※英語とポルトガル語でなされたビデオメッセージの和訳
教主様とは何か
教団浄化が始まった時、「私は人間ではなく、明主様に付いていく」というような言葉をもって、教主様に対して行われていることから目を背け、正当化しようとした人たちがいました。
そもそも、もし人間に付いていきたくないのだとしたら、いかなる宗教団体にも所属すべきではありません。なぜなら、いかなる団体、いかなる宗団といえども、人間によって運営されているからです。
現実的に、明主様は現在地上にはおられません。ということは、誰であろうと、誰かを通して、明主様につながっているのです。
つまり、私たちが考えなければならない点はただ一つ:私たちは誰を通して明主様につながりたいのか、ということのみです。
そして、それに対する答えは二つ。教主様を通してか、あるいは、責任役員を通してか、です。そのどちらもが嫌だと言うならば、宗教団体の信徒である必要はありません。
今現在、教主様のもとにいる信徒は、教主様を通して明主様につながっている。今現在教主様がおられない団体に属している方々は、責任役員を通して明主様につながっている。
明主様の信徒であれば、誰もが明主様を求めています。問題は、誰を通して明主様につながるか、ということしかないのです。
ただ、ここではっきりしておかなければならないのは、今話している責任役員の方々は、教主様と教主様の奥様への尾行・盗聴・盗撮を指示及び実行した方々です。本当に明主様の信徒である方であれば、絶対に行わない行為です。
つまり、今現在、教主様のもとではなく、責任役員の方々のもとにいる方々は、当然明主様につながってもいなければ、明主様の信徒と名乗ることもできない。明主様が盗聴や盗撮のような行為を容認されるようなことが本当にあり得るというのでしょうか。どう考えても、あり得ません。なんと馬鹿げた話なのでしょうか。
いまだに「私は人間ではなく、明主様に付いていく」として教主様を否定される方々は、聖地の神聖さについてはどうするおつもりなのでしょうか。
当然、明主様ご昇天後に建設された聖地は、教主様のご入霊によって、教主様が聖別されたことによって、「聖地」となりました。これは事実です。つまり、教主様のご入霊無くして、どのような土地も「聖地」と呼ばせていただくことはできない。教主様のお祈りに包まれていなければ、その土地は、明主様とは無関係の、ただの土地の一区画となり下がるのみです。
「私は人間ではなく、明主様に付いていく」、だから教主様がいなくても問題無い──このように考えている方々、これは自殺行為だということがお分かりになりませんでしょうか。このように考えることによって、ご自分たちの聖地は、もはや聖なる場所では無くなったことがお分かりになりませんでしょうか。もはや霊が無くなった抜け殻の場所を、むなしく「聖地」だと思い込んでいるだけだと、お分かりになりませんでしょうか。
「おひかり」や御神体についてはいかがでしょうか。もしここ5年以内に入信したのでなければ、あなた方が使用している「おひかり」や御神体は、岡田陽一教主様がご入霊になったものです。世界救世教の責任役員と呼ばれる方々は、この教主様を5年前に追放したのです。
当然、あなた方が日々通われる施設内にある御神体も、岡田陽一教主様がご入霊になり、初めて御神体となることができたものです。
もし、この教主様が盗聴され、盗撮され、そして教団から追放されることが問題無いと言うならば、今身に着けている「おひかり」を捨て去り、新しい「おひかり」を手に入れてはいかがでしょうか。家に掲げてある御神体を捨て去り、新しい御神体を入手してはいかがでしょうか。
これが極端な話だと思いますでしょうか。しかしこれは、実際あなた方が実行したことです。「私は人間ではなく、明主様に付いていく」として、教主様の追放を実行された。であるならば、今まで使用してきた「おひかり」も御神体も捨て去り、新しいものにされたらいかがでしょうか。それはちょうど、岡田陽一教主様を捨て去り、岡田家とはなんの関係も無い「岡田信之」という新しい教主様に替えたのと同じように。
