「希望に包まれて」
於:グランドニッコー東京 台場
皆様、こんにちは。
今日の祭典名が「御生誕祭並びにイエス聖誕祭」ということで、こういう名前の祭典を執り行っているということ自体、すごいことだな、大変なことだなと思って今日は祭典に臨んだんですけれども、そういう中にあって、こういう祭典名というのは、いわゆる、キリスト教に近づいてるじゃないかとか、キリスト教化してるじゃないかとか、そういう批判と表裏一体ですね。
で、こういうキリスト教との関係について私が皆様にお伝えしてるのは、教主様が教団をキリスト教化するというのはあり得ない、なぜなら、教主様がお説きになってることはキリスト教で説かれていることではないと、そのようなことを基本的にお伝えしております。
キリスト教化するということは、「キリスト教化」ですから、意味としては、「キリスト教に近づく」ということですけれども、もし、教団はキリスト教化していってるじゃないかということを明主様に尋ねたら、明主様は何と仰せになるのでしょうか。
そして、明主様は何とおっしゃるのかというと、「そうだ」「キリスト教化している」「その何が問題なのか」と、明主様はそう仰せになると思いますよ。
というのはなぜかというと、皆様ご存じだと思いますけれども、明主様の一番弟子であられた中島一斎先生──中島一斎先生は私の明主様ではない中の曾祖父の一人ですけれども──この中島一斎先生が亡くなられた時、明主様は、「世界人類の救済からゆくと、メシア教は余程キリスト教に近くなる」と仰せになった。キリスト教がメシア教に近くなるんじゃないんですよ。ここの差は大きいですよ。メシア教は──明主様の宗教は──「余程キリスト教に近くなる。いずれはそうなるべきだが、ようやく時期が来たのである」と、そう明主様は仰せになったんですね。これは事実です。私がねつ造しているわけではない。事実。
ここ、一見、明主様は客観的におっしゃってますね、「メシア教は余程キリスト教に近くなる」というように、客観的におっしゃってる。
だけど、ご自分の宗教の方向性をいろいろ細かく定められるのは明主様ご自身なんですから、実際は、明主様ご自身が神様とご一体になって、メシア教というものをキリスト教に近づけていくよと、そういうことですね。
だから、思い切って言えば、明主様は、ご自分の教団をキリスト教化していくよと、そう仰せになったということです、だってキリスト教に近づくんですから。「いずれはそうなるべきだが」、ですよ。「べき」。そうならなければならない。そしてその時期が来たんだと、そう仰せになった。
そしてまさにその御言葉通り、それまでの日本観音教団と日本五六七教会という仏教的な教団名をやめられて、ユダヤ・キリスト教的な「メシア」という名前を使われた世界救世(メシア)教にされた。
教団の発行する機関紙。これも、メシア教開教までは『光』だったものを、まず『救世(メシア)』にされて、そしてその数か月後には『栄光』とされた。
栄光、ですよ。宗教的な意味において「栄光」は完全なキリスト教用語ですよ。そして、それを発表した当時の機関紙を拝見しますと、そこは、新約聖書の引用だらけです。当時明主様が『メシア』から『栄光』にされた時の機関紙、そこには、新約聖書において栄光とか光というのはイエスのことだという、そのあたりのくだりが一面にふんだんに載っておりますよ。
もちろん、明主様がお使いになった「地上天国建設」という言葉そのものもキリスト教的表現ですね、だって仏教的な「極楽浄土」ということではないんですから。「天国」というのは、キリスト教で言う、来るべき世界の表現ですからね。
明主様の書かれた本にも、『天国の福音』や『天国の福音書』というタイトルのものがありますね。ものすごくキリスト教的な名前ですね。
私たちは、もし教主様がそういうことをどんどんされていたら、教主様は完全に教団をキリスト教化させてるじゃないかと言ったと思うんですよ。でも、今言ったようなことを次々されたのは、明主様ですよ。明主様ご自身ですよ。
さらに言えば「ハレルヤコーラス」のこともございますね。これも、歌詞の内容はイエス・キリストを讃えてるものです。そして明主様は、この「ハレルヤコーラス」を信徒が歌わなければならないということで、ご自分の建てられたメシア会館にオーケストラピットを造られた。
そしてもちろん最晩年は、メシアとして新しくお生まれになると仰せになりましたね。この「新しく生まれる」というのも、聖書の「ヨハネによる福音書」に出てくる記述です。「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(第3章3節)とありますのでね。
これらすべて、キリスト教に関わることやメシアという名前は、もう明主様のご神業の中核も中核ですよ。この変化は、キリスト教化もキリスト教化ですよ。
でも、これらのメシアとかキリスト教に関わること──明主様のご神業の中心的なこと──これらは、実は、長年、私たちにとっては「足かせ」だったんじゃないんですか、足かせ。
「メシア」ということ、私たちにとって足かせだったんじゃないんですか?
