PDF五月度月次祭 真明様聖言

「神の真理は我らに降れり」

於:本部ご神前

 

皆様こんにちは。
 (外をご覧になりながら)朝は晴れてましたけれども、今はちょっと曇ってますかね。でも暖かくなりましたね。
 今日は中部教区と北陸関西教区の信徒の皆様が来られてるということで、ゴールデンウィークのさなか、また朝早く起きられた方もいらっしゃると思いますけれども、教主様のもとにってくださいまして、ありがとうございます。
 せっかくこちらまで来てくださいましたので、皆様に聞いていただきたいなと思うこともありますので、リラックスして聞いていただければなと思います。

 

皆様ご存じのように、私は今、子育てをしてるんですけれどもね、それを通して思ったことがあるのですが、それは、子供に伝えることというのは状況とかによって変わるなと、そういうことを思いました。
 どういうことかというと、例えばおむつ。
 生まれた最初のころは、おしっこやうんちをすると、親は「あ、おしっこ出た」「うんち出た」ということで、ちゃんと排泄していることに非常に喜ぶわけですね。「良かったね」「いっぱいおしっこ出たね」と言って、拭いてあげて、おむつ交換をする。
 ところが、しばらく経つと、今度はおむつじゃなくてトイレにしなきゃいけないということになるので、親は、「トイレにしなさい」と子供に言うことになりますね。
 これはよく考えると、子供にとっては大どんでん返しですね。というのは、今まではおむつにすることが正義だったわけです。おむつにしたらあんなに一生懸命喜んでくれて(一同笑声)、「おしっこした」「うんちした」と言っておむつを替えてくれたのに──まあ、「おむつ無し育児」というのももちろんありますけれども、それはちょっと置いておいて──もうおむつにしちゃだめなのか、となるわけですね。
 しかも、おむつ生活で12年間生きてきたのに、ある日突然、もう幼稚園に入らなきゃいけないからとか、だんだんトイレも自分でできるようにならなきゃいけないからということで、急に親から「トイレでしなさい」と言われてしまう。子供は結局これに戸惑うわけですね。戸惑うから、すぐにはトイレではできずに、漏らし続ける期間をしばらく経ることになるわけですね。
 しかも、この大どんでん返しが起きてだんだんトイレでできるようになると、今度は、「自分で拭きなさい」ということになりますね。今までは拭いてくれてたのに、もう拭いてくれもしなくなるんだ(一同笑声)という状態ですね。
 というようにして、だんだん一人でトイレに行けるようになる、ということがありますね。
 あるいは言葉。言葉も、最初は「アーアー」という音を発しているだけでも、親は、「わー、すごい。おしゃべりしてるよ」ということでその様子を一生懸命スマホで撮ったりしてですね(一同笑声)、それである日、突然「パパ」とか「ママ」という言葉を発すると、「あ、ひと言目ついに発した」と大騒ぎになるわけですね。この、ひと言目が何かというのは大きな問題ですね。そこで、「パパ」なのか「ママ」なのかはっきりしない曖昧な音を発すると大変ですね(一同笑声)。そうすると、「今『パパ』と言ったよね」「いや『ママ』でしょ」、という親馬鹿な争いがそこで繰り広げられるわけなんですね。そんなことを我が家でもしておりますけれども(一同笑声)。
 というように、赤ちゃんからしたら、とにかくなにか話すと親が喜ぶことが分かってくるので、親の真似をして一生懸命話そうとするわけですね。だから、「話すこと」が正義なわけです。
 ところが今度、だんだん幼稚園とかに行くようになると、親としてはあんまり覚えてほしくない言葉を覚えてきたりしますよね、いわゆる下品な言葉というのでしょうか。そうすると、言葉の種類によりますけれども、あまりにもひどい言葉の場合は、「それは使っちゃだめだよ」となるわけですね。
 それまでは話すことが正義だった。だから子供としては、一生懸命いろんな言葉を覚えて親に披露して喜んでもらおうと思ってたら、ある日突然、使っちゃいけない言葉があるという世界に出会うわけですね。
