PDF:新年祭 真明様ご挨拶
「心に春を」
於:本部ご神前
皆様、あけましておめでとうございます。
今日は非常に穏やかな新年ですね。初日の出は私も家から見てたんですけれども、水平線にちょっと雲がありましたので、出てくるのにちょっと時間がかかりまして、7時くらいになって、あっ、出てきたと思ったら、太陽と雲との関係で、太陽の動く方向と雲の形が重なって、なかなか完全に太陽が出ないなと思って見ていました。こうやって(コミカルな動きに一同笑声)スマホで動画を撮影してました。
私は、御生誕祭並びにイエス聖誕祭が終わってこの年末、いよいよ年が終わってしまうということで、なにか神様に対して積み残しがあるんじゃないか、なにか本当はさせていただかなきゃいけないことがあるんじゃないか、という思いが結構ありまして、もちろん神様の御心に適うことは不可能なんですけれども、でも、なにか御心に適ってないことがあるんじゃないかという思いが去来しまして、「神様なんでしょうか」とお伺いするような気持ちで、なんか、本当にこのまま年が越せるのかなという不安な思い、神様から新しい年をお許しいただけないんじゃないかという不安な思いが湧いてきて、でも、蓋を開けたら、結局今ここにいますので、新しい年を、神様が、私にといいますか、人類に、神様が新しい年をご用意くださったんだなと、そう今思っております。
それについて、私たちとしては、新しい年を私たちは「許されたんだ」と思うのではなくて、我々の心がけ関係なく、神様が一方的に新しい年を必要としていらっしゃって、そして「またあなた方を使うよ」ということで、この新しい年を神様がご用意くださったんだなと、そう思ったほうがいいのかなと思います。
我々は、決まり文句のように「あけましておめでとうございます」と言ってますけれども、何が「おめでとう」だか分かっていなかったように思います。神様が望まれなければ新しい年は別に必要無いわけですから、やはりそういうことも起こり得るという畏れの心があって初めて、「あけましておめでとうございます」という言葉の価値が少しはあるのかなと思います。
今や人によっては、「あけおめ」(一同笑声)と言って、神様は、そういう人間的な表現すらも許しておられますけれども、本来この言葉は決まり文句ではなくて、やはり、神様がこの年を必要としてくださって、我々人類を一方的に新しい年に迎え入れてくださったんだなという思いをもって、「あけましておめでとうございます」という言葉を発するべきかなと思うんですね。
やはり、神様に対する畏れですね。それ無しで、「あけましておめでとうございます」と言って、神様から、「何がおめでとうなんだ」と言われないように気を付けないといけないなと思います。
また、私たちは初詣に行きますね。この祭典自身が私たちにとっては初詣なんだと思いますけれども、日本国民の多くは、近くの神社に行ったりしますね。
私も近くの神社には行きます。どうしてかというと、毎年してるから、ということと、あと干支の置物を買わないといけませんのでね。今年の場合はうさぎですね、うさぎの置物を買わなきゃいけない(一同笑声)。
実際に見て、妻と、「サイズは一番大きいやつ?いや、ちょっと小さめのほうがいいんじゃない?」とかね。余談ですみません(一同笑声)。今日は無理ですけれどもね、明日か明後日には行って、ちょうどいいサイズのうさぎの置物を買ってこようかなと思ってます。ただ、あれですね、結婚してから買い始めたので、12年経てば、前の分があるから、干支が一周したらもう買う必要無いんですけれどもね、前の分を捨ててなければ(一同笑声)。あとなんか、おみくじとかも思わずやりたいですよね。子供とおみくじやって、「あ、大吉だ」とか言って。なんかこんな話ですみません(一同笑声)。
でも、神社と言っても、そこにいらっしゃるのは究極的には主神ですからね、年の初めくらいは、自分の地域に住んでる方々がたくさんお参りに来られるんですから、ああ、今年も、主神が私が住んでいる土地とそこにいる人たちを見守って、導いてくださるんだなということに少し思いを馳せることも大切なことなのかなと思ってます。
初詣に行くと、そこでいろいろお願いするとか、決心するとか、そういうことになってますよね。でも、その結果を年の途中にそこの神社に奉告しに行く人は少ないですよね。だいたい、1月1日にお願いして、お願いしっぱなしのまま、また次の元旦になって、またお願いしてというそのサイクルを私たち繰り返してますよね。
