イスラエルの国籍を得たいか否か

 

〔聖言〕
 キリストの贖罪は、万人の罪を一身に引受けて、償われたので、其大愛に対して感謝し礼拝し祈るのである。従而、今迄はそれでよかったのである。処がメシア教の信者になれば、その必要はなくなったのである。というのは最早キリストは再臨されたからである。之には深い神意があるが、何れ詳しく説くつもりである。
1951年9月25日『地上天国』28号

 

〔聖書〕
 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし──あなたがたの救われたのは、恵みによるのである──キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。…
 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人*であって、手で行った肉の割礼*ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石*である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。
「エペソ人への手紙」第2章1節~9節、11節~22節

 

* 異邦人 神無き民。ユダヤ教徒以外の人々。
 * 割礼 男子の陰茎包皮を切断する儀礼的行為。旧約聖書では、アブラハムの子孫の男子は神との「契約のしるし」として生まれて8日目に受けなければならないとされている。神の民イスラエルの成員である証拠とされる。
 * かしら石 聖書において「隅の石」「かなめ石」「つまずきの石」などとも言い、当時の家屋建設時に家の四隅に据えられ、最も重要な土台とされた礎石を指すが、すべてイエス・キリストの比喩。イエスを信じない者にとっては「つまずきの石」となる。

 

〔教主様〕
 「キリストは再臨しまさん東方の黄金の国に誓ひのごとく」
 黄金の国、要するに日本ですね。「誓ひのごとく」というのは、最初に定めたように、ということ。「再臨」ですから、再び臨むということ。
 この御歌は、全人類は神様の子供となるべき存在だということを受けて地上に来てるよ、ということじゃないですか。
 イエス・キリストは贖い主であって、贖いをされたけど甦られた。これは、全人類のためということですけれども、簡単に言えば、「自分自身のため」ですよ。「私自身のため」ですよ。我々自身もイエスの贖いに関わっていたんですからね。だから、自分のために代表で贖罪をしてくれた、ということです。
 それは、結局、神様がしてくださったんですよ。人じゃないんですから。いや、人なんだけど、神様なんですよ、責任者は神様なんですから。
 イエスはみんなの代表で来ているわけです。神様は、みんなの代表としてイエスを選んで、そして、彼に代償を支払わせた。
 なぜそれをさせたのか。それは、「もういいよ」「お前たちはもうそんなことはしなくていいよ」ということのためですよ。
 イエスに代償を支払わせて、そしてまた、イエスを甦らせて神様の子供とされた。イエスは私たちの代表としてそれをされたわけです。私たちのためにそれをされたわけです。
 だから、「もうお前たちは代償は支払わなくていいんだよ」ということでもあるし、また、「お前たちもメシアの御名を受けなさい」「赦しを受けなさい」ということでもあると思うんです。
 「キリストの信徒達も慌てなむ待ちに待ちたる再臨の時」
 明主様が、「誰もが、神様が『私』のところに現れて、『私』を赦してくれて、そして神様の子供とならせていただけるんだよ」ということを訴えたらキリスト教徒はびっくりしちゃうじゃないですか、ということですね。
 そんなこと、びっくりしちゃいますよね。
 イエスだけだと思っていたのが、実は明主様がそんなことを訴えておられる。
 日本というのは世界から見たら端の国ですよ。ユダヤ人の人にとって日本人というのは、本当に、端の端の、異邦人と言われる人々ですよ。異邦人ですから、神様を知らない人々。ユダヤ人からしたら、神様への信仰ということでは全く劣った、神様と全く縁遠い人たち、一番知らない人たちが、そんなこと言い出したら大変なことですよね。
 それをご存じだから、明主様はこのような御歌をお詠みになったんじゃないですか。明主様といっても私たちのことですよ、それは。明主様は、我々の代表としてこの御歌をお詠みくださったんですよね。
2018年10月20日「ご面会(中部地区専従者)」

 

〔真明様〕
 でも我々は、教主様を通して真実を知ってしまった。それは何かというと、まず、イエス・キリストはメシアである。人類の罪を贖ったお方であり、メシア。
 明主様を唯一のメシアだというなら、イエス・キリストがメシアであるということに対して、いきなり「どうしよう」となってしまいますね。
 でも我々は、イエス・キリストは重大な使命を持って世に生まれたお方であって、メシアであると信じている。受け入れている。
 そして、そのイエスの願いは、イエス・キリストのみならず、人類の誰もが神様の子たるメシアとして新しく生まれるということであった。イエスは、そういう意味においては、最初のひな型であったわけです。
 その後何があるのかというと「キリストの再臨」ということですが、今まで人類は探してたわけですよ、キリストの再臨は、いつ、どこに現れるんだろうと探してた。キリスト教徒も、キリストの再臨いつだろうと待ち望んでた。こういう人物が自分はキリストの再臨だと主張してます、というのもありますね。
 でも、なんてことはない、どこだどこだと探すとか、いつだとか待ち望むことなんかではなくて、キリストは、すでに全人類の中に再臨されたんですよ。キリストでありメシアという魂が私たちの中に臨んできた。すでにある。
 ずっと外を探してたら、なんてことはない、自分の中にその最高の神様がいらっしゃったと、そういうことです。これは、誰もが、ですよ。だいたい、どうやって唯一の神様を区別するんですか?イエス・キリストの中に宿った神様が唯一の神様で、私たちの中にいるのも唯一の神様だとしたら、どうやってどっちが上とか下とかを区別するんですか?
 その、全人類がキリストの再臨であるとか、メシアとして新しく生まれる運命にあるということを御身をもって証し立てられたのが、我々が尊んで尊んでやまない明主様というご存在ですね。
 だから、そこに矛盾は一つもないじゃないですか。どこに矛盾があるんですか。イエスのことを隠す必要もないし、明主様のことを隠す必要もないし、メシアという言葉を隠す必要もないし、宗教を隠す必要もないし、キリスト教と呼応するということも、すべて隠す必要ないですよ。
2022年12月18日「希望に包まれて」

 

教会誌『グローリー』No. 38, 2023/3月号掲載
 聖書出典:『口語訳聖書 1954/1955年改訳』(日本聖書協会)
 ※注釈は世界メシア教によるもの。