PDF:十一月度月次祭_真明様ご挨拶

「時は今」

於:本部ご神前

 

皆様、こんにちは。
 参拝席でずっとマスクを着けてますので、演台に出てきた時に、「あれ?なんか忘れ物してるかな?」といつも思ってしまいます、私は(一同笑声)。でも、「あっ、大丈夫なんだ。ここではマスクしてなくていいんだ」と思い直してます。
 ここ数日熱海は太陽が出て、いい陽気だったんですけれども、今日は少し曇りまして、夕方からちょっと雨も降るようなんですけれども、そのような中参拝してくださり、ありがとうございます。
 私は、今でも、まだ秋季大祭の余韻が残っている感じがしております。秋季大祭では、教主様がもちろん中心なんですけれども、その中でいろんな発表もあったり、また最近は音楽もありますからね、音楽、コーラス・メシアの。そして、退場曲が、来られた方はご存じだと思うんですけれども、あれはブラジルの有名な曲でして、乗っちゃう曲と言うんですかね(一同笑声)、非常に盛り上がりまして──盛り上がるという言い方が不適切かもしれませんけれども──厳粛な意味での「祭典」ということもありますけれども、同時に、いい意味で楽しいお祭りという意味での「祭典」でもあったなと、そして、その余韻がまだ私の体に残っている感じがあります。
 皆様お忙しいと思うんですけれども、やはり、参拝に来られて初めて感じられるものもあるのかなと思って、だから、可能な限り皆様とにお会いして、神様のご威光を、共に、そしてまた楽しくお讃えしたいなと、秋季大祭の余韻にりながら私は今そんなことを考えております。
 秋季大祭の日に「教団の祭日について」という文書を教主様と連名で出させていただいたんですけれども、それは、明主様の、「キリスト教と呼応する」とか、「メシア教は余程キリスト教に近くなる」と仰せになったみ心をさらに真正面からお受けさせていただこうということで、今年、2022年からは、イエス・キリストの復活祭の「イースター」、その約50日後──49日後ですね、正確には──に行われる、聖霊がったことをお祝いする「ペンテコステ」、それとイエスの聖誕を祝う「クリスマス」。このキリスト教の三大祝日を我々でもお祝いしようじゃないかと、そういう趣旨の文書ですけれども、その第一弾として、まず、今年のクリスマスから始めるということで、ご覧になった方もいらっしゃると思いますけれども、本部の玄関にもポスターが飾ってありましたね。皆様の教会とかにも貼られているかもしれません。
 ちなみにですが、キリスト教では、イエスの復活祭とされるイースターが最も重要な祭典らしいですね、クリスマスよりも。我々の感じだとクリスマスが最も大切なんじゃないかというイメージもあるかもしれませんけれども。
 この新たな動きについて、皆様方のいろいろなお声をお聞きしておりますが、皆様方お一人おひとり、非常に前向きに受けとめてくださっていて、ありがたいことだなと思っています。
 でも、一方、と言いますか、いろんな声がある中で、「そういうふうに思われるのか」と思ったことがありまして、それは、何人かの方がおっしゃってまして、そのお気持ちは非常に分かるなとは思ったんですけれども、どういうお声だったかというと、それは、今までクリスマスは楽しむこととしてお祝いしてきた、それを、キリスト教徒でもない我々が宗教的な意味でお祝いしてもいいんだろうか、という内容。
 確かにそのお気持ちは十分分かるんですけれども、本来はですよ、本来このクリスマスというのは、何も、キリスト教徒でもない人々がただ楽しむためのものではなく、キリスト教徒にとっては非常に大切な聖なる日なわけですね。
 日本のことで言えば、正確な数は分かりませんけれども、この何十年間でキリスト教徒は大して増えてるわけではないと思います。だけど、日本中で、クリスマスのデコレーションとかは、毎年毎年どんどん増えてますよね。ということは、基本的には、背景に商業的意図があるからですよ。
 もちろん、きっとそこには、神様の、クリスマスということを通してイエスの存在を全人類に受け入れさせるという御心があるのだろうとは思います。
 だけど現実的には、今言ったように商業的な理由で、キリスト教徒でもない多くの日本人がクリスマスを楽しんでいるというのは、本当はおかしいんだと思いますよ。
 ですので、今までクリスマスを楽しんできたのはよかったが、今後キリスト教徒でもない我々が宗教的な意味でお祝いしていいのだろうかという発想は、本来は逆だと思うんですね。