でも、年始に決心なりお願いするなら、本来は年末にまたその神社なりに行って、新年にお願いしたことはこうなりましたとご奉告することが筋だと思うんですよ。
もちろん、一定数の方はそういうことをされてると思いますけれども、でも大半はみんな1月1日にしか出てこないですよね。12月の末、神社は1月1日ほど混んでませんからね。その辺が我々、私なんかもそうかもしれませんけれども、神様にはお願いするほうばっかりですよね。
だけど私は、1月1日、本当はこういうお祈りをしなければいけないんじゃないか、というのはあると思うんですよ。
それは何かというと、本当は、1月1日の今日、「2023年の12月31日23時59分59秒までのそのすべてを神様は御心のままに成し遂げられるし、もう成し遂げられたんですね、ありがとうございます」というこれ、このことを、本当は1月1日の元旦に神様にご奉告しなければいけない。
元旦に何かお願いして、それが年の途中に実際に起きて、「神様願い事を叶えてくださりありがとうございます」ということでは違うんですよ。だって神様は、今年一年、絶対力をもって、我々にとって一番いいこと、一番必要なことをしてくださるんでしょ?それは間違いないですよね。だとしたら、今言ったようなお祈りを、今日、神様にお捧げしないといけない。
でも、こういう言葉を私たちは元旦にあまり神様にお伝えしていませんよね。
本当は、今日参拝に来て、とか、あるいは近くの神社に行ったりしたら、「ああ、神様は、今年12月31日まで、最後の最後まで、丸一年、御心を成し遂げてくださるし、そしてもう成し遂げてくださったんですね、ありがとうございます。そして、ありがとうございました」ということをその場でしないといけない。
今日の祭典の聖言(「昭和24年3月8日 御講話」)でもあったじゃないですか。病気が治ったということで神様にお礼の献金をするということでは、神様と人間の上下関係が逆転してしまいますよ、という聖言でしたね。
でも、病気が治ったらお礼をする、ということで我々みんな今日まで普通に信仰してきませんでしたか?
感謝献金。病気が治ったんだからお礼しなさい。毎月、「今月も神様ありがとうございます」と言って感謝献金。普通にしてきたし、してるじゃないですか。
でも明主様は、この聖言でさらっと、本当は、病気が治って神様にお礼してたんじゃ、それは神様のほうから言わせれば、神様が我々に対して、「あ、病気治してほしいとお願いに来ましたので、私、治させていただきました。お金少しいただけますでしょうか。少し恵んでいただけますでしょうか」(一同笑声)となってしまう。
でも、あらゆる宗教が、普通、あなた病気が治ったんだから、その感謝の気持ちを神様にお捧げしなさいとしてますよね。もちろん、それ自身は確かに否定すべきことではないですよ。だけど明主様は、それでは、神様とのお道、順序ということにおいて本当は違うと仰せですね。今までの感謝献金は一体何だったんだろうというぐらいのことを明主様ここでさらっとおっしゃってますね。
だから我々も、元旦何か神様にお願いごとをしました、そしてそれが叶って神様に感謝しました、ということでは、明主様から、「それでは順序が違うよ」と言われてしまうんですよ。
だとしたら、本当は我々は、今日、神様に対して、「今年一年ありがとうございました」という感謝を捧げないといけない。12月に入ってその一年の感謝を捧げるんじゃなくて、本当は、今年起こることについて、今日、一番の感謝を捧げなければいけないんです。
というのは、もしそうでないと、神様との関係が取り引きみたいになりますよ。良いことがあれば感謝する。悪いことがあったらなかなか感謝できない、となりますよ。
でも、そう言われても、これが実際、現実的にはなかなか難しいですよね。例えば我々は、病気の最中になかなか感謝できないじゃないですか。できがたいですよね。
それはなぜかというと、今日拝聴した聖書(「マタイによる福音書」第7章7節~14節)にもあったように、我々は、病気のようなことを石だと思ってますよね。パンか石か。聖書には、神様はパンを与えてくださるとある。でも我々は、病気になったら、それは石だと思ってますよ。
聖書には、どんな悪い人間だって、自分の子供がパンを求めてたら、石ではなくてパンを与えるでしょ、蛇ではなくて魚を与えるでしょ、でも神様はもっといいものをくださるんですよとありましたね。
