PDF豊穣祈願祭 真明様聖言

「託された使命」

於:本部ご神前

 

皆様、こんにちは。
 ただいまは、みことの誕生に際しまして、皆様から温かい祝福をいただきまして、ありがとうございます。
 お祝いくださったのは、私とマミの子供だからというより、みことは明主様の玄孫ですので、明主様につながる存在ということで皆様がお祝いしてくださったんだと受けとめておりますし、また、そういう意味において、明主様のみ心──それを今教主様が私たちに伝えてくださっているわけですけれども──これからも、皆様とご一緒に、どこまでも明主様のみ心というこの一点、この一点を求めていきたいと、そう思いました。
 私と私の家族は、皆様あっての私であり私たち家族ですので、教主様のもと、これからも、皆様とご一緒に、明主様のみ心を求めて共に歩んでいければなと思います。よろしくお願いします。

 

今日は豊穣祈願祭ということで、このご神前にお供えされているのが種ですね(真明様、種を指し示される)。この種をいて、秋には豊かに実るようにというお祈りをする日ですね、今日は。
ですので、世界メシア教につながる農家の方々が、今年も収穫の時に向けて順調に進まれて、そして蒔いた種が豊かな実りとなるよう私たちみなでお祈りさせていただきたいと思います。
 今日の聖言にもありましたように、明主様がお持ちだった光の玉は二代様が継承されまして、そして今は現教主様のもとにある。大変なことですね、これは。
 要は、明主様は今、まさしく教主様を通して働かれているし、教主様がいらっしゃるところが明主様がいらっしゃるところである、ということですね。そういう意味において、今現在、世界中で、明主様のもとで自然農法をしておられるのは、教主様のもとにある世界メシア教につながる農家の方々のみである。
 そう考えますと、この農家の方々の使命と責任は重大ですし、また、普段あまりそういうことと関わりがない農家ではない皆様も、今日は豊穣祈願祭ですから、私たちを代表して明主様のもとで自然農法をしてくださっている方々に、ありがたいなという気持ちを持たせていただきたいなと、そう思います。
 もちろん、かと言って、豊穣祈願祭というお祭りは、農家の方々に限定されるお祭りでもないんですよ、本当は。
 皆様もご存じのように、3月で年度は終わって、4月からは新しい年度が始まりますね。この節目の時に、仕事が変わるとか、異動になるとか、学校が始まるとか、あるいはなにか自分なりに目標を持ってこれをやってみよう、新しいスタートを切ろうと思われている方もいらっしゃるかもしれませんね。
 ですから、皆様が4月から歩まれる新しい年度、また、皆様の目標とか夢、それも豊かに実りますように、ということを私は思わせていただいております。
 でも、それを超えて、農家であってもなくても、4月から特別何か新しいことがあってもなくても、この豊穣祈願祭というのは、私たち一人ひとりにとってどういう意味があるのだろうか。私たちの日々の生きざまの中でどういう意味があるのだろうか。生きざま。
 で、それは、本当は神様は、私たちに種を宿してくださった。私たち一人ひとりに種を宿してくださった。
 それは何かというと、この「心」ですね。心。神様は、私たち一人ひとりに心という種を宿してくださった。今まで我々は、豊穣祈願、ではないですけれども、この心という種を豊かに実らせようと思って、人を裁かないようにしようとか、感謝の心を持てるようにしようと言ってきた。ですね?
