「得たりと信ぜよ」
於:グランドニッコー東京 台場
ただいまは、みことの誕生に際しまして、皆様から温かい祝福をいただきまして、ありがとうございます(一同拍手)。すみません、もう一回拍手をしていただきたくて言ったみたいになってしまいました(一同笑声)。
今までも、またこれからも、私たち家族は皆様あっての私たちですので、これからも皆様とどこまでも──もうこんなところまで来なくていいと言われても(一同笑声)──どこまでも皆様とご一緒に歩んでまいりたいと思っておりますので、これからもよろしくお願いします(一同拍手)。
ありがとうございます。
今日は、「イエス復活祭並びに春季大祭」ということで、こういう名前で祭典をするのは初めてなんですけれども、このイエスというのがものすごい迫害に遭ったということですね。
今日拝聴した聖書(「ヨハネによる福音書」第19章及び第20章)でも、むちで打たれたとありましたね。このむちも、ただのむちではなくて、小石とかが含まれていて、1回打たれただけでも失神するぐらい痛かったらしいんですけれども、それで何回も叩かれまして、そしてまた、いばらの冠というとげのある冠、これをかぶらされた。これは、お前は自分のことをユダヤ人の王だと言うんならこのとげのある冠を付けろと、やゆしてるんでしょうね。そしてまた、平手で打ち続けられたとありましたね。「ユダヤ人の王、ばんざい」と馬鹿にされながら、平手で顔を打ち続けられた。唾も吐きかけられた。
で、最終的には十字架ですね。くぎ2、3本で体の全体重を支えるんですからそれは過酷だったと思いますよ。そしてその迫害によってイエスは死にます。息を引き取ったということですからね。だから、迫害によって殺された。
では、なぜこれほどの仕打ちを受けなければならなかったのかというと、ユダヤ教の律法に背いたから、ということでしたね。
律法というんだから、では人を殺したとか、物を盗んだとかそういうことなのかというと、そうではなくて、「自分を神の子としてる」、それが問題だったということですね。
ということは、ユダヤ教の律法といっても、これは教えに関わることですね。「わたしは神の子である」と言ったことが、死罪に当たる重大な罪だということになったんだから、ユダヤ教の教えに背いた、ということですね。だから簡単に言えば、教義違反ですよ。ユダヤ教の教義違反。それによってイエスは殺された。
今日拝聴した聖書のちょっと前のところには(「ヨハネによる福音書」第10章30節~33節)、イエスが、自分と父とは一つです、自分と神様とは一つですと言うところがあるんですけれども、それについてもユダヤ人の人たちが、とんでもないと言って、石打ちの刑で殺さなきゃいけないということでイエスに石を投げようとするんですね。それでイエスは、私が何をそんなに悪いことしたのかと言うと、ユダヤ人の人たちはイエスに、あなたは人間の分際なのに、自分を神としているじゃないか、ただの人間なのに、神様と一つとは何ごとだと、そういうことを言うんですね。
イエスは、本当は、旧約聖書の真実を伝えていたんですよ。でも、旧約聖書には他のこともいっぱい書かれてますから、それらから見たら、イエスの言っていることは教義違反に当たる、だからイエスは殺された、そういうことですね。
で、明主様。明主様は迫害が何もなかったのかというと、明主様も迫害に遭われたんですよ。明主様は『法難手記』という本を書かれましたけれども、法難というのは、基本的には仏教用語でして、要は、ある宗教的教えを説こうとすることで迫害を受ける、それが法難という言葉の意味です。
この『法難手記』の中で、当時、教団の金銭問題で警察に捕まっていろいろ尋問された時のことを書かれているんですけれども、質問に答えなきゃいけない、でもうまく答えられない、ということが積み重なって、明主様は2回ほど倒れられます。意識を失われた。脳神経衰弱という診断がなされたみたいですけれどもね。
私は、なぜ明主様はこの時のことを『法難手記』というタイトルでご発表になったのかなと思ってたんですね。それで思ったのは、明主様が捕まったのは1950年5月8日でしたね(真明様追記:明主様が捕まられたのは5月29日でございました。5月8日は家宅捜索を受けられた日でした。訂正してお詫びいたします)。
