PDF:「渡辺哲男先生」 真明様メッセージ No. 16

 

※英語とポルトガル語でなされたビデオメッセージの和訳

渡辺哲男先生

オーストラリアの大学を卒業し日本に戻ってきた私は、就職場所を探さなければなりませんでした。
 東京などで行われた就職フェアに行き、いろんな企業の方のお話を伺ったりもしましたが、なにかしっくりこないのです。私の人生には、なにか別の道が用意されているのではないかと感じていたのです。
 そのようなことをしているうちに、私の中で、少しずつ、次のような思いが湧いてきました。「父の──教主様の──お役に立ちたい。ほんの少しでもご神業のお役に立ちたい」。
 そして私は、20053月、24歳の時、教主様にその気持ちをお伝えしました。
 教主様は、まず、「三代様のお許しを得なければならない」とおっしゃり、そして、「三代様からのお許しをいただいたら、渡辺先生と会いなさい」とおっしゃいました。
 翌日、教主様と私は三代様にお会いし、私がご神業に関わることについてのお許しをお願い申し上げました。
 三代様は、そのご許可を与えてくださったあと、教主様にお尋ねになりました。「これからどうするの?」。教主様は、渡辺先生のことを深く信頼しておられること、従って、私に、まず、渡辺先生に会ってもらうよう考えていることを三代様にお伝えになりました。
 それをお聞きになった三代様は──そして、私は今でもこの時の光景が目に焼き付いています──三代様は、教主様に、そして間接的に私に対して、次のように仰せになりました。「渡辺先生に煮るなり焼くなりしてもらうことね。真明さんにとっていい特訓になるんじゃない?」。
 「煮るなり焼くなり」というのは、ご存じのように、ある人物が、ある人物に対して、どのような扱いをしてもいい、という意味です。詰まるところ、三代様と教主様は、私を教育するという役目を渡辺先生に託されたのです。
 それから数日後、私は、熱海の寿司屋において、渡辺先生に初めてお会いしました。二人きりです。お会いしてすぐ、渡辺先生はおもむろにスーツのポケットに手を伸ばされました。そこから紙の塊を取り出し、「これ、にあげる」とおっしゃいました。
 それは、直近の祭典における教主様のお言葉でした。先生は、「私はもう10回は読んだ。だから君も読みなさい」と言われました。
 これは、先生が教主様のことをどれだけ尊ばれているかを私に教えてくださりたかったのはもちろん、それと同時に、「あなたはこれから教主様のことを、お父さんではなく、教主様としてお受けしなさい」ということを伝えてくださろうとしたのだと私は受けとめています。
 会食が終わりに近づいてきたころ、先生は、「今日は君に伝えたいことが一つある」と言われました。先生に初めてお会いすること自体で緊張していた私は、この言葉に、より一層緊張しました。
 先生は、「君は、今日、『自分は将来の教主になる』と決める。それを決めて、教団のことでも世の中のことでも、その全部を見て、聞いて、経験する。そうじゃないとすべて無駄になる」と仰せになりました。
 そのようなことを言われると全く想定していなかった私は、言葉を失いました。
 しかし先生は、続けて、「どうする。やってみるか?」と言われました。
 私は、確信のないまま、とにかく「はい」と言いました。先生はすかさず、「その返事じゃだめだ。やるかやらないか、どうする」と言われました。
 私には、「はい」と言うことがなにか怖いことかのように思われました。オーストラリアで大学を卒業したばかりの私にとり、このお話はなにか途方もなく大きいことかのように感じられたのです。そして、実際に、これは極めて重大なことでした。
 しかし私は、その場で決めなければなりませんでした。何時間にも感じられた数秒の沈黙ののち、私は、「やります」と言いました。
 大きな声でも無く、確信があったわけでも無いですが、なにかしら、自分の知らない場所に飛び込むような、そこに自分自身を丸ごと捧げるような、そのような気持ちから出た「やります」という言葉だったと思います。
 今日に至るまで、この言葉が先生を納得させうるものであったかどうか、それは分かりません。しかし先生は、その時、ただ静かにうなずかれたのでした。
 それが、先生と私の始まりでした。

 