 だけど本当は、この心というのは、これから豊かに実るのではなくて、もう実ってるんです。神様が私たちに心を宿してくださって、そしてそれは今、もう、豊かに実ってるんです。
 どういう意味かというと、私たちの中には、それこそリンゴとか桃のように、食べたい、おいしいと感じるような心地いい思いが湧く時もある。喜びとか前向きな思いとか、そういう思いのことです。
 一方、自然界には、すぎて人間が食べられない実もあるように、我々にとって、この思いは欲しくないという思いもありますね。怒りとか嫉妬してしまうとか劣等感とか、できれば自分が感じたくない負の思い、こういうのもありますね、私たちの中には。
 それこそキノコのように、種類によっては食べたら死んでしまうキノコもあるように、我々の思いが表現された時に、それが結果的に人をめるとか、自分自身を殺めるというふうなことにつながる思いもありますね、私たちの中に。
 そういういろんな思いが今、私たちの中で、どんどん実ってるんです。これからじゃないですよ。今、もう、実っている。
 人間が食べられるリンゴとか桃だけが神様の創造物かと言ったらそうではないですよね。食べられないくらい苦い実も、死に至ってしまうようなキノコも、すべて神様が造られたものです。神様の創造物。食べたら死んじゃうだけのキノコなんて我々人間の目から見たら必要無いみたいに思うかもしれないけれども、神様の中では何か必要があってそれを創造されているわけです。
 というように、我々の心も、毎日毎日、一瞬一瞬、今、もう豊かに実ってるんです。神様が心という種を宿してくださって、心地いい桃とかリンゴみたいな思いが湧く時もあるし、とても食べられないくらい苦いとかいような心地よくない思いが湧く時もあるし、あるいは、爆発したら人を傷つけるようなことにつながる思いが湧く時もある。
 農家の方々とか、新しい年度が始まって今年一年はこれをしようとか、そういうことには時間の経過がありますね。じゃあまず種を蒔いて実がなるのを待ちましょう、というように、時間の経過がある。でも我々は、もう、今なんですよ。今、もう実がなってるんです、私たちの中で。だって今、いろんな思いが湧いてるじゃないですか。
 明主様の御歌に、「長き世を仕組み賜し大神の刈りとる時のせまりけるかも」とあります。
 刈り取る時が迫ってると仰せですね。しかもこの御歌は昭和23年ごろの御歌ですので、もう75年ぐらい前の話です。ということは、もう刈り取る時が来た、ということです。すべてのことをご計画になった神様が、刈り取りに来ておられる。
 というように神様は、我々一人ひとりの中で、我々の思いを刈り取ろうとしておられるんですね。いや、というか、今、もう、刈り取っておられるんです。
 我々は「お委ね」ということを言うじゃないですか。神様の創造物なんだから、この悪い思いもお委ねしようとか、そういうことがありますね。
 でも本当は、我々がお委ねをするから神様が受け取ってくださるのではなくて、神様が刈り取りに来ていらっしゃるわけです。
 例えば自分がリンゴだとして、神様が農家の方だとしますね。というように仮定した場合、リンゴである我々としては、農家の人が来てくれない限り木にぶら下がったまま、身動き取れないじゃないですか。
 農家の人が来て、我々を見て、そして、「もう採りごろだな」となって初めて刈り取られるわけでしょ。リンゴの中から急に手が生えてきて、自分で自分を切り落とすことはできないですよね。もしそれができたとしても、結局下に落ちちゃうけどね(一同笑声)。
 というように、主体性は我々じゃないんですよ。あくまでも主体性は神様であって、神様が受け取ろうとしておられる。受け取ってくださっている。
 だから、我々が委ねても委ねなくても、神様のことなんて何も思わなくても、神様は、私たちの中でいつも刈り取ってくださってるんです。我々は、例えば今日、喜怒哀楽いろんな感情を感じて一日過ぎますね。神様は、毎日毎日、私たちの中で、そういういろんな思いをずっと刈り取ってくださって収穫してくださってるんです。
 毎日毎日豊作の状況ですね。そこまで豊作にしなくてもいいんじゃないかというぐらいいろんな思いが湧きますね。それを、我々が委ねる委ねないにかかわらず、神様は刈り取ってくださっている。
 だって、例えば、10歳のある日、喜びを感じましたといったからって、それが80歳の死ぬ時までずっとその思いしか感じてません、ということはないじゃないですか。あるいは10歳の時、誰かにいじめられて、憎たらしいと思って、もちろん時の経過によって形を変えてその思いが現れることはあっても、その思いしか感じてません、とはならないじゃないですか。