 もちろんそこで終わるわけではなくて、使っちゃいけない言葉があるというところから、今度は、実はすばらしい言葉があるんだよということで、「神様」とか「光」とか「救い」とか「赦し」とか、そういう言葉を子供にだんだん教えていく。もちろん、全部の家庭でそういう言葉を教えるわけではないと思いますけれどもね。
 そしてなんと、言葉は人間同士のコミュニケーションのためのものかと思ってたと思うけど、実は言葉というのは、神様と会話をさせていただくためのものなんだよ、神様に話しかけることができるんだよ──「祈り」という言われ方もしますね──ということを教えていく。
 そして最終的には──こういうことを伝えてる家庭が日本とか世界中でどれだけあるのか分かりませんけれども──「言葉は神様のものだった」という大真理を子供に伝えたりもするわけですね。
 というように、この「おむつ」と「言葉」という二つはあくまでも例えなんですけれども、結局、子供に対して伝えることというのは時期や状況によって変わりますよね。変わる。
 しかも、内容としては一見矛盾した内容もありますよ。まあ、「おむつにしなさい」という言い方はあまりしないと思いますけれども、おむつですることが正しいというところから、今度は、大どんでん返しの、おむつじゃなくてトイレにしなさいという大逆転。子供としては全然違うことをしなきゃいけなくなる。
 というように、それらのこと一つひとつを取れば、内容としては一見矛盾してるというか、相容れないような内容なんだけれども、じゃあそれは本当に矛盾してるのかというと、確かに子供の立場からすればびっくりするようなことの連続だとしても、親の立場としてはそこに矛盾は一切無いですよね。
 いろんな表現をしたとしても、それは、子供を育てるのに、人に迷惑をかけないような人にとか、少しでも成長させなきゃいけないからとか、独り立ちさせなきゃいけないからという、一種の親の愛情がそこに貫かれているわけですね。だから、親からするとそこに矛盾は無い。
 そして最終的には、子供を愛するというその親の親心に子供がいつの日か気づいてくれたらいいですよね。それは子供が年を取ってからかもしれないですけれども、ああ、自分の親はこんなに苦労して私を育ててくれたんだと思ってくれて、親の親心と子の子心が一つになったらそれは一つの幸せの形ですよね。
 というようなことが明主様の聖言でもあるんじゃないかと思ったわけですね、私は。
 例えば明主様は、生まれ変わり、生まれ変わり、生まれ変わりということで、ずっと生まれ変わりを前提にして説かれてましたね。しかしこれが最晩年には、「生まれ変わるというんじゃないですね」と仰せになった。メシア降誕の時の聖言で、「生まれ変わるというんじゃないですね」と仰せになった。だからここでも、まさに大どんでん返しが発生しておりますよ。
 あるいは浄霊。明主様は浄霊、浄霊ということで、ずっと浄霊に心血を注いでらしたのに、最晩年の脳溢血のあとに、「ご浄霊は二の問題」であると仰せになりましたね。これから私はすべて言霊と想念でするんだ、ご浄霊は二の問題でこれからは想念の世界なんだと仰せになった。
 あるいは霊層界。180段の霊層界、身魂を磨いて魂を軽くして少しずつ少しずつ上の段に上がっていき、自分の境遇を良くしていきなさいと説かれた。でも、聖言「本教救いの特異性」においては、まず一番上の段である天国に上がりなさいと説かれた。
 生まれ変わりも浄霊も霊層界も、全然違う内容を説かれてますよ、明主様は。
 でもじゃあこれがね、冒頭の子供の例え話でもあったように、そこに明主様の中に矛盾があるのかというと、明主様の中では無いんですよ、矛盾は。明主様というか、明主様を使っておられる神様の中では矛盾は無いんですよ。
 親が子供に対してすることの中に一つの愛情が貫かれているように、神様も、明主様を通して、我々の信仰の成長の度合いに応じていろんな説き方をして導いてくださっていた、ということですね。
 だから、たとえ一見矛盾のあるような内容だとしても、それは神様の愛に貫かれてるわけで、そこに一切の矛盾は無いわけです、本当は。
 神様は、本当の親である神様の愛情に我々が気づいて、その親の愛に応えようとする子心が芽生えるように、いろんな説き方をされたわけです。
