愛が真実の愛ですから、光の世界はもちろんできますけれども、それは愛に満ちた世界でもあるんですよ。だから、光と愛に満ちた世界──神様の光と愛ですよ──それに満ちた世界を、世界メシア教の皆様で造っていただきたい。
だから、いろいろあるけれども、それは神様が救いのためにそうしてくださってるんですから、勇気を持って、共に歩んでまいりましょう。
ありがとうございました。