遥か遥か遠い昔から、愛のみ

 

《 明主様 》
 一切の清算、世界的大清算が、行わる時が来るんであります。此、清算は、本当から言いますと、九千年間に渉っての、あらゆる清算であります。此の九千年に就ては、いずれ別に、詳しくお話する考えであります。そして其結果、森羅万象一切が、時処位を得て、「本然」に立直った時が、五六七の世、大光明世界なのであります。
 それからが、永遠の平和であり、万民和楽の地上天国に、成るのであります。
 私は大胆に、未来の事をお話致しましたが、之は人間が考えたり、私の出来心等で、言うのではないのであって、遠き神代の時代に、主神が既に定められてある事が、愈々出て来るのであって、どうする事も出来ない、時期になったのであります。ですから、一日も早く、悪を捨て、善に立還るより、仕様がないのであります。
1935111日「大光明世界の建設 最後の審判」

 

《 教主様 》
 主神は、その天国において、全人類を赦し、闇から救い出し、光り輝く天国に再び迎え入れるというみ業、すなわち、ご自身の子を生むためのすべてのみ業を、予め成し終えて創造をお始めになり、今も絶え間ない創造のみ業をなさっておられます。
 このことを明主様は、「誰が眼にも映らぬ程のひそけさに神の仕組は已に成りけり」「人の眼に見えねど神の経綸は已に成りけり霊の世界に」という御歌を通して、また、この世界は神によってすでに天地創造の時から定められた「神定のプログラム」通りに進むとの聖言を通して、私どもに気づかせようとしてくださっているのではないか、と私は思います。
 主神の創造のみ旨である「神定のプログラム」あればこそ、私どもは、今までの営みにピリオドを打つことができたのではないでしょうか。
 「神定のプログラム」あればこそ、私どもは、贖われ、赦され、救われたものとなるという恵みを賜って、明主様によって告げられた「夜昼転換」という全く新しい創造の営みの中に迎え入れていただけたのではないでしょうか。
 明主様の仰せになった「神定のプログラム」は、主神の創造のみ旨であり、主神の限りない愛と光と永遠の生命に満ち溢れています。
 そこには、私どもが新しいと言っているすべてのものがあります。
 私どもは、創造の始まりである天国にいたのですから、その「神定のプログラム」は、私ども一人ひとりの中に組み込まれているに違いありません。
 そして、「霊主体従の法則」の聖言通り、私どもの内なる天国で成し遂げられたみ業は、必ず地上においても成し遂げられることになっているのです。
 地上を担わされている私どもは、主神が私どもを天国で生んでくださったからこそ、地上でも生まれさせていただいたことを認め、メシアの御名にあって、贖われ、赦され、救われたものとして天国に立ち返って、自らを主神にお捧げし、主神と一つにならせていただく、すなわち、「霊体一致」の姿にならせていただかなければならないのではないでしょうか。
 このようにして、私どもは、明主様を模範として真に新しいものになって、メシアとして新しく生まれる道を歩むものにならせていただきましょう。
202211日「新年 教主様お言葉」

 

《 真明様 》
 「いやはての審判の日にぞ大神の愛の御力顕れ出でなん」。最後の審判の日に神様の愛が現れますよ、という御歌です。
 それはどんな愛なんですかというと、それは、もちろん、何でも赦してくださるという愛でもあるし、また、子に対する親の愛でもある。
 「垂乳根の子を憶ふ如億兆を愛まふ神の御心畏し」、ですね。子を愛するように、億兆を──というのは、全人類と、また、万物も含めてのすべてということだと思いますけれども──そのすべてを親心でもって愛していらっしゃる神様の御心はなんと尊いんだと、そういう御歌ですね。
 でね、「でも私は神様に親になっていただいた記憶はありません」みたいなことになりますね、普通。自分が生まれたのは昭和何十年の何月何日で、私の親はこの人です、ということになりますね。でも本当は、霊主体従というように、地上で生まれる前に、まず最初に、天上で神様に生んでいただいていたんですよ、私たちは。
 それで、地上の親でも、我が子が生まれた時に、「なんてかわいいんだ」「この子のためなら何でもしてあげたい」「何があっても守りたい」という思いを持つ時もありますね。でも神様は、私たちを天上でお生みになった時、そのような人間の愛よりも遥かに大きい愛の心を私たちに対して持たれた。
 だって、もとはお一人だったんですよ。神様お一人。それを、「もっと喜びの世界に生きたい」ということで、たくさんの子供をお生みになって、その子供と共に住もうとされた。いや、私たちは、自分の人生が苦しい時にはね、「何でそんなことをされたんだ」と思うぐらいですよ。「生んでくれなければよかったのに」と思うぐらいですけれども、でもね、神様は、私たちを生んだ時に、本当に「かわいい」と思われたんだと思いますよ、きっと。人間の親が子に対し愛情を持つように、神様も私たちに対し、「こんなかわいい子供はいない」「何があっても守りたい」「何があっても赦してあげたい」と思われた。
 だから、私は、神様は、その時に決められたんだと思います。「何があっても自分の子供を赦す。愛しているから」ということを決められた。
 だから、「最後の審判」ということで、「最後」「最後」と言うけれども、本当は、もう「最初」に、一番最初に、「あなた方を赦すよ」という審判を下してくださったんです、神様は。「赦す」「何があっても赦す」という審判を下してくださったんです、本当は。
 でもそれがね、「最後の審判」とか、「警告」とか、「生き残る者は少ない」という厳しいお言葉になってますね、今。それはなぜか?だからそれは、本当は、神様は、最初のうちは優しいお言葉できっと私たちに語りかけてくださっていたんだと思いますよ。「私が本当の親だよ」「私のほうを向いてくれないかい」と、優しくおっしゃってくださっていた。
 でも私たちは、自分が中心で、どこまでも人間の世界を主体としている。この世界で繁栄したい、この世界で成功したいといつも思っている。だから、優しく言われても、全然神様の声に聞く耳を持たなかったんじゃないんですか?
 だから、ついに、少しね、厳しいことを言われなければいけなくなってしまって、「最後の審判」とか、「警告」とか、「立別け」とか、「亡ぶ」というようなことを神様から言われている。本当は、ご自分の子供に対して神様がそのような言葉を使われたいはずないじゃないですか。
 でも、私たちがそうさせているんですよ。私たちが神様に、そういう厳しい言葉を使わせているんです。
 神様が、「こっちを向いてほしい」「私が本当の親だよ」とずっと言ってくださっていたにもかかわらず、私たちが人間の世界での繁栄を求めて生きているがゆえに、今、神様に厳しい表現をさせてしまっている。だからこれは、神様に対して、本当に申し訳ないことであると思っております。
 ですから、神様の私たちに注いでくださっている愛を考えると、明主様が、「神の御心畏し」とおっしゃるように、私たちは、神様に対して、もう何も言えないですね。
 だって、最初から愛してくださってたんですよ、生んでくださった時から。そして、私たちに──私たち全員に対してですよ──もうあふれんばかりの愛情を持ってくださっていたし、今も持ってくださっている。
202171日「愛のみ」

 

教会誌『グローリー』No. 33, 2022/10月号掲載