 生まれ変わりということも、最初明主様はそういう説かれ方をなされた。それはなぜかというと、我々はこの世の命しか信じてなかったわけです。この世の命しか信じてない。でも、「この世の命を超えたものがあるんだよ」ということを教えてくださるために、当時の日本では生まれ変わりという考え方がありましたから、それを使って説いてくださった。生まれ変わりというのがあって命というのは続いていくんだよ、この世だけで終わる話じゃないんだよ、ということを説いてくださった。
 だけど私は、もし明主様が生まれ変わりを全然信じてない文化のところにお生まれになっていたら、また違う説かれ方をされたと思いますよ。もちろん、最終的には神様の永遠の命にたどり着きたいわけですが、そこにたどり着けるように、そこの文化とか国の人たちが理解できるように、そこの人たちが信じてる考え方を使ってまず取っ掛かりを作って、そして、だんだん、命がこの世のものだけではないということがみんな分かってきたようだからということになれば、次のステップである、「生まれ変わるというんじゃないですね」「メシアとして新しく生まれるわけですね」というところまで導かれたいと、そう思われていた。
 生まれ変わりで生まれる時は、誰でも、絶対に、肉体の両親から生まれてきますね。でも、新しく生まれると仰せになった時、明主様、突然赤ちゃんに戻られたわけじゃないですよね。じゃあ誰が明主様をお生みになったのかと言ったら、神様しかいらっしゃらないじゃないですか。だから明主様は「神様の子供」ですよ。
 というように明主様は、最初は生まれ変わりということで命の永続性を教えてくださったけれども、最終的には、神様の子供であるメシアとして生まれるという神様の永遠の命、これに目覚めなさいということで導いてくださった。
 浄霊ということも、明主様は、浄霊の奇蹟によって神様を見せる、これでしたよね。それだけで良かったなら、それ一本で最後まで行かれればよかったじゃないですか、なんで最後「浄霊は二の問題」になるんですか。人間の観点からすれば、「浄霊一本でいけばいいじゃないか」ですよ。「おむつ一本でいけばいいじゃないか」と一緒ですよ、楽ですからね、おむつ、人間にとって。我々もね、もし親が教えてくれなかったら、今日もおむつで(一同笑声)、いや本当に。でも、それだとずっと成長しないということになってしまいますよ。
 でも明主様は、ちょうどこの世の親が「この子はもうおむつ外れても大丈夫な時期だな」と感じて、それまでとは全然違うトイレでするというまったく新しいやり方を提示したように──ちょっと例えがね、「おむつ」と「新しく生まれる」ということでなんか極端になってますけれども(一同笑声)──というように、浄霊についても、明主様は、まったく新しい道に我々を導いてくださろうとしてた。
 最初は浄霊の奇蹟によって神様を見せた。だけど、ひとたび神様を知ったら、今度は「悔い改めなさい」とおっしゃったんですよ、明主様は。「これからは想念の世界で、お詫びするだけで病気治りますよ」「神様からお赦しいただけますよ」という説かれ方に入っていかれた。
 浄霊を通してひとたび神様の力を知ったら、今度は、「神様の力を自分のものとしてたでしょ」「人間の力だと思ってずっと生きてきたけれども、本当はすべて神様の力だったでしょ」「だから悔い改めなさい」ということを最後、明主様は教えてくださろうとした。
 霊層界ということも、我々はこの地上だけを主体にして生きてきましたから、そもそも霊界とか天国ということとは全然縁いわけです。だから、最初は、「この世だけではなくて、本当は霊界と呼ばれる場所があるんだよ」「それを少しでも思い出しなさい」「霊層界というところがあって、少しでも上に行きなさい」という説かれ方をされることによって、我々に、霊界とか上の世界ということをまず思うようにさせてくださったわけです。
 そして、「そうか。この地上だけではなくて、別の、目に見えない世界もあるんだ」ということを我々がだんだん分かってきたら、今度は、「実は天国という一番高い世界があなた方の中にすでにあるんだから、そこに行きなさい」「まず天国に上がりなさい」と、そういう説き方をしてくださった。