でも我々は、いざ病気になったら、これは自分は受け入れられない──石食べられないじゃないですか──というように、この病気は自分は受け入れたくない、受け入れられない、これは石だ、これは魚じゃなくて蛇だ、となってますよね。自分にとって良いことなら、「これはパンだ、ありがとうございます」と言ってそれを受け入れられますけれどもね。
だいたい明主様の「浄化」という考え方そのものが、同じことを言わんとされてますよね。病気は本当は体を浄める恵みと仰せなんですからね。
でも我々それはなかなか思えないですよね。病気は石だと思ってますよ。病気のみならず、人生で起きるいろんなことについて我々は、パンと石とが混在してると思ってますよね。これは受け入れられる、これは受け入れられない、としてる。
でも本当は、神様はパンと魚しか用意されていないんです。我々にとって、おいしくて、積極的に食べたいものしか神様は用意されてない、本当はね。でも我々は神様の御心が分からないから、これは石だ、蛇だと言っているだけのことなんですよ。
だけど、どんなに悪い人間であるあなた方でさえ、自分の子供に石ではなくてパンを与えるでしょ、とあるように、神様は、パンよりももっとすばらしいもののみを我々に与えておられるんです、本当は。
だとしたら、今年一年、我々の目には、石とか蛇だと思われるようなことが起きたとしても、本当はパンであり魚を神様はくださろうとしてるわけですから、そういうことが実際に起きてから、「これは受け入れられません」となるよりも──そして当然そのような心は起きますよ──でも、そういうことが起きる前に、今日という日に、元旦に、今年起きるすべてのことについて、「神様、今年一年、私のためにしてくださるし、してくださったのですね」「今年一年養ってくださるし、養ってくださったのですね。ありがとうございます」と思わせていただく。
そのパンの味が我々の願ってるパンの味ではないかもしれないですよ。我々は、このいちごジャムの菓子パンがほしいとか、ピーナッツのこれがほしい、だから神様はこういうパンを与えてくださるんだと思うかもしれませんけれども、神様が我々に与えたいと考えられてるパンは、もしかして、バゲットみたいに硬い、なかなか噛み切れないパンかもしれませんよ(一同笑声)。
神様の御心は我々を富ませることであり、そして、本当においしいと思ってくれたらいいなと思ってすべてのことを今年も起こしてくださることは間違いないんだとしたら、確かに世界中において、この元旦にすでに年末までのすべてのことについて感謝する人はいないかもしれないけれども、でも、信仰という側面からしたらそれが本当の信仰心だと思いますのでね、だから、少なくとも、メシア教の私たちは、今という時に、今日という日に、この初詣の機会に、神様に今年最大の感謝をお捧げすべきじゃないかなと思います。
今日の明主様の御歌の2首目にも、「らんまんと花咲きみだる春の日を誰か思はん冬枯の地に」とありましたね。
場所のことだけじゃないんですよ、この御歌は。それだけではなくて、例えば病気になる、人間関係いろいろあることによって、我々の心自体が冬枯れのようになるじゃないですか。誰も分かってくれない、寂しい、孤独だというように、心が枯れたような状態になるじゃないですか。明主様は、そういう時、誰が爛漫と花が咲き乱れる春の日を思うだろうかと仰せですね。
直接的な意味としては、誰も思わないであろうということですけれども、もちろん、明主様のご意図としては、心が冬のように枯れていても、神様がその心を春の日のように必ずしてくださる、冬の心を克服してくださって、爛漫と花が咲く春の日のような心に必ずしてくださるんだと、そういう御歌ですよね。どんな冬もいつかは必ず春になるじゃないですか。
だから、春を待って、ああ春が来た、ありがとうございます、とするのではなくて、まさに心が冬枯れの時に、「ああ、神様は今の自分の心を、爛漫と花が咲いている幸せな春の日のような心に導いてくださるんですね、ありがとうございます」と思ったらどうかと、そういう御歌ですよ、これは。
また、4首目は、「世を呪ひ人を恨みし其頃の心の曇りは消えて跡なき」。
この御歌、今日までの私たちの受けとめ方としては、どちらかというと、明主様はすごいな、ご人生いろいろあられて、世を呪われたこともあった、人を恨まれたこともあった、でもそれがもう消えて無くなってしまわれたんだと、そういう受けとめだったと思います。
でも僕は、この御歌は、本当は、明主様の神様への信仰告白の御歌だと思うんですよ。
