PDF:秋季大祭_真明様ご挨拶

「神を恋する」

於:ホテルニューオータニ大阪(鳳凰)

 

皆様、こんにちは。
 今日はいつもと式次第もちょっと違いましたね。今、吉波さんの決意発表も拝聴しまして──吉波さん、ありがとうございました──それはなぜかというと、理事長のご挨拶にありましたように、3年に1回、役員と評議員の改選がある、だからこういう式次第なんだということですね。
 こういう役員の改選ということ、これは、なんか上のほうの人たちがやってることで私たち信徒には関係ない、というとそうではなくて、なぜなら、この理事の方たちは、信徒の皆様を代表していらっしゃる方たちである。ですね?
 誰に対して代表してるのかと言ったら、それは、教主様に対して代表していらっしゃる、そういうことですね。
 皆様お一人おひとりはどちらかの教会に所属していらっしゃる。その教会においては、当然、教会長の方が皆様を代表して教主様にお仕えになっていますね。同時に、教会長の方は、教主様の代理として皆様方を導いてくださってるお方でもある。
 もちろん、教主様とか私が、毎日全国のいろんな教会へ行ければいいんですけれども、そういうわけにもいかないですから、こういう大祭のような時は皆様にお会いできますけれども、普段は、教会長の方たちが、教主様の代理として皆様を導いてくださっていますし、また皆様を代表して教主様にお仕えになっている、そういうことですね。
 で、その教会長たちを束ねてるのが布教区長、その布教区長たちを束ねてるのが教区長、その教区長たちを束ねてるのが理事の方で、その理事の方々を束ねてるのが理事長とそれを補佐される副理事長なわけですから、理事の方々は、まさに皆様を代表して教主様にお仕えになっている。
 ということは、その理事のメンバーが変わるということは、教主様にお仕えになる皆様にとっての代表の方々が変わるということですから、決して皆様と無関係なことではないんですね。
 私も、皆様お一人おひとりとなかなか直接はお会いできないですから、理事長のご奉告をお聞きする時は、そこに信徒の皆様全部の思いがあるんだと思ってお聞きしますし、また何か皆様にお伝えしたいことがあれば、理事長を通して皆様にお伝えすることもあります。
 また、理事会というのはよく聞きますが、この評議員会というのは普段あまり聞かないですよね。
 この評議員会のメンバーが、今回全員女性の方になったということですけれども、これは、お飾りということではないんですよ。なんか、ただ、「わー、評議員全員女性なんだ」ということだけで、そこになんの意味もないわけではなくて、この評議員の方たちが、もし理事会とか理事長がおかしいと感じれば、評議員会の意向で理事長を含めた理事の方々を解任することができる。
 逆はできないんですよ。理事会の意向で評議員を切ることはできない。だから、見方によっては、評議員会のほうが力を持ってると言っても過言ではないわけです。
 理事長、大変ですね(一同笑声)。
 そういう意味においては、今日までの3年間そういう重責をってくださった評議員の方々には──教団は今は安定してますのでね、特別そういうことは起きなかったんですけれども──大役を3年間務めてくださってありがたいことだったなと思っております。
 私たちは、「新しく生まれる」ということを言ってますね。この言葉の意味が分かる分からないは置いといて、とにかく、新しく生まれるということを言っている。
 新しく生まれるということは、当然、男性と女性が一つにならなければ子供は生まれないんですから、今回、理事会は全部男性なので、それこそ男性の理事会と女性の評議員会が、もちろん一種の緊張状況にはあるんですけれども、協力して、男性も女性も一体となって進んでいく。そうあらねばならない。
 我々は、神様の子供として新しく生まれるということを、自分自身も成し遂げたいし、また世の中にもそれを訴えんとしているわけですから、こういう体制ができたということは、もちろん、女性が表に出てきたということで、より21世紀にふさわしい形になったということはありますけれども、同時に、男性と女性が一つとなって力を合わせて進んでいくということの一つの型としての体制になったのではないのかなと思います。
 ですので、それは、新しく生まれるという道に進んでいこうとしている我々にとって──我々の信仰にとって──大きな力になると思っております。
 ですので、理事と評議員の改選というのは、上のお偉いさんたちが自分たちとは関係ないところでなにかしてるということではなくて、本当に、文字通り新しい出発である。私たちにとって、より飛躍していくための、大きな、新しい出発の機会であって、そういう意味において、今日は非常に意義深い秋季大祭だなということをひしひしと感じております。

 

