PDF:新穀感謝祭_真明様ご挨拶
「ハレルヤの声をあなたに捧ぐ」
於:本部ご神前
皆様、こんにちは。
祭典が長引いてトイレ行きたかったらご遠慮なく。また、なにかありましたらスタッフの方いらっしゃいますのでね、リラックスして聞いていただければなと思っております。
今日は新穀感謝祭ということで、ここに野菜が並べられてまして、またお米もありますね。この便利な時代にと言いますか、そういう中にあって、無農薬、無肥料で農家の方が大変ご苦労になって育ててくださった。
新穀感謝祭というのは当然神様への感謝なんですけれども、それと併せて、みなで、明主様の自然農法のみ心に応えようとしてくださっている農家の方々にも感謝させていただきたいなと思います。
そしてまた、できれば今後も、自然農法をする方たちが増えて──食の重要性ということも明主様は仰せですからね──このようなことが継承、継続されていったらいいなということを願っております。
さて、今年もいよいよあとひと月となりまして、自動的に今年一年のことを振り返るわけなんですけれども、今年はメシア降誕本祝典が執り行われまして、これはもちろん明主様のみ心とか、教主様のお心とか、また皆様方お一人おひとりの力が結集して執り行うことができたんですけれども、でも改めて思いますと、いわゆる教団浄化と呼ばれる状況が発生しまして、実は、そのおかげですよね。教団浄化がなければ世界メシア教が復活することもなかったし、メシア降誕本祝典を執り行うこともなかった。
そう考えると、明主様のされようというのは不思議なものですね。
というように、教団浄化があって明主様の願いにお応えすることができたならば、やはり、教団浄化に対して、また、教団浄化を起こしてくださった明主様に、感謝しなければいけないと、そう思うんですね。
もちろん浄化というのは一見いいことじゃないですから、最初は感謝することが難しいことも皆様はあったと思うんですけれども、でもそれによってメシア降誕本祝典を執り行うことができたわけですから、やはり本当にありがたいことだったなと思います。
また、今日の教主様の祝詞にもありましたように、いよいよこれから、メシア教としての聖地建設を我々の手で実現していこうということなんですけれども、それももちろん、教団浄化の流れの中でそうなっているわけですね。
というように、「これからメシア教の聖地を造るぞ」という中にあって、今まで私たちが慣れ親しんできた聖地──今日もその聖地で祭典しているわけなんですけれども──今までの聖地ということについての我々の思いは今どういう状況なんだろうと、そこが思われるわけです、私には。これは、裁判とかのことは別ですよ。裁判とかのことではなく、信仰的にどう受けとめているだろうか、そこですね。
人によっては、やはり長年慣れ親しんできたところですのでね、何と言うのでしょうか、一種の思い入れがおありの方もいるんじゃないかと思うわけですね。あんなに苦労したのにとか、いろんな思い出があるとか、そういうことですね。もちろん、皆様方の今日までのご努力があっての聖地であったということは確かに事実ですね。
しかし、これから新しい聖地を造っていく中で、「やるぞ!」なのか、それとも、なんとなく未練のようなものを抱えながら進んで行くのか、そこですね。
もちろんね、単純に、教団浄化感謝してます、新しい聖地造ります、というように、スパッと行くことも難しいかもしれないですね。
というのは、残念は残念ですよ、確かに。いや、私が言う「残念」とは、もうあそこには行けないのかというような意味での残念では全然なくて、要は、明主様が心血を注がれた聖地が、あのような方たちによって維持管理されている状況というのが残念だということですね。それは確かに残念ですね。私もそう思います。
だけど、それはそれとして、聖地に関して今ここまで至った状況について、やはり我々は、明主様に感謝しなければいけないんじゃないかと思うんです。
それはどういう意味かというと、世界救世教において教主様は、「信者統合の象徴」と定められていますね。そのように世界救世教の規則に書かれております。信者統合の象徴。
で、「統合」とはどういう意味かと思いまして、もちろんなんとなくは分かりますけれども、改めて辞書で調べましたら、「二つ以上のものを合わせて一つにまとめたもの」とありました。
だから、信者統合の象徴ということは、信者の皆様は、当然二人以上いらっしゃるわけですから、教主様というのは、世界救世教の何万という信者の皆様方を合わせて一つにしてまとめられたご存在であられる、そういうことですね。
象徴ということは、体現しておられる、ということですね。要は、教主様は、岡田陽一という人間としてはお一人なんですけれども、「教主 岡田陽一」と言う場合は、全信徒が、岡田陽一教主様の中にまとまって一つとなっているということですね。
天皇陛下は、いわゆる国民統合の象徴ということで、日本国民のすべてをご自分の中に一つとしてまとめてくださって、そして日々、我々のためにお祈り等を捧げてくださっているわけですが、教主様も同じですね。