 本当は、今まで私たちはキリスト教徒でもなかったのに、商業的な理由とか、人間的な楽しみということでクリスマスをお祝いしてきたことがおかしかったと思うんですよ。イエス・キリストからしたら、「皆様は全然私のこと信じてないのに(一同笑声)、本当はちょっと違うんだよ」と思ってきたかもしれません。クリスチャンの方もどう思われてきたか分からない。
 本来クリスマスというのは、一宗の教祖であるイエスが誕生した日をお祝いするものであって、それを今まで、個人的なと言いますか、宗教的意味無しで、人間的な喜びを優先するようなことで楽しんできてしまってたなら、やはりそれについて私たちは、それは申し訳ないことだったなと思わせていただいて、そしてまた、「今年からはちゃんとさせていただきます」「本来のあり方でさせていただきます」というふうに思わせていただく、そういうことが大切なのかなと思います。
 そしてまた、「キリスト教徒でもない我々がクリスマスを祝っていいんだろうか」というこのこと、これもちゃんと考えるべき点だと思うんですね。
 確かに我々は純然たるクリスチャンではないですよね、だって我々にとっては明主様が教祖ですから。明主様は信じない、イエスこそを信じるんだと言えばその人はクリスチャンになるわけですし、そういうことでカトリックとか、いろんなプロテスタントの教会に所属している、という人が普通「キリスト教徒」ですよね。そういう意味においては我々はキリスト教徒ではない。
 ですけれども、じゃあ今日の聖言の「天国予言の具体化」。天国予言の具体化というんですから、まず、なにかを具体化しようとしているわけですね。何を具体化しようとしているのかというと、それは、「天国の予言」である。それが誰の予言かと言ったら、明主様は、これはイエスの予言だとおっしゃってますよ。明主様は、「イエスが予言した天国を具体化するんだ」とおっしゃってますよ。ということは、明主様はイエスの予言を信じていらっしゃるわけでしょ。だって信じてないことをそんな一生懸命お金かけて具体化するのはおかしいですから。まずこの点を深く受けとめなければならない。
 キリスト教徒もイエスの言葉を信じてそれを実現しようとしてますね。
 でも、要は、キリスト教徒がイエスを信じてやろうとしていることと、明主様がイエスを信じてやろうとしていること、これが違う、そういうことですね。
 明主様は、最終的には、「メシアとして新しく生まれる」というのがメッセージですけれども、これはキリスト教では説いていない。キリスト教徒にとってメシアはイエスただ一人ですからね。
 だから、明主様にとっては、普通のキリスト教徒は本当のイエスの予言の実行者ではなくて、「私こそがイエスの予言の本当の実行者なんだ」と、そういうことですよね。
 だとするならば、イエスの言った言葉を信じてその言葉を実行するという意味において、明主様は、ご自分のことを、「私こそがのキリスト教徒だ」と思われてたかもしれないですよ。
 いや、例えばですよ、もしこの聖言が存在してなくて、そして、もし教主様が、「私はこれからイエスの予言を実行する。明主様の信徒はみなその使命が課せられてるんだ」と言われたら、誰もが、教主様はもうキリスト教徒になられたんですねと言いますよ。何で我々はイエスの予言を実行しなきゃいけないんですか、となると思いますよ。
 でも、明主様はまさにそれをこの聖言で仰せになっている。それぐらい明主様はこの聖言の中で思い切ったことをおっしゃってると思いますよ。
 しかも、イエスの予言を実行し具体化するのは、明主様だけの使命ではなくて、その「使命を課せられた一員としての吾等」とおっしゃってるんですから、皆様方もそうなんですよ。皆様方お一人おひとりが、イエスの予言の実行者である。そう明主様は仰せですよ。
 ということからすると、本来、「自分はキリスト教徒ではないからクリスマスを祝うのはどうか」と思うような種類のことではないと思うわけなんですね。
 そもそも、イエスを信じてイエスの聖誕を祝うのは、何も別にキリスト教の団体に所属してなければできないというわけではないですよね。
 だって、明主様ですらイエスが贖罪主だとおっしゃって、そのイエスのいがなければ明主様も我々も存在してないわけです。
 であるならば、「聖旨」の「イエス無くして明主様無し」というのは何も極端なことではなく、当たり前のことですよ。やはり神様のご神業には段階があるわけですから。