その約3か月前の1950年2月4日は、皆様ご存じのように、世界メシア教の開教。だから、確かに直接的な原因は教団内部の金銭問題だったかもしれないけれども、きっと明主様は、メシアの教えを説いてること──世界メシア教なんだからメシアの教えを説いてるわけですよね──また、メシアという名前を出したことによって結果的にそういう迫害を受けるようなことになったと思われたから、『法難手記』というタイトルにされたんじゃないかなと、そう思うわけですね。
イエスの迫害。明主様の迫害。そして教主様。教主様に対しての迫害もありましたね。
教主様がお説きになっていることは、突き詰めると、教祖・明主様は、私はメシアとして新しく生まれたと仰せになった、でも、教祖・明主様だけではなくて、信徒も、そして全人類も本当はメシアとして新しく生まれる運命にある、誰でも明主様のようになれますよ、誰でもメシアとして新しく生まれられますよ、ということですね、教主様がお説きになっていることは、簡単に言えば。
一部の方々はこれが気に入らなかったわけです。特別なのは明主様だけなのに、一体これはどういうことなんだ、何とかしなきゃいけない、ということで、教主様のプライベートな時間をいわゆる尾行ですね、尾行した。隠れて付け回して、そして、隠れて撮影した動画とか写真を、教主様ご本人のご許可を得ないまま、不特定多数の人に、一方的な解釈を加えて公開したし、今もしている。そしてまた、その情報を週刊誌に渡して、それを週刊誌を通して公開した。
そして最終的には、教主の推戴を取り消そうじゃないかということで、あなたはもう世界救世(きゅうせい)教の教主ではないですよという議決をしたということで、教主様を取り除いたと主張してるわけですね。
それだけではなくて、今度は、教主様の代わりに別の方を教主にしようということで、皆様ご存じのように渡瀬信之さんという方。この方を「岡田信之さん」という名前に変えまして、これを世界きゅうせい教の教主として推戴してるわけですね。
この、渡瀬信之さんという方を教主にしたのは、現教主様への迫害のみならず、初代教主であられた明主様、そして、二代様、三代様を含めた歴代教主様全員への迫害行為でもありますね。岡田家とは無関係な人に「岡田」姓を名乗らせて教団のトップである教主にしているわけですから。
では、教主様の推戴を取り消すに至った具体的なことはなんだったのかと言うと、結局、教主様にキリスト教の友人がいて、その方と会ってる。これが問題だとなったんですね。「友人にキリスト教徒がいる、これは問題だ」とあちらは言ってるわけです。
そして、最も問題とされたのは、キリスト教の友人とか、キリスト教の集いから学んでることを明主様の御教えに取り入れて教えを説いている、これでしたね。これが問題とされましたね。
しかし、一方の世界きゅうせい教は、例えば、東方之光というのは、統合医療とか代替医療という世の中の考え方があって──まあ西洋医学とちょっと違う考え方ということなんでしょうけれども──そして、その分野と言いますか、その分野の考え方を大いに取り入れて、明主様の御教えとそれを合致させるかのようにして、それでMOA活動としてますでしょ?
というように、明主様の御教えとか聖言を、時代時代に合わせて必要なことを学びつつ説いていくというのは当たり前の話ですよ。東方之光が自分たちでそれをしてるわけですから。
でも実は、代替医療とか統合医療とかそういう分野は、明主様が、宗教活動を進められない時にやむを得ずそういう宗教ではないようなあり方でされてたことですからね。明主様は、やむを得ずされていたとはっきりおっしゃってますよ。
ではキリスト教ということについて明主様はなんと仰せなのかというと、明主様は、メシア教の教理──教えですね──というのはキリスト教の教理と最も近いんだと、そして、メシア教というのは余程キリスト教に近づいていくし、キリスト教と呼応して人類の善導と救済にあたっていく。そしてまた、メシア教の信徒とキリスト教の信徒が協力して世界平和をもたらすと、そう明主様は仰せになってるんですから、本来、教主様がされたように、キリスト教の方々と共に歩むというのは、明主様の信徒としては当たり前の話ですよ。
