不変の真理は存在する

 

〔明主様〕
観音様は一番位の高い所から一番低い位へ落ちて、それから一番高い位へのぼられるのであります。
1935年51日 御講話

 

〔聖書〕
 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマ*は一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。そこで、こう言われている、
  「彼は高いところに上った時、
  とりこを捕えて引き行き、
  人々に賜物を分け与えた」。
さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
「エペソ人への手紙」第41節~16

 

* バプテスマ キリスト教の入信儀礼である洗礼の意。水の中に沈められることで古い自分が死に、キリストと共に神の新たな命に生まれることを象徴する。

 

〔教主様〕
 主神は、ご自身に似た子供を生むために、創造をお始めになりました。
 その創造をお始めになる前に、主神はあらかじめ、天国という原因の世界において、ご自身の霊の体である御霊、すなわち、私どもの魂をお生みになり、メシアと名付けられました。
 メシアという名前には、主神がご自身の魂をお生みになった親としての大きな喜びが込められていると思います。
 私どもの本体は、そのメシアと名付けられた魂であります。
 私どもは、主神の魂と、魂の力である命の息と、魂の受け皿である意識をお預かりし、世に遣わされ、一人ひとりという存在にならせていただきました。
 私どもが世に遣わされたのは、魂を持たされた一人ひとりが、命と意識を携えて、魂のふるさとである天国に立ち返り、主神の子として再び生まれる、すなわち、主神の子たるメシアとして新しく生まれるためであります。
2020年24日「世界メシア教 立春祭」

 

〔真明様〕
 やはり、みんな「一」という天国のところにいるんですね。そして、その「一」から、百八十段、と象徴的に表現されているように、いろんな境遇の世界に神様が我々をお遣わしになって、その世界を救って、また「一」に帰ろうとしている。
 明主様は、人を天国にあげるためなら、地獄に行ってもいいっておっしゃってる。ということは、一番下まで私(明主様)は行ってもいいですよということですね。だけど、それで終わりじゃないんです。一番下の下の地獄まで行かれて、ひどい状況のところに自分自身の身を置かれて、それを救われて、そしてまた「一」である神様のところへ戻られた。
 だって、明主様は、自分は、神様に有頂天にさせられたり、たまには奈落の底に突き落とされたりというの、ありますでしょ?
 だからそれくらい神様によって我々もいろんなところ、奈落の底かのようなところにも遣わされることもあるんですね。でも、一番下まで行ったとしても、やはり、最終的に「一」のところに戻らないといけない。
2016年222日「ご面会(若手専従者)」

 

今日の聖言にありましたね。観音様は一番高いところから一番低いところに行かれて、そしてまた一番高いところにのぼられる、そう明主様は仰せでしたね。
 我々は、自分はがんじがらめだ、孤独だ、救いようがない、自分にしかこの苦しみは分からない、どん底だと、そう思ってるじゃないですか。でも、神様が行かれるのはそのどん底ですよ、だって一番下まで行かれるというんですから。
 自分一人で悩み苦しんでると思ったら、なんと、一番高いところにおられるお方が、そこから、自分がいる一番低いところまで来てくださる。そこを救うためですよね。だから神様は、「あなたは救いのために今この経験をしてるんだよ」と、そう仰せになってる。
 一番低いところに来てくださるんですよ。一番低いところと言ったら、我々の生活そのものじゃないですか。生きていく中で感じることとか思いとか、生活の状況とか悩み苦しみとか、我々はそういうのを常に持ってますね。その一番低いところまで、メシアが──観音はメシアになったわけですから──メシアという魂が一緒に行ってくださる、私たちの中で。
 でも、それで終わりじゃないんですよ。だって、一番低いところから──救いようがないようなところから──今度は、一番高いところまで戻ってくださると、そう明主様は仰せですね。
202271日「若く、清く、強く」

 

教会誌『グローリー』No. 39, 2023/4月号掲載
 聖書出典:『口語訳聖書 1954/1955年改訳』(日本聖書協会)
 ※注釈は世界メシア教によるもの。