それはそれとしまして、今日、皆様にお話ししたいことというのがありまして、それは、この人間世界というんですかね──世の中というか世というか──この人間世界というのがあって、一方神様を信じる信仰世界というのがありますけれども、この二つの世界の間にがあって、この溝がなかなか埋まらないみたいになってますね、今。
 信仰世界のほうは、「私は神様を信じます」ということで進んでいく。人間世界のほうは、「神様は必要ない」「人間の力と努力によって一歩一歩より良い世の中にしていくんだ」「一生懸命人間同士で協力して、少しずつ良い世の中にしていこう」ということになってますよね。まあ、もちろん、人間の努力は大切なことではありますけれどもね。
 というように、世の中と信仰の世界の間に溝があって、特に日本なんかにおいては溝どころか、宗教に対する、否定的と言いますか、一種の差別的な思いもあったりして、この溝はもう埋まりようもないみたいな感じになってますよね、人間世界と信仰世界の溝は。
 しかし、世の中のほうは、神様を信仰しないからと言って、なんでもありみたいにしてるかというとそうではなくて、一種の道徳的規範と言いますか、ルールみたいなものがあって、その中で生きている。
 嘘をついちゃいけませんとか、正直になりなさいとか、約束は守りましょうとか、親孝行しなさいとか、誰かの役に立ちなさい、善いことしなさいという、その世界ですね。こういうのが世の中の道徳的規範。
 でもこれは、信仰者である我々にとって無関係かというとそうではなくて、我々自身も、小さい時から、肉親であったり、学校とか、そういういろんな場でこういう考え方を叩き込まれますよね。叩き込まれる。
 学校とかで「誰かの役に立つ人になりましょう」という標語は掲げられそうですけれども、「神様に心を向けましょう」という標語はなかなかなじみにくそうですよね。
 それぐらい世の中の道徳的規範というのが非常に強い形で存在してますね。そしてその中で我々信仰者も含めてみんな生きてる。
 で、私は、そういう規範的なものを、死ぬまで一つも破ったことはない、という人はいないと思うんですよ。嘘をついたことは一度もありません、親孝行しかしたことはありません、親不孝したことなんてありません、人のためしか考えたことありません、自分のことなんか考えたことありません、という人は一人もいないと思うんですよ。
 一方で、その逆の人もいないですよね。私は嘘しかついてません、という人もなかなかいないと思うんですよ、なんかちょっと変な話ですけれども。
 実際は、大体、みんな、そので生きてますよね。あの時は大切な約束を破ってしまった、だから今後は約束を破らないようにしたいなとか、あの時は親に対して思わずあんな冷たいことを言ってしまった、これからちゃんと親孝行しよう、と思ったら親がこの世を去ってしまって、ああ親孝行できなかったなとか、あの時あの人を傷つけてしまって後悔してます、でも何とかもっと良くなりたいなという、そういうことで生きてますよ、私たちは。そういう思いを抱えながら死んでいく。
 そして私たちは、これが人生なんだ、と思い込んでますよ。喜怒哀楽を感じながら、また、酸いも甘いも味わいながら何十年か生きて、そして天寿を全うする。これが人生なんだと、そう思ってる。思い込んでる。そして我々自身もそういう発想、そういう世界に生きてますね、普通に。
 だけど本当は、その生き方というのは行き詰まってるんです。だって達成できないことを目標にしてるんですから。我々は、これこそが人生だ、これが人生の醍醐味だと思ってますけれども、本当は行き詰まってるんですよ。
 一種のルールのようなものがあって、それを一生懸命守ろうとしてるけれども完璧には守れない、でも守らなければいけない、というようになってるということは、本当はもう行き詰まってる。世の中全部、全人類が本当は行き詰まってる。
 じゃあね、なぜ我々は小さいころからそういう規範を叩き込まれるんだろうか。一生かかっても達成できないことを課せられて、それで私たちの人生終わりなのか。というとそうではなくて、そのように我々がそういう規範を叩き込まれて、その中で、あの時嘘ついちゃったな、あの人との約束破っちゃったな、親孝行できなかったなとして葛藤してる、行き詰まってるということは、本当は、その時に、「ああ、こういう規範すべては神様に対してのことだったんだな」ということに気が付くためなんですよ。