もし足かせでないとしたら、なぜ明主様ご昇天後、世界メシア教を、世界きゅうせい教に変える必要があったんですか?
明主様が世界メシア教とされてたものを世界きゅうせい教に改名して、明主様がメシア会館とされてた建物もきゅうせい会館と改名して、そして今、ハレルヤコーラスを演奏するためのオーケストラピットはそのきゅうせい会館にあるんですか?無いじゃないですか。
だから足かせだったんですよ、明主様が遺されたことが。しかも、私たちが足かせとしてきたことは、明主様のご神業の小さな一部の話ではないですよ。教団名とか建物に付けた名前とか、そういう明主様のご神業の中心的なことにつき、我々は足かせだと思ってきた。
で、結局我々はそういうものを取り去って、明主様のご神業はメシアを表に出すとかキリスト教と呼応するとかそういうことではない、むしろ明主様のご神業というのは活動なんだ、浄霊とか自然農法とか芸術という活動なんだ、これが明主様信仰だとしてきたじゃないですか。
そのような活動が主となると、我々の次の発想は、「もう宗教も足かせじゃないか」と、そうなっていきますね。宗教。
我々はこう考えたわけです。宗教で進めていくと社会から批判的に見られるな、でも、明主様信仰というのは浄霊、自然農法、芸術という活動が中心なんだから、別に宗教という枠組みを取っ払って、浄霊をエネルギー療法みたいなことで打ち出してもいいじゃないか、自然農法も、神様のご存在というよりは、世の中で言っている普通のオーガニックとか有機農法と同じようなレベルで考えていけばいいじゃないか、明主様はそういう農法のただの先駆者でした、みたいなことに引きずり降ろして、芸術も、芸術を通して人の心が癒されますね、というのは世でも言われてますから、そういう方向性でいいじゃないか、そうなら別に宗教である必要ないじゃないかと、そうなっていきましたね。
だから結局、私たちにとっては、メシアも足かせだったし、キリスト教うんぬんくんぬんということも足かせだったし、宗教というのも足かせだったじゃないですか。
そこまで行ってしまったら、もう、事実上、「明主様が足かせ」ということじゃないですか。明主様のご神業と口では言うだけで、明主様が世にお出しになってたことは全然出さないんですから。
でも、よくよく考えると、そういうあり方で進んでいくとどういうことになるのか。
例えば、宗教色があっても無くてもいいんですけれども、浄霊とかを「超宗教」として進めると、そう言ってきましたね、私たち。
キリスト教徒であっても浄霊していいですよとか、浄霊はエネルギー療法なんだからどんな宗派の人も関係ありません、どうぞどうぞと、そう言ってきましたね。
で、内部的には、明主様がご自分のことをメシアとして新しくお生まれになったということを仰せになった事実がありますのでそれはなかなか否定しがたい、だから、あくまで内部的には明主様は唯一のメシアであるとして、でもそれは布教活動をする上においては表に出さない。そういうあり方でずっと来ましたね。
でもそれは、例えばキリスト教徒があまりいない日本とか、一部の国と地域で自己満足的な世界でそういうことをするならいいと思いますけれども、じゃあ仮に、そういうエネルギー療法みたいなことを全人類がするようになりました、普及活動がんばって全人類がするようになりました、となった時、その時突然我々は世界の人に、いや実は岡田茂吉という人は唯一のメシアなんですと言うんですか?
