令和5年2月5日
世界中の信徒の皆様へ
世界メシア教
「聖言」について
皆様におかれましては、日々、明主様のみ心を現界に顕現なさるる教主様のもと、世界メシア教の名において進められるご神業にお仕えくださっていますこと、深く感謝申し上げます。
二代様は、次の様に仰せになりました。
明主様は御昇天になられたからどこかへ行ってしまったのであるかというとそうではなく、ちゃんとここにおられるのであって、. . .「教主の座」ここについておられるのです。明主様は私にちゃんとかかって皆様を育成なされておられるのであります。
御講話 1956年9月
今度、私の指導する線と明主様の指導された線とが、食い違っているということを聞いたことがあるのですが、これは大変な間違いであります。およそ教団の憲法、無形の憲章というものがあります。これは今出来ている組織以外に無形にあるものでして、教団であればこの無形の憲章というものが、第一ケ条にならなければならない。これは何かというと、神様、明主様から定められた教主というものが、この教団としての公のことの道案内の為におかれている。神様がそういうふうに許しておられるのであります。従って教団の太い方向づけというものは、やはり神様、明主様が私の口を通してなさるのであります。この理解が出来なければ、この教団の信徒ではありません。また神様を本当に信仰していないわけであります。
御講話 1959年3月23日
今の世に対してこういうふうにいかなきゃならんという線は、神様と明主様の御意志によって私に伝わって来るものである。これが一直線上にちゃんとある。一番上は神様、その次は明主様、それからその下が私とこれは一線上にちゃんとあるのでして、皆ここへ流れてきている。それによって、大きな方向づけだけはちゃんと神様から頂くのであります。これが信用出来ないというのであったら、神様が信用出来ないのと同じであります。
御講話 1959年3月23日
教主を認めるということが守られなければ、教団人というわけにはいかないわけです。
御講話 1959年3月23日
私は常に教主であると同時に、又その後の明主様のお仕事もさせて頂いております。神様だって絶えず進歩しておられるのですから、その後の明主様がいろいろお考えになれば、やはり私を通じて改められることだって出て参ります。ですから以前になかったことも出てくるかもしれませんが、主神様から明主様、私を通じて出されているのだというふうに、素直に取って下さることが、本当に明主様の御心に添うことであろうと思います。この認識があれば教団は必ず統一し、進歩発展するのであります。事実そういうふうに思ってやって下さる教会支部は、必ず発展しております。まだまだこの世の進歩と共に本教として取るべき態度、事柄いろいろの方針も次々打ち出されて来ますけれど、以前の御教えに拘わって、これは違うものが出て来たというような考えをお持ちにならないような理解が大事だと思います。
御講話 1961年6月7日
そして二代様は、
御昇天後の現在、明主様のお身魂は、私の背後にいつも引そうておられるのでありまして、私の言う事が即ち明主様の申される事であり、私の示す方向が、明主様の御指示遊ばす方向で、それをどうしても聞かれぬお方は、明主様が已むを得ずお綱を切られる訳で、自然に本教団から去ってゆかれる運命にありますが、そういう事のなきよう切に祈っておる次第であります。
「本筋活動に入る」『地上天国』84号 1956年7月1日
と仰せになりました。
二代様は、「私の言う事が即ち明主様の申される事」であると仰せです。「私の示す方向が、明主様の御指示遊ばす方向」だと仰せです。
すなわち、二代様のお言葉は、即明主様の聖言そのものであられると、そのように仰せなのです。
二代様は、世界救世(きゅうせい)教とは、「教主様即明主様」である、それが受け入れられないものは本教団から去ってゆかれると仰せであります。
このたびの教団浄化で、多くのものが明主様から去ってゆかれました。「教主様即明主様」と二代様がご明言になった以上、教主様から去ることは、即明主様から去ることに他なりません。
本来、この二代様の「教主様即明主様」「教主様お言葉即明主様聖言」を受け入れたのが世界救世教であり、これを受け入れられない方たちは世界救世教から離脱していきました。
私たちは、いつから、教主様ではなく、自分たちのほうが明主様のみ心が分かると思うようになってしまったのでしょうか。いつから、教主様ではなく、教団が明主様のご神業の方向を定めるものだと思うようになってしまったのでしょうか。いつから、教主様ではなく、責任役員会が明主様の教義を定めるのだという、とんでもない理解を持つに至ったのでしょうか。いつから、教主様より、すなわち明主様より、自分たちのほうが上だと思うようになってしまったのでしょうか。
二代様がはっきり仰せのように、「教主様即明主様」「教主様お言葉即明主様聖言」の精神を受け入れない「世界救世教」は、もはや世界救世教ではあり得ません。
「教主様即明主様」の精神を忘れた「世界救世教」は、もはや、明主様から離れ、世界救世教からも離れ、闇の中をさまよい歩く道が待っているのみでございます。
私たちは、教主様のもと、それはすなわち三代様のもと、それはすなわち二代様のもと、それはすなわち明主様のもとから去ってゆくべきでしょうか。去るべきではありません。
明主様と、二代様と、三代様と、現教主様と、そして教主様後継者の真明様を貫く一本の線、それは、何があろうとも揺らぐものではありません。
二代様のお言葉にも、三代様のお言葉にも、教主様のお言葉にも、そして、真明様のお言葉にも、一つの線、筋、ビジョンが貫かれており、それはまさに、明主様の聖言に貫かれていた線、筋、ビジョンと同じものなのです。
先ほど引用させていただいたあまりにも尊い二代様のお言葉を考える時、私たちは、これ以上明主様の「聖言」と歴代教主様の「お言葉」を分けて考えることができるのでしょうか。
繰り返しますが、二代様は「私の言う事が即ち明主様の申される事」と仰せです。
二代様は、教主様の「お言葉」は「聖言」だと仰せなのです。そこに一切の差はなく、「お言葉即聖言」だと仰せなのです。
従いまして、本教団においては、二代様のみ心にどこまでも従い、今後、教主様のお言葉は「お言葉」ではなく「聖言」と呼称させていただくことといたします。
また、真明様がご教示くださることは「ご挨拶」なのでしょうか。やはり、「ご挨拶」ではなく、「聖言」と呼称させていただくべきではないのでしょうか。
具体的には、「明主様聖言」「二代様聖言」「三代様聖言」「教主様聖言」「真明様聖言」と呼称させていただき、これらすべての総称として「聖言」という言葉を使わせていただきたいと存じます。
世界中の信徒の皆様におかれましては、明主様のご遺言によって継承された二代様の「私の言う事が即ち明主様の申される事」「私の示す方向が、明主様の御指示遊ばす方向」を始めとする教主様というご存在に関わる数々の聖言に深く思いを馳せ、今後はこのごとくしていただきたく、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
本日は、教主様のもと、ここ日本で、「立春祭 ~世界メシア教復活3周年記念式典~」が開かれます。
それはすなわち、明主様のもとでの祭典であります。
教主様に結ばれて、初めて明主様に結ばれることができる。
世界中の信徒は、それぞれの国や地域において、明主様に、すなわち教主様に結んでいただいた大いなる喜びをもって、立春祭に臨むものと思います。
そして私たちは、今日、この唯一無二の日に、直接教主様のもと、すなわち直接明主様のもとでの参拝を許され、世界中の信徒を代表し、慎みと歓喜をもって、教主様と真明様より聖言を賜ります。
天にいらっしゃる主神の御心が一直線に貫かれたその聖言を、私たちは、心の中心に、悔い改めの思いをもって、まっすぐお受けしたいと存じます。