PDF立春祭_真明様聖言

「最後に愛は勝つ」

於:ホテルオークラ神戸(平安の間)

 

皆様、こんにちは。
 今日は、海外参拝団の方が来られてますね。普通、海外参拝団というと、「海外参拝団は聖地に行く」というイメージを持っていますね、私たちは。
 だけど、今回来られた方たちは、教主様にお会いになることが目的でブラジルやアメリカから来られた、ということなんですね。
 だから、アメリカも遠いですけれども、ブラジルは日本の真反対、真裏、地球の反対側の日本から一番遠いところですから、そこから、教主様にお会いになるため──そのために──来られた。
 日本にいる我々は、教主様がいつも日本にいらっしゃるからそれに慣れてしまっているのかもしれませんけれども、海外参拝団の皆様は、アメリカや、またもっと遠いブラジルから、ものすごい労力をかけて今日この場に臨んでいらっしゃるわけです。
 それを考えると、日本にいる私たちは、教主様のみもとに参拝させていただくことについての私たちの姿勢を反省させられるというか、考えさせられるというか、そう思います。
 また、この教団浄化というものがあって、日本とかアフリカとか韓国とかでは信徒の大半が立ち上がりました。というように、周りの多くの方たちが立ち上がっている中ですから、「じゃあ、みんなで立ち上がろう」というふうには思いやすいと思うんです。もちろん、立ち上がったことはとても尊いことなんですけれども。
 だけど、例えばブラジルにおいては、専従者も含めて大半の方々は立ち上がらなかったわけです。立ち上がらない。だから、周りの人たちはほとんど立ち上がっていない状態ですね。
 しかも教団浄化の時はいろんな情報が錯綜する状況になりますから、特に日本から遠いブラジルにおいては、「どれが正確な情報なんだろうか」ということになりますね。
 日本においては、教団浄化のさなかに教主様のご巡教があったじゃないですか。教主様が全国を回られて、お言葉をべられて、教団浄化への思いを語られて、それを聞かせていただいた私たちは安心できたと思うんです。
 でも、海外ではそれがないんですから、状況としては非常に不確かですよ。不確かも不確かですよ。そういう状況においては、多くの人が進んでいる方向になびくというのが普通ですよ。
 ましてやブラジルの場合は、ブラジル世界救世教しかなく、そのブラジル世界救世教は立ち上がらない。
 これが何を意味するのかというと、日本の場合は世界救世教主之光教団──今のメシア教ですね──があったじゃないですか。これが、当時、包括の責任役員会と呼ばれるところにおいては、世界救世教主之光教団はもう世界救世教ではないとされていましたけれども、でも、裁判がありましたので、裁判が終わるまでの数年の間は、聖地の中で祭典もできるし、自分たちは世界救世教の一部だと思えたわけです。また、今も思えてますね、まだ裁判続いてるわけですから。
 でもブラジルにおいては、ブラジル世界救世教しかないんですから、ブラジルの信徒の皆様には、日本の皆様のように、「まだ自分たちには世界救世教主之光教団がある」「そこに移籍しよう」というチョイスは無かったんですよ。
 つまり、ブラジル世界救世教を出るということは、例えて言うなら、今、世界メシア教から完全に離れて、教主様中心のまったく新しい団体を作らなければならないと、そういう状況だったわけです。
 我々のように、例えばもし聖地に対する執着がある方がいらっしゃったとしたら、「それが年々少しずつ無くなってきました」、なんてしている余裕、猶予は無かったんですよ、ブラジルの方々にとっては。
 ブラジルの方々にとっては、数年前、教主様とご一緒に立ち上がるという時、完全に聖地とは決別したわけです。というのは、ブラジルの方々は、ブラジル世界救世教とはまったく無関係の、新しい宗教団体を立ち上げなきゃいけなかったんですから。
 だから、今日ここに来ていらっしゃる方々が代表しておられるブラジルの信徒の方々は、教団浄化の非常に不確かな状況の中、当然、それまで通われていた教会は出なければいけないし、また、大半の信徒が立ち上がらないわけですから、その時までに培ってきたいろんな人間関係が無くなったこともあったでしょう。長年参拝しに行かれてた聖地への思いもあったでしょう。
