〔明主様〕
彼の釈尊の唱えた苦の娑婆の時機は最早終ったのである。此事の真諦が判ったとしたら、その歓喜は人類の経験にない程絶大なものがあろう。
1949105日「本教救いの特異性」

 

誰が眼にも映らぬ程のひそけさに神の仕組は已に成りけり

いつまでも闇の世なりと油断すな光は已に雲破りけり

長き世の暗の帳りもひそやかに明け放れけり神の光に

夜の終り来つるも知らで夢醒めぬ人こそ世にも哀れなりける

はや已に常暗の夜の過ぎけるを知らで迷へる小羊あはれ

悪の世は早過ぎにけり善の世は眼に見えねども生れつつあるも

長き世の暗の帳もしづしづと開けはなれけり眼醒ませよ

 

〔聖書〕
 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、
  「わたしが怒って、
  彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」
と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、
  「きょう、み声を聞いたなら、
  あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」
とダビデをとおして言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
「ヘブル人への手紙」第41節~13

 

教会誌『グローリー』No. 32, 2022/9月号掲載
 聖書出典:『口語訳聖書 1954/1955年改訳』(日本聖書協会)