だって明主様は、肉体も持たれて、それこそ脳溢血の時は何度も自殺されたいと思われたように、心はいろいろ動いてらしたと思いますよ。
だとしたら、我々としては、この御歌を見て、ただ、明主様すばらしいなとするよりも、本当は、明主様は、世を呪われて人を恨みたいという思いが湧いてこられた時に──むしろその刹那に──神様に対して、「そのような気持ちはもう消えてしまって跡形もありません」と信仰告白された御歌だと受けとめるべきだと思うんですね。
そうでなければ、だって、そんな、人を恨む気持ちとかがまったく消えて無くなるのは難しいじゃないですか。消えて無くなる、難しいですよ。明主様はなにか達観されて、我々の心の痛みをまったく分かってくれないお方ではないはずですよね。そうではなくて、明主様は、我々の世を呪ったり、人を恨んだりする気持ちも十分ご存じのお方であって、その中でやはり詠まれた御歌だと捉えたほうがいいと思うんです。
逆に、もし今までの受けとめのままで、明主様はいいな、いつか明主様みたいになれたらいいなと思っていたら、死ぬまでその思いのままで行きますよ。
だって人間は、死ぬ直前まで、何かあれば、なんであの人はああいうことをしたんだろうという恨みのような思いは湧いてきますからね、絶対。そこから逃れられる人はいない。
そうなんだから、世を呪う気持ちとか、人を恨む気持ちがある「今」ですよ。今、神様に対して、「私も世を呪ったり、人を恨んだことがありましたけれども、今、それはもう消えて無くなりました。あなたのおかげで無くなりました」と、今、させていただかないと、ずーっと、一生、この御歌の明主様の心境には到達しないですよ。ただ、明主様はすごい方だな、で終わりですよ。
だから最後のほうの6首目の御歌、「有難し噫有難し救はれて我家ぬちは此世の天国」とありますね。
明主様は、私は救われた、なんてありがたい、救われて私の家はもうこの世の天国だと仰せですね。でも、明主様はご人生でいろいろおありだったじゃないですか。だって最終的には脳溢血ですよ。脳溢血で死なれた。普通、脳溢血になった人が、「私は救われた」とは言わないですよね。脳溢血が治ったら、「あなたは救われましたね」ということは言いますけれどもね。
だから私は、この聖言も、明主様の神様への信仰告白だと思うんです。
だとしたら、「ありがたい、ああありがたい、私の家族はもう救われた、もう天国です」と言わせていただくのは、まさに家族内にいろいろ問題がある時こそですよ。
もしそうでないとしたら、もうずーっと今のままで行きますよ。今は幸せだなと思ったけれどもまた何か問題があって、それを克服したかなと思ったら、孫が生まれてきて、その孫がなんか問題を起こしたとかね、ずっとそんなことで行きますよ。
だから私たちは、「なかなか救われるのは難しいなあ」「明主様は特別だなあ」ということでもう人生終わってしまうじゃないですか。
だから「今」ですよ。今。というのは、神様は春の日まで導いてくださることを約束しておられるわけですから、今、神様に対して、ありがたい、ああありがたい、私の家はもう救われました、もう天国になってます、とさせていただく。過去形ですよ。救われた。これから救われんとしてるじゃなくて、もう救われた。
そう思わせていただいたら神様は喜ばれますよね。だって神様は、我々に祝福しか与えようとしておられないわけですから。
また途中の5首目の御歌にも、「過ぎ去りし事を悔まず前途を案ずる勿れ神にある身は」。
過ぎ去ったことを悔やむな。未来を案ずるなと仰せですね、明主様。これも難しいですよね。
でも、過ぎ去ったことを悔やむな、行く先を案ずるな、過去も未来も心配するなということは、「今」ということですよ。
私たちは、過去の終着点としての自分と、広がる未来への出発点としての自分というのが、常に「今」という状況として自分の中に存在してますね。
一人ひとり、「今」の自分に全部結びついてるじゃないですか。ご先祖様からのすべて、また、自分がなしてきた過去のいろんなことのすべてを背負って、今自分はここにいるし、そしてまた、未来に対しての接点も自分が今持っていますよ、自分がこれから生きていくんですから。
だから「今」なんですよ。
神様は、「あなたは『今』どうするんだ」と聞いてきておられて、この「今」という機会を与えてくださろうとしておられるんです。「あなたの中には過去に対する悔やみもあるだろう。未来を案ずる思いもあるだろう。だけど、それを今、『神にある身は』ということで、私が何とかしてくれると思って、それを『有難し噫有難し』とするのか。それとも、神は無いとして、冬枯れの心のままでいくのか、どうするのか」ということを神様は今、聞いてきておられる。だから、一人ひとりの「今」というところに集約されてるんです。