最初は、キリスト教徒のままで浄霊とかエネルギー療法をしてもいいですよと言っといて、いつかいきなり彼らに、実は唯一のメシアは岡田茂吉なんです、と言うんですか?
その時、全世界の人口の三分の一近くいると言われるキリスト教徒が、「自分たちは間違えてました」と言うと思いますか?
欧米等のありとあらゆる文化、芸術、歴史はイエスがメシアであることを土台にしてできてますね、イースターを祝うとかクリスマスとか。それらを全部彼らが捨て去って、「自分たちは間違えてました」とは、どう考えてもならないですよ。だいたい、そうなることが目的だったら、なんで明主様はキリスト教と呼応して人類を救うと仰せになったんですか。
だから、明主様のみが唯一のメシアだということでいけば、いつか行き詰まりますよ、絶対。行き詰まるし、自分たちに一種の矛盾を抱えますね。というのは、結局、イエス・キリストという存在は世の中的にはメシアとして受け入れられてますからね、だから、世の中と軋轢を生みたくないということで、明主様は唯一のメシアだというのは内部的な問題にして、そして、イエスがメシアだという問題を直視せずに行く。自分たちだけは、明主様が唯一のメシアであると信じていく。そういう矛盾を抱えていけば、いつか行き詰まりますよ、それは。
しかも、イエスをメシアとして受け入れずに、どんなに「明主様が唯一のメシアだ」と言っても、それは、世の中では、「こういう人がメシアを自称してます」ということで、そういうグループはもうカルト扱いされてしまいますよ。カルト。
もちろん、キリスト教とかメシア教とかいう以前に、今、もう、宗教であるということによって批判がいろいろありますね。特に、その中で一つの問題となってるのは、宗教という正体を隠して、関連団体等を通して布教活動をしようとすること、それも今カルトの定義みたいになっておりますよ。
でも我々は、宗教は隠しませんよ、絶対に。
宗教法人というのは、広義で言えば公益法人ですから、国が、国の公の益のために宗教法人格を与えて活動させている。だとしたら、宗教の何が悪いのか、隠すこと何もないじゃないかと、そうですよね。
もちろん、たとえ宗教法人が無くても、日本国においてはありがたいことに信教の自由が保障されてるわけですから、信仰を隠す必要も無い。そもそも、明主様ご自身が宗教を隠しておられなかったんですから、なんで我々が隠す必要あるんですか?