 天国があって、そこに神様がいらして、人間はその神様と一つとなって新しく生まれる──これは、今日拝聴した聖書(「ヨハネによる福音書」第831節~47節)でも「真理」という言葉が使われてましたけれども、これは真理なんですよね、真理。
 でも、真理というのは神様を主体とするものですから、これが人間にとってはなかなか受け入れがたいものがあると、そういうことなんです。
 今日拝聴した聖書も不思議な書かれ方をされてましたね。真理を語ってるからあなた方はそれを受け入れないんだ、という書かれ方、言われ方をしてましたね(「わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない」)。というように、真理というのは神様を主体とするものですから、やはり人間にとってそれは本能的に受け入れがたいものがある。
 生まれ変わりということも、神様の永遠の命という明主様の聖言の結論のほうを受け入れるよりも、我々は、「いや、明主様は生まれ変わりということを説かれている」ということに固執したいわけです。
 というのは、生まれ変わりのほうだったら、結局この世を主体とする生き方を継続できるから。「もうちょっと自分ががんばれば来世もうちょっとい境遇になれるだろう」とか、「自分が今この地位にいるのは、自分ががんばってきたからだ」というように、の人よりも自分がった者とするには非常にいい考え方ですね、生まれ変わりというのは。
 教団としても、「もっと献金がんばれば来世い境遇で生まれられますよ」と言うのにも便利ですしね(信徒の「なるほど」の声に一同笑声)。
 また浄霊ということも、神様の力ということは分かってはいるけれども、「自分が浄霊で治した」「すばらしい」ということで人間の徳を高めていく。それが我々にとって心地いわけです。
 その世界でずっと生きてきたのに、最後明主様は「ご浄霊は二の問題」と仰せになって、そして、「悔い改めなさい」「お念じしなさい」とも仰せになった。それを聞いて我々は、今まではただ浄霊すればよかったのに、なんで神様に対して悔い改めなきゃいけないんだと思ったわけです。だって悔い改めるなんてことは、人間にとっては、別に受け入れなくていいなら、受け入れたくないわけですよ。そんなね、自分が神様に対してなにか罪を負ってるという世界に行くより、浄霊をして自分がすごい存在であることのほうが楽しい、喜ばしいということになりますからね。
 霊層界の話も同じことですね。自分は感謝してる、これもしてる、あれもしてる、だから霊層界が上がって自分の境遇も良くなってるんだ、私があの人よりも優れた人間なのは、私のほうが感謝の気持ちを持ってるからだ、私はそれだけ努力してるからだ、私のほうが霊層界の位置が高いからだ、ということで一生懸命生きてきたのに、それがいきなり、「誰でもまず天国に上がっていい」と言われてしまったら面白くないわけですよ、人間側としてはね。
 聖書も、旧約聖書と言って、そこには神様がモーセに十戒を授けた話がありますね。神様の名前をみだりに唱えちゃだめですよとか、親を大切にしなさいとか、人の物盗んじゃいけませんよという十戒。十の戒めですね。
 これが聖書によると、山で、石のに神様ご自身が直接書かれたみたいですからね。モーセはそれを見て、受け取った。
 そして、この十戒から派生した、律法と言われる、教えとか行動を規範するいろんなことを守る、そういうことが旧約聖書には書かれているわけですね。
 ところが新約聖書の時代になると、今度は、イエスがまったく新しい律法を持ってくることになるわけですね。それは何かというと、全人類罪があるんだから私の贖いの血を受け入れなさい、悔い改めて神様の赦しを受けなさい、ということになるわけです。
 それまで我々は、「自分は人を殺してない、人の物を盗んでない、だから自分は善人だ」「人を殺した人、盗んだ人、これは罪人だ」ということで、自分は善人だと思ってたわけです。十戒を守れない人、これが罪人だったわけです。
 でもイエスは、全人類の罪を贖うために来たということですね。だから一方的ですよ。神様は、全人類の罪を贖うイエスを地球に送り出されたことによって、全人類に対して、一方的に、「あなた方は全員罪人だ」と宣言されたわけです。だから、明主様が、「イエスは贖罪主であった」とおっしゃったのは大変なひと言ですよ。だって、イエスは罪の贖いのなんですからね。贖罪主がいるということ自身、我々全人類が罪人であるという意味ですよ。