10分先にします、とか、帰ったらします、じゃなくて、今どうするか。そこなんですね。しかも、神様が自分の中にいらっしゃるということは、自分の「今」が、「永遠」である神様と結びついているわけですからね。「今」の中に「永遠」があるということです。
だとしたら、今日拝聴した聖書(「詩篇」第150篇)にも「主をほめたたえよ」とありましたように、我々はもう、神様をほめたたえることしかできないんですよ、本当は。今日の聖書は、全部が、神様をほめたたえよ、という内容でしたよね。
なぜほめたたえることができるのかと言ったら、それは、確かに私たちの人生はいろいろありますね。でも、いろいろあるけれども、神様は、我々を春の日というその約束された場所に絶対連れていってくださるんだとしたら、今、ほめたたえたほうがいいじゃないですか。何かいいことが起きた時にほめたたえようと思ってたら、その未来は一生来ないですよ、だって、いつも言うように、我々の思いが未来を造るんですからね。
聖書に、琴をもって主をほめたたえよ、ともありましたね。だから、この琴も(参拝席にある八雲琴を指し示される)、なにも、祭典の流れ上させていただいているわけではないんですよ。これも神様をお讃えさせていただくため。だから、そういう思いで聴かせていただくべきですし、また、息のあるものすべてが主をほめたたえるようにということもありましたね。息のあるものというんですから、人間だけじゃないですよ。
例えば鳥。鳥の鳴き声も、あ、鳥が鳴いてるな、これは鳥さんが神様をほめたたえてるんだなと思わせていただく。科学的にはこの鳴き声はこういう意味だというのはあったとしてもね。
というように、人間が何か声を発するのも、本当は、そのすべてが神様をお讃えするためにすべきことなんです。動物はもうそのようにしてると思いますよ。
だから、朝散歩してて鳥さんが鳴いてたら、鳥さんと一緒に、「神様をほめたたえます」と思ったらいいじゃないですか。「動物さんたちと一緒に私を導いてくださるんですね」と思ったらいいじゃないですか。
ということで、今日が今年のスタートですけれども、今日の元旦の日に、今年の大晦日の分までの目いっぱいの感謝を我々で共に、心の中で神様にお捧げさせていただきましょう。それは神様喜ばれると思いますよ。だって、今日神様が耳にしていらっしゃるのは、「お願いします!お願いします!お願いします!」という(一同笑声)日本各地からの声、いや、日本のみならず、世界中からですね。西洋の場合は、「New Year’s resolution」(ニューイヤーズレゾリューション)と言って、お願いごとと言うより、「今年は私はこれをやります」みたいな決意をするんですけれどもね。
でも、とにかく、神様は、お願いごとにしても決意にしても、そういう種類のことをものすごい量今聞かされているわけなんですが、その中のちょっとした隙間に、我々メシア教徒の「成し遂げてくださったんですね!ありがとうございます!」という声をその隙間にねじ込めたらね(一同笑声)、いいなと思うんですね。いろんなお願いごとの声は大きいですけれども、それに負けずに大きな声で神様に申し上げて、そして、私たちの声を神様がお聞き届けくださったらありがたいですよね。
もちろん、お願いごともされていいと思いますよ。こういうことをしたいです、こうなりたいんですというのはされてもいいと思いますよ。
でも、やっぱり、最終的には、「御心のままに成し遂げてください」「御心のままに成し遂げてくださるんですね」というのを最後にちょっと付けておけば、神様としては、「分かった」「私の方法で何とか実現したいけれどもいいか」とおっしゃってくださるのかなと思います。当然、その結果は、自分が願ったようなものとはならないかもしれないですけれどもね。
ということで、我々は今、年の初めに、「自分は救われた」という立場に置かせていただくことができれば、次に神様がなんと仰せになるかというと、「じゃあ今年一年、私の救い、光、祝福を分け与える用にあなたを使いたい。いいか?」「あなたは自分自身を救われたものとして見るんだな。じゃあ私の用に使うよ。いいか?」と、そうなるわけです。