 お委ねをしていない人もそうですよ。お委ねをしてても、してなくても、思いは一日の中でどんどんどんどん変わるじゃないですか。それはなぜか。だからそれは、そういう思いを神様が刈り取ってくださっているからですよ。「これもなってる、これもなってる、収穫しごろだな、これも収穫しごろだな」と思われて、神様が収穫してくださってるんです。
 だから、お委ねというのは大切なことですけれども、人間の主体性でお委ねをするということではなくて、本来お委ねということは、「あっ、神様が刈り取って、収穫してくださったんですね」と思わせていただくこと、これが「お委ねをする」ということです。
 だって神様は、「もう切りました。もう収穫しました」と仰せになってるんです、本当は。それなのに、あたかも自分がまだ切られていないかのようにしてね、「これから自分で行きます」ということではないんですから。
 本当は、もう刈り取ってくださってるんです。というか、本当は、神様が刈り取ってくださったから、我々はいろんな思いを感じてるんです。私たちは、「こういうあなたの思いを今私が受け取ったよ」というのを感じてるんです、負の感情も含めてですね。
 だから、自分が主体性を持って「お委ねをする」となると、「あなたはお委ねしてますか、お委ねしてませんか」とか、「自分は実践してる、してない」となってしまいますけれども、そうではなくて、「あっ、受け取ってくださっていたのですね」と思わせていただく、それが「お委ねをする」という意味だと思います。
 そういう意味において、お委ねをしたからと言って、自分の感じる思いは変わらないかもしれないですよ。だって神様は、収穫されたいわけですからね。いろんな全人類の思いを集めて収穫されたいわけですからね。
 だから私たちは、それについて、「いろんな思いが毎日湧きます。それが人生だ」と言って80年、90年生きてそれで一生を終わりにするのか、それとも、神様が収穫してくださってるということを、「ああ、あなたが収穫してくださってるんですね。私はあなたのお役に立ててますでしょうか」というふうな思いで生きていくのか、どっちにするのか。そこですね。
 ということは、親孝行をしたいかどうか、ということですよ。我々の親である神様は、いろいろ収穫したい、毎日豊作でいたいと思われていらっしゃる。自分も、親に孝行をする気持ちで、その神様のお仕事の一部になりたいかなりたくないか、それだけの話ですよ。
 もちろん、そういうことを聞いても、「なかなかそうは思えません」、という思いもあるかもしれませんね、私たちの中に。天国が私の中にあると言われても思えません、いろいろ大変でなかなかお委ねできません、という思いもあるかもしれませんね。
 でも、明主様の聖言「本教救いの特異性」、この聖言のスタートは、「本教の使命は・・・」から始まります。「本教の使命は・・・」ですよ。聖言「本教救いの特異性」の明主様の最初の言葉は、「本教の使命は」から始まる。ということは、「私たちの使命は」ということですね。私たちの使命。
 それは何かというと、「地獄で苦しんでいる人達を、天国へ救うので、それによって社会を天国化そうとする」んだ、これが私たちの使命だと、そう明主様は仰せです。地獄で苦しんでる人たちを天国へ救うことによって社会を天国化する。これが私たちの使命だったんですよ。大きな話ですね。
 ではこの使命を果たすためにどうしたらいいかというと、明主様は、まず、ですよ、まず自分が天国に上がって天国人となり、そして大衆を救い上げなさい、そしてそれは、あたかも天国から地獄にはしごをかけて、私たちは天国人の立場として、地獄で苦しんでいる人たちに一段一段そのはしごを登らせてあげているようなものだと、そう言われてますね、明主様は。
 そしてこのあり方というのは、「今日迄のゆる宗教とる点で、それはろ反対でさえある」と明主様は仰せです。
 これが本教の使命ですね。明主様は、まず、天国に上がってですよ。まず。まず自分が天国に上がって天国人となり、ということは、そもそも自分の中に天国があるということを認めなければ上がる場所も無いですね。
 だから、明主様の信徒にとっては、「なかなか天国があるとは思えません」「なかなかそうは思えません」というのは通用しない、ということです。
 だって、まず天国に上がりなさい、と仰せですよ。あなたが自分の中に天国がありますと思えるようになったら天国に上がっていいよ、とはおっしゃってない。