逆に、教主様が、宗教を隠して統合医療とか代替医療でやろうとして、それで教義違反で追放されるというなら分かりますよ、だって明主様はそのような宗教を出さないあり方は仕方なしにやってたことなんだと仰せなんですから。それをいまだにしてれば、それは当然教義違反ですよ。
どちらにしろ、教主様が仰せになった、我々人類一人ひとりがメシアとして新しく生まれるということ、誰でもメシアとなることができるということ、これが突拍子もない話だということになったわけですね。それは明主様だけじゃないかと、そうなった。
だけれども、ちょっと意外な話をしますけれども、法華経というのがありますね、法華経。仏教の法華経。例えば日蓮は法華経だったんですけれども、この法華経というのは、皆様ご存じのように日本の仏教界では非常に広く受け入れられてますね。
でも、この法華経で書かれていることのエッセンスは、「誰でもブッダになれる」ということなんですよ。
法華経のエッセンスというのは、釈迦だけではなくて、誰でもブッダになれる、これが法華経のエッセンスだとされている。これ、私が今ねつ造しているわけではなくて、ちょっと調べていただければ、法華経というのがそういうものだということはすぐ分かりますよ。
だから、仏教徒でさえその教祖と同じようにならなきゃいけないとしてるわけですから、我々も教祖である明主様と同じようにならなきゃいけないとするのは当たり前の話ですよ。
ただ、明主様は、仏滅の時代が来たし、仏教は終わりだと仰せなんですから、我々は、誰でもブッダになれる、ではなくて、「誰でもメシアになれる」、これが今の時代の教えですね。だから法華経のその先ですね。仏教の先。
でも不思議なのは、明主様と同じようになろう、誰でもメシアとして新しく生まれることができるんだよ、ということでなぜ教主様がここまでの迫害に遭われなければならないのかという点ですね。
逆に、例えばもし、教主様が、明主様はメシアですが、私もメシアです、明主様と私だけがメシアで他の人は違います、ということを言われてたとして、それについて批判が出るのなら分かりますね。
だけど教主様は、誰でもですよ、誰でも、我々にとっては最高の存在である明主様のようになれる、いや、ならなければいけないんだ、それが運命づけられてるんだと説かれている。
なぜこれが気に入らない人がいるのかというと、今までの教団は、明主様がいらして、理事等が明主様に最も近い存在である、そして、下の立場に行けば行くほど、明主様からも少しずつ離れていく、というような雰囲気があって、結局、この上の人たちというのはこの宗教的権威を維持したいわけです。
明主様のみ心は理事の私たちには分かる、なぜなら私たちは明主様に近いから、というその序列の考え方ですね。彼らは、彼らの宗教的権威と立場を維持しなければいけない。なんであなたたちで明主様のみ心が分かるんですかという問いに対して、彼らは、私たちは明主様に近い存在だからです、だから私の言うことを聞きなさい、という世界ですね。
でも教主様は、誰でも明主様のようになれると説かれている。ということは、これは、完全な平等を説かれてるわけです。誰が上でも下でもないんです。誰もが最高最貴の神様の魂を宿されていて、誰もがそれと一つになれるということなんですから。
だから、この、一見なんてことのない、単純な、「誰でも明主様と同じようになれる」というのを聞いた時、それまで自分の宗教的権威とか立場を、明主様に近い存在だからということで維持してきた人たちにとっては、これはもう脅威だったんだと思いますよ。このまま教主の言うことを聞いてると、自分の権威とか立場が取り去られてしまう、今までは言うことを聞いてくれてた部下とか信徒が自分の言うことを聞いてくれなくなってしまう、私の宗教的権威、宗教的立場はどうなってしまうんだろう、このままの教主では都合が悪い、なんとしても取り除かなきゃいけないと、そうなっただけの話ですね、今回の教団浄化は。ただそれだけの話ですね。
というように、イエス、明主様、教主様に対して迫害があった。それに対して私たちはどうなんだ。私たちは、自分は迫害なんてしないし、迫害してる人たちはひどい人たちだと言えるのかというと、それは言えないんですよ、当然のことながら。
