九月度月次祭

2022年9月1日

明主様御歌

誰が眼にも映らぬ程のひそけさに神の仕組は已に成りけり

幾万年待たれ給ひし大神の仕組は今し成らむとするなり

あまりにも尊く深く大いなる経綸に驚く時来ぬるらむ

光なり嗚呼光なり如何ならむ濃き暗とてもうち霽らすなり

三界万霊もれなく歓喜に浸るらん救の光仰ぐたまゆら

大神の勲し高く褒め讃ふ清き言霊天地に響かむ

此教へ知らぬ人こそ哀れなれ真の幸を掴み得ざれば

救はれし幸を思へば身を竭し心尽して酬はでやおかん

聖言

開教の辞 世界救世(メシア)教の誕生に就て 昭和25年2月4日

昭和22年8月30日、宗教法人として創立された日本観音教団並びに同23年10月30日同じく創立された日本五六七教会は、今回自発的に解散し、右両会を打って一丸としたる新しき構想の下に、本年2月4日立春の日を期して、標題の如き宗教法人世界救世(メシア)教の創立出現となったのである。

之は、非常に重大な意義があり、勿論神の深き御旨に由るのであって、人間の意図でない事は今更言うまでもない。何時も吾等が唱える処の、霊界に於ける夜昼転換の時期に愈よ入ったからである。之も吾等が常に言う処の仏教の救いは夜の期間中であるから夜の消滅と共に観世音菩薩の御救いの転移進展となるので、一言にして言えば仏滅を意味するのである。従而、観世音菩薩の御働きも救世主のそれとなるのは勿論である。即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。

以上の如く霊界が昼となる以上、之が現界に移写するに於ては、夜の文化は当然不用なものは滅び有用な物のみが残る事となるのは当然である。それのみではない。長年月に渉る暗黒時代によって人類の罪穢の少なからず堆積せる以上、それの清掃作用が行われなくてはならない。右の滅ぶべき不用物とは之を指して言うのである。而もそれと同時に昼の文化の建設が開始さるるのである。斯の如き空前絶後の一大転機とは、何を指すのであろうか。全く何千年否何万年以前より決定していた神のプログラムなのである。

又別の言葉を借りて言えば大規模な世界的破壊と創造が行われるのである。嗚呼斯の如な重大時期に際会しつつある今、神の大愛は如何なる形に表われるかを知らねばならない。即ち其具体化としては一切が滅ぶるものと生き残るものとの何れかに決定さるるのである。然し乍ら右は止むを得ないとしても神の恩恵は、一人でも多く滅ぶるものを救わせ給わんとして、神の代行者を選び救世の大業を行わせ給うのである。又その使命達成の機関として運用されるのが本教であるから、本教の使命たるや実に大なりというべきである。此意味に於て愈よ切迫せる最後の時期に当っての活動こそ刮目すべきものがあろう。其結果吾等の唱導する地上天国こそ最後の目標でなければならないのである。

私は、これまで顧問の名の下に、いわば蔭にあって経綸を行っていたが、漸く基礎的工作も出来上ったので、茲に表面的活動に移る事となった訳である。端的に言えば、いよいよ本舞台に登場する事となったのである。従而各般に渉って漸次組織形体は固より、活動の形式も新しく生れるのは勿論である。

そうして、祝詞にもある如く観世音菩薩、光明如来、メシア(救世主)、弥勒神等も、御名は異なれど同一の御神霊である以上根本は変るのではない。いわば時期に応じて御神霊の活動範囲が拡充するのであるから、御神体も御守りも或時期まではそのままで差支えない。未だ種々発表したい事もあるが、時期の推移に従って漸次発表する段取となるので、今は此辺に止めておくのである。

最後に言わなければならない事はこれ迄は観世音菩薩の御働きであったから、言わば東洋的であった。然るに時期切迫の為どうしても一大飛躍によって全人類を救わなければならない、とすれば世界的に拡充する必要がある。世界救世教の名に因る所以である。

今一つは観世音菩薩は、善悪無差別的の救済であったが、愈よ地上天国が目前に迫り来った。今日茲に善悪を立別け、善を育て悪を滅しなければならない事になった。所謂悪のトドメである。従而救いの力も決定的でなくてはならない。その力こそメシアの揮わせらるる大神力である。

嗚呼、慶賀すべき時とはなったのである。

『救世』48号

 

聖書

ヨハネによる福音書 第1章1節~13節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(⽇本聖書協会)

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