 だから我々は、キリスト教うんぬんくんぬんではなく、イエス・キリストという人物をしっかりお受けしていこうと、そういうことかなと思っております。
 また、人によっては、いや、キリスト教の祝日を祝うようになったらキリスト教みたいになっちゃうんじゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、そんなことは全然ないんですよ。
 というのは、皆さんもう十分ご承知かと思いますけれども、教主様が説かれていることはキリスト教においては説いていない。
 例えば、カトリックにおいては、何か信じられないようなことが起きた時に、その奇蹟を教会が正式に認定する、というのがあるようなんですけれども、その目的は、要は、いろんな人が、これも奇蹟だ、あれも奇蹟だと言う、でも、そういうのを放置していると収拾がつかなくなるということで、一応、教団として、これは奇蹟です、それは奇蹟ではありません、というふうに整頓するためにそのようなことをするらしいんですね。
 例えばですが、死ぬと思われてた人が生き返りました、これは奇蹟だ、となった時に、奇蹟と認定するためには、「科学的に説明できない」ということでなければいけないということで、何人かのお医者さんが来て、調べて、そして、これは科学的、医学的に説明できません、とならないといけない。
 そして、教義上においても問題がないかとか、そういうプロセスを経て、初めて奇蹟と認定される、ということになっている。
 でも、その奇蹟認定をするために調べているお医者さんを生かしてる人、科学を作った人、医学を作った人、これは誰なんでしょうか。神様ですよね。神様ですし、医学も科学も神様のですよ。神様の業だとしたら、それも全部奇蹟ですよ、本当はね。
 医学によって病気が治りました──これは奇蹟じゃないんですか?奇蹟ですよ、それも。だって医学を作られたのも神様じゃないですか。
 だいたい医学がもうちょっと進歩したら、もしかして前は医学的に説明できなかったものが、今ではもう医学的に十分説明できますとなったら、じゃああの時奇蹟認定しちゃったけれどもどうしよう、今さら撤回できないな、ということになるんですか?
 お医者さんを生かしてるのも神様だし、医学を作られてるのも神様。その一つひとつが奇蹟ですよ、だってすべてが神様の業なんですから。
 だから、そのように特定の奇蹟を認定することによって、「この時は神様が働いた」と言って、神様の働きを限定的にしてしまいますけれども、我々が教えられてるのは、奇蹟はただの一歩目であって、本当は二歩目があると、そういうことですよね。
 その二歩目は何かというと、それは、どんな時も、すべてにおいて神様は働かれている。
 この世の一瞬一瞬が奇蹟、すべてが奇蹟である、そういうことですよね。
 病気が治るのも奇蹟だし、病気が治らないのも、必要があって神様がそのようにされる奇蹟。
 人と仲直りできた時はいいですよ。でもそれだけが奇蹟ではない。仲直りできないまま、相手の人とそのまま疎遠になることもあるじゃないですか。その人死んでしまいました、なので奇蹟は起きませんでした、じゃないんですよ。その両方、どちらも、全部神様が働かれてるんです、本当はね。すべてに神様が働かれてるんだとしたら、すべて奇蹟ですよ。
 もう一つの例を言います。これは人から聞いた話なのでどこまで正確かは分からないんですけれども、マザー・テレサという方がいますね、マザー・テレサ。
 この方は愛の人だということで、本当にご立派な方だと思うんですけれども、この方に関するお話で私が聞いたのは、ある病人がいて、その病人がすごい異臭も放ってるし、誰もが目を背けたくなる、一歩引きたくなる、そういう状態だった。そして実際、周りにいた人たちはみんな一歩引いてしまうわけですね。でも、その中にあって、マザー・テレサのみは、一歩引くのではなく、一歩前に出てその病人に愛の手を差し伸べた。こういう話です。
 これは、キリスト教においては愛の話となるんだと思います。1000人いて999人は一歩引いた。でも、マザー・テレサのみは一歩踏み出して愛の手を差し伸べた。この、一歩前に出た一人を讃える、ということですね。神様の愛がマザー・テレサを通して現れた、我々もそういう人にならないといけない、そういう話になるんだと思います。
 でも、ではその残りの999人、一歩後ずさりした人たちはどうなるんですか?神様の愛はその999人の中には現れてないんですか?