それはね、我々が宗教であることによって、今まで普通に付き合ってた人の態度が変わるとか、離れる人もいるでしょう。私からしたら、どうぞどうぞと、そう言いたいですね。だって我々は、周りの人に受け入れられたいがために、なんで隠さなくていいことを隠さなきゃいけないんですか?隠す必要無いですよ。
ということで、メシア教の我々はもうこれから隠さないんですけれども、なぜ我々は今日まで、メシアということや宗教ということを足かせに感じてここまで来てしまったのかというと、僕は、それは、根底には、やはりこのイエス・キリストの存在について、というか、明主様とイエス・キリストのお二人のご存在、このご存在に関して、自分たちで一種の矛盾を抱えてるとか、はっきりしないものがあったからだと思うんです。
そういう中で、いや、明主様をメシアとして出すとキリスト教徒と軋轢を生むからそれは今はやめておこうと、まあ、普通に考えれば避けたほうが楽ですからね。
でも我々は、教主様を通して真実を知ってしまった。それは何かというと、まず、イエス・キリストはメシアである。人類の罪を贖ったお方であり、メシア。
明主様を唯一のメシアだというなら、イエス・キリストがメシアであるということに対して、いきなり「どうしよう」となってしまいますね。
でも我々は、イエス・キリストは重大な使命を持って世に生まれたお方であって、メシアであると信じている。受け入れている。
そして、そのイエスの願いは、イエス・キリストのみならず、人類の誰もが神様の子たるメシアとして新しく生まれるということであった。イエスは、そういう意味においては、最初のひな型であったわけです。
その後何があるのかというと「キリストの再臨」ということですが、今まで人類は探してたわけですよ、キリストの再臨は、いつ、どこに現れるんだろうと探してた。キリスト教徒も、キリストの再臨いつだろうと待ち望んでた。こういう人物が自分はキリストの再臨だと主張してます、というのもありますね。
でも、なんてことはない、どこだどこだと探すとか、いつだとか待ち望むことなんかではなくて、キリストは、すでに全人類の中に再臨されたんですよ。キリストでありメシアという魂が私たちの中に臨んできた。すでにある。
ずっと外を探してたら、なんてことはない、自分の中にその最高の神様がいらっしゃったと、そういうことです。これは、誰もが、ですよ。だいたい、どうやって唯一の神様を区別するんですか?イエス・キリストの中に宿った神様が唯一の神様で、私たちの中にいるのも唯一の神様だとしたら、どうやってどっちが上とか下とかを区別するんですか?
その、全人類がキリストの再臨であるとか、メシアとして新しく生まれる運命にあるということを御身をもって証し立てられたのが、我々が尊んで尊んでやまない明主様というご存在ですね。
だから、そこに矛盾は一つもないじゃないですか。どこに矛盾があるんですか。イエスのことを隠す必要もないし、明主様のことを隠す必要もないし、メシアという言葉を隠す必要もないし、宗教を隠す必要もないし、キリスト教と呼応するということも、すべて隠す必要ないですよ。
また、明主様は、イエスは贖罪主で、ご自分は赦し主であるとおっしゃいましたね。
そこで問題となるのは、キリスト教徒は、イエスのことを贖罪主であり、救い主であり、赦し主だと思っている。このことについてどう受けとめなければならないかということについては以前詳しくお話ししたので今日は割愛しようと思うんですけれども、だけど、とにかく我々は、イエスが贖い主で明主様は赦し主だという聖言を、ただ、明主様のほうがイエスより上なんだということを主張するためだけに利用してきたと思いますよ、今日まで。
でも、この聖言は、逆に言えば、明主様は贖い主にはなり得ないという意味でもあるし、また同時に、贖いのステップがあって初めて赦しというステップに入れるということも示唆しておりますよ、本当はね。
ということは、少なくとも明主様はイエスを贖い主として受け入れていらっしゃったのに、我々は、その贖い主を受け入れるというステップをすっ飛ばして、いや、イエスと明主様では明主様のほうが上なんだ、でもう終わってたじゃないですか。これは明主様のほうがイエスより上だという根拠となる聖言だ、で終わってたじゃないですか。
でも、結局、イエスを贖い主として受け入れないとどうなるかというと、明主様はご自分の宗教は「天国的宗教」とおっしゃって、まず天国に上がりなさい、そして人々を救い上げるんだとおっしゃってるのに、我々は贖い主を受け入れないから、ご神業としての発想が、善徳を積んでいこう、先祖の人のいろんな因縁があるから浄まらなきゃいけない、一生懸命奉仕しなきゃいけない、そうしないと神様に近づけない、というふうになってたじゃないですか。そうなってしまってたのは、贖い主を受け入れないからですよ。