 まず天国に上がんなきゃいけないんです。まず、ですよ。
 だから、明主様に対して、「なかなか自分の中に天国があるとは思えません」「自分が天国人だとは思えません」という言い訳は一切通用しないということですよ、だって「まず」ですから。
 だから、これはある意味厳しいですよ。明主様の信徒であるならば、「そうは言われても、いろいろ世の中のことがあってなかなかそうは思えません」というのは通用しないんですから。
 「凡ゆる宗教と異る点で寧ろ反対でさえある」、とありますね。世の中の宗教や世の中の考え方というのは、だんだん思えるようになったらいいですね、とか、少しずつ努力して天国人になりましょう、というものです。でも明主様はその反対だと仰せです。たとえ何をえていようとも、いろいろあろうとも、その中にあって、まず、天国に上がらなきゃいけない。
 つまり、他の宗教においては、「なかなか思えません」というのは通用するけれども、本教の使命は、地獄で苦しんでいる人を天国へ救うのであって、そのためにまず天国に上がることなんですから、本教においては、「天国人だとはなかなか思えません」というような言い訳は通用しませんよ。
 別の言い方をすれば、一人ひとりの中にもう天国はあるよ、ということです。無いのに、まず天国に上がりなさいと明主様がおっしゃるわけないんですから。
 で、じゃあ、実際に天国に上がると自分の中にどういう思いが湧くのかというと、それは、同じなんですよ。
 「天国があるとはなかなか思えないな」「お委ねなかなかできないな」「そうは言われても思えないな」という思いが湧いてくるんです。
 だから、その思いについて、ずっと「自分はまだまだだ」と思って一生を終えるのか、それとも、自分はもう天国に上がった立場と信じて、そして、その上で、今言ったような、神様のことを拒絶して、天国のことを拒絶して、天国が自分の中に無いかのようにして迷っている人の思い、この思いを自分は救いに来たんだと思うのか、どっちかなんですよ。感じる思いは一緒なんですよ、だって私たちは救いに来てるんですから、地獄で苦しんでいる人たちを。
 「地獄で苦しんでいる」ということは、天国が無い存在だ、ということです。そういう人たちの思いはどういう思いかというと、「自分の中に神様がいらっしゃることは受け入れられない」「天国があると言われてもそうとは思えない」「天国人にはなかなかなれない」、こういう思いですよ。これを私たちは救いに来てる。でも我々は、そのような思いを、天国に上がることを先延ばしにする材料としてずっと使ってるんです、まず自分が天国人であるという決断をしないで。
 でも明主様は、「まず」と仰せなんですから、明主様にとって、言い訳は通用しない。逆に言えば、あなた方は本当はもうすでにすばらしい存在じゃないか、という意味ですよ、これは。これから救われなければいけない存在ではなくて、もうあなた方の中に天国があるじゃないか、という意味ですよ。
 だから、自分の人生一生、たまに思えた、思えない、とか、なかなか思えない、今回は思えた、と言いながら終えてしまうのか、それとも、まず天国に上がると決めて、そして自分の中に湧いてくる天国を受け入れられない思いとか、天国に帰りたくない思い──地獄で苦しんでるんですから、そういう思いですよ──あるいは、神様を信じられない思いとか、それを、「自分はこれを救いに来たんだな」「地獄で苦しんでる人たちが自分の中にいるんだな」とするのか、どっちかしかないんですよ。日々実際に感じる思いは一緒ですよ、天国に帰ると決断しようがしまいが。
 もちろん、今言ったような思いだけではないですね。自分の中に湧きあがる負の思いすべてですよ。嫉妬とか敵対心とかね。自分がちゃんとしてる時はいいですよ。でも、我々の本心というのは、例えば一人で車を運転してる時とか、そういう時ですよ。運転してるとすぐにイラつくとか、そういう思い。仕事の時はいいけれども、そうじゃない時、家とか家族の関係とか、そういうところで結構出ますよ、我々の本当の姿はね。
 我々は、表立ったことを取りつくろうのは簡単ですよ。でも、大きい話ではなくて、誰にも見られてない時とか、一人で車を運転してる時とか、慣れ親しんだ家族のこととか、あるいは職場とか隣人とかのように自分の身近にいる人との間で感じる思い、あの人なんか気に入らないなという思い、それについて私は言ってるんです。
 私たちの人生というのは、そういう思いで四苦八苦する人生じゃないんです、本当は。だってそういう思いを救いに来てるんですから。