 もし、その一歩前に踏み出た一人の人が、「私を通して神様の愛が現れた」と思った。一方、残りの999人のうちの誰かが、「ああ、自分は後ずさりしてしまってなんて愛のない人間なんだ。でも、人を愛せないこんな姿をも神様は赦してくださったんですね。私は完璧にはできないかもしれません。でも、愛がないようなこんな私ですらあなたは愛で満たしてくださってるんですね。ありがとうございます」としたら、神様はそのどちらの思いに対してお喜びになるのでしょうか。
 もしかしたら、むしろ、999人が後ずさりしたから、誰か一人が、そういうお役目で、一歩前に踏み出す力を神様から与えていただいたのかもしれないですよ。
 でも我々は、その一歩前に出た人に対して、「この人の愛の力は大きいな」という見方をしますよね。あの人には愛の力がある、すばらしい、自分にはできない、となってね、できる人には愛がある、できない人には愛がない、となってますよ。
 というように、キリスト教においては、例えば、愛のある人間になりなさい、一歩前に踏み出せる人間になりなさいと説いているとしても、教主様のもとにある我々は何を説くかというと、それは、どんな行動でもですよ、一歩前に出ようが、一見マイナスとも見える一歩後ずさりする姿、そのすべてを携えて神様のもとに帰りなさい、そのすべてを受け入れてくださるのが神様の愛なんだと、それを説くわけです。
 だから、全然違いますよ、キリスト教とは。メシア教で説いてることはキリスト教で説かれていることとは全然違うし、ということは、キリスト教になるようなことはないですよ。むしろ我々は、キリスト教の人を真実に目覚めさせなきゃいけないんですから。
 だから、そういう意味において、私が思うのは、よく教主様のお言葉は難しい、今までの教えは簡単だ、というのがありますね。
 僕は、そこに、我々の一種の錯覚があるんじゃないかなと思うんですね。
 我々が簡単な教えだと感じるのは、どんな人も愛しましょうとか、人のために生きていこうとか、人を喜ばせるようなことをしようとか、それを我々は「分かりやすい」と思ってますよね。
 もし今日、僕が、さっきのマザー・テレサの話かなにかを引用して、マザー・テレサのようになりましょうね、誰でも愛せる人になりましょうねと言ったら、分かりやすい話だ、自分もそういう人になりたい、すばらしい話だとなると思うんですよ。
 人のために生きていこう、利他愛で生きていきましょうと言えば、そうだそうだ、自分じゃなくて人のために生きていこうとなると思うんですよ。
 でも本当は、これこそ一番難しい話ですよ。だって、我々の中で、分けてなくすべての人を平等に愛せる人、いないですよ。自分を捨てて人のためだけを思って生きられる人、いないですよ。だから本当は一番難しい話ですよ、それは。
 みんなのことを愛しましょうとか、人のために生きましょうというのは最も難しいですよ、だって人間ではそれはできないんですから。神様はお出来になりますよ、神様の愛が利他愛ですからね。
 でも、なぜそのような一番難しい話を、我々は「簡単」と感じるのか、そこですよね。僕もですけど、今までそういうことを簡単と感じてきたじゃないですか。そういう話を聞くと居心地がいいし、耳触りがいいですよね。そういう話に「あっ、そうだ」と言ってきたじゃないですか。
 教主様は、「ありのまま来なさい」とおっしゃる。「今、ありのままで来なさい」とおっしゃる。「泥まみれで来い」とおっしゃる。「神様は、『泥まみれで私のところへ来なさい』と言ってくださってるよ」とおっしゃる。本当はこんな簡単な話ないですよ。
 利他愛ちゃんとしましょうね、人のために尽くしましょうね──こんな難しい話ないですよ。
 教主様は、利他愛とか人のために尽くすとか、それができてもできなくてもいい、ありのまま神様のもとに行きなさいと、そうおっしゃっている。それが教主様のメッセージですね。
 だから、こんな簡単なことをなぜ我々は難しいと感じるのかというと、これは、我々はそのことをあまり意識してないかもしれませんけれども、人間は──我々は──ありのまま神様のもとに行くということが実は怖いんですね。自分の主体性が取られるように感じますのでね。