明主様の中ではもう罪の贖いは済んでるんですよ。済んでるから、天国に行って、天国から救い上げるという立場になれるんだと仰せになれるわけです。
でも我々は、贖い主を受け入れるというステップをすっ飛ばして行けると思ってるから、ずっと罪にまみれたまま、罪を浄めなきゃいけない、奉仕によって浄まらなきゃいけない、天国人にならなきゃいけない、まだだまだだ、何とか何とか、と言って、ずっと自分は罪に汚れた者として歩んでいかなきゃいけなくなってるんです。それは、贖い主を受け入れないからですよ。
でも、贖い主があって初めて私たちが救いとか赦しの御用にお仕えできるんだとしたら、イエスの存在と、また贖い主と言ったって、イエスは十字架の血で贖ったんですから、「その血を受け入れます」としない限り、明主様のご神業にお仕えする道はもう無くなってしまいますよ。
今日の祭典名を疑問に思う人がいたとしても、明主様は、「常立の神の贖なかりせば此天地は滅びしならめ」と仰せなんですから──天地滅んでしまったら明主様もいらっしゃらないんですから、我々が信仰することもできないじゃないですか──だから、我々を罪から贖ってくださったイエスの聖誕を祝うのは当たり前のことですよ、人として。
聖書についても、明主様はこの聖書についてなんとおっしゃってるかというと、ご自分が刑務所に行かれたことがありまして、結局罪は無かったんですけれども、その時に手記を書かれまして(昭和25年10月30日『法難手記』)、その手記の中で明主様は、刑務所の各獄舎に、各部屋に、一冊ずつの聖書を置くべきだとおっしゃいましたね。おっしゃった。
そして明主様は、聖書というのは、世界のあらゆる宗教関係書籍のうち、罪を悔い改めるのに最も力がある、これより優ったものは無いと、そう書いておられますね。
悔い改めるのに最も力あるものは、ご自分の書かれたものではなくて、聖書だと仰せなんですよ。この聖言も事実ですよ。私がねつ造してるわけではない。
我々はこの聖言を見た時、自分自身をなにか客観的な立場において、また、明主様をなにか批評家みたいな位置付けにして、これは批評家であられた明主様がおっしゃってたことだと受けとめがちですけれども、明主様が、なぜ、世界のあらゆる宗教関係書籍のうち、罪を悔い改めるのに最も力あるのは聖書だと仰せになることができたのかというと、それは、当然、明主様ご自身が聖書を読まれて、いろんな宗教の本が世にはあるけれども、聖書ほど、「ああ、自分の罪を悔い改めなきゃいけない」と感じられたものがなかったからですよ、人聞きのことであのようなことを言われるはずはないんですから。
ということは、明主様は、「あなた方、罪を悔い改めたいなら聖書を読みなさい」と、そういうことを仰せだということですよ。
しかも、獄舎に置きたいというご意思を示しておられたんですから、罪人の人に対して読んでほしいと思われていた。聖書を読めば、罪人も悔い改めに至れるんじゃないかと思われていた。
そうだとして、我々は罪人じゃないんですか?我々は、悔い改めるべきところの無い、いいことしかしない善人なんですか?違いますよね。我々自身いろんなものを抱えてる。
そもそも明主様は、一家に一冊の聖書があるアメリカがうらやましいと仰せなんですよ。聖書がある家庭がうらやましいと、そう仰せなんです。
そうなんですから、もし明主様が聖書を通して悔い改めの力を一番感じられたのであれば、罪にまみれた我々も聖書を読むべきじゃないんですか?一家に一冊聖書を持つべきじゃないんですか?もし明主様がおっしゃってることに従いたいのだとしたらそうなりますよ。
ただね、聖書がどうとかキリスト教と呼応するとか、そういうことは全部耳触りはいいんですけれども、ではじゃあメシア教として、世の中のキリスト教で訴えてることは全部いいことなんだということで、それらをそのまま取り入れられるかというと、またそう甘いものでもないんですよ、これが。
だって今の、私が引用した明主様の聖言にしても、あれは聖言のほんの一部ですけれども、まさにそう書いてあるのに、それを今私が話したようには受けとめてはこなかったじゃないですか、私たちは。
どちらかというと、自分の考える明主様像の中で聖言を受けとめてきて、そして、イエスを贖い主として受け入れなきゃいけないとか、罪を悔い改めるために聖書を読まなきゃいけないなんて思ってこなかったじゃないですか。