 そのすべてをですよ、そのすべてをなげうって、教主様のため立ち上がられた。もちろんそれは、ただ、「教主様のため」ということではなかったと思いますよ。要は、教主様の中に明主様が働いておられるというその信念を持って立ち上がられた。
 我々で、海外の信徒の方たちのような決断ができただろうか。できたかもしれないけれども、でも海外の信徒、特にブラジルの信徒の方々が示された姿勢、その意志の強さ、それは世界メシア教の信徒としての、模範という姿じゃないかと思うんですね。
 我々はいつも日本で、ただ日本人だけで参拝しているようですけれども、本当は、いつもそういう海外の心強い仲間と共に信仰してるんだ、ということを忘れてはならないと思うんですね。
 だから、今、改めて、今日海外から来てくださっている方たちへの敬意と感謝の気持ちを込めて、みなで海外参拝団の皆様に拍手したいと思います(一同拍手)。
 ありがとうございました。

 

それで、今日お話ししたいのは、イエス・キリストがということがありますね、贖い主、贖罪主。これは明主様が仰せになっていたことですね、イエスは贖罪であると仰せだった。
 だけど私たちは、それをずっと重要視しないまま来たんですけれども、教主様が、いや実は明主様はイエスが贖罪主だとおっしゃってるじゃないかということで、今我々はそれをお受けしようということなんですけれども、そのことの重要性を我々はどの程度理解できてるんだろうかと、そのことをお話ししたいなと思っております。
 「贖い」というのは普段あまり使わない日本語ですのでね、辞書でちょっと見ましたら、その意味は、「罪をつぐなうこと」とありました。罪をつぐなうこと。つぐない。
 しかも、この贖い主ということについて、明主様は、例えば百年後、二百年後、千年後とかにもう一人贖い主が出ますよとはおっしゃってないですよね。また別の贖い主が来ますよとはおっしゃってないですよね。
 ということは、二千年前のイエスただ一人ですよ、我々の罪を贖う方、つぐなう方は。イエスただ一人。それがもう二千年前に終わった。
 ということは、我々の罪はもうつぐなわれたんですよ。
 よくなんか悪いことをすると、「罪をつぐなわなきゃいけない」と言うじゃないですか。「あの人は罪をつぐなってる」と言うじゃないですか。それはもう終わったんですよ、二千年も前に。
 だからそれは、なんか漠然とした話ではなくて、我々一人ひとりの人生の中で、今まで犯してきた罪とかちがあるじゃないですか。あるいは今、なんか犯していることもあるかもしれない。あるいはこれから未来なにかしてしまうかもしれない。自分の子供がとんでもないことをしてしまうかもしれない。
 でも、たとえ誰がどんな罪を犯しても、それはもうつぐなわれたんですよ。「た」ですから、過去形ですよ。二千年前のことなんですから。
 ということは、皆様お一人おひとり、無罪だということですよ。無罪宣告を受けたということですよ。
 もちろん、人間の世界で決めた法というのはありますね。それを破って社会に迷惑をかけるようなら、いわゆる刑務所というようなところに行かないといけない。私は、そのあり方を否定しているわけではないですよ。
 でも、そのような刑務所とかを見る時の我々の見方が、「あの人は罪を犯したから罪のつぐないをしてるんだ」というふうに見るのか、それとも、「もう罪はつぐなわれた。だけど、我々自身、自分がどこから神様のお赦しをいただいたか分からないから、それを神様が私たちに教えてくださるために、自分もしたくないようなことをさせられたり、また、神様が世の人をお使いになって、いわゆる罪というようなことを犯させて、そして、我々がどこからつぐなわれたかを教えてくださってるんだ。これは私の姿なんだ。私はここから贖われたし、つぐなわれたんだ」と見るのか、どっちなのでしょうか。
 もう現れないんですよ、贖い主は。あなたの罪をつぐなってくださるお方はもう現れないんですよ。ということは、我々の罪や過ちはもうつぐなわれたんです。皆様はもう、無罪なんですよ。無罪。
 「つぐない」というのは、「お金や労力などの方法で罪や過ちの埋め合わせをすること」だと、そうありました、辞書に。
 お金や、また、労力。労力ですから、社会奉仕活動をするとか、そういうことですね。そういうことを通して、罪とか過ちの埋め合わせをするのがつぐないだと、そういうことです。