世界救世教の新教主様のことについてご存じなかったでしょうか。世界救世教は、岡田陽一教主様を追い出したあと、渡瀬信之という新たな教主様を擁立し、「岡田信之」と改名させました。私の知らない間に、岡田信之という名の伯父が岡田家に加わっていたようです。岡田家に加わってもいいですかと、ご本人から確認されたことは一度もありません。
世界救世教の信徒の皆様。今の「世界救世教・教主」は、岡田茂吉・明主様の岡田とは無関係の、渡瀬信之様、岡田信之様です。このことの荒唐無稽さが分からないようであれば、そのような方々は、そもそも最初から明主様の信徒ではなかったのだと断ぜざるを得ません。
一部の方々は、教主様のほうから世界救世教を離れたと聞かされているようですが、だまされてはいけません。事実は、世界救世教の責任役員の方々が、ご自分たちの意思で、教主様を尾行・盗聴・盗撮することを決定し、そして、キリスト教の友人がいる、教団をキリスト教化しているという理由をもって、岡田陽一教主様を追放したと主張しているのです。
このメッセージ内において、いかに本当は明主様ご自身がキリスト教に近づき、キリスト教と呼応して救いをお進めになりたかったかについては踏み込みません。皆様ご自身で少しお調べになれば真実はすぐに分かります。私はただ、いつの日から私たちは反キリストの集団になったのだろうと、それを不思議に思います。
明主様は、「大神の御業といへど人の身を通じて世人救ふにありける」とお詠みになりました。
明主様の御業といえど、人間を通して行われる。これは当たり前のことです。「私は人間ではなく、明主様に付いていく」として教主様の追放を問題無いとしている方々は、この明主様の御歌についてはどうされるおつもりなのでしょうか。
そして、二代様は次のように仰せです。
明主様は御昇天になられたからどこかへ行ってしまったのであるかというとそうではなく、ちゃんとここにおられるのであって. . .「教主の座」ここについておられるのです。明主様は私にちゃんとかかって皆様を育成なされておられるのであります。
また二代様は、次のようにも仰せです。
御昇天後の現在、明主様のお身魂は、私の背後にいつも引そうておられるのでありまして、私の言う事が即ち明主様の申される事であり、私の示す方向が、明主様の御指示遊ばす方向で、それをどうしても聞かれぬお方は、明主様が已むを得ずお綱を切られる訳で、自然に本教団から去ってゆかれる運命にありますが、そういう事のなきよう切に祈っておる次第であります。
二代様の聖言は、明快です。
今日私が何を言わんとしているかというと、本来、私たちにとり、教主様は、明主様そのものであった、ということです。その信仰があったがゆえに、私たちは今日まで、その時代時代の教主様のお祈りに包まれて宗教活動を行うことができたのです。聖地に集い、「おひかり」を身に着けて浄霊し、御神体の前でお祈りする。聖地も「おひかり」も御神体も、すべて教主様がご入霊くださったものです。
教主様に付いていくことは、明主様に付いていくこと。明主様に付いていくことは、教主様に付いていくこと。
もし誰かが「私は人間ではなく、明主様に付いていく」と言いながら、教主様がおられる教団に所属していないようであれば、それはただのまやかしです。そのような方々は、明主様に付いていってはいません。ご自分たちで都合よく作り上げた「明主様像」に付いていっているだけのことです。
つまり、「私は人間ではなく、明主様に付いていく」という言葉を発する権利を持っているのは、教主様のおられる教団に所属している信徒のみです。
教主様のおられる教団にいる方々は、明主様のもとにいる信徒です。
教主様のおられない教団にいる方々は、すでに明主様からお綱を切られた責任役員のもとにいる信徒です。
はっきり申し上げたいと思います:教主様の言う事が即ち明主様の申される事であり、教主様の示す方向が、明主様の御指示遊ばす方向で、それをどうしても聞かれぬお方は、明主様が已むを得ずお綱を切られる訳で、自然に本教団から去ってゆかれる運命にありますが、そういう事のなきよう切に祈っておる次第であります。
一部の方々は、教主様を追放することにより、メシアの力と、明主様の真実が世に出ることを止められると思っていたようですが、考えがあまりにも甘かったのではないでしょうか。
私たちの仕事は、まだ始まったばかりです。そして私たちは、日を追うごとに、さらにさらに前進し、止まることはありません。