潔くあらん

 

《 明主様 》
先に日本浄化療法の時分ですが、前に一家中教修を受けたのです。処が観音教団になってからパッと来なくなったのです。それから可笑しいと思って、〈近頃聞いた話ですが〉或人が聞いた処が、〝いや宗教になったから止したんだよ。あれは良いのだが──僕も家中で行ったのだが、宗教になったから、もう止したんだ〟と、斯ういう話なのです。之が可笑しいのです。つまり察するに、それは自分が政界や何かに乗出して活躍するには、新宗教というものが障りになるという意味だろうと思うのです。そこで私はどうも感心しないと思ってました。若しメシア教が悪いものならそれは隠す必要もありますが、自分が良いと思ったら、新宗教でも旧教でも、ちゃんとやるのが本当です。
1952101日「御講話」

 

《 教主様 》
今日聖言で「宗教はメシア教の一部」とありましたね。「超宗教」という聖言もありますよね。我々も「超おいしい」とか言うじゃないですか。だから超宗教って、宗教から離れるんじゃなくて宗教の奥の奥の、その奥があるんだよということを仰っているんじゃないかなと思います。だから形式的なことはあるけれど、それを通して本当のことがあるんだよということを、我々に後で気づかせるために超宗教という御言葉を遺してくださったんじゃないかなというふうに思います。
2020101日「ご面会(理事・教区長)」

 

《 真明様 》
 「和光同塵の衣かなぐり捨つる時弥よ来にけり心せよみな」。
 だから、和光同塵というように、本性を隠して塵にまみれて、俗世間と同じようなことのレベルで明主様を説いていくという衣をもう脱ぎ去りなさいと、そういうことですね。「かなぐり捨つる」と言われるということは、そういうあり方から脱出するのには勇気、覚悟がいりますよ、ということをお示しになってますね。
 「弥よ来にけり心せよみな」。いよいよその時が来たけれども、心の準備はできてますか?今までのように、世の中の人の言ってることと同じようなことで明主様を世に紹介して、そして、それが受け入れられて、「あーよかった、よかった」と言える時代はもう終わりましたよと、そうお示しになっておられる。
 「心せよみな」という言われ方。これは、警告ですね。世の中の人たちの考え方、歩み方はある。でもそれを超えて、自分たちの本性を世に示しながら歩んでいかなければならない、それで世に出る覚悟はあなた方にありますか、という警告ですね。
 「畏くも応身の衣かなぐりて起たむメシアのいさぎよきかも」。
 我々は、潔くなくてはならない。世に合わせてやっていくあり方は楽ですよ。世の中の人が言ってることですから、それは当然楽ですよ。でも、それをかなぐり捨てて、あなた方は潔く起てますか?
 何が起ったかと言ったら「メシア」だったんですよ。「応身の衣」をかなぐり捨てたら、その衣の中、本体はメシアだったんですよ。だから、これからはメシアの救い、メシアを前面に出していく救い、その時期が来てますよと、そういうことですね。メシアを、隠すどころか、それを前面に出していくあり方で進んでいくのが潔いんだと、そう仰せですよ、明主様は。
202211日「光のみ」

 

教会誌『グローリー』No. 32, 2022/9月号掲載