 我々は、信仰活動の名のもとに、ずっとこの埋め合わせをしてきたんじゃないですか。埋め合わせをしなきゃいけないと思って信仰活動をしてきたんじゃないんですか。
 身魂磨きをしなきゃいけない、ご先祖様の因縁があるから自分は善行しなきゃいけない、いいことしなきゃいけないと言って、ずっと埋め合わせをしてきたんじゃないですか。
 でも、つぐないが終わったということは、もう埋め合わせは終わったんですよ。
 でも我々は、長年、我々自身のご先祖様の因縁があるとか、何々はこうだとか、だから信仰活動しなきゃいけない、そうしないとが当たると言ってずーっと信仰してきたじゃないですか。埋め合わせしなきゃいけないと思って。
 でも、もう罪を贖ってつぐなったということは、その埋め合わせは終わったんです。
 病気になりました。これを我々は、「まだ罪が残ってるからつぐないが必要なのかな?だから病気になったのかな?」と受けとめるじゃないですか。
 でも違うんですよ。もうその埋め合わせはしてくださったんですから、二千年前に。
 贖い主なんでしょ、イエスは。「つぐない主」ということですよ。だからもうその埋め合わせをしてくださったんです。これから我々が犯してしまう過ちについても、ですよ。
 だから教主様が、二千年前から新しい世界になったとおっしゃいましたが、なってるじゃないですか。だって二千年前にイエスが我々の罪を贖ってくださったんですよ。
 二千年前の時点で、それまで生きてきた人たち、今生きてる人たち、これから生まれてくる人たち、そのすべての人に対しての無罪宣告がもう行われたんですよ、二千年前。だから、それが新しい世界の始まりでなくていつなんでしょうか。
 夜昼転換。明主様の夜昼転換。明主様は、その夜昼転換で出た光は罪障消滅の光だと仰せですね(聖言「大光明世界の建設 光明如来」)。罪障消滅の光。罪を赦す光ということですね、罪を消しちゃうんですから。明主様は、もうその光が出たと仰せですよ。あなた方は戸を開けるだけ、扉を開けるだけでいいと仰せです。
 もう光の世界になってるんです。我々がそのことを受け入れて今扉を開けるのか、それとも、まだ光の世界になってません、私は自分の世界で生きていきます、と言って扉を閉めたまま生きていくのか。どっちなんですか?
 今日の祭典前のピアノ演奏のタイトルも、「この素晴らしき世界/What a Wonderful World」。もうそのすばらしき世界に入ってるんです、今。罪はもう赦されたんですよ。贖罪なんでしょ、イエスは。ピアノを聞いて、わあ、いつかそういうすばらしい世界が来たらいいな、じゃないんですよ。もう来たんですよ。
 だから、イエスの十字架によってもたらされたものは大変な祝福ですよ。
 でもね、じゃあ今までなんで私たちは、こんなにすばらしい福音をお受けしなかったんだろう。こんなにいい話なのに、なんでもっと早くお受けしなかったんだろう、馬鹿げたことだったなと思うかもしれないけれども、実は、これが、こんなにすばらしい話なんだけれども、このことは私たちにとって都合が悪かった。
 というのは、我々は、罪人にならないように生きてます。こういう教えを守ってます、こういうことしてます、私は信仰してます、と言って、の人よりも自分をなんとかちゃんと保ちたいとして生きている。
 我々は今もそういうふうに生きているし、また二千年前も、我々のご先祖様というか、我々人類はそのように生きてたわけですよ。
 ところがですよ、そうやって一生懸命生きてたところに、突然、神様はイエスを送ると言われた。で、その目的は何かと言ったら、「あなた方の罪を取り除くためにイエスを送る。あなた方の罪を贖うために送る」と仰せになったんです、神様は。
 それにびっくりしたわけですね、我々は。だって我々は、自分が罪人だなんて全然思ってないですから。
 むしろ、罪人と言われないために一生懸命信仰を実践してた。だから私たちは、「いやいや、私にはイエスは必要無い。私じゃなくてあの人たちは罪人だから贖い主が必要かもしれませんね」と思ったわけです。
 ところが神様は、「全人類の罪を贖う」とおっしゃる。ということは、私たちは、全員、一方的に神様から、「あなた方は罪人だ」と宣告されたんです。ですね?