だから今、真実を知れるのは、いわば教主様のおかげでこの道に至ってるわけなんですから、それは、聖書とかキリスト教のことに関しても、それを安易な気持ちで受け入れて、また今まで明主様の聖言とかご事蹟でしてきたように、教主様のご教導からずれて自分本位な道に行かないように気を付けないといけないし、やはりキリスト教とか聖書ということも、教主様のご教導のもと、させていただくべきだなと思うんですね。
例えばですけれども、イエスが最後十字架で死ぬ直前、大声で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(「マタイによる福音書」第27章46節)と叫ばれて、それでイエスは亡くなったとされてますね。
ここのところ、キリスト教徒の方々がどのように受けとめておられるのか分かりませんけれども、普通ここは、イエスは、神様が助けてくれると思ってたけれども、神様は助けてくれなくて絶望して、結局十字架でそのまま死んでしまった。そして死の世界に行ったけれども、死んでから3日目に神様のお力によって復活した。要は、イエスは、一旦神様に見捨てられたと思って絶望したけれども、その後、神の力によって復活した、そういうエピソードだとされてるのではないのかなと思います。
これは、聖書におけるただの一フレーズですけれども、本当にそういう意味なのかどうか。
私は、今言ったような、イエスそのものが絶望したという見方ではないと思うんですね、実は。
今日の聖書拝読でマリア様の話がありましたけれども、このマリア様は、マリア様の前に生まれられたご先祖様のすべてを担っておられますよね。ということは、マリア様が担っておられたご先祖様のありとあらゆる罪穢れが、そのままイエスの体にも継承されてるということですね。
イエスの父親については、これは、聖霊によってマリア様が身ごもったとされてますね、そのこと自身を受け入れる、受け入れないということは置いといて。
でも、少なくとも、マリア様の体と血をイエスは受け継いでいる。ということは、イエスといえども、我々の言い方からすれば「祖先の綜合体」ですよ。
そして、神様に対する罪と言ったって、結局は、自分の力で生きてます、というように、神様の命を自分のものとするということに集約されるわけです。
神様は、「あなたのことを永遠に生かしてあげるよ」とおっしゃってるのに、人間は神様の命を自分のものとして、自分たちで勝手に「寿命」という考え方を作り出して、そして、この地上の命が無くなったらもうおしまいだ、私は死にそうだから神様助けてください、という世界に生きていたわけです。
だから、イエスが十字架に上がってもう最後死ぬという時、神様は全然イエスのことを見捨ててはおられないんですよ。全人類のことも見捨てておられない。全然見捨てておられないのに、我々が勝手に神様の命を自分のものとして、「死」ということ、「死への恐怖」ということを作り出してるわけです。
その我々全人類の姿を、祖先の綜合体であるイエスが表現してくださったんですよ。イエスそのものの思いというより、神様が、祖先の綜合体としてのイエスに、目に見える形でそれを表現させたわけです。「あなた方は命を自分のものとして私に反逆しただろう。そうやって生きていったって、その行き着く先は、『なんで私を見捨てたんですか』という絶望の世界だよ」ということを神様はお示しくださった。
神様は、我々の神様に対して罪ある姿をイエスを通して表現させて、そしてそれを十字架にお架けくださったんです。ということは、「それを赦すよ」「あなた方のその姿を赦すよ」ということです。
だからこれも、教主様のご教導のもとにいるからこういうことを私たちは知れるわけです。キリスト教徒の方々は今言ったような受けとめはしておられないと思いますよ、イエスの中のご先祖様、ということを思ってはおられないと思いますのでね。
「隣人愛」ということもよく聞きますね、自分を愛するように隣人を愛しなさいと、そう言われてますね。これも、普通は、隣人愛というのは人にいいことしましょうということですね、となるんですけれども、私は、そうではなくて、「本当の隣人」とは、キリスト教においては、それはイエスのことだと、そう思います。
だから、隣人愛というのは、イエスを愛しなさいと、そういうことです。
だって、人にいいことしましょうと言ったって、我々の中にはいろんなものが混じってますから、そんな簡単に人にいいことできる存在でないんです、我々は。
だいたい、もし隣人愛を施せるような我々だったとしたら、なんでイエスが十字架に上がる必要があったんですか?