信者統合の象徴──当然それは象徴ですよね。だって、教主様が急に何万という個々別々の人に分かれるわけじゃないんですから。そうではなくて、教主様お一人の中に、世界救世教の全信徒が宿っているわけです。だから「象徴」という言い方になるわけですね。
もちろん、世界にはいろんな宗教があって、教主と言いますか、その中心の方に対しての考え方はいろいろあると思うんですね。でも、少なくとも、世界救世教においては、教主様というのは信者統合の象徴と定められているように、全信徒が教主様に結ばれている。
それは私も含めてですよ、私も信徒ですから──正確に言うと私は信徒籍はく奪されたことになっておりますので(一同笑声)、ここら辺の前列の方も数名、信徒籍はく奪された方がいらっしゃいますけれども(一同笑声)、その話は置いておいて、とにかく我々は教主様に結ばれてる。
であるならば、その教主様に対してなにかするということは、すべての信徒に対してすることと同じことになりますね。
ということは、教主様に対してああいう尾行とか盗撮をしたということは、ただ、「教主様に対してなんてひどい」という分かりやすい、単純な話ではなくて、世界救世教において教主様は信者統合の象徴と定められてるわけですから、あの行為は、皆様方も含めて全信徒に対してしたということですよ。
でもあちらの方々は、それは教主様が教義違反をしてたからだという説明なんだと思うんですけれども、じゃあもしそうだとして、誰かが自分たちの思うように動かないという時に、あちらの方々にとっての解決策は、話し合いとかじゃないんですよ。あちらの方々の解決策は、なにか相手にとって嫌となるであろう情報を集めて、それを脅しのようにして使って相手を黙らせようという、そういう発想なんです。
それを教主様に対してしているということは、これは全信徒に対して行った行為であり、あちらの方々は、そういう発想で世界救世教の全信徒に向かってるということです。
だからそういう土地が──そういう方たちの管理する土地が──「聖地」なわけないじゃないですか。
我々は信じてたわけですよ。執行部と教主様は一つとなって、明主様のご神業、また、聖地を守って進んでくれてると信じてた。でも、いわゆる執行部の皆様は、教主様に対してとんでもない思いを抱いていた。教主様は信者統合の象徴なんですから、教主様に対して抱く思いは、全信徒に対して抱いてる思いですよ。だから、そういうことを知らずにいたら逆に大変でしたよ。
そういう方たちが管理する場所に対して、明主様が、「ここは聖なる土地、聖い土地だ」とおっしゃるはずないじゃないですか。
ですので、真実を教団浄化によって知ることができた。これは本当にありがたいことだと思いますよ。
そもそも、信者統合であられる教主様を追放するということは、完全な自殺行為ですよ。だって、教主様を追い出すということは、全信徒を追い出すということですよ。すべての信徒を、教主様お一人で体現しておられるわけですから。
そして、今の世界救世教の「教主」とされているお方は、きっとそういう役割は期待されていないと思うんですね。信徒の前でお話になるわけでもないですしね。だから、その新教主様が信者統合の象徴というお役目を担ってないんだとしたら、本物の教主様を追い出したら世界救世教はもうもぬけの殻じゃないですか。もぬけの殻ですよ、どう考えても。「自分たちは明主様を信じてる」と思い込んでる方たちの集団がそこにある、というだけのことですよ。
でも我々は、信者統合の象徴であられる教主様と一緒にいさせていただいているということは、もぬけの殻ではないですよ。
もちろんね、教主様が「信者統合の象徴」と定められてなければなにも問題はなかったと思いますよ。でも、世界救世教においては信者統合の象徴と定められてるわけですから、もし教主様を追放したら、そこには誰もいないですよ。もぬけの殻ですよ。聖地という土地を持っててもなにも意味ないですよね。
(真明様、栞をご覧になりながら)今日拝聴した聖書、「エペソ人への手紙」(第5章1節~21節)の中にもこう書いてありますね。
すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい──光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである──主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。
「不誠実な言葉でだまされてはいけない」とありますね。そして、「実を結ばないやみのわざに加わらないで」とあります。尾行とか盗聴とか盗撮というのは隠れて闇で行う行為ですね。だからそれには加わらないで、「むしろ、それを指摘してやりなさい」。だから、指摘してあげなきゃいけないんですよ、あなた方は間違ってますよと指摘してあげないといけない。
「彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である」。
彼らが隠れて行った「尾行・盗聴・盗撮」、これは言葉に出すのも嫌だし、聞くのも嫌ですよね。口にするだけでも恥ずかしい。
そんな方たちと「仲間になってはいけない」んですよ。当たり前の話ですね。