 それを明主様が「本教の使命」だと仰せになるんですから、これは大変なことですよ。
 我々は、今までずっと、自分をる側に置いてきたんです。なんとかいい思いを持てるような存在になりたい、ご守護ほしい、奇蹟ほしいと言って、ずっと被る側にいた。
 でも我々は、被る側じゃなくて、救う側なんです。だって地獄で苦しんでいる人たちを救うのが我々の使命なんですから。にもかかわらず、我々はずっと被ろうとしてますよ。でもそうじゃなくて、我々は救うほう。
 今までの私たちは、「身魂磨き」という言葉に象徴されるように、もっと清くならなきゃいけない、少しでも神様に近づかなきゃいけない、天国人にならなきゃいけないということで、自分をずっと被る側に置いてきた。これが、あらゆる宗教がやっているあり方ですね。
 でも明主様がおっしゃるように、本教はそれとは反対なんですから、もう我々は救う側の立場なんです。被る側じゃなくて、救いをもたらすほう。
 だから、そこで我々が考えなければならないのは、なぜ我々のような罪人が、被る側から救う側の立場になることができたのか。だって雲泥の差じゃないですか、救いを被る側にいるのか、それとも救う側にいるのか、雲泥の差じゃないですか。
 だからそこに、結局、イエス・キリストという存在について私たちがどうするのかということが出てざるを得ないんですよ。
 明主様はイエスのことを贖罪主と仰せです。これは、言葉としては簡単ですけれどもね、でも、罪にまみれた我々が、なぜ天国の救う側にお使いいただけるのかと言ったら、それは、イエス・キリストの贖いの血によって我々の罪はもう贖われて、そして、「あなた方はもう天国に行ってもいいですよ」、ということになったからですよ。
 ここが曖昧だとなかなか前には進めませんよ。
 我々は自分の中にいろんな思いが湧きますね。その時に、あっ、こういうご先祖様が自分の中にいらっしゃるんだ、お委ねします、というのはいいんですけれども、そういうふうに我々の人生に苦しみとかつらさが来るということは、本当は我々は喜びに満ちた存在になれるのに、以前神様に対してなにか背いた罪があったからそうなってるんです。神様に対して罪を負っている方たちが私たち一人ひとりの中にいっぱいいらっしゃる。
 だからそれを、ただ、こういう思いが湧きました、こういう思いを持たれたご先祖様が私の中にいます、それをお委ねします、ということだけで、そして、自分が罪人であるということを認めることができなければ、その思いが本当に解消されることもないし、また、「私は天国人としてお使いいただく」、という決心をすることはなかなかできがたいですよ。
 だって我々は祖先の綜合体なんでしょ?綜合体、なんですよ。ということは、例えば岡田真明とか誰々という時の「自分」、その「自分」とは別の存在として罪を持った祖先が自分の中にいるわけではないんです。そういう罪を背負ったご先祖様が、「自分」の中に統合されてるわけです、祖先の綜合体なんですから、我々は。というように自分に多くの罪人が結ばれてるということは、はっきり言えば、自分が罪人である、ということです。
 私はこれを、私たちみんな罪人じゃないか、あなた方罪人じゃないかという、責める目的で言ってるんではないですよ。
 そうではなくて、私が言わんとしてるのは、あなた方はその罪から解放されたじゃないかという、その喜びをお伝えしたいんです。
 何か感じた時に、自分はまだ罪人だからこんな思いを持ってしまうんだ、自分はどうしようもない存在だ、清まらなければならない、ではなくて、私たちはそういう思いを救いに来たんです。神様は我々を贖ってくださったんです、過去形ですよ。
 何かを感じたとしたら、「ああ、ここから贖ってくださったことを教えてくださるためにこの思いを私は感じているのですね」、という生き方、私たちはそういう人生を歩まないといけない。
 普通は、あなたは悪いことをしたんだからこういうことしなさい、罪滅ぼししなさい、少しでも罪を軽くしなさい、と言って、そんなことを言いながらもう100年ぐらい経って終わりですよ、人生は。そういう人生でした、というそれだけの話。でも明主様の願いはそれとは正反対なんです。
 そもそも、自分が罪人であると思えなくして、どうしてそこから、赦された、贖われたという喜びを感じることができるんですか?
 自分は罪人かどうか分からない、とか、ちょっとは罪があるかもしれないけどそこまではひどくないとか言うんだったら、もう、贖い主を受け入れる必要も無いし、そこから解放された喜びを感じることもない。ですよね?