 嘘をついてはいけない──本当に嘘をついてはいけないのは誰に対してなんですか?約束を守らなければいけない──本当に約束を守らなければいけないのは、誰との関係においてなんですか?親孝行──本当は誰に親孝行しなければいけないんですか?誰かのために生きる──本当は誰のために私たちは生きなければいけないんですか?というように、世の規範で行き詰まってるということは、本当は、こういうことを神様が私たちに問うてるんです。行き詰まった時に、「私のことを思い出してくれないか」ということを神様は願ってるんです。
 私に対して嘘をつかないでほしい、私との約束を果たしてほしい、私を親と認めて、私とあなたで親子関係を結ぼうじゃないか、私のためを思ってくれよ、私もあなたのことを思ってるんだからと、そう願われている。
 本当は、これに気が付かせるために、神様は、我々が小さい時から、口酸っぱく、もう耳にタコができるくらい、死ぬまで、この規範というのを私たちに聞かせているんです、こういうことはしちゃいけませんよ、こういうことはだめですよ、というように。
 本当は、全部神様との関係のことなんですよ。ただ、言葉としてはそういうふうに表現されていないだけですよ。
 でも、そう言われても、じゃあ神様に対して嘘をつかないとは何だろう、と思いますよね。
 それは、ひと言で言えば、神様としては、「私に、ありのままの、正直なお前を見せてくれよ」と、そういうことなんです。
 というのは、我々は、自分をよく見せようとしますからね。私は信仰してます、神様を信じてます、決心できますというように。
 だけど、「ありのままの思い」と言われると、我々はなんか劇的なものをイメージして、自分ではなかなか難しいなと思ってしまっている。違いますか?
 でも、「ありのまま」というのは、なんていうことない、「自分はなかなか決心できないな」とか、「あの人は決心できてすごいな」とか、「すべて神様のものだと言われるけれども自分は全然すべてを神様のものだとは思えません」とか、そういう思いのことなんですよ。
 それが「ありのまま」なのに、我々は、「すべてが神様のものだと思えなければ委ねられない」とか、「すべて神様のものだと思えない自分は正直ではない」というように思い込んでるから、なかなか前進できないんですよ。そんなね、スパッと思える人なんて本当はいないんですから。
 だから神様は、「いやいや、そんな簡単に思えないでしょ」「だから、そのごちゃごちゃした思い、中途半端な思いのまま、そのままで私の前に来なさい」とおっしゃってるんです。
 そうさせていただければ、神様は、「ああそうか」とおっしゃってくださって、その中途半端な状況を解消してくださる祝福を与えてくださるかもしれないんですよ。でも我々は、その中途半端な思いをがっちり持ってますからね(真明様、演台のおしぼりをがっちり持たれる)。がっちり持ってる。だからずっとそこにまっちゃうんですよ。「あの人はすごい、私は決心できません、全部神様のものだと思えません、なので委ねられません」というところでもう止まっちゃってるんです。「ありのまま」というのをなにか自分の中でものすごい尊いことだとしてしまってますのでね。だからそこに留まってしまってる。
 神様との約束を守るということも、いや自分は神様と約束なんかした覚えはないと言うかもしれませんけれども、約束はしたんですよ、本当はね。忘れてるかもしれませんけれども、したんですよ、本当はね。だって親子なんですから。
 私はお前を地上に送り出すけれども、すべてを携えて私のもとに帰ってきなさいと言われて、それで我々も神様に対して、分かりました、約束しますと言って天国を出てきたんですよ、本当に、架空の話じゃなくて。
 親孝行ということもありますけれどもね、神様が本当の親ですよ、絶対に。ということは、もし親孝行をしたいとしたら、最低限まず神様が親であることを認めなければスタートできないですよ。
 誰かのために生きるということも、本当は、我々は、神様のために生きなきゃいけないんですよ。その、「神様のため」ということを抜かして「世の人のため」と言ったって、神様からは、「それはあなた自身が自分の徳を高めるためにやってるんじゃないのか」と言われてもうそれでおしまいですよ。
 善いことをするということも、世の中では一日一善とか言いますよね。でも、神様にとっての善いこととは、我々が神様のもとに帰って、神様を「お父さん」と呼ばせていただくこと、これが神様にとって一番善いことなんですよ。だって神様が私たちの本当の親なんですから。それを抜かして、人間の世界だけで一日一善してたって、もうどうにもならないんですよ、本当はね。