 だからこれ、我々にとって都合悪いじゃないですか。それまでは、十戒を守ることによって自分たちは罪人じゃないとしてずっと来たのに、イエスが来てしまったら、「十戒を守っていると思っているあなた方も罪人なんだ」となってしまった。「十戒を守るとかではなくて、むしろ、私の言うことを受け入れればあなた方は自由になれるよ」ということになってしまった。今日拝聴した聖書にもありましたね、真理を知れば自由をられますよと、そうありましたね。
 自由を得るということは罪の赦しを得る、ということです。
 それまでは、自分は十戒を守ってる、これもこれも守ってるとしてた。でもそれは、本当はがんじがらめだったわけです。自由があると思ってたけれども、本当は自由が無かったわけです。「自分は善人だ、あの人は罪人だ。自分は守ってる、あの人は守ってない」というがんじがらめの世界にいたわけです。
 でもイエスは、十戒を守るとか守らないではなくて、みんな十戒を守れなかったじゃないかと、それをお伝えになりたかったわけですね。実際、旧約聖書も、読まれれば分かりますが、十戒を守れないようなことがずっと起き続けるんですね。人類が神様に反乱し続ける。
 だから、普通に考えたらイエスの言うことを受け入れたほうがいいみたいなんだけど、結局、イエスの言うことを受け入れてしまうと、今までは、「ああいう人たちが悪い境遇にいるのは、富がないのは、自業自得だ。あの人たちは悪いことをした罪人なんだからああいう境遇なんだ」「自分たちはこの世で正しい善人だから財をてる。富がある。それは自分が正しいことをしてきたから今自分はこの境遇にいるんだ」としてきたのに、その世界がもうされてしまうわけです。
 だから、都合悪かったがゆえに殺してしまいましたよ、イエス。殺しちゃった。
 イエスの言うことを受け入れたら、せっかく今まで自分が築いてきたこの世での地位、善人としての地位、これが奪い去られてしまう。そうなるわけにはいかないということで殺してしまった。
 こんなよく分からない、20歳、30歳そこそこの若造のせいで、自分が今までの人生で築き上げてきた、「自分はルールを守ってきた、人も殺してない、盗みもしてない、親も大切にしてきた、だから私は立派なんだ」という世界が奪い去られるわけにはいかないということで、もう殺しちゃおう、殺して何も無かったことにして、また今まで通り十戒を守って生きていこう、ルールを守って生きていこう、そして、人にいいことする、感謝する、ということが讃えられる世界で生きていこうということでイエスを殺した。
 今日拝聴した聖書では、私が話している真理を知ればあなた方自由になれるよとイエスが言ったことに対して、ユダヤの人たちは、「そんなことあなたに言われる筋合いは無い。私たちはアブラハムを通して神様につながる正当な存在だ」と言う。それに対してイエスは、「あなたたちは、自分はアブラハムの子だと言っているのに私を殺そうとしてるじゃないか。アブラハムはそんなことしなかった」と言うわけですね。イエスは、アブラハムはむしろ私のことを待ってたんだと、そう言うわけですからね。
 ユダヤ人たちは口では言うんですよ、「自分は神様を信じてます」「アブラハムを信じてます」「正当な信仰者です」と言うわけです。
 でも行動はというと、結局、人を迫害して殺そうとしてるわけですから、それに対してイエスは、そんなことアブラハムは教えなかったでしょと言うわけですね。
 僕は、ここの聖書の箇所を読んだ時、ある方々が、口では、「自分は明主様の信徒だ」と言うけれども、でも行動はというと、教主様は都合悪いので尾行・盗聴・盗撮をしてしまおうとなったことと同じだと思ったんですね。明主様がそんなことされたのかと、そういうことですね。
 口で「自分は明主様の信徒だ」と言うことは誰にでもできますよ。だけど、明主様の信徒だということは、明主様がされたことを私たちもってさせていただく、ということですから、そうだとすると、明主様はそんなことされなかったですよね、当然。明主様にとって都合悪い人がいたら、じゃあその人を尾行して、盗聴して、盗撮してしまおうと、明主様はそんなことされなかったですよ。