確かにイエスの時代はもう今から二千年も前のことですから私たちは生まれてませんけれどもね、でもじゃあ二千年前に生きてたとして、自分はイエスを迫害なんてしません、あんなひどいことしませんと言えるのかというと、それは言えないんですよ。
というのは、イエスの一番弟子とされたペテロでさえ、イエスのことを裏切ることになった。
それはどういうことかというと、イエスが弟子たちと一緒に食事をした有名な最後の晩餐がありますね。その時に裏切り者のユダが出て行って、それから、イエスは自分が捕まるところに弟子たちと歩いていくわけです。
その時イエスは、今晩、皆、私につまずくであろう、と言うんですね。みんな裏切るだろうということですね、この文脈では。そうするとペテロが、いの一番にというのでしょうか、いや、たとえみんながつまずいても私だけはつまずきません、要は、みんなが裏切っても私だけは裏切りませんと言うんですね。そうするとイエスがペテロに対して、いや、あなたは今夜、鶏が鳴く前に3回私のことを「知らない」と言うだろうと言うんですね。それに対してペテロは、いや、イエス様、たとえあなたと一緒に死ななければならなくなったとしてもあなたのことを知らないとは絶対に言いません、と言うわけですね(「マタイによる福音書」第26章31節~35節)。
その後、結局イエスは捕まりました。捕まっちゃった、結局。捕まると今度イエスは、ユダヤ人の偉い先生たちに尋問されなきゃいけないから、そういう場所に連れてかれるわけですね。ペテロは、イエスがどうなるんだろうと思って近くまで行って様子を探ってた。すると周りにいた人たちの一人が、ペテロに対して、あなたは、今捕まってるイエスと一緒にいた人じゃないか、と聞くわけですね。ペテロはとっさに、いや、私はイエスのことは知らない、と言うんですね。そうすると今度また別の人が、いや、確かにあなたはイエスと一緒にいた人だと、もう一回聞いてくるんですね。ペテロは、また、いや私は知りません、と言うんですね。二回目。そうしたらもう一回、3回目、でもあなた見たことある、あなたはイエスと一緒にいた人でしょ、と聞かれてしまって、ペテロが、いや、私はイエスという人は知りませんと3回言ったその瞬間、鶏が鳴くわけですね。コケコッコーという音ですね。その音を聞いてペテロは覚るわけです。イエスが言っていたことを思い出して、自分がイエスを裏切ったということを覚る(「マタイによる福音書」第26章69節~75節)。
今我々が、ペテロは意思が弱かったと言うのは簡単ですよ。だけど当時のユダヤ教というのは、ユダヤ教の神殿をちょうど建て替えたところで、ものすごいきれいな神殿を持っていた。聖地エルサレムですからね、何と言っても。聖地と、ものすごいきれいな神殿と、そしてまたユダヤ教の先生たちは、きれいに着飾ってるわけですね、権威のある服を着ている。それ対イエス一人ですよ。どこの馬の骨かも分からない大工の子供で、なんてことのない見た目の、みすぼらしい服を着ている髪の毛ぼさぼさのイエス。
聖地とか、神殿とか、偉い先生方に対してイエスたった一人ですよ。もし私たちがその時代に生きてたとして、ペテロのようにならなかったと言えますか?
死んでもあなたのことは絶対裏切らないと言ってても、いざ、すばらしい聖地、すばらしい建物、そして多くの先生たちという存在がいたら、それを前にして、いや、あの人のことは知らないと言ってしまうかもしれませんよ、私たちも。
それだけならいいかもしれないですけれども、もしユダヤ教の中で働いていたらイエスのことをむち打つ役もしてたかもしれないですよ、私たちは。ユダヤ教の先生たちに気に入られようと思って、イエスに唾を吐いたかもしれない。イエスの顔を叩いて、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言ってイエスをやゆしてたかもしれない。
たとえそこまでしなくても、もしかして、ユダヤ教の組織に逆らうようなことはやめようと思って、イエスのことは見て見ぬふりしてたかもしれないですよ。イエスもなにか正しいことも言っているのかもしれないけれども、ユダヤ教の組織に逆らうと大変だから見て見ぬふりしようとしてたかもしれない。
でも、見て見ぬふりをするということは、本当は、それは迫害に加担してるのと同じですよ。
そして私たちはこの見て見ぬふりというのを、明主様に対してしてきたんじゃないんですか?