 大体、神様の力がなければ善行一つできないんですから、我々は。その神様に対する礼節を誤ってなにかしたってどうにもならないんです。

 

今私が話してることは何となく皆様分かりますよね。それで、「ああそうか、世の中のことは本当は神様のことだったんだ」ということで、じゃあこれからはそういうふうに生きていこう、本当の親に──神様に──親孝行していこうとなりますね。今までは人間のために生きてました、でもこれからは神様のために生きていきますと言って、それがじゃあそのまますんなり行くのかというと、神様からは、「ちょっと待て」と、そう言われてしまうんですね。
 どういうことかというと、神様は、「今までお前たちは私に対して嘘をついてきたじゃないか」「約束破ってきたじゃないか」「私のもとを出て、帰ってくると言ったのに、ずっと自分勝手に歩いてたじゃないか」「私のことなんて忘れて、いや、私なんていないほうがいいとずっと思ってきたじゃないか」「私の存在が都合が悪いと思ってきたじゃないか」と言われてるんです。
 だから、そこに、れがある。罪ですよね、罪。神様は、あなたたちには罪があるじゃないか、それをどうするんだと言われてる。これが残されてるんですよ。
 「あなた方は『これからは神様のためにがんばって生きていきたい』『善いことを進めていきたい』と言う。それはいいけれども、その汚れはどうするんだ。服が汚れてるじゃないか。それでは私のもとには来れないんだよ」と神様は言われてる。
 罪、ですね。
 じゃあどうしたらいいんですかとなりますよね、私たちとしては。ちょっと考えても自分の人生は真っ白ですばらしいとはなかなか思えないじゃないですか。生きていく中でやむを得ずしたこともたくさんあったし、物事がエスカレートして自分の想像しないことが起きて、言ってはいけないことを言ってしまった、してはいけないことをしてしまった、そういうこと、ありますよね。そういうことを抱えてますよ、私たち一人ひとり。それらのこと、取り返しつかないじゃないですか。どうするんですか?
 だから神様は、その罪をまずきれいにしなさいとおっしゃってるんですよ。「まずきれいにしなさい」。それが一歩目です。
 そこで現れるのが贖罪主、ですね。う罪の。贖罪主。明主様ですら贖罪主の存在を認めておられるんですよ。贖罪主。罪を贖う方。
 で、どうやって神様が我々の罪を贖ったのかと言ったら、ご存じのようにイエス・キリストをして十字架に上げて、その血を流して人類の罪を贖った。それが贖罪主なんでしょ。イエス。贖罪主のイエス。
 だとしたら、まず、イエスが贖罪主であること、イエスの十字架、イエスの血を受け入れなければ、二歩目のスタートは切れないですよ、だってれてるんですから、まだ。
 今まで人間のために生きてきました、でもこれからは神様のために生きていきます、というふうにスパッといけるかというと、いけないんですよ。まず洗濯しなさい、服をきれいにしなさいと、それが残されてるんですから。
 お前たちをきれいにしてまっさらにするためにイエスとその血を用意したんだから、それを受け入れて、そこから新しいスタートを切ろうじゃないかとおっしゃってくださってるんです、神様は。
 というように、世の中の規範的なことを守ろうとするが難しくて行き詰まる。そこで、じゃあこれからは神様のためだと思うけれども、今度はそこで神様のためにできない自分、できなかった自分を発見して、その時にイエスを受け入れて、新しい出発をすると、そういうことです。

 

だからこれは、今、例えば、嘘をついちゃいけないということで話しましたけれども、本当は、全部がそうなんですよ。この人間世界のすべてが、神様のことと関係があるんですよ。
 今日の祭典前のピアノ演奏、ありましたね。ちょっと意外な曲と思われたかもしれませんけれども、「時の流れに身をまかせ」でしたね、テレサ・テンの。
 (真明様歌われる)「だからお願い そばに置いてね」(一同拍手)。(引き続き歌われる)「いまはあなたしか愛せない」ですよね?(一同拍手)拍手を強要してるみたいになりすみません(一同笑声)。
 この、「いまはあなたしか愛せない」の「あなた」は、もちろんラブソングですけれどもね、この「あなた」を「神様」と見る見方もありますよ、実は。
 今朝、ホテルの部屋で、祭典前のピアノ演奏がこの曲だと僕は知ってたから、調べて歌詞を見てたんですけれども、すごい恋愛の歌詞だなと思って、思わずメモしてきました(一同笑声)。
 ご存じの方もいるでしょうけれども、まず1番の歌詞、「もしもあなたと逢えずにいたら わたしは何をしてたでしょうか」となってますね。
 私たちは、神様と会えずにいたら何をしてたんでしょうか?