 神様はイエスを送ることによって、あなた方全員罪人だと宣告されたんですよ。これが都合が悪かったんですよね、私たちにとっては。
 私たちは、当時の人たちはイエスを十字架にかけちゃってひどいことしたなと思ってますけれども、その当時の人たちの姿は私たちの姿ですよ。
 「私の罪を贖う?イエスはとんでもないことを言ってる。私は、これもこれもこれもこれもこれも実践している立派な信仰であって、神様を信仰している立派な存在だ。それなのに私の罪を取り除きに来たとはなんということだ。イエスはおかしい」と、それが私たちの思いだったし、思いですよ。
 だってもしイエスを受け入れたら、せっかく今まで、「自分は善人。ああいう人たちは悪い人たち」として生きてきたのに、その「ああいう人たちは悪い人たち」と同じ仲間にされちゃう、罪人にされちゃうわけですから。誰だって罪人になりたくないじゃないですか。せっかく一生懸命信仰実践して自分が優位に立ってたのに、なんでこんな人たちの仲間になんなきゃいけないのかと、そう思ったんですよ。
 で、我々が導き出した解決策は、イエスを殺してしまおう。それが私たちの解決策でしたね。だってイエスを受け入れると自分にとって都合が悪いんですから。
 だから、今まで私たちが贖罪を受け入れてこなかったというのは、ただ、そのことを知らなかった、知らされてなかったということだけではなくて、我々の中に潜在的にあるんですよ、「自分は一生懸命信仰してます」というのが。だから受け入れてこなかったんです。
 「あの人たちはイエスを必要としてるでしょう。でも私はイエスを必要としていない。だって私は利他愛の実践もしてます、浄霊もしてます、参拝もしてます、奉仕もしてます、献金もしてます、身魂磨きもしてます、立派に生きてます、だから必要ありません」と、そういう思いが私たちの中にあった。
 だからそれは、今も、日本にもいろんな宗教があって、そこでは戒律みたいのもあります、こういう教えを守らなきゃいけない、というような。
 でもそれは、最終的には、究極的には、モーセの十戒に行き着くんですね。モーセの十戒。
 ユダヤ人の方たちは、10どころか、モーセの十戒から派生していろんなルールがあって、それを守るということで今もやっておられる。だからイエスのことをメシアとしては受け入れない、ということになっている。自分たちはこういうルールを守ってる、自分たちこそ正当に神様にお仕えしているんだとなっている。
 でもそれは、神様の大きな仕組の中でのことなんですね、実は。
 明主様が、エルサレムに行って初めて世界が統一されると仰せになっていますけれども(「昭和271018日 御講話」)、エルサレムにいらっしゃるのはユダヤ人の方々ですね。
 だから、その大きな御仕組の中では、メシアの御名がユダヤから出て、それは我々のところに到達しました。そして、ユダヤ人以外の我々がメシアの御名を受け入れました。というように、我々が、「メシアの御名とイエス・キリストの血を受け入れます」と言ってエルサレムに行けば、本当は、ユダヤ教の方々もイエスを受け入れて、そして全人類がユダヤ人を筆頭に神様にお仕えする時というのは来るんですよ。これは御仕組ですからね。
 でも、とにかく、我々の罪を赦してくださったことは、言葉にすれば愛ですよね。
 愛。
 「神様の愛とはなんだ」と言ってもなかなか分かりがたいですよね。
 神様の愛は何かというと、例えば、神様は子供がパンを求めるのに石は用意されない、神様はパンのみを用意されるお方です、というのがあるじゃないですか。パンか石か、どっちなんだと言ったら、神様はパンを用意される、それが神様の愛だ、という話がありますね。(2023年新年祭 真明様聖言「心に春を」参照)
それについて我々は、そのように思わせていただかなきゃいけないんですね、とか、なかなかパンだけ用意してくださっているとは思えませんとか、そういうことを思いますよね。
 あるいは、いいことと悪いこと。神様はいいことしか起こさない。なんだけど、それを聞いてもなかなかそうは思えません、というのもありますね。