 今までは、自分がボス、自分がキング、自分が王様。だから、そういう我々にとって、誰かのことを愛しましょうとか、人のために尽くしましょうというのはものすごく耳触りがいいんですよ、「あっ、この話は自分が神様のもとに行かなくていい話だな。自分の努力で自分の徳を高めることができる話だな」となってるわけです。神様のもとに泥んこのまま行くのの時間稼ぎができますからね(一同笑声)。
 だからこれ、我々にとって非常に都合がいい話なんです。だから、居心地がいい話だな、すばらしい話だなと感じるわけです。
 逆に、「あなた方はもうもとから、神様のところにいたじゃないか」「だからもう今そこに戻りなさい」と言われたら、本当に我々にとっては都合が悪いんですよね(一同笑声)。
 例えて言えば、自分の働いているところの上司が、いい上司だったらいいですけれども、嫌な上司とかだと、あの人はもうずっと出張に行っててほしい、ということありますよね。ずっと出張に行って帰ってこないでほしい、上司抜きで仲間たちとこんな楽しいのに何で帰ってきちゃうんだ、というね(一同笑声)。
 そういう思いが私たちの中に潜在的にあるんですよ、神様に対して。
 だからこれが、「ありのまま帰ってこい」と言われた途端に、この話を受け入れることをなんとか回避しなければならない、ということで、もうさまざま自分の中で考え出すわけです、無意識に。
 「今、ありのまま帰ります」と言わずに、「今まで、ありのままはなかなかできてませんでした。これからできるようにがんばります」みたいな言い方をして、その瞬間に神様のもとに帰るのを、いかに、ほんの少しでもずらすかということに心が動くわけですね。
 だから、教主様のお言葉を難しいことにしておきたいわけです、我々は。なかなか理解できない、とかね、そういうふうにしておきたい。そういう気持ちが潜在的に働くわけですね。
 でも我々は、本当は泥まみれじゃないですか。どう考えても泥まみれですよ、我々の心は。いや、心の中心にはありますよ、水晶のように輝いているものが。でも、水晶の周りを包んでいるものは泥まみれですよ。人類の今までのすべての行いと営みがそこにあるんですから、泥まみれですよ、我々の心は。
 泥まみれだから、それが一つの「恥」となって、それを我々は恥ずかしいと思ってる。泥まみれでは神様のもとには帰れません、今の自分は恥です、となってる。
 でも神様は、本当は泥まみれを求めていらっしゃるんですね。神様は、「その泥をきれいにしてあげるよ」「その泥を取ってあげるよ」とおっしゃってくださってるんですね。

真明様追記:そして、本当は、もう泥はきれいにしていただいた。泥は一切無いんです。恥もぬぐい去ってくださった。まったく新しい心にしてくださった。であるならば、「泥を取り除いてくださったんですね。恥も全部ぬぐい去ってくださったんですね。ありがとうございます」という思いを、共に、メシアの御名にあって神様にお捧げし、新しい心をいただいたことを皆様とご一緒に確認しておきたいと思います。「文明の古き衣を脱ぎててつの衣に換ゆる我業」「新しき世は新しき土のに打樹てらるべきものにありなむ」「安らけきしの御代は樹てられむ浄められにし此地のに」。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える」(「エゼキエル書」第3626節)。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(「ヨハネの黙示録」第213節~4節)。

 

教主様のお言葉ということに関連して、少し話は変わるんですけれども、よく聞かれる声として、「ご先祖様が自分の中にいるなら、みたまやはもう必要無いじゃないか」とか、「神様が自分の中にいるなら、御神体はもう必要無いじゃないか」とか、「教会が自分の中にあるなら、集う場所が無くてもいいじゃないか」とか、「明主様が自分の中にいるなら、御神影はもういらないじゃないか」とか、そういうのがございますね。
 もうこの世界は天国になってるんだから、世の中を変える必要なんてないじゃないか、ありのままを受け入れればそれでいいじゃないかという考え方、ありますね。
 でも、もしそうだとしたら、例えば、私の母は脳梗塞になりまして、左半身のまひがあるわけなんですけれども、そのリハビリ、なんでがんばる必要があるんですか?