だから本当は、隣人愛と言っても、究極的には、イエスの贖いの血汐を受け入れる、一心になって受け入れると、そういうことです。イエスを一心に愛しなさいと、そういうことです。そのように私は受けとめております。
ということで、この世界メシア教というのは、イエス・キリストと明主様というこの偉大なお二人を真正面から受け入れて進んでいく。そして、そこに矛盾は存在しませんね。今までは矛盾だらけで生きてきたんです。だから隠さなきゃいけなかったんです。本来、なぜメシアとか宗教を隠す必要があるんですか?ないですよ。
だからそれは、教主様が今の道を開いてくださって、そして今日のような祭典名の祭典を執り行うところまで我々を導いてくださったと、そういうことですね。
当然、「いずれはそうなるべき」と明主様はおっしゃるんですから、キリスト教に近づくということに関しては、その後どんどん変化があることが想定されますね。それは、明主様ご昇天後は、教主様のもとにある我々の手でするしかないじゃないですか。
明主様ご在世中は、変化に次ぐ変化に次ぐ変化ですよ。だから我々もその明主様を見倣って、より明主様のみ心に近づけるよう、一歩先、半歩先にでも進む、勇気を持って進むと、そういうことが必要かなと思います。
今年皆様にお話しするのは、今日が正真正銘最後なんですけれども、今年最後に皆様にお伝えしたいメッセージがありまして、それは、「神を畏れる」ということです。神を畏れる。
教主様は、お言葉の中で、「誠に畏れ多いことではありますが」とおっしゃって始められる時もありますし、また明主様も、「神を恐れ正しき道を守る人つくるぞわれの使命なるらん」という御歌を詠まれましたように、神を畏れるというのは我々にとって大切なことですね。
でも、我々にとって神を畏れるというのは、普通、裁きの神様を恐れるというその恐れなら我々は知ってますよね。要は、悪いことするとお天道様が見てるよという、その恐れは我々神様に対して持ってると思うんですよ。
でも神様は、本当は、もう裁きを下されて、そしてその裁きは「赦す」だったんです。赦す。赦す、ですよ。「あなたをこれから見て、いいことするか悪いことするか見てるぞ」、じゃないんですよ。子供のクリスマスプレゼントも、サンタさんがいい子にしてるか見てるよ、というような言い方をしますよね。私も家ではそんな感じにしてますけどね(一同笑声)。
だけど神様は、もう善悪を立別けられて裁きを下されたんです。審判を下された。そしてそれは、「赦す」という審判だった。
それは、我々だけではなくて、全人類が行ってるありとあらゆることについてですよ。だって神様は、「如何ならむ罪も赦させ」ですよ。
「如何ならむ罪も赦させ如何ならむ罪も尤むる天地の神」。
如何ならむ罪も尤むる、のほうは我々すぐに理解できますね。でも、如何ならむ罪も赦させ、ですから、どんな罪も赦されるんですよ。大変なことですね。
だからそれは、屁理屈で、「あんなことも赦されるんですか」ということじゃないですよ。この世は、周りの人に迷惑かけちゃいけないとか、法律はありますから、その中でちゃんと裁きを受けなきゃいけないということはもちろんありますよ。それを否定しているわけではない。
そうではなくて、「こんな私なのに」という、そこですね。「こんな私なのに神様は赦して迎え入れてくれるんですね」「私のすべてを赦してくれるんですね」というその思い。
我々の何十年かの人生のすべてですよ。そのすべてを赦してくださるんですよ、神様は。本当は、その神様の大愛を感じた時に、「神様のみ前に進み出るのは畏れ多いな」という、その畏れが湧いたら、それが本当の神様への畏れだと思うんですよ。