 あるいは、あなた方は新しく生まれる運命にあるんですよ、私の子供となるために養い育てられているんですよ、というのもありますね。それについても、実感が持てません、なかなかそうは思えません、という我々の思いがありますね。
 あるいは、あなた方の中に天国が樹立してるということも、実感がありません、思えません、がんばって思おうとしてますと言ったり、あるいは、あなたは無罪なんですよということも、実感がありませんと、そうなってますね、私たちは。
 でも、たとえ我々がパンと思えなくても、いいことだと思えなくても、天国が自分の中にあると思えなくても、罪が赦されたと思えなくても、それは事実なんですよ。事実。神様がパンしか我々のために用意されてないのは事実なんですよ。
 あなたのことを信じることはできませんと、どんなに我々が神様を否定しようとも、神様なんているもんかと、どんなに我々が神様を罵倒しようとも、ここにいる我々全員がだんだん神様から離れて、もう神様なんていないと、どんなに神様をこけにしても、我々が何を神様に対して思ったとしても、神様の我々に対する愛は変わらないんです。
 神様は、私はお前のためにいいことしかしないんだよと仰せなんです。お前のためにはパンしか用意してないんだよと仰せなんです。お前の中に天国を樹立したんだよ、罪も赦したんだよと仰せなんです。
 人間は見返りを求めますね。自分は愛を施したのでちゃんとそれに応えてくださいと我々は言う。私はこれだけしたんだからちゃんとお返しをくださいと言っている。あるいは、永遠の愛を誓ったのに、何十年か経ったらもうその気持ちは消えましたとなるように、移ろいやすい愛ですよ、人間の愛は。
 でも神様は、我々にどんなことを言われようが、何をされようが、我々のことを愛してくださる。だから、無償の愛なんです。そして、我々のように何十年経ったら薄くなるような愛ではないんですから、不変の愛でもあるんです。
 だから、神様の愛というのは、無償で不変で永遠の愛。これが神様の愛です。
 だって事実なんですから、神様が私たちのためにいいことしかなさらないのは。これは永遠に変わらないんですよ。我々がそのように思おうが思えまいが、神様のことから離れようが離れまいが、神様が我々にとっていいことしかされないというのは事実なんです。
 だから僕は、陳腐な表現ですけれども、「最後に愛は勝つ」と、そう言いたいんですね。
 最後に愛は勝つ。
 人間の愛じゃないですよ。神様の愛は最後に勝ちますよ。我々がどんなに神様から離れようとも、神様はずっと私たちを愛してくださって、そしてその愛に我々が触れて、ああ神様ずっと愛してくださってたんですねと言って神様の愛が最後に勝つんです。我々の一人ひとりの中でですよ。だってその愛が私たち一人ひとりの中にあるんですから。
 絶対に変わらないもの、絶対に見返りを求めないものが私たちの中にあるんです。そして神様は、我々からどんなにこけにされようとも、愛してくださってるんです。
 その愛によってお前を包み込んであげるよと仰せなんです、神様は。だから、我々がたとえ今すぐそのことを思えなくても、「ああ、いつかそういうふうに思える時を神様はご用意くださってるんだな」「そういう神様が自分の中にいらっしゃるんだな」「そういう愛があるんだな」というふうに皆様には思っていただきたいんですね。だって神様の愛が存在するというのは事実なんですから。

 

迫害ということがありますね。迫害。日本の現在は、宗教に対する迫害というようなこともありますね。宗教だからこうだ、というような。
 でもこれは本当はおかしな話ですね。というのは、日本の場合は、以前は国家神道と言って、国が人心を教化してた。でもそれが戦後、国が宗教を進めるのではなくて、人心の教化は国民に託す、ということで国として宗教法人格を付与することによって、そういう団体に国民の人心の教化を任せようとなったわけです。
 にもかかわらず、ですよ、にもかかわらず、いざ世論が「宗教おかしい」となったら、国は、自分たちがいろんな宗教団体に人心の教化を託しているのに、いざとなったら見て見ぬふりじゃないですか。