 もし、「自分の中には完成した霊のがあるので」、ということだったら、リハビリをがんばる意味なにもないですよ。
 体の左半分が動かなくなった、リハビリしますか、いやしません、もう自分の中には霊の体があるから、とはならないじゃないですか。なんとか動いてほしいと思って必死にリハビリするじゃないですか。
 もし、「もうすべて天国なので」ということだったら、なんで死に物狂いでリハビリする必要があるんですか、いや、ほんとに。
 左半身はまひしてるけれども霊の体はちゃんと動くから、と言って、じゃあもう死ぬまでリハビリもせずずっと寝たきりでいいです、となりますか?なりませんよ。
 それをサポートされる教主様も一生懸命されるわけですけれども、もし教主様が、「この姿も天国の現れなんだから、相手の姿をありのまま受け入れよう、変える必要はない」「霊の体があるんだからいいじゃないか」ということだったら、一生懸命サポートされなくていいじゃないですか。
 私もね、今日こうやってお話しさせていただいているわけですけれども、「いやあ、もう皆様の中には神様がいらっしゃるんだから、皆様はすでに全部ご存じですね。なので皆様には何も話すことはありません」と言ってね(一同笑声)、「皆様はすばらしいですね。何も話すことはありません」で終わりでいいじゃないですか。
 でもそうではなくて、やはりそこに、いわゆる進歩向上というものがあるはずですよね。我々みなで、教主様を通して伝えられる明主様のみ心を共にお受けして、そのみ心になんとか少しでも、一歩でも、半歩でも、0.5歩でも近づこうとする努力、これは必要ですよ、絶対に。
 僕は、人間的な意味で教主様ほどご努力になる方をあんまり知らないですね。明主様のみ心実現のため、ありとあらゆるご努力をされてますよ。
 でも我々は、教主様のお言葉の一部を非常に自分にとって都合のいいように理解、利用して、天国がもうできてるなら世の中をより良い場所にする必要無いとか、ご先祖様が自分の中にいるならもうみたまやはいらないとか、神様が自分の中にいるならもう御神体はいらないと言ってますね。
 いやね、もし本当にそうだとしたら、もうこの地球も必要無いですよ。もう物質自体何も必要無いじゃないですか。地球も必要無ければ全宇宙も必要無いし、霊の体があることでもういいんだったら、肉の体も必要無いですよ。
 でも我々には、まだまだみたまやは必要だと思いますよ。だってずっとご先祖様のこと思えないじゃないですか。一日中、ずっと神様、ご先祖様、明主様のこと思えますか?思えないですよ、誰も。にちのことでいっぱいあるじゃないですか。家族のこととか、家の管理とか、仕事のこととか。
 誰もが必要としてますよ、物質的なものは。それを通して、ご先祖様のこととかを思ったりさせていただく。
 だから我々は、まだまだみたまやも御神体も御神影も必要としてますよ。まあ、少なくとも私は必要としてますね。というのは、この人生生きていく上でいろんなことがあって、それに始終心がわれますのでね。
 そういう中で、明主様の信徒である我々にとって、物質的なもので最も大きいものは何かと言えば、これは、聖地ですね。聖地。
 で、今我々がいるこの聖地と言われている場所は、今まだ裁判中ということなので、その結論が出るまでは、教主様のお祈りにぎりぎり包まれてる、みたいな感じですね。
 でも、最近はあまり話してませんでしたけれども、ここの聖地を管理してる人たちは、教主様に対して恥ずべき行為をした人たちである。
 ということは、ここの場所は、どう考えても聖地ではないですよ。
 教主様を、尾行とか盗聴とか盗撮とかして追い出した人たちが管理してる場所がどうしたら聖地になりるんですか。ちゃんちゃらおかしいですよ(一同笑声)。ね?「ここは聖地だ」と思ってること自体、ちゃんちゃらおかしい(一同笑声)ですよね。あのような行為は「さ」と無縁じゃないですか。
 また、そんなことをした執行部を信じて、それを良しとして、多くの信徒とか専従者がここを聖地だと思っていることも、どう考えてもおかしな話ですよ。
 でもそれは、それだけ我々が、神様に対して無知であって──不従順と言うんでしょうか──従わない、そういう姿だったんだよということを、そういう人たちを通して教えてくださってるんじゃないのかなと、そう思います。
 これは最近の海外ビデオメッセージでも話したんですけれども、ということは、裁判のことは別にして、今、明主様の聖地と呼ばれる場所、これは、この地球上に一つも存在しないということですよ。尾行・盗聴・盗撮を実行したり、容認している人たちが管理している場所は、どう考えても聖地にはなり得ないんですから。
 今日の聖言でも、明主様が「唯一のオアシス」だと仰せになって、ものすごい情熱と気迫を持って聖地を造られようとされたのに、それは、もはや無いんですよ、この地上に。
 もちろん、目に見えるものだけを求める、ということではないですよ。それを造る目的はありますよ、もちろん。
 だけど、もし聖地がもはやこの地上に無いんだとしたら、明主様のためにそれを造るのは、世界メシア教である皆様方しかいらっしゃらないんじゃないですか?