もちろんね、神様を、どんなことでもされてしまうお怖い存在だと思うことは大切なことではありますよ。でも、それと同時に、本当は、「ああ、こんな私のあのような姿も全部愛をもって包んでくださって赦していらっしゃったんですね」と思った時に、もし、自分の心の中に、「ああ、畏れ多いな」という思いが湧いてきたら、それが「神を畏れる」ということですよ、本当はね。それを我々は今まで一度も感じたことはないですけれどもね。
我々が「神を畏れる」と聞いてイメージするのは、悪いことしちゃった時に、「大丈夫かな」というそれくらいですよ。でも本当は、すべてを赦しておられる神様が畏れ多いなと、それが大切なんです。
だからそれは、自分の人生で、今日までいろんなことがあったじゃないですか。今年もいろいろありましたね。「ああ、なんであんなことしちゃったんだろう」「なんであんなこと言っちゃったんだろう」「ああすればよかったのに」──ありますね。ありますよ。
もちろんそれらについて軌道修正は必要ですよ、次はこうしないようにしようとかね。だけど、過去に起きたことについて、いつまでもそれを反省後悔しててもしょうがないんですよ。だって神様は、「それは私があなたを使ったんだ」と仰せなんですから。「どうしても必要があってあなたを使ったんだ」と仰せなんですよ。
だって、そういう我々の失敗とか、後悔するようなことを通していろんな思いが我々の心に湧いてくるじゃないですか。神様は心を使って救いをお進めになりたいんでしょ?だから使われますよ、我々の心は。
自分が望んでないのにしてしまった、言うつもりないのに言ってしまった、分かってたのにしてしまったとか、あるじゃないですか。神様は、そのすべてを、「私が必要あってあなたを使ったんだ」、そして、「責任は私が取る」とそう仰せなんです。
すべて、ですよ。我々の人生のすべてですよ。もちろん最近身近に起きてることでもいいですし、今年起きたことでもいいですけれども、それについて神様は、「反省後悔は要らない」と仰せなんです。「過去に悪かったことなんて一つも無いんだ」と仰せなんです。「過去に悪かったことは一つも無かったし、これからの未来も悪いことは起きない、いいことしか起きないんだ」と仰せなんです、神様は。「あなた方にとってはいいことしか起きないんだ」と仰せなんです、神様は。
だって、全部神様がされてるなら、それはいいことですよ。人間の目には不調和に見えることもあるかもしれない。でもそれは、救いのため、我々が担わされなければいけないことがあるからですよ。でも、それも、神様にとっては悪いことではないんです。
神様は、今日まで我々を愛してくださって、一つも悪いことなんか無かったんです、我々にとって。それは信じがたいですよ。信じがたいけど、神様が全部されてるなら、絶対そうですよ。神様への信仰心ということで言えばそうですよ。
だから神様は、「今までのことを悔やむな」「今まで起きたことを苦しんだり、また未来のことを案じるな」「私は愛をもって、あなた方をいいことのためにしか使わないんだから」と仰せなんです。
確かに「希望」という言葉は使い古された言葉ではあるけれども、本当に、我々には、希望しかないんです。だってこの先いいことしか起きないんですから。
今年一年いろいろありました。今までの人生いろいろありました。ですね?でもそのすべてを神様のみ手に帰して、そして、「あなたが私を使ってくださってたんですね」「全部あなたの赦しの中だったんですね」と神様に申し上げて、そしてまた来年も、神様が私たちのためにいいことを起こしてくださるんです。我々をご自身に近づけるために、我々に愛をもって臨んでくださって、いいことを起こしてくださるんです。
ですので我々、共にその神様を信頼して、そしてまた我々は、イエスと明主様の二人を受け入れ信じる仲間なんですから、お互い支え合って、助け合いながら今年も来たし、来年もまた共に歩んでまいりましょう。
ありがとうございました。