だって我々は、明主様が、メシアという名前を表看板にし、世界メシア教という名前で宗教活動をしておられたのを知ってたのに、世界救世(きゅうせい)教ということを受け入れて、さらには、もう宗教ではないほうが都合いいと思ってきたじゃないですか。
宗教ではないあり方、なにか別の言い方をして明主様を紹介できればそっちのほうがいいと思ってきたじゃないですか。それは、事実上、明主様を殺しているみたいなものですよ、だって明主様の願いを見て見ぬふりして、それを抹殺してるわけですから。
そして今度は、教主様。イエス、明主様で、教主様。
今回教主様の時、私たちは三度目の正直が来たわけですね、三度目のチャンスが来た。三度目の正直と言っても、本当はもう、私たちは何百回、何千回も神様を裏切ってきたんですけれどもね。だけど、象徴的に、イエス、明主様を裏切って、今回教主様の時、三度目の正直のチャンスが私たちに来た。
そしてこの三度目の時、皆様は、今度は迫害する側ではなくて、迫害を受ける側に立ってくださいましたね。
たとえどのような迫害を受けても、教会から追い出されても、今まで通っていた神殿とか、聖地に行けなくなったとしても、「メシア」という教えからは逃げず、そして、今までは迫害する側だったかもしれないけれども、今度は迫害される側に立ってくださった。
実は、人間にとって心地いいことしかしてなければ、迫害はされないですよ。人間にとって耳当たりのいいこと、人間が喜ぶことだけをしてれば、迫害はされないですよ。
だけど明主様は、「人の眼に善しとし映る事とても神の御旨に適はぬ事あり」、と仰せでしょ?
人間にとっていいと思えることでも、神様の御旨に適わないことはあるんです。
世界メシア教とか、コーラス・メシアの活動のように、メシアの名前を出そうとすると、「いや、できません」と言われて断られることもあるかもしれない。
宗教だからということで、本来受けるべきのない差別的なことをされたり、なにか言われることもあるかもしれない。でも、何も迫害を受けないより、真実を貫いて迫害を受けたほうがいいじゃないですか、だって私たちが信じてることは正しいことなんですから。そっちのほうが、隠してなにかするより潔いじゃないですか。
そうでなければ、イエスや明主様は一体なんのためにあんなご苦労をされたんですか?迫害が嫌だったなら諦められればよかったじゃないですか。迫害してくる人たちに、「あ、そうですか」と言って従われてればよかったじゃないですか。でも、真実を貫くためにそうされなかった。
だから、もし少しでも迫害を受けたんだとしたら、また受けてるんだとしたら、むしろ、ああ少しはイエスや明主様のお役に立ててるんだなと思ったほうがいいかもしれないですね。
というのは、ユダヤ人の人たちは、イエス一人がメシアだということで、もうそれは大変な怒りで殺そうとしたわけですね。というか殺したわけですね。でも私たちは、一人どころか、全人類が神と一つになれると訴えている。一人ひとりの中には神様がいらして、その神様の魂にメシアという名前が付いている。そして、誰もがその魂と一つとなってメシアとして新しく生まれる運命にある、ということを訴えている。もしこれを二千年前に言ってたら、我々みんな殺されてますよ。石打ちの刑とか十字架でね、みんな殺されてますよ、間違いなく。それぐらい大変なことを我々は信じようとしてる。
さらに言えば、では我々は、イエスのことを受け入れているからキリスト教徒からは迫害を受けないのかというと、我々はキリスト教徒からも迫害を受けますよ、実は。
というのは、祭典名はイエス復活祭であったりとか、今日も聖書読ませていただいたりして、一体キリスト教となんの差があるんだろうかと思われるかもしれませんけれども、メシア教とキリスト教は、もう、全然違いますよ。
メシア教とキリスト教では、天と地ほどの差がある。
だってキリスト教はイエスが唯一のメシアなんですよね?そこがいきなり違うじゃないですか、メシア教とは。メシア教は、誰でもメシアとして新しく生まれることができる、ですから。もう全く相いれないですよ、キリスト教とは。キリスト教からは、とんでもない教えだ、と言われるのが我々ですよ。
あるいはキリストの再臨。これをキリスト教徒は待ち望んでる。でも我々は、待ち望んでるんではなくて、すでに全人類の中にキリストは再臨したんだということを言わんとしてる。最後の審判は終わって、キリストはもう再臨されたんです。どこに?全人類の中に、再臨された。
だからもう、この二つだけでメシア教とキリスト教は全然違います。