 「平凡だけど誰かを愛し 普通の暮らし してたでしょうか」。普通の人間の世界に生きて、神様の愛を知らないまま生を全うして終わってたかもしれない。
 そこから、「時の流れに身をまかせ あなたの色に染められ」。誰の色に染められるのか。神様の色ですよね、本当は。神様の色に染められたい、ということですよね。
 「一度の人生それさえ 捨てることもかまわない」。神様のために、ですよ。神様のために人生を捨ててもかまわないと、そういうことです。「だからお願い そばに置いてね いまはあなたしか愛せない」と、こうなりますね。
 またもう少し先、「あなたの胸により添い 綺麗になれたそれだけで いのちさえもいらないわ」となりますね。ということは、歌詞の意味は、私は運命の人に出会って、自分が本当にときめいて、それできれいになったと、そういうことですね。
 でも我々も、本当は、神様に出会ってときめいてきれいになったんですよ。
 我々は、どうしようもない、染みだらけの──染みだらけってちょっと語弊がありますね(一同笑声)、まだ染みの無い方もいらっしゃるかもしれませんし(一同笑声)──だんだん年老いていくと、老化ということでいろいろありますね。だけど本当は、神様のもとに、染みの無い、光り輝く顔も体もあるんですよね、我々一人ひとり。
 だから、現界でときめく人に出会って、自分の肌も潤うくらいきれいになれるというように、「ああ私、神様と出会えて本当にきれいにしていただいたんだ」と思って、天国にある光り輝く体のことを受け入れることができれば、結果的に、この世のほうの顔にある染みも無くなっちゃうかもしれないんですよ──いや本当に。
 私は、テレサ・テンのことで、荒唐無稽な話をしてるんじゃないんですよ、実は。
 明主様も、御歌で、「たまきはる命をかけし越しかたの恋にもまさる恋を知りけり」とお詠みになっておられますね。
 明主様も、過去に命を賭けるような恋愛をされたことがある。でも、その恋にもまさる恋を知ったと、そう仰せですよ、明主様は。
 ではそれがどんな恋だったかと言ったら、「人恋ふる熱き心のありてこそ命までもと神を恋ふなり」。
 「時の流れに身をまかせ」の歌詞とちょっと似てますね。テレサ・テンのほうは、「いのちさえもいらないわ」。明主様は、「命までもと神を恋ふなり」。これ、明主様の神様に対するご心境ですよ。
 あるいは、「恋愛の極致といふは真なる神を恋する事にぞありける」。
 この地上でみんな恋愛してるけれども、その極致は神様との恋愛なんですよ、という御歌。
 そして、「浮草の恋すててより今はただ神ひとすぢが命なりけり」
 この世の恋は捨てて、今はただ神のみに恋してるんだという御歌。
 だからと言って、「ああ、明主様はそうであられたのか」と言ってね、旦那様に対して、「あなたのことはもう捨てたわ」ということではないですよ(一同笑声)。
 とにかく、明主様は神様に対して恋愛をしておられます。明主様は、この世の恋愛もされてたんですよ、「命をかけし越しかたの」恋愛をされてたんですから。だけど、そういうことを通して、それを超える恋愛があることを知られた。
 そして明主様は、なんと、その恋愛を成就されましたよね。神様との恋愛を、成就されましたよね。
 だってね、最晩年にメシアとして新しくお生まれになったんでしょ?