でも最終的には、「しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである」とあります。
これはどういうことかというと、当然我々は、そういうことをしてる方たちの仲間には加わらない。だけど、だからと言って、今回この闇の行為が光にさらされて表に出て、それを我々が、「我々は善で、あの人たちは悪い人たちだ」「あちらは悪だ」としてたらそれでは一生、光にはならないんですよ。
そうではなくて、「ああ、この相手の姿は私の姿だったんですね」という、ここですね。あちらの方々の行為の根本にある、自分の都合を優先したい姿とか、物質的なものを優先する姿とか、それ、私たちにはないんですか?ありますよ、当然。
だから、「ああ、こういうところを赦していただいたんですね」と思えれば、神様は、「そうだよ、そこを赦してあげたんだよ」と言ってくださるんですから、そしたら光ですよ。
でもそれを、あちらの方々がしているように、「正当化できる」としたり、他人事として裁いてる限りはずっと闇のままですよ。神様の赦しは受けないということになりますのでね。
あちらの方々は、正当化できる、自分たちは悪くないというところで留まっているわけなんですけれども、でもいつかね、ああ、こういうところを赦していただいてたんだ、そのために使われたんですね、とんでもないことをしてしまいました、というふうになったらいいなと思うんですね、だって、同じ明主様を信じる仲間だったんですから。
また、よく言われるように、教主様は象徴であられるから何も実権がないというとそうではなくて、世界救世教において教主様は、教義に基づいて世界救世教を統一するという重要なお役目をお持ちです。
つまり、教主様によって教団は統一される、ということですね。そうでなければ、ただいろんな考えがあるだけですよ。いや明主様の聖言はこうだ、明主様の御教えはこうだ、じゃあこれも受け入れよう、あれも受け入れよう、いろいろとやっていこう、いろいろありでいいじゃないか、となるだけですよ。
そんなことで、統一するという力が働かなければ将来的には分かれていっちゃいますよ。でも、本来、世界救世教においては、教主様が明主様の遺された教義に基づいて我々を一つとして統一してくださる。そういうことです。
さらに教主様は、教義を定め、祭儀を司り、聖地建設の大綱を定めたり、また、偉い方々を認証したりとか、そういうお役目がある。
そして、そういう教主様のお役目をちゃんと定めようというふうになったのは、それは三代様の時の教団浄化で、それこそ三代様、つまり教主様ですね、に対する我々の姿勢が、教主様をないがしろにしてたという流れの中で、いやこれではいけないということになって、気づき改めなきゃいけないということだったわけですよね。ちゃんと、教主様を通して明主様をお受けしていこうとなったわけです。
裁判の結果、そういう方向の執行部の発表を多くの信徒が信じてたと思いますよ。これからは教主中心で世界救世教は進んで行くんだと信じてた。当時三代様もそういった趣旨のお言葉をいろいろ述べておられた。
でも結局蓋を開けたら、そうじゃなかったわけでしょ?
裁判で大騒ぎして、あんなにお金と労力をかけて、救世教はこれから教主様のもとに明主様信仰していこうと誓ったのに、実態は全然違ったんでしょ?
だから、その執行部の発表を信じてた信徒の方々にとっては、これはもうだまされたということですよ。執行部の発表は、これから教主様に対する姿勢を気づき改めるということだったのに、現実は全然違ってた。
だから、そういう真実も教団浄化を通して知れて良かったじゃないですか。何も知らずに、教主様と執行部は一つで安泰なんだと思ってるほうがむなしいですよ。我々が知らないところで隠れて何かが行われてるとか、真実を知らなかったら馬鹿にされてるみたいじゃないですか。だから、教主様が5年前の立春祭の時にはっきりおっしゃってくださって良かったじゃないですか。
かと言って、今後、その方たちの仲間となっていくのかといったら、「彼らの仲間になってはいけない」んですよ。自分の生き方ははっきり決めなければいけない。
というようにこのたび、もはや明主様の聖地はこの地上に存在しないことが分かったんですから、これは大きな祝福ですよ。明主様が、「お前たち知りなさい」として臨んできてくださった。
ということで今、皆様は、教主様のもと、明主様の本当に願われてる聖地を造っていくと、そういうことだと思います。
だからそう考えると、教団浄化のおかげでということはたくさんありますよ。
聖地のこともそう、世界メシア教という名前が復活したこともそう、また明主様は、メシア降誕仮祝典はされて、本祝典もされようとしたけれどもご昇天になってしまわれて、それを我々の手でメシア降誕本祝典を執り行うことができた。いずれもすばらしいことですね。
あるいは浄霊のこともありますね。脳溢血のあと明主様は、ご浄霊は二の問題であるとか、これから想念の世界であるとか、想念による新しい浄霊を発見したとかおっしゃってたんですよ。おっしゃってた。これは大変なことですよ。当時の機関誌にもそのような内容のことが出て、全信徒もそれを知っていた。