でももう一個、決定的に、キリスト教と違う点がある。違う点というか、キリスト教においていまだに解決していない──解決できていない──重大な問題がある。
それは何かというと、もしイエスが二千年前に人類の罪を贖って全人類に救いと赦しをもたらしたならば、なぜ、今、戦争があって、殺人もあって、殺戮が繰り広げられて、というように世の中で悪いことが行われているのか。これはキリスト教では解決できてませんよ。
だっておかしいじゃないですか。イエスが十字架に上がって、もう二千年前に終わったんじゃないんですか。なんで今日、いまだに戦争があるんですか。どうやって解決するんですか、この矛盾点を。
これについてキリスト教徒の人たちは、イエス・キリストを信じる人が増えて少しずつ良い世の中になればいいなということだと思うんですけれども、でも、メシア教において説いているのは、もう二千年前、世の中は完全に変わったんですよ。新しい世界が到来してしまった、二千年前に。イエスの贖いの血によって世界はもう一変したんです。見た目には同じ世界に見えてても、ですよ。
どういうことかというと、我々は、「罪は赦されました、贖われました、救われました」と言われても、一体全体自分がどこから救われて、赦されて、贖われたのかというのは分からないじゃないですか。
だからそれを分からせるために、神様は、大きく言えば戦争のようなことや、あるいは身の回りの自分の身近な家族の問題とか、あるいは一人ひとりの心の問題──あの人気に入らないなとか──そういうすべてのことを起こすことによって、「ここからあなたは赦されて救われたんだよ」「あなたと全人類はこういう姿を赦されて救われたんだよ」ということを教えてくださろうとしていらっしゃる。
だから、それらのことが巻き起こった時に、それを、まだこれから解決しなきゃいけない問題として見るのではなくて、「あっ、ここを二千年前に贖って、赦して、救ってくださったんですね」とするのがメシア教ですね。
だって「二千年前の前」の人類の営みというのは、もうそれは何万、何十万、何百万年の営みがそこにありますでしょ。その中で我々はいろんなことを行ってきた。我々というか、我々のご先祖様はね。
というように、二千年前の前までの人類は、思い思いに、ずーっと好きなことをしてたわけです。二千年前まで、ですね。でも、二千年前にイエスが来てしまった。そしたら、それまではずーっと好きなことをしてた人類は、もう、好きなことをする時は終わって、今度は、神様が、人類が二千年前の前に成したことすべてを赦して迎え入れるという段階に入ったんです。二千年前から、その段階に入った。拡大拡張という段階から、今度は「集める」という段階に入った。
最初神様は散らしたわけですね。散らして人類にいろんなことをさせました。これしなさいこれしなさいということで、いろいろさせた。「罪」と言われることですね。子が親から離れるように、独り立ちしたかと思っていろんなことしてたわけです、私たちは。でも、二千年前にそれは終わって、そこからは、今度、お前たち帰ってきなさい、帰ってこいと、そうなったわけです。
我々の身近に起こる問題というのは、一見簡単に解決しないみたいですね。戦争もじゃあすぐ終わるのかというとすぐ終わらない。一体どれぐらいかかるんだろうという思いさえも湧いてきますね。だけど、二千年前の前の人類の営みというのはそれこそ膨大な量があるんですよ。
日本だって、ちょっと近いところでは縄文時代とか弥生時代とか、ありますでしょ。でも日本だけではなくて、全世界ですから、我々一人ひとりの中にあるのは。ということは、その間長きにわたって我々人類が犯してきた全部の罪を、今、我々の手で「あっ、こういうところから赦していただいたんですね」とさせていただかなきゃいけない。だからいろいろ経験するんですよ、日常の中でね。
キリスト教は、待ってるわけです。キリストの再臨を待ってる。最後の審判を待ってる。より良い世界が来るのを待ってる。
でも我々は待ってないんですよ。もう最後の審判は終わった。キリストの再臨は来た。天国は来た。
古い聖書の言葉に、「得たりと信ぜよ」というのがありますね。「得たりと信ぜよ、さらば得べし」。すでに得たと信じなさい、そうしたら得られますよ、ということですね。なんでも祈り求めることはすでに叶えられたと信じなさい、そうすればその通りになるであろう、ということですね(「マルコによる福音書」第11章24節)。
今日拝聴した聖書の最後のところで、こういうことをいろいろ書いたのは、あなた方がキリストを信じて、そして、信じることによって永遠の命を得るためであるとありましたね。