 本来、国民に対して、「人心の教化をするために私たちがこういう団体に宗教法人格を与えてるんです」と説明すべきところ、いざ世論が反宗教になったら、国に関わる方々は見て見ぬふりですよ。
 でも、たとえ今我々がどのような迫害にっていようとも、今まで私たちの前を歩いてきた人たちに比べれば、どうってことないことですよ。だって、イエス・キリストは殺されたんですよ。神様への信仰ということによってイエスは殺された。
 そして、イエスのみならず、例えばイエスの一番弟子の一人であったペテロは、逆さ十字架と言って、十字架よりももっと残酷な方法で殺されました。イエスの弟子たちも、多くの人が殺されました。
 この日本においても、国が、キリスト教を信じてはだめだという禁教令を出して、その後、例えば長崎とかでも多くの人が殺されました。殉教ですね。
 イエス・キリストを信じてたら殺されてたんですよ。その中には小さい子供たちもいっぱいいたんですよ。小さい子供たちも、イエス・キリストを信じるなら殺されてたんですよ。
 で、我々はどうなのか。イエスのことを受け入れないという選択をするならいいですよ。罪の贖いは受け入れません、イエスを贖罪としては受け入れません、ということなら別にいいですよ。
 でも、もし受け入れるなら、「いや、どうかなあ」「なかなか真剣に受け入れられないなあ」というそんな中途半端な思いで、例えばイエスを信じたことによって殺されたそういう十何歳くらいの少年の前に立てますか?
 そのような少年が命を懸けてイエス・キリストを信じるという信仰をいできたから、今我々はイエス・キリストを贖罪主として受け入れて、罪のつぐないを済ませてくださったことを知るに至ったのに、その殉教した少年の目を見て、「受け入れられるかな」「なかなか受け入れられないな」と言えますか?
 だからそういう方たちのことを考えれば、我々はもう甘すぎますよ。なまぬるいし、甘い。
 我々が、「イエス・キリスト。んー、じゃあ信じてみようかなと思いました」とかね、「なかなかまだ受け入れられないけどがんばって信じられるようになりたいです」というようなことを言っても、全然殺される危機にはならないですよ。ものすごい寛大な状態ですね。なまぬるくさせていただいてますよ。
 でもだからと言って、命を懸けてイエスを贖罪主として信仰してきた人たちのことを忘れてはいけないんです。
 命を懸けたというか、実際に命を捧げられたんですよ。覚悟だけの問題ではなくて、実際、日本においてでさえ何百人も殺されたんですから。
 そう考えたら我々はなんと恵まれてるのだろうか。決断するかしないかの猶予もある。決断しなくても罰せられることもないし、決断したところで殺されることもない。昔は、イエスを贖罪主として受け入れたら殺されてたんですよ。
 だから、もし我々が、「イエスを贖罪主として受け入れます」と言うならば、そういう人たちの土台があって初めて受け入れることができるんですから、中途半端な思いではそういう方たちに申し訳なさ過ぎますよ。
 我々は今、命を懸けてまで信じなさいとは言われてませんけれども、でも、もしそう言われていないんだとしたら、それは、そういう方々が命を懸けてくださったからですよ。イエスだけではないんですよ。イエスの十字架で、「はいすべて終わりました」、ではないんですよ。イエスの弟子たちもそうですし、また日本においてでさえ、に長崎において、大人数に見られる中で十字架になって殺された方たちがたくさんいらっしゃる。なぜ殺されたのか。イエス・キリストを信じたからですよ。それだけで殺されてたんですよ。
 だから本当は、今我々が賜っているこの「罪無し」の福音を受け入れるなら──イエスが贖罪主であるという福音を受け入れるなら──やはりみですね、これを持っていないといけないのかなと思います。なんとなく信じてみようかなとか、信じてる私は偉いとか、そういうことではなくて、やはり、我々のために命を捨てた方たちのことを思って、そして大いなる慎みを持って、「イエスを贖罪主として受け入れます」とさせていただかないといけない。