でも、明主様がそれらのことをおっしゃったのは最晩年であって、それまで我々は浄霊一本で来てましたので、明主様がそのようなことをおっしゃっても、我々は、布教に便利だとかいうことでそれを捨てきれない、となってたところを、この教団浄化のおかげで明主様のみ心にお応えさせていただけるようになったじゃないですか。
教団浄化が始まって、教主様はお委ねすると言って浄霊を否定してるんだという批判が出たから、いや、実は明主様がこういうことをおっしゃってたんだということが明らかになった。それによって我々は、「教主様は明主様のみ心のためにこうされてたんだ」ということを知ることができた。
これも、教団浄化があったからこういうことがはっきりしたんじゃないかなと思いますよ。そうでなければ、教主様も、全信徒が浄霊一本で来てるのを、ただ何もなしにいきなり、「明主様は実はこうおっしゃってた」とされるのはなかなか難しかったと思うんです。
あるいはキリスト教と呼応するということ。明主様は、キリスト教と呼応して人類を救うことに全智全能をあげて働いてゆかれたいんですよ?ですよね?それも我々は、ほとんど闇に葬り去ってましたよ、あまり深く考えずに。
こういうすべてのことを考えると、本当に、教団浄化がなければ我々は一体どうなってたんだろうかと思うぐらいですよ。
もちろん、これらのこと、明主様が全部おっしゃってなければ問題ですよ。でも、明主様はおっしゃってたわけです。メシア降誕仮祝典も挙行されたし、明主様の時は世界きゅうせい教ではなくて世界メシア教という教団名でしたし、そしてまた想念のことも、全部明主様がおっしゃってたことです。
だいたい救世(きゅうせい)会館も、明主様の時はメシア会館という名前だったんですよ。そしてそのメシア会館に明主様はオーケストラピット──オーケストラボックスとも言われますけれども──をお作りになって、そして、要は、神床であり舞台なんだというご発想でいらしたんですね。
お祈りもするけれども、そのすぐあとにオーケストラ、音楽などをするということで、その舞台転換の調和を本当にうまくやらなければならない、これがなかなか難しいんだと仰せになって、そして、ハレルヤコーラスをやる、オーケストラを60人用意するとおっしゃってね。
オーケストラピットですよ?もう70年以上も前の話ですよ?明主様の音楽に対する情熱はすごいですね。
それ、もう無いじゃないですか。オーケストラピット無いですよ、今、救世会館には。
僕は、オーケストラピットを作られたということが、いわゆる一つの御教えだと思うんです、作られた行為そのものが。だって私たちに対するすごいメッセージですよね。音楽をやるぞ、信徒に聴いてもらうぞ、ということですから。神様には真向かう、だけど音楽もやる、ということですから。
今のメシア教の祭典も、それこそ神様に真向かう時間と音楽の時間が渾然一体となった感じになってますよね、毎大祭、毎大祭。
でもそもそもそれは、明主様がご構想になってたような祭典なわけです。神様に真向かう祈りと音楽が一体化したもの、融合したものを明主様はイメージされてたわけですから。
だから、我々がこれから造る聖地の中のいわゆる礼拝をする施設は、この明主様のメシア会館を造られた時のメッセージというのをちゃんと受けとめて造られなければならないと思うわけですね。
そしてまた、当然、当時から技術は格段に進歩しているわけですからね。明主様は当時の時代の中での最先端ということで、エレベーター式のオーケストラピットを作られた。それから7、80年経ってますのでね、我々も、今の技術の最先端でできる音楽と宗教性の一体化した礼拝施設、これを造らないといけないし、明主様もそれを願っておられると思いますよ。だから、世界メシア教で、ぜひその明主様のみ心にお応えしようじゃないか、そういう聖地を建設しようじゃないか、そういうことだと思います。
今日の聖言も「将来の音楽」というタイトルでしたが、この聖言をご存じの方はあまりいないと思います、いわゆる『天国の礎』とかに掲載されている聖言ではないのでね。
この聖言の中で、ある信徒が明主様に将来の音楽のことについてどう思われるか聞くわけですね。すると明主様は、「教団は何れ、盛んにして、新しい世界的音楽を作りたいと思っている」と仰せになるんです。すごい聖言ですね。
「教団は何れ、盛んにして」ということですから、教団は、将来的には音楽を盛んにするんだと仰せですね。
そして、「新しい世界的音楽を作りたい」、そして、「熱海の会館はそういう考えを入れてつくる」という明主様のご構想。熱海の会館はのちのメシア会館ですね。この聖言は昭和24年ですから、実際このご構想がメシア会館として具体化するまで少し時間はかかりましたね。
でも明主様は、将来的に明主様の教団というのは音楽が盛んになる、そして、その教団を通して新しい世界的音楽を作りたいと仰せですよ。
さらに、「宗教的匂いのない、純然たる極く近代的軽演劇とか音楽会も映画も出来る」と仰せになって、さらに、「キリスト教のミサの如きものも作りたい」、ですよ。ミサの音楽というのがどういうものか僕はあまり知らないんですけれども、少なくとも明主様はキリスト教のミサの音楽を聴かれて、そしてそのような音楽を教団で作りたいと思われてたわけです。本当に、これ、大変な聖言ですね。