 大恋愛をした神様と最終的には一つになって、そして明主様は新しくお生まれになったじゃないですか。だから明主様は成就されましたよ、神様との恋愛を。
 でもね、新しくお生まれになったからと言って、明主様は急に赤ん坊を連れてきたわけではないですよね。あるいは、急に小さくなって、赤ん坊みたいになられたわけでもないですよね。ということは、この「新しく生まれる」というのは、明主様の中側で起きたことですよ、中側で。
 最初に言ったように、男性と女性が一つにならなければ子供は生まれないんですから、もしそうだとしたら、明主様は、明主様の中におられる、いわば女性的魂である神様との出会いを果たされて、そしてその魂と一つになられて、新しくお生まれになった。
 この地上では明主様は男性ですから、男性的魂を表現させられていた。地上のほうの魂は、現魂という言い方もされてますね、明主様は。現魂と幽魂。現界には現魂が来て、霊界には幽魂が控えてるんだと、そういうことですね。
 だから我々は、一人ひとり、二つの魂を持たされてるんですよ、新しく生まれるために。これは本当に奥義の中の奥義の話ですけれどもね。
 明主様のさっきの御歌は、恋愛の御歌ですから、異性に対する思いのことをおっしゃってますよ、だって「越しかたの恋にもまさる恋を知りけり」ですから。明主様の異性に対する思いですよ。だとしたら、明主様の中に女性的魂があって、明主様はその方との恋愛をされて、その方と一つになられたから新しくお生まれになったんでしょ。これ、否定しようがないですよ。
 だから我々も、この地上で男性なら、中側には女性的魂があるし、この地上で女性なら、自分の中に男性的魂が待ってる。
 だってこの地上ではね、結婚したとかしないとか言うじゃないですか。運命的な出会いを果たして結婚したとか言ってますよね。
 もしこれが大いなる祝福だとしたら、結婚してない人は何か足りないまま生きていくんですか?
 そんなことないですよね。神様が地上に人間を降ろしたのに、神様が私たちに「足りない」という思いをさせるはずないじゃないですか。
 もちろん、神様の定めによって結婚した、それはいいことですよ。でも、たとえ結婚しなくても、私たち一人ひとりの中に高嶺の花のごとく、我々が憧れてやまない存在が待ってるんですよ。
 だって、異性を求める気持ち、湧いてくるじゃないですか。なんでそういう思いを神様は私たちに湧かせるんですか?あるからですよ、中に。待ってるんですよ、あなたと一つになりたいと言って。
 明主様はその大恋愛を成就されたお方です。それが本当の恋愛なんですよ。神様との恋愛。だから本当は、我々もその恋愛をしなければいけない。新しく生まれるということを目指してるわけですから。
 もちろん、さっきも言ったように、現実的な伴侶は大切にしていただいていいんですよ。自分の中にいるんならもうあなたなんか知らないわ(一同笑声)、じゃなくてですね。
 だから、このたびの理事と評議員の改選によって、男性と女性になりましたね。理事が男性で、評議員が女性。これは一つの象徴的な形として現れたわけですけれども、我々としてはこれをどう受けとめるべきかというと、もし自分がこの地上で男性であれば、自分の中側にある女性の魂、もしこの地上で女性であれば、自分の中側にある男性の魂、というように、それぞれ、その魂と一つになって新しく生まれなさい、恋愛を成就しなさいと、そう神様が急かしておられると、そういうことだと思いますよ。
 そうなったら力出ると思いますよ。だって今までずっと50%で生きてきたんですから。自分は男性だ、自分は女性だ、で終わりだったじゃないですか。
 でも本当は、その求めて求めてやまないものが、もう全部あるんですよ、私たちの中に。そこにありとあらゆる、喜びとか、力とか、希望とか、そういうのがあるんです。若返らせる力もありますよ、そこには。だって新しく生まれたら永遠の命ですからね。もう50、60、70になって、だんだんボロボロになる体とは全然(一同笑声)違う体ですよ。
 だから、理事と評議員がそれぞれ男性と女性になったということは、神様が、私たち一人ひとりに対して、今日私が皆様にお話ししているようなことについて気づいてほしいんだなと、そういうことだと思いますよ。
 自分の中で、二つの魂そろって──男性と女性そろって──神様の御前に行って、そして神様が「よし」とおっしゃれば、それで神様の子供ですよ。新しく生まれました、ということですよ。明主様の神秘中の神秘が、皆様の中でも成し遂げられるんです、そこで。
 一見、そこには到達し得ないかのように思うかもしれませんけれどもね、明主様が私たちの模範ですから、できるんですよ。明主様が模範を示してくださったんですから、私たちもできるんですよ、それは。
 だから、今日のめでたい日に──役員改選はめでたいですよ、だって神様がまた新たに進んでいいとおっしゃってるんですから──そのめでたい今日を機に、私たちみなで、より若返って、より力強くなって、より若々しく、より命に満ちあふれて、より光り輝いて、教主様を先頭に、明主様を一心に見つめて、また歩んでまいりましょう。
 ありがとうございました。