立春祭 ~世界メシア教復活3周年記念式典~

2023年2月5日

 

明主様・二代様御歌

えらばれし神の柱のいや集ひ地上天国うち樹てんかも    明主様

天国を地上に樹つるよろこびにまさる喜びあらじとぞ思ふ  二代様

七転び八起の教祖にならひつつ地上天国建てむとぞおもふ  二代様

愛善と調和の天国地の上に築くは人のつとめなるらむ    二代様

神と倶にうれひよろこび地の上に天国樹てむわれら誓ひて  二代様

天国を此土につくり万民の嬉し喜ぶ時ぞ待たれぬ      明主様

永遠に冬なき夜なき天国に世人救はむはや来れかし     明主様

 

二代様聖言

明主様は自分に光の玉があると言われました。これは皆様も御存知でその通りなのです。しかしその光の玉はあると言われただけで、自分で作って自分が入れたとは仰言いませんでした。その光の玉の光線はやはり真神(かみ)様にあって明主様のところへどんどん流れて来たのです。そして明主様が使われれば使われるだけ補給されて無限に出て来たのです。勿論明主様御昇天後はこの光の玉を私が頂き、御神体、お守様、御浄霊すべてこの玉を通して配らして頂いているのです。又三代四代と代が変りましても、本教の教主の座にこの玉は授けられるのです。だから少しも威勢は落ちません。これは当り前のことです。

「御講話」昭和35年5月17日

 

御昇天後の現在、明主様のお身魂は、私の背後にいつも引そうておられるのでありまして、私の言う事が即ち明主様の申される事であり、私の示す方向が、明主様の御指示遊ばす方向で、それをどうしても聞かれぬお方は、明主様が已むを得ずお綱を切られる訳で、自然に本教団から去ってゆかれる運命にありますが、そういう事のなきよう切に祈っておる次第であります。

「本筋活動に入る」昭和31年7月1日

 

和のあるところ必ず中心があります。世界平和が神中心にして成立つ如く、支部の和は支部長を中心に、教会は教会長を中心に、教団は教主を(この場合教主は教祖の身代りですから教祖中心と言っても同じです)中心にして初めて成立つのであります。

「飛躍発展への心構え」昭和36年4月1日

聖書

「マタイによる福音書」第4章23節~第5章20節

イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。

イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、

   天国は彼らのものである。

 悲しんでいる人たちは、さいわいである、

   彼らは慰められるであろう。

 柔和な人たちは、さいわいである、

   彼らは地を受けつぐであろう。

 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、

   彼らは飽き足りるようになるであろう。

 あわれみ深い人たちは、さいわいである、

   彼らはあわれみを受けるであろう。

 心の清い人たちは、さいわいである、

   彼らは神を見るであろう。

 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、

   彼らは神の子と呼ばれるであろう。

 義のために迫害されてきた人たちは、

   さいわいである、

   天国は彼らのものである。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(⽇本聖書協会)

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