そして、今、音楽は行き詰まっているということで、「新音楽を生むといい」、新しい音楽を生みなさいと仰せですね。「西洋音楽は動、日本は静、支那は愛であり、これを総合したものがほしい」と仰せです。
そしてまた私がこの聖言で驚いたのは、この信徒の問いの中で、音楽に関係する方々が最近相次いで信徒になったと書かれてますね。
本教を知って間もなく二月に相ついで最近門下生より天才的な作曲才能のある青年、ソプラノ歌手、その他有能の方々も入信なさり、真の新しい音楽の道を教団の御教えによって更に強く広く拓き度いものと勇躍致して居るので御座います。
昭和24年7月5日「将来の音楽」
とあります。
メシア教にも、「天才的な作曲才能のある青年」がいるんじゃないですか、市岡直也という名前の。それこそ彼は青年ですよ、まだ20代ですからね。
「ソプラノ歌手」。これはもちろん皆様ご存じのように尾澤いつ子さんがいつも歌ってくださいますけれども、この「将来の音楽」の聖言のように「最近」ということでは、松永美智子さんという方が最近歌ってくださってますね。「その他有能の方々も」ということも、メシア教は音楽部を持ってますけれども、そこに新しい方が来られたり、また、コーラス・メシアでもいろんな若い方が最近歌ってますね。
これらのこと、偶然とは思えないですよね。「天才的な作曲才能のある青年、ソプラノ歌手、その他有能の方々も」というところは、まさに今の我々のためにこの聖言が遺されてたのかなと思うくらいですね。
そして明主様は、「新しい世界的音楽を作りたい」とか「新音楽を生む」とおっしゃってるんですから、新しい音楽を作られたい、ということですね。
この明主様のおっしゃる新しい音楽とはなんだろうということなのですが、これが、今日の祭典で拝聴した聖書の「詩篇」の第96篇に、「新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ」となってますね。「新しい歌」。
そして、この新しい歌とは何かというと、この第96篇の途中に出てくる、「もろもろの国民の中に言え、『主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない』」。これですよ、「新しい歌」というのは。そして、明主様のおっしゃる新しい音楽というのもこれですよ。
「主は王となられた」──明主様が愛されたハレルヤコーラスもこのような歌詞ですね。主の主、王の王が、これから世を統治するという喜びを歌いあげたのがハレルヤコーラスですからね。
「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない」──これはどういう意味だろうかというと、我々は、この世界を見た時に、すべての世の王がすでに神様に支配されてるという見方をしないじゃないですか。あの国のあの大統領とか首相は全然だめだ、変わらなきゃいけない、という見方ですよね。
でも、本当は、主はすでに王となられたんですよ。そして世界はもう動かされることはない。だから、それが「新しさ」ですよ。
今世の中において我々の目には不調和に映ることが起きていたとしても、神様からしたら、どうしても必要があって、神様が王様の権威をもってすべてのことを起こしておられる、ということなんです。
要は、我々の見方は、「神様は寝てる」という見方ですよ。神様寝ないでください、早く介入してほしい、世の中なんとかしてほしい、私の生活なんとかしてください、早く王様になってください、地上を堅く安定させてください、というのが我々の見方ですし、それは、光の世界がまだ来てないという見方ですね。
でも我々は、その中にあって、神様あなたは起きています、私の中に、そしてすべての人の中に堅く立たれております、それは喜ぶべきことです、というのが我々の見方であるべきなんですね。
喜ぶべきですよね、だってその喜びを歌ったのがハレルヤコーラスなんですから。キリストが王となって世々限りなく統治するという喜びを歌ったのがハレルヤコーラスですからね。
明主様は、この新しい音楽というのを、ハレルヤコーラスを聴かれた時に直感的に感じられたと思うんですよ。鋸山で啓示を受けられた時と同じように、ああ、新しい世界はもう私の中に樹立したんだ、そういう人が増えていけばいいんだと感得された。
だから我々も、明主様のこの「将来の音楽」という聖言とか、オーケストラピットを作られたこととか、ハレルヤコーラスをこよなく愛されたこととか、そういうことを本当に大切にして、コーラス・メシアの活動を進めていかなければならない。
コーラス・メシアに関わるのは何も特別な人だけではなくて、明主様はハレルヤコーラスを信徒に歌ってほしかったわけですから、我々全員で──全信徒で──明主様が願っておられた世界的な新しい音楽、新音楽、それをメシア教ではやっていきたいと、そう思います。
で、その中で、今日の祭典での明主様の御歌があるんですけれども、今日は9首ありまして、祭員の方も大変だなと思って(一同笑声)拝聴してたんですけれども、まず1首目は、「大神の勲し高く褒め讃ふ清き言霊天地に響かむ」。