 だから、我々の罪が贖われたというのは、非常に喜ばしいことなんです、本当はね。
 そして、実は、もしそのことを受け入れるなら──イエスの贖いを受け入れるなら──今度はそれよりもさらに大きな喜びの道が待ってるんです。
 罪が贖われた──この喜びはすごいですね。キリスト教徒の方々はその喜びによって布教している。イエス・キリストの贖いの血によって全人類の罪は赦された。その喜びがあって今のキリスト教ができた。
 でも我々は、それにもまさる喜び、それを知らされてるんです。
 だからそれは、明主様が、最晩年にお示しくださった「神様の子供であるメシアとして新しく生まれる」、この喜びです。
 これは贖いの次のステップですよ。もっと大きな喜び。でも、まず、一歩目のイエスの贖いの喜びを受け入れなければ、絶対そこには到達できません。
 明主様は、メシアとして新しく生まれられた時、こんなに嬉しいことはないと思われて、二代様とご一緒に喜びの涙を流された。これは奇蹟以上の奇蹟なんだ、今まで喜びを感じることはあったけれども、こんなに喜んだことはないと、そう仰せになった。
 だから、それが明主様にとっての喜びであり、幸せであり、奇蹟だったんですよ。もしそれが明主様の喜びであり幸せであり奇蹟であるとするならば、我々はどうすべきなんでしょうか。
 現実問題、我々は的にもいろいろと被りたいですよね。そういう中で、喜べば喜び事が来ると言うなら、じゃあ喜んだらご守護いただけるんですか、という思いが湧く時もありますね。分かりました、じゃあ、まず喜べばこの今抱えている問題も解決するんですか、この病気も軽くなるんですかという思い、あるじゃないですか。
 でも、そういう体的なご守護といえども、まず、「ああ、今まで自分の喜びとか奇蹟とか幸せというのは、この世を主体とした喜びであり奇蹟でありご守護でした。でも本当の喜び、本当の幸せ、本当の奇蹟は、神様、あなたの子供となることでした。今までなんと自分は間違えていたんだろうか」、という、そのことが肚に落ちなければ、この世の奇蹟も絶対いただけないですよ。だってすべては霊主体従なんですから。
 だから、どんなに、こういうふうにすれば体的な問題も良くなるのか、これはどうだ、あれはどうだとしても、明主様にとっての喜びと幸せと奇蹟が自分の肚に落ちなければ、この世のほうも神様が整えてくださるというふうには絶対なりません。
 「物のみに頼り只管つかまんとすれど逃げく幸福の二字」。
 この世の喜びを主体としている限りは、何か状況が悪くなりました、何かしました、そしたら良くなりました、と思ったらまた何か悪いことが起きました、というように、幸福を何度つかんでもそれは逃げていく。
 だから我々は、本当に、明主様が最後にお示しくださった喜びというのを模範とさせていただいて、それを受け入れない限り、明主様が、「じゃあこの世の中のほうも整えてあげるよ」と私たちにおっしゃってくださるというふうにはならない。
 かと言って、それが、我々が願ってることがそのまま叶う場合もあるし、願っていたのよりももっといい結果をいただく時もあるかもしれないし、あるいは、自分の願うような結果ではないこともあり得ますよ。
 でも、たとえそうだとしても、神様としては、「お前にとってはちょっとつらいかもしれないけれども、お前が本当の喜びをつかむためにどうしてもこれは必要なんだ。だから、これをお前に与えるよ」ということもあるかもしれないですよ。
 というように、丸々願い通りの奇蹟をいただけることもあるかもしれないし、それがいただけない時もあるかもしれない。でも、どっちにしろ同じなんです。どっちにしても、神様は、私たちを、本当の喜びを味わえるように、明主様が喜んで泣かれたのと同じ涙を流せるように我々を育ててくださってるんです。
 この世と天国。物と命。どちらが大事か、という問題がありますね。そのことを思う中で、二代様と三代様は、教主中心のことを非常に強調されてますよね。そもそもこれは、ものすごいご覚悟が必要なことだと思いますよ。
 ただ言えばいいという種類のことではなくて、やはり、言った以上、それだけ自分自身に神様、明主様の心ということに対しての責任が掛かってきますから、だから、二代様も三代様も、ものすごい覚悟でおっしゃってくださってると思うんです。
 三代様は、教主をないがしろにして聖地中心、聖地中心と言っても、明主様がその聖地を祝福されるだろうか、いやされない、と仰せになりました。
 というように、二代様とか三代様が、生き身の教主の大切さを説かれているということは、僕はこれは、「物が大事なのか、命が大事なのかどっちなんだ」と、それを私たちに教えてくださろうとしてたんじゃないか、最近そんなことを思います。
 教団浄化になると、自分は聖地中心だ、いや自分は教主中心だ、となりますね。こういう時に聖地中心と言う聖地は、目に見えない天国のことではなくて、地上の聖地のことを言ってますよね。