 訪れる方々が、「ああ、本当に天国は自分の中にあるんだな」ということを思うことができる──そのことが果たされる聖地を造らなければならない。
 明主様は、「唯一のオアシス」とおっしゃってますよ。そのオアシスとなるべき場所を造るのは世界メシア教の皆様方であると、私はそう思います。
 今日の聖言の御講話ですけれども、明主様は、あの短いお話の間に一体何回と言われるんだろう(一同笑声)、というね。僕、あれ数えたら6回ありました。6回「」とおっしゃってた(一同笑声)。
 だけど明主様は、正直でいらっしゃいますよね。必要だとしてを集めるのの何が悪いんだとおっしゃってね、もう少しオブラートに包まれてもいいかなと思うくらいですけれども(一同笑声)、そんなことはされず、、金、金、金、金、金。6回(一同笑声)。
 というように、当然、聖地を建設するのにも必要ですけれども、地上でご神業を進めていく上において、お金は必要ですよ、どう考えても。
 だって、どんなに「教主様すばらしい」「メシア教の教えはすばらしい」と言っても、皆様方の尊いご献金がなければ、今日、ここに集まって祭典することすらできないですよ。お金がなくてどうやってこういう行事を開催できるんですか?できないですよ。集まりようがないじゃないですか。どんなに教主様がすばらしい教えを持たれていても、物質の支えがなければ──お金がなければ──教主様のご神業は一歩も前へ進まないですよ。
 ただ、「教主様はご自宅にポツンといらっしゃる」というそれだけですよ(一同笑声)、いやほんとに。当然大祭なんかもできないですしね。
 だから、献金というと、一人ひとりの行動としては、「自分はこれだけ」となりますけれども、その皆様方の一つひとつのご献金が、教主様のご神業を勢いよく進めていく上で本当に尊いものであるわけですね。
 明主様は、お金が必要な理由として、「機関がなくては駄目だし」と仰せでしたね。というように、組織と、その組織のために尽くす専従者のためにもお金は必要ですよ。
 だって専従者は、このご神業のために命を懸けてるわけですからね。世の中の仕事を蹴って、社会からは「宗教団体職員」という差別的な目で見られてもなお、この道を歩んでくださってる。その専従者とその家族も支えなきゃいけないですよ。そして、それを支えてくださってるのは皆様方ですよね。
 だから本当に、そういう意味において、今後の聖地建設もそうですけれども、明主様のご神業をこの地上でよどみなく進めていくのは、文字通り共同作業ですよ、皆様方と教主様の。本当に文字通りそうなんですよ、架空の話じゃなくて。
 というような、ご神業を前に進めていくための献金もありますし──献金ということは今社会的に批判されておりますけれどもね──また、別の種類の献金もございますね。
 それはどういうことかというと、そもそもお金を含めたあらゆる物質は神様のものですよね。
 仕事を通して報酬を得ました。ではその仕事をする能力、報酬を得る能力は誰が与えてくださるんですか。こういう特殊な技術を持ってますとか、こういうことしてますとか、それは立ち仕事かもしれないし、というように、その力を与えてくださってるのは誰なんですか。
 そういう力、生かす力を与えてくださってるのは神様ですよ。神様のお力によって我々は仕事をさせていただいて、報酬も得させていただいている。
 だって、病気になったらもう収入ないですよ。首になったら収入ないじゃないですか。というぐらい神様がありとあらゆる面で恵んでくださっているから、お金というものが我々の手元に来てるわけです、本当は。
 だからそれについて、我々の気持ちをお金を通して表現できる場所が世の中に無いじゃないですか。国に対しては税金ということで表現できる。世の中の物とかサービスについては、その価値について、物々交換的な意味でお金を支払うことによって表現できる。
 でも我々は、神様に対して我々の気持ちを表現したいわけですよね。