言霊ということは、我々の祈りはもちろん、歌を歌うことによる清い言霊によって、神様の勲し──勲しということは成し遂げた功績ですから、それは立ってくださったということですよ。神様が立ってくださって、世界は動かされないようにしてくださったという神様のご功績──それを讃える。
「あなたは王様でいらっしゃいます」「あなたはすでにすべてに満ち満ちています」というそういう我々の言霊を、コーラス・メシアの活動を通して、また日々の祈りを通して天地に響かせる。
声が出ない方もいらっしゃいますね。でも、それは心の中ででいいんです、だって自分の中に万物すべてがあるわけですから。だから、心の中の声を神様に対して響かせようと、そういうことですね。
次、「ハレルヤハレルヤメシアの救主は現世に降らせ給ふ時ぞたのしも」。
ハレルヤという言葉の意味は、「神様を讃えなさい」ということですから、ハレルヤという言葉をもって、私たちの中に降って来ておられるメシアという神様の魂をお讃えしようと、そしてそれは楽しいということですからね。
目には見えなくても、もう世の中は神様が治めておられるんです。それをぜひハレルヤという言葉をもってお讃えしようじゃないかと、そういうことです。
今日の祭典の栞にハレルヤ・プロジェクトのことも掲載されてますね。これは、日本各地、いろんなところに行って、ハレルヤコーラスなどを歌っていこうじゃないか、そして、神様をお讃えする音を天地に響かせようじゃないかと、そういうことなんですけれども、これも明主様が願っておられることだと思いますよ。そういうことを今、私たちの手で実現しようとしている。
3首目は、「芸術もて開く教は昔よりメシアの教の外になかりき」。
明主様は芸術を本当に大切にされましたね。聖地とか、オーケストラピットもそうですし、美術品とかもいろいろ集められましたね。
でもそれが、今日の挨拶の前半部分でもお話ししたように、「うたてきは文化の衣に包まれて野蛮を行ふ人にありける」とか、「美はしき文化の衣に着飾りて醜の身隠す人こそ哀れ」というように、せっかく明主様が用意してくださった美わしき文化があった。美術品等の美しい文化を明主様は遺してくださった。でも、それが汚されてしまったわけです。
明主様はこの2首の御歌を通して、本当に大切なものは我々の心じゃないか、神様をお讃えするその清い心じゃないかということをお示しになっておられますね。どんなに聖地だ美術品だと言って美しい文化の衣を着飾っても、教主様に対して──すなわち全信徒に対して──あのようなことをしたらもうおしまいですよ。なんと哀れな、ということですね。
次、「芸術は天国にあり地獄には芸術なきを知れよ諸人」。
本当の芸術は、天国にあるんです。だから、天国を忘れて、この地上のものが大切だ大切だ、これが芸術だと言っても、そこはただの地獄で、そこには芸術はない。
でも明主様が我々に求めておられるのは、「美しき芸術をもて万民の身魂高むる業ぞ尊き」というように、本物の芸術を通して人心を教化する、ということですね。すばらしい芸術に触れさせて、人々の心を浄めるということですよね。
だからそう考えると、もう明主様の聖地は地上に無いということですけれども、明主様の願う芸術活動をしてる団体ももう地上には存在しないということですよ。明主様の芸術宗教のみ心を継承している団体は存在しないということですよ。教主様にあのようなことをした方たちが扱う美術品を通して人の身魂が高められるはずはないんですからね、当然。教主様は、明主様のお孫様なんですよ。
だから、今この地上には、明主様の聖地も無いし、明主様の芸術宗教のみ心を受け継いでいる人たちもいない。それができるのは、今、世界メシア教の皆様方だけですね。
じゃあ具体的にどうしたらいいのかというと、最後の2首にあるように、「村肝の心を浄め醜の世を清むる業の人となれかし」、ということは、今までのように、自分をずっと救われる立場に置くのではなくて、自分の心を浄めて──浄めるということは贖い主を受け入れるということですよ。でなければ次の「赦す」というステージには進めないわけですから──というように自分の心を浄めて、そしてそのあとは、世の中をむしろ清める業の人となりなさいと、そう明主様は仰せです。
芸術を、「わー、この芸術すばらしい」と被る側の立場になるのではなくて、むしろ皆様お一人おひとりが世を清めていかないといけない。そして、歌を歌うということは皆様お一人おひとりでできることなんですから、その皆様の歌声をもって世の人の心を清めていく。
そして最後の1首にあるように、「信徒の誠心に迸しる声ぞ世界の動かざらめや」。
信徒の皆様の誠の心から発せられる、その声、その声が世界を動かさないはずはないと、そういう御歌です。
だから、何を言わんとしてるのかというと、歌ですね、歌。
明主様が、将来明主様の教団においては音楽が盛んになるとおっしゃってるんですから、皆様は、コーラス・メシアを通して、歌を通して、皆様の誠心に迸しるその声を通して、世界を動かさないといけない。明主様は、世界は動くと仰せですよ。我々は、私たち信徒が歌っただけで世界が動くとはあんまり思ってないんじゃないですか?