 だとしたら、こういう場合の聖地と教主様、どっちが物でどっちが命かと言ったら、聖地が「物」で、教主様は生きたご存在ですから、教主様が「命」ですよ、どう考えても。
 だから、二代様も三代様も、教主中心ということを説かれることによって、もし選ばなければいけないとしたら、物よりも命のほうが大切なんだよ、命を選びなさい、ということを私たちに教えしてくださろうとしてたんじゃないかと、そう思うんですね。
 そして、この命は、当然、永遠の命ですね。この世の命だったら死んだら一巻の終わりですから。
 永遠の命ということは、その命は、この地上の命ではなくて、天国であり、神様に所属するものです。だから、命が大切だ、ということは、天国に帰りなさいということでもあるし、神様のもとに帰りなさいということでもありますよ、だって神様は天国にいらっしゃるんですから。
 (真明様、栞をご覧になりながら)だから今日拝聴した聖書、「マタイによる福音書(第1026節~39節)」にありますね、「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。
 からだを殺しても魂を殺すことのできない者。要は、人間は、我々のからだの命を奪うことはできるけど、でも、我々の魂、永遠の命を殺すことはできない。
 だから、人間を恐れるのではなく、「むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」。神様のことですね。神様を恐れなさい、ということですね。
 この世の命のことを思うのではなくて、神様が私たちに与えてくださろうとしてる命のことを思いなさい、神様のもとに帰りなさいと、そういう意味です。
 そして、そのあと、非常に厳しいこの言葉がございますね。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」。
 この「わたし」というのはイエスのことですね。イエスであり、また、イエスを通して神様ですね。神様がを投げ込むためにこの地上に来られている。
 「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人のとなるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」。
 「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」。自分が罪人であるということを受け入れないということでは私にふさわしくない、という意味ですね。
 そして、「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」。
 これはものすごく厳しい聖書の言葉ですね。
 神様のもとに帰る。天国に帰る。これは、簡単なようだけれども、本当は簡単ではない。というのは、神様、天国と心の中で思っていても、あるいは口に出していたとしても、結局我々は、神様よりも自分を、神様よりもこの世を主体としたい思いがどうしてもある。だから、神様を信じるということはそれだけ厳しい道なんです。
 ここの聖書にあるような選択をが迫られることはないかもしれないけれども、もし神様が、「私を取るのか、それとも自分の父親を取るのか」「自分の子供を取るのか、それとも私を取るのか、どっちだ」と聞いてこられた時に、私たちはなんとお答えするのでしょうか。
 その時に、結局、「神様は目に見えないから、目に見える世界を大切にしよう」という生き方を選択すれば、それはですよ。だって戦争せざるを得ないじゃないですか、この世のものを守ろうとすれば。
 だけど神様は、「私のもとに帰ってくれば平和を与えてあげるよ」と、そうここで仰せなんです、本当は。「あなたも家族間の問題がいろいろあるだろう。でも、私のところに来ればあなたの家族の中に平和を与えてあげることも可能だよ」と、そう仰せなんです。
 逆に言えば、神様のもとに帰らずに、自分の子供のほうがかわいいとか自分の家族や仲間のほうが大切だということでいけば、最終的には、それは大きく言えば戦争、ですね。身近な家族の問題も、拡げれば、戦争、ですね。
 だから、今日の二代様の御歌。「へだてなき神の心にかるなら世界はひとつ人類兄弟」。
 「帰るなら」ですよ。ただ、人類はみんな兄弟姉妹だ、人類仲良くしていこう、ではどうにもなりませんよ。それは普通みんな言いますよね、世の中を良くしていこう、私たちは兄弟姉妹じゃないか、私たちは一つじゃないかと、普通世の中でも言ってます。
 でも、それが本当にそうなるのは、神のもとに帰るならですよ。神のもとに帰らずして、私たちは兄弟姉妹ともなり得ないし、世界が一つというふうにもなり得ない。
 だから、ここ、二代様はさらっとおっしゃってますけれども、「神の心にかへるなら」、というのは大変な聖言ですね。