 しかも我々は、それだけではなくて、イエスを贖罪主として受け入れた先にある、今度は、あなた方一人ひとりが神様のような存在になれるというその道が待ってるんですから。
 ただ、「イエスを贖罪として受け入れてます」ではなくて、その先にある、全人類神の子たるメシアとして新しく生まれるという道。これが明主様のご使命でしたでしょ。明主様の使命。全人類にはなんと、大いなる二歩目があったんだ。それを今我々は託されてるんです。
 明主様のは、イエスの業と別々に存在してるわけじゃないですからね。イエスの贖罪の土台、イエスを信じた方々の多くの血と死があって、今我々は、明主様が指し示しておられる道を神様から託されている。
 だから、キリスト教徒の方々はこのことを受け入れないかもしれませんけれども、本当は、今我々に託されてるこの大いなる二歩目の救いの福音の道を全うすることが、長崎で命を落とした方たちが本当に報われることでもある。「ああ、あの時命を懸けてこの信仰を守って良かった」として報われる。
 イエスも、イエスの弟子たちも、本当に報われるのは我々にかかってるんです。我々が神様の心を成就することが、今までの多くの死を意味あるものにすることができる。
 だから我々は、大変なことを今託されてるわけですね。1935年に明主様がご立教になってから始まった人類の歴史ではなくて、神様のもっと壮大なご計画を今我々の手で成就するというところに来てるんです。それが託されてるんです、世界メシア教の我々に。
 そうでなければ、今までの殉教者はすべて無駄死にになりますよ。我々がもしこのまま中途半端でいけば、すべて無駄死にですよ。イエスも無駄死にだし、イエスの弟子たちも無駄死にだし、イエス・キリストを信じて殉教した人たちも無駄死にですよ。
 我々は今、神様の唯一の御心を知らされてるんですよ。
 当たり前じゃないですか、なんでイエスだけが特別なんですか。なんで明主様だけが特別なんですか。そうではなくて、皆様お一人おひとりが特別なんですよ。神様にとってかけがえのない存在なんです。
 そしてその救いを全人類が本当は待ち望んでるわけです。だから、本当に、我々の先達に思いを馳せて、大いなる慎みを持って、また我々に託されてる責任もありますよ。我々に今、もうのしかかってるんです。世界メシア教にのしかかってるんです。人類の今までの歩みがのしかかってるんですよ、私たちに。やはりそれになんとしてもお応えしなければという使命感と責任感を持たないといけない。
 それは、すごく大きな話みたいですけれども、その鍵は我々の日常生活の一つひとつの中にあるんですよ、実は。我々の感覚としては、今聞いているお話はすごいスケールの話だけど、私なんか、今朝、主人にあんなこと言っちゃったとか、買い物した時、あの店員の態度がどうだとか、そんなことを思ってます、となりますけど違うんですよ。そういう日常の中にこそあるんです。日常生活の中で感じることを通して、「あ、ここを贖ってくださったんですね」「つぐなってくださったんですね」「これを私は救いに来たんですね」、ということなんです。だから、今の一見大きな話とまったく同じ話なんです、我々の日常生活というのは。
 だから、ただの石っころのような人生で終わるんじゃなくて、その石っころみたいな人生の中にこそ神様が光るものを用意してくださってるんですから。
 ですので私たちは、一日一日を、たとえ小さいことであったとしても、「これを私は救いに来たんだ」「救いのために自分は来たんだ」とさせていただくその先に、「素晴らしき世界」を神様がどんどん用意してくださるわけですからね。
 私たちはそれを信じて、そして、私たち日本にいる者同士だけではなくて、世界中の信徒と一つになって、助け合いながら、思い合いながら歩んでいく。だって私たちは兄弟姉妹なんですからね。神様以外は兄弟姉妹なんですよ。神様だけは別格ですよ。でも我々は兄弟姉妹。
 ですので、メシア教の兄弟姉妹で、手を携えて、楽しく希望を持って歩んでまいりましょう。
 ありがとうございました。