明主様は、信徒の皆様が誠の心で歌えば世界は変わるんだとおっしゃってる。だから、コーラス・メシアの活動は、別に我々が自分たちだけで歌を楽しんでるということとは全然違って、実は、救いの活動なんですよ。
今までのように、ただ、美術品は美しいというふうに芸術を被る側の立場で終わるのではなくて、これからは次のステップに進まないといけない。
というように、皆様お一人おひとりが、コーラス・メシアを通して明主様の芸術宗教のみ心を体現して進んでいく時が来たし、また、そういうことを実現するための聖地建設でもあると思いますよ。
だから、今話してるこのすべてのことが、教団浄化ということを通して現れてきたんです。見えない糸によってここまで導かれてきたんです。メシア降誕本祝典。世界メシア教。聖地。芸術宗教。ハレルヤコーラス。
であるからこそ、この教団浄化というのは、無理にでも何でもなく、ありとあらゆる面にわたって感謝すべきことなんですね。
今月18日は「御生誕祭並びにイエス聖誕祭」ということで、もう3週間もないですね。街とかに行きますと、非常に温かいと言いますか、クリスマスの盛り上がりがあって、家族が楽しそうにしてたり、恋人たちが楽しそうにしてたりしてますね、今。
この間そういう光景を目にしてた時、ふと、そういう光景とは正反対な光景が目に浮かんだんですね。
それは、イエスの十字架ですね、イエスの十字架。
イエスは、棘のある冠を頭に押し込まれて、「お前が王様なのか」と罵倒され、唾を吐きかけられたりビンタされたりして、そして、ご自分で十字架を背負って、自分が処刑される場所であるゴルゴタの丘というところまで登っていかれて、そこまで来たら、今度はそこで手と足に釘で十字架に打ち付けられます。
その猛烈な痛みの中、周りからは、王様なら自分で自分を救えとか、人は救えても自分は救えないのかと小馬鹿にされて、笑われて、そして、その圧倒的な絶望と孤独の中、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(「マタイによる福音書」第27章46節)と叫び、最終的にはその場で死なれてしまう。
我々が今クリスマスを楽しめるのは、このイエスの苦しみがあったからですよ。クリスマスプレゼントを交換できるのも、クリスマスディナーをどうしようかと考えることができるのも、家族で集まったりデートとかできるのも、このイエスの苦しみがあったからですよ。そういう楽しい光景とは正反対ですよ、実際イエスが直面した光景は。
明主様も、「常立の神の贖なかりせば此天地は滅びしならめ」と聖言くださってますけれども、ここ、「常立の神」が何かということはいろいろあると思いますけれども、でも明主様は、イエスが贖い主、贖罪主だとおっしゃってるんですから、「贖い」の頂点はイエスですよ。ということは、イエスの贖いがもし無かったならば、この天地は滅んでいただろう、ということです。これ、明主様の御歌ですよ。
イエスの贖いが無ければ、当然クリスマスの華やぎを我々が今日楽しむこともできないし、そもそも明主様も生まれてませんよ、天地は滅んじゃってるんですから。イエスの贖いが無ければ明主様も存在してないし、我々が明主様に出会って明主様信仰の道を歩むことも発生しなかったし、我々が今日生きることも明日生きることも明後日生きることも無いんですよ。
我々がするすべてのことがその贖いの土台の上にあるということです。そんなこと我々今まで考えたことがあったんだろうか。だから、「イエス無くして明主様無し」。そうですよ、当たり前じゃないですか。贖いが無ければこの地上は滅んじゃってるんですから。
確かに明主様は偉大なお方です。でも、イエスの贖いが無ければ、その明主様ですら存在しておられないんですよ。「贖なかりせば此天地は滅びしならめ」ですから。「もし贖いが無ければ、この天地、全宇宙は滅んでいただろう」という意味ですね。ということは、何もできないですよ。今日の食事を楽しむことも、友達と会話することも、ケンカすることも、喜ぶことも悲しむことも泣くことも、「明主様!」と思うことも、歌を歌うことも、そのすべて、何もできないですよ。生きて呼吸することすらできない。
だから僕は、どんなに教主様や私が批判されようとも、イエスという存在は絶対受け入れるし、大切にします。