そしたらこれからは、もう自分のための人生ではないですよ。世の中で苦しんでいる人はいっぱいいるわけですから、これからは世のため人のための人生ですよ。
だからそれが病気ということもあり得ますよ。病気になるのも世のため人のためですよ。でもいいじゃないですか、病気でも。自分の体の中に全人類が存在していて、自分の体を通して神様の救いの御用にお使いいただけるんですから。
また、現実的にどこかに行くとか誰かに会いに行くという時、「そこに神様の祝福がありますように。光がありますように」と思いますよね、私たちは。
その時に僕が大事だと思うのは、誰かに会いに行くとかどこかに行くという時、「祝福ありますように」とする対象は、その場所とか、その人物ではなくて、自分自身に対してですよ。自分自身の心に対してですよ。というのは、そうやって何かする前に自分の心にいろいろ湧いてくるじゃないですか。
病院に行かなきゃいけないという時、病院に来る多くの人に祝福ありますように、ということで、自分の思いを自分から離して、外の世界に「祝福あるように」と思うより、まず、病院に行かんとしてる自分にいろんな思いが湧いてきてるじゃないですか。大丈夫かなとか、どういう診断になっちゃうんだろうとか、それですよ。その自分の心に対して、「あ、これは私の思いではなくて、世界中の病院にいる人とか病で苦しんでる人の思いが今私の心に現れてるんですね、ここに祝福ありますように」と、そうさせていただく。
我々は本当はもう救われてるんですからね。ということは、今度は祝福を分け与えるほうの用ですからね。
神様は、ご自身の光のみ手で全部を迎え入れられたいんです。それが浄霊の手ですね。
だから、そのみ手が我々の心をスッポリ包むんですよ。そしたら救われるものが──神様が汲み上げられたものが──我々の心に感じられるじゃないですか。神様の浄霊の手が臨んで、我々の心を両手で掬われたら、いろいろ釣れますよね。それが現れてるんです、私たちの心の中に。不平不満とかの思いですね。それは、神様が浄霊してくださってるからそういう思いが我々の心に現れてくる。
我々の日常生活で巻き起こってることは、皆様お一人おひとりの個人的な問題のように思いますよね。病気とか家族のこととか人に言えないこととか、いろいろありますでしょう。
人に言えない。人に言えなくてもいいんですよ、神様との関係のことなんですから。そして、神様は全部ご存じなんですから。
隠したい。隠したっていいじゃないですか別に。神様に隠さなければいいんですよ。
我々の日常生活は底辺の底辺みたいなことなんですけれども、本当は、そういう日常の些細なところに神様はふんだんに光を注いでくださってるんです。だから、そういうことに直面している我々の心そのものに対して、皆様が、光と祝福を今年一年分け与えてくださればなと思います。
そういうことでどういう一年になるかは分かりませんよ。大変な一年になるかもしれない。
でも、その救いの御用にお使いいただく覚悟をすれば、神様は必ずや悪いようにはしないとおっしゃってくださってるんです。
だからそういう神様をみなで信頼して、勇気をもっていきたいなと思います。
自分のことはいろいろありますよ。でもそれは、「私はもう救われたんですね」と決心して、そして今度は救いの御用にお使いいただく。
今まで私たちは、自分の人生を自分のために生きてきたんですけれども、これからは、神様のもと、自分の心に集う多くの人のために生きる。
だから、それは、ずっと思ってなくてもいいんですよ。なんかのきっかけで、「あっ」という時でいいんです。「今日は、今、この話を聞いて思うことができました。でも、明日以降、結局ずっと思えないまま大晦日まで行ってしまいました」でもいいんですよ。大晦日の日に、一瞬でも、「今年一年お使いいただいたんですね」と言わせていただければ、神様は、「よく分かってくれたね」とおっしゃってくださるんですから。
毎日毎日思わなきゃいけないというのは大変ですよね。ある問題に向き合ってる時には全然思えない時もあるでしょうしね。
とにかく、今年一年、そうやって、みんなで、本当に助け合いながら支え合いながら、この神様の救いの御用──メシア教に託されてる救いの御用──これに共にお仕えしてまいりたいですし、また、今日話した内容も、私自身が簡単に思えることではないですのでね、今日自分が話したことを、まず私自身が大切にして、そして今年一年、皆様と共に歩んでまいりたいなと思っております。
ありがとうございました。
よろしくお願いします。