 それに、神様と言っても、神道の神社のところに行ってお賽銭しても意味ないですよね、我々を生かしてるのはその神様じゃないですからね。
 我々を使っておられるのは全智全能の神様ですよ。すべての智慧とすべての力をお持ちの方、この方がいらっしゃって初めて、我々はお金を手にすることができる。
 神様はすべての所有者なんですから、本当は、「全部私のものだ」とおっしゃっているんですけれども、それを神様は非常に寛大に見てくださって、あなた方も生活があるだろうから全部は必要ないと仰せになってくださっている。
 だけど我々の気持ちとしては、神様にすべてをお返しするつもりで、世界メシア教という団体を通して、ということは、教主様を通して明主様、そして明主様を通して神様に、我々の「すべてはあなたのおかげです」というその真心を、お金を通して受け取っていただかなければいけないと思いますよ。
 だから僕は、そういう意味において、世の中からいかに批判されようとも、しますよ、献金。だって私は神様のおかげで生きてるんですから。

 

さっき、泥だらけのままで、という話をしたんですけれども、泥だらけのままでいいということは、もう、「今」ということですからね。
 泥だらけのままでいいということは、要は、私は何十年信仰してますとか、そういうことは関係ないんですよ。今日信徒になった方でも、もう、今のありのままの思いを持って、「神様、私はこんな私です」「泥だらけですけれども受け取っていただきたいのです」と、それだけですよ。だから「今」なんですよ、今。
 これからもっと立派な人間になった時に初めて神様のもとに帰れるんじゃなくて、もう今帰れるんですから。そして、「帰ってきたら、きれいにしてあげるよ」と神様はおっしゃってくださってる。
 そこで唯一必要なものは、明主様のおっしゃってるこの「メシアの御名」ですね。
 「明主様と共にある、またイエスと共にあるメシアの御名にあって、あなたのもとに行きます」。それだけですよ。
 今ですよ、今の自分ですよ。取りってない自分。
 その帰った先には、文字通りそこに「之栄光」があるんですよ──玄関の御書にもあるように。主の栄光は、我々一人ひとりの中に打ち樹てられているんです。泥だらけのまま行っていい場所がもう打ち樹てられてるんですよ、私たち一人ひとりの中に。過去形ですよ、打ち樹てられた。
 だから大変な救いですよ、これは。世の中では宗教的教えはすぐ道徳みたいなことになりますからね。でも明主様は、ああしろ、こうしろ、というようなややこしいことは必要無いんだとおっしゃる。神を認めて、神がお見通しだということを知ればもうそれだけでいいんだとおっしゃる(「御講話 昭和29227日」)。だからもう、お見通しされてるんですよ、泥だらけなのはね。
 明主様は、私たちの中に、その主の栄光である輝きが確かにあるということを思い出させるために、この地上の聖地を造ろうとされたんです。我々の中にある、最も神聖で尊い場所である天国を思い出させるためですよ、聖地を造ろうとされたのは。
 だからまあ、今日何を言わんとしているのかというと、今日ですね、2022111日。今日、2022111日、教主様の名において、すなわち明主様の名において、そしてまたイエスの名において、世界メシア教の聖地建設の開始──ありようはあると思いますよ、いろいろ──だけど、メシア教の聖地建設の開始、これを宣言したい。
 我々の手によって、なんとか明主様にお喜びいただけるように、と思います。だって、この地上にはもはや明主様の聖地は存在しないんですからね。
 そしてまた、これからいろいろあったとしても、明主様が、必ず我々を力強く導いてくださって、我々のために輝かしい未来を用意してくださっていると、そういうふうに私は確信しておりますし、教主様のもと、より皆様と一つとなって、そしてまた大いなる希望を持って歩んでまいりたいと思います。
 ありがとうございました。