そういう意味において、キリスト教徒はイエスのことを主と呼びますけれども、我々にとってもしイエスが贖罪主であるならば、イエスは我々の主でもありますよ。我らの主。
そしてイエスが贖罪主であると明らかにしてくださったのは明主様ですね。明主様。だから明主様も我らの主ですよ。「明らかにする主」が明主様なんですから。
明主様は真実も明らかにしてくださったじゃないですか。「全人類がメシアとして新しく生まれるというイエスの本当の願いを明らかにしてくださった主」であられる明主様。激しい痛みとご自分の生きざまを通してメシアとして新しく生まれるという型をお示しくださった明主様。だから、明主様も我らの主ですよ。
イエスも我らの主だし、明主様も我らの主であられる。そのお二人の「我らの主」を12月18日、御生誕祭並びにイエス聖誕祭においてお讃えさせていただく、そういうことですね。
イエスのことについて、明主様に出会わせていただいた土台だなんて、今までそんなこと思ってこなかったですよ、我々は。またそれだけではなく、イエスの贖いが無ければ我々は今存在してないんだとしたら、今の我々の生活のすべての土台ですよ、イエスは。だから、イエスにはやはり感謝させていただくべきだと思いますよ。
我々が今存在し得ていること。我々が明主様に出会わせていただけたこと。これは、クリスマスの華やぎとは正反対の、絶望と孤独と闇にイエスが直面してくれたからですよ。
なのでね、そういうことに思いを馳せて、12月18日、第1回の御生誕祭並びにイエス聖誕祭に向かっていただきたいなと思います。
そんなこんなで、今年も、この場で皆様にお話しするのはこれで最後になりまして、たっくさんお話しさせていただいて(一同笑声)、また、皆様には聞いていただいて本当にありがたかったんですけれども、年の締めくくりということで今僕が思うのは、やはり我々は、最後に笑いたいですよね。いろいろなことがあっても、最後に笑いたい、最後に「ああ、良かったな」と思いたいですよね。年の暮れの今もそうですけれども、すべてのことにおいてそう思いたいですよね。
でも本当は、一番「最後に笑いたい」のは神様ですよ。一番最後、神様が全人類と一緒に笑われたいんです。
我々は、いわゆる浄化ということでいろんなことが身に降りかかりますよね。そこには一見神の愛が無いみたいなんですけれども、でもやっぱり神様は、「いや、私は、お前と最後に笑いたいんだ」「お前と最後に喜び合って、抱き合って、笑いたいんだ」ということでいろんなことを起こしておられると思うんです。
確かにそれを信じるのがなかなか難しい時はありますよ。例えばこの人はもう自殺してしまいました、自殺してしまったらもうどうしようもないじゃないですか、神様、という思いも湧いてくるかもしれない。
でもその自殺した方も、神様のもとにおいて神様の命との出会いを神様が絶対導いてくださるし、残された人たちも、この悲しみ苦しみは一生乗り越えられないと思ってるけれども、神様は必ず、それを乗り越えて最後に笑う道に導いてくださるんです。神様は、我々が乗り越えられない悲しみ、苦しみを与えられるお方ではないんですから。だから、たとえ自殺しても、病気で死んでいったとしても、絶望することはないんです。
あの人は自殺してしまった、自分はもう一生喜ぶことはできないと思っていても、あんなに小さい時に、とか、若い時にあんな事故であの人は死んでしまって、自分はもう一生喜ぶことはできない、と思っていたとしても、絶望することはないんです。なぜなら神様は、「私はお前と最後に笑いたいんだ」ということで、神様ご自身もおつらいところ、一生懸命我々を導いておられるんですから。
だから残りわずかの今年も、そしてまた来年も、その神様を信頼申し上げて、そして、「あなたと最後に笑える場所を必ず用意してくださってるんですね」と、そして、もし今ちょっとでもそう思えたら、本当はその瞬間、その喜びにちょっと触れてるんですよね、実は。
というように、光と希望を必ず我々に用意してくださってる神様、その神様によって今年は導かれたし、また来年も導いてくださる。確かに人間の世界の営みというのはいろいろありますけれども、そういう中にあって、勇気を持って、神様を信頼して、来年も共に歩んでまいりましょう。
ありがとうございました。