 と同時に、明主様がおっしゃっていることと同じですね。明主様は、「まず天国に上がりなさい。天国に上がるなら、あなたは天国人だし、救いの御用に使われるよ」と仰せですからね。
 だから、神様とか天国を抜かして、横のつながりだけで、この人と仲良くなりたい、仲良くしましょう、では永遠に平和は来ないですよ。まず天国であり、神様のもとに帰らなければ、私たちの今の生活に平和が来ることもないし、人類の未来の平和も存在し得ない。
 だからそういう意味において、豊穣祈願祭。
 今、祈願するとかいうことではなくて、もう、最初に願ってたんです、ずっと昔、心をいただいた時に。「豊かに実りたいです」「そしてあなたのお役に立ちたいです」と願ってたんです、神様に。
 だって実際の種はそうしてると思いますよ。農家の人がく種は、「この農家の人が自分を大切にしてくれるから、なんとか実って、この農家の人と一緒に喜びたいな」と思ってると思いますよ、種は。種がそういうことを思ってないことないんですよ、一体なんですから、万物は私たちと。
 というふうに私たちも、「神様のために豊かに実りたいのです」と思ってたし、そして今、もう実りの時が来たんです。
 だから、いろいろ今感じていること自体が神様のお役に立っていることであり、そしてその思いを神様が収穫してくださって、神様がどんどんどんどん豊かに富めば、それが結果的に社会を天国化させるんです。
 ということは、まず私たち自身が天国人となってなくて、どうやって社会を天国化することができるんですか?私たち自身が、「まだです」「まだです」「まだまだです」と言っててどうやって社会が天国化するんですか?個人が広がって、社会ですよ。
 だからメシア教の我々の使命、明主様の信徒である我々の使命があるんです。そして、もう、逃げ道は無い。言い訳はもうできない。私たちは、もはや被る側ではなく、救う側に立たないといけない、だって明主様は、「まず天国に上がって天国人になりなさい」と仰せなんですから。
 ということは、まず自分の中に天国があることを認めなければ何も始まりませんよ。だから、逆に言えば、天国はあるんです、皆様お一人おひとりの中に。
 それを認めたら、もう今からスタートできますよ。私たちは収穫の秋まで待つ必要ないんです。
 今日、今感じてる思いそのもの、「なかなかそうは思えないな」と感じてる思いそのものを、「ああ、神様を受け入れたくない多くの人の思いが自分のところに来てるんだな」「ああ神様、これを受け取ってくださっていたんですね」とすれば、それが少しずつ広がっていって社会が天国化されるんです。社会が天国になるということは、この世界が天国になる、ということですよ。
 それが、もう、今からできるんですよ、私たちで。だってそれが「本教の使命」なんでしょ?寝たきりでもいいし、病気になっててもいいんです。若い人でも年老いた人でも、もう今からできるんです。社会を天国化することが私たちでできるんですよ、私たち一人ひとりで。
 自分もいつかああいう人になりたいな、という話じゃないんです。私たち一人ひとりが、今、光り輝く存在として多くのものを救う、そしてそれによって社会、世の中を天国にする、これが明主様の信徒の使命なんです。ということはそれが皆様お一人おひとりの使命だということです。
 だから、もう先延ばしにする時は終わった。先延ばしにするどころか、そんなすばらしい御用にお使いいただけるんですから。誰でも、ですよ。
 確かに、今まで決断をせずにずるずる来ちゃったこともあるかもしれない。そして、「私たち」と言っても、本当は、「私」ということですよ。「私にも使命があるんだ」「地獄で苦しんでる人たちを救うのが私の使命なんだ」と、それを受け入れて初めて世の中に平和がもたらされるし、世界が天国になる。
 世の中になにかするのが得意な人はいますね、形の上で。そういう人を見ると、なにか引け目を感じて、「私はあの人のようにはできないな」と思うかもしれませんけれども、そうじゃないんですよ。
 だって、そういう思いすら、「ああ、こういうふうに思うこと自体、なにかを実行するのは人間の力でできるという思い上がった思いが私の中にあるからですね。そこを救ってくださったんですね」と言って、それすらも救いになるんですから。だから、もう、ありとあらゆる思いが、神様にとっては豊かな収穫になるし、例外はないんです。
 だから、豊穣祈願祭の今日、祈願するどころか、本当は、もうすでに私たちの祈願は聞き届けられて、今もう豊かに実ってる。
 そうなんですから、「神様のもとに帰ります」「天国に帰ります」ということを決心して、そして私たちが今日お話ししたような御用にお仕えすることによって、社会を天国化する、世界を天国にするということになるし、そして、それを託されたのが明主様の信徒である私たちの使命なんですから、その託された使命をお受けして、共に歩んでまいりましょう。
 ありがとうございました。