2013年に亡くなるまで先生から教えていただいたことをこの場で語り尽くすことは不可能です。しかし、すべては、「仕える」というこの一点に集約されると、そう思います。
 ご自身の言葉と態度を通して、先生は、「仕える」ことの重要性を徹底的に私に叩き込もうとされたのです。
 手が内ポケットに伸びた時は、先生がタバコを吸われる時です。私は即座に灰皿をご用意します。当然、「灰皿は」と言われてしまう前に、です。
 何かお書きになりたい時には、紙とペンが必要です。私は、スーツの内ポケットに常にそれを忍ばせていました。
 先生と二人で食事をしたことも数えきれません。先生は、「今晩君は何を食べたい?」と聞いてこられる時もありました。しかしその質問は、私にとっては、「今晩私が何を食べたいか君は分かるか」という先生からの問いであると受けとめました。
 このようにして私は、自分のことをあとにして、まず、先生が何を求めておられるかを考えるよう特訓させられたように思います。すなわち、仕えることを学ばされたのです。
 先生は今何をされたいのだろうか。何をお考えになっているのだろうか。今コーヒーを飲まれたいのか、それともしばらくあとなのか。私に何か話してほしいのか、それとも静かにしていてほしいのか。
 皆様方にとり、このことは、なにか時代昔の話のように感じられるかもしれません。しかし、私はそうは思いません。私は、誰かに仕えることを通して、究極的には神様にお仕えすることを学ぶことができたのだと、そう思っています。
 神様にお仕えすることの大切さ。自分の望みに生きるのではなく、誰かの望みのために生きる、すなわち、神様の望みのために生きる。
 肝心なことは、神様にお仕えするためには、この地上のどなたかを通してしなければならない、ということです。唯一の例外は教主様です。教主様は、私たちを代表し、霊なるお方にお仕えくださっているからです。
 しかし私たちは、誰かを通してお仕えさせていただかなければなりません。でなければ、私たちは、自分たちにとって都合の良い神様像、明主様像を作り上げ、口では「明主様にお仕えしている」と言っても、実際は、自分の願いに仕えているだけになってしまうからです。
 だからこそ私たちの信仰には、教主様というご存在が必要不可欠なのだと思います。自分の願いをあとにして、教主様の願いに心を向ける。それが「お仕えする」ということではないでしょうか。
 そうでなければ、どうやって私たちは、私たちの明主様へのお仕えの仕方が正しいか否かを判断することができるというのでしょうか。どうやって、明主様が今何を願っておられるか知ることができるというのでしょうか。
 教主様のお声は、明主様のお声です。それが渡辺先生が確固たる信念を持って信じられていたことであり、生き方でありました。
 先生と過ごした年月を通して、私は、信仰の基礎を作り上げていただいたと思います。上司にお仕えすることを通してでしか教主様には、ひいては明主様、神様にはお仕えできない。その姿勢を植え付けていただけたのです。
 時には厳しく接してこられたこともありました。しかし、渡辺先生無くして今日の私は存在しません。先生の特訓に、先生の愛に、報いるすべなどないと、そう思います。

 

もし渡辺先生がこのたびの教団浄化の時に生きていらしたら、先生はいの一番に教主様のために立ち上がられたことは間違いありません。そうでないと言われる方々は、先生のことを知らない、先生のの姿が見えてない方々と言わざるを得ません。
 渡辺先生は、教主様にお仕えするために生きておられました。
 渡辺先生は、教主様にお仕えすることがご自身の使命でした。
 先生は、いつも、次のことを仰せになりました。「父の渡辺勝市は明主様、二代様、三代様にお仕えした。私は三代様と現教主様にお仕えするんだ」。
 この言葉を私は何度お聞きしたでしょうか。少なくとも百回はお聞きしたと思います。この教主様への情熱、それが渡辺先生というお方です。
 一部の方々が、渡辺先生は教主様中心では無かったとして、先生のイメージを変質させようとしているのは大変残念なことです。
 そのようなことをすることにより、教主様を通して明主様のご神業にお仕えになった先生のご存在そのものを否定してしまっているのです。
 このような方々は、渡辺先生が、本当に、教主様と教主様の奥様を尾行して盗撮するような方々の仲間になると思っているのでしょうか。言うまでもなく、そのようなことはあり得ません。
 渡辺先生は、生涯を通して、教主様をめようとする方々から教主様を守り、そしてそうされることで、そのような方々から執拗に攻撃されたのです。
 しかし私は、彼らは心の奥底では知っていると思います。教主様を捨て去ったことにより渡辺先生を裏切っていること、これを知っていると思います。彼らに言いたいことはただ一つ。「渡辺先生はあなた方をじっと見ておられます。明主様、二代様、三代様とご一緒に見ておられ、そして、あなた方が悔い改める日を待っておられます」。このことを言わせていただきたいと思います。

 

ブラジルにおいては、渡辺先生の心を受け継いだ方々が立ち上がり、渡辺先生を捨て去った方達が明主様の教団から離れていきました。
 アフリカにおいては、渡辺先生の一番弟子の一人であったフランシスコ先生(シッキーニョ)の心を受け継いだ方々が立ち上がりました。
 渡辺先生、あなたがいた教主様中心の種は、今や大きく成長し、実を付け始めています。
 渡辺先生、私の先生、私の唯一の先生。先生に、永遠の感謝を捧げます。

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