だからそれを、永遠の命を得たいなあ、いつ得られるんだろうとするのか、それとも、それを「得たりと信ずる」かどうかですよ。まだ得ていないと思う中にあって、「永遠の命はもう得ました」とすれば、永遠の命を得ることができますよ、ということですね。だって、「得たりと信ぜよ、さらば得べし」ですから。
それを、実感が無い、分からない、天国はまだ来てない、世の中まだ混沌としてる、永遠の命はまだ得てない、としてたら、それはずっと来ないですよ。
明主様も、「喜べば喜び事が来る」と仰せじゃないですか。喜べば、喜び事が来るんですよ。喜び事が来てない中にあっても、喜べば喜び事が来る。
だから我々は、すでに永遠の命を得た存在、天国人、キリストの再臨という存在、その立場として、神様が今すべてを迎え入れようとしている御用にお仕えさせていただいているわけです。
だって明主様は、「私は天国は近づけりとは言わない。天国は已に来れりというのである」と仰せじゃないですか。「天国は已に来れり」、ですよ。キリスト教徒は「天国は近づけり」と言うだろう。でもメシア教は「天国はすでに来た」と言うんです。それが私たちですよ。
来たどころか、なんと、メシア教で天国を造るんです。ということは、もう待ちの時間は終わったんです。「いつかな、いつかな、いつかな」じゃないんですよ、メシア教の信仰は。
天国はもう来てしまって、そして、なんと、メシア教で天国を造る。
メシア教で天国を造るということは、私たちが造るということだし、私たちということは「私」ということですよ。皆様お一人おひとりということです。逆に言えば、皆様お一人おひとりがされなければ天国は造られないんです。
だから、皆様お一人おひとり日常生活の中でいろいろある、それを、ああ、まだまだ自分は罪が残っているからとか、この問題なかなか解決しないなとか、こういう理由があってなんとかだとするのではなくて、「ああ、二千年前の前の人類がこういうことで苦しんでた。ここから私たちは救われたんですね」とさせていただいて、そしてもしそれを神様が迎え入れてくだされば、霊主体従の法則によって、天のエルサレムが地にも来ますよ。霊主体従なんでしょ、霊が体に写し出されるんですから。
キリスト教の方々は、キリストの再臨はまだだ、天国はまだだと言ってる。でも我々メシア教は、キリスト教の教えのその先を行っているわけですね。先を行っているどころか、本当は、キリスト教の人たちにもこのメシア教で訴えていることに目覚めていただかなきゃいけないんです。もうキリストは再臨された、天国は樹立された、もう帰る時期なんだよ、だって天国があなたの中に樹立されてるんだから、ということに目覚めさせなければいけない。天国を思い出しなさい、ということですね。天国はあなたの中に樹立されてるんだからそれを思い出しなさい、二千年前にもう樹立されたじゃないかということですよね。
だから、それを思い出していただくためのメシア聖堂ですよ。メシア聖堂。もしメシア聖堂を造るとしたら、そのためのメシア聖堂ですよ。
だからメシア聖堂というのは、メシア教だけの小さな話ではなくて、ユダヤ教の人も本当は待ち望んでる。キリスト教の人も待ち望んでる。全人類が待ち望んでる。というように、すべての人が待ち望んでる天国という幸せと喜びに満ちた世界が人類一人ひとりの中にすでにある、それを思い出してもらうためのメシア聖堂なんですね。
我々がここまで来た道のりというのはいろいろですね。最初は半信半疑だったかもしれない。教団がこんなになってしまってどうなるんだろう。教主様に付いていくのも、仲間の多くが行くから私も行こうかなとか、よく分かんないけどこの人に付いて行こうかなとかね。ということで自分の知らない間にここにたどり着いたかもしれないけれども、でもそれは、本当は、神様が皆様方お一人おひとりに託しておられる使命があって、それに目覚めてほしい、世の人に救いをもたらす存在になってほしい、あなたの使命を思い出しなさい、ということで私たちは集められたんです。
だからイエス復活祭。もう復活したんですよ。私たち一人ひとりの中でですよ。これからまた雲に乗って降りてくることはないんです。
そして我々は、神様とイエスと明主様が本当に望んでおられる救いを果たすためにいるんですから、その重大な使命を深く心に抱いて、そしてメシア聖堂を建てて、すばらしい世界が来た、もう来てるじゃないか、ということを世に訴えていきたいと思いますし、実際メシア聖堂が建つまで、あるいは建ってからもいろいろあると思いますけれども、共に力を合わせて歩んでまいりましょう。
ありがとうございました。