 だからあの方々は、明主様の教えじゃない何か、この世の都合でできた、なにかよく分からない教えに基づいてああいうことを実行したわけですね。
 また、イエスが戦ったのは律法学者ですね。律法学者ということは、この膨大な量の旧約聖書に一番精通しているとされている人たちですね。その人たちがイエスの言っていることはおかしい、真実じゃないと言った。
 でも、その膨大な量の聖書の中に隠されてるきらめきがあるんですよ。一つに貫かれた神様の真理、奥義があるんですね。イエスは神様のお許しを得てその真理を知ることができた。
 でもその真理を知らないと、どんなに律法学者のように一生懸命聖書を勉強してもイエスの言うことは信じられないということになるわけです。
 真理を知らないと、明主様の聖言には生まれ変わりとこんなに書かれてるじゃないか、だから、最後の、「生まれ変わるというんじゃないですね」というのはあるけれどもそれは置いておこう、明主様はこんなに生まれ変わりのことを説かれてるんだから生まれ変わりのほうが真理じゃないかとなってしまう。
 真理を知らないと、浄霊のことも、浄霊は二の問題とおっしゃったけれども、浄霊をすることについてこんなに書かれてるんだから、浄霊することのほうが真理じゃないかとなってしまう。
 霊層界のことも、確かにまず天国に上がれともおっしゃってるけれども、少しずつ霊層界を上げていきなさいという聖言がたくさんあるんだからこっちのほうが真理じゃないかとなってしまう。
 でも本当は、イエスがつかんだ真理を明主様も継承されてたんです。でも明主様は、最初は、当時の時代層に合わせて、また相手が日本人だということも考慮して、その上でいろいろ説いてくださった。我々が小さい赤ちゃんからだんだん成長していつか一人前の信仰をることができるようその時その時に必要な説き方をしてくださったわけです。でも、その中には真理が貫いてた。
 教主様も、それはまさにイエスが膨大な聖書から真理のきらめきを探し出したように、膨大な量の明主様の聖言の中に貫いてるもの、それを我々に教えてくださろうとされているわけです。
 いやそれは、例えば明主様聖言の統計を取って、「生まれ変わり」という言葉はこれだけ使われてます、とか、「浄霊」という言葉はこれだけあります、ということで教主様のおっしゃっていることはおかしいとなれば、それはまさに、イエスが律法学者によって殺されたのと同じことですよね。普通に見ればこうなんだから、最後明主様がちょこっとおっしゃったことなんて関係無いじゃないか、聖言のここの12行くらい関係無いじゃないかとなってしまう。
 前回の大祭、「イエス復活祭並びに春季大祭」において、私は、メシア教とキリスト教では天と地ほどの差がある、ということを言ったんですね。
 これも、一見、え?私たちはキリスト教にだんだん近づくということだと思ってたら、メシア教とキリスト教では天と地も違うのか、矛盾があるじゃないかと思われる方もいらっしゃると思うんですけれども、ここにももちろん矛盾は無いんですよ。
 そして、そもそもそのような言い方をされたのは明主様ですよ。明主様は、一方では、メシア教はよほどキリスト教に近くなる、キリスト教徒と呼応して人類を救済する、世界平和を成し遂げると仰せになってる。
 でももう一方では、メシア教はキリスト教より全然上だ、キリスト教徒は全部メシア教徒になるとも仰せになっている。これ、一見矛盾してますよ。
 だって、キリスト教がよほどメシア教に近づく、ではないんですよ。明主様は、「メシア教がよほどキリスト教に近づく」と仰せなんであって、これは、キリスト教を上に置いた表現をしていらっしゃる。だけどもう一方では、キリスト教徒は全部メシア教徒になるとも仰せなわけです。
 でも我々は、今まで、「メシア教はよほどキリスト教に近くなる」というのは都合悪いからそれは横に置いといて、「明主様のほうがイエスより上だ」「我々の宗教のほうがキリスト教より上だ」ということが打ち出されている聖言だけを取り上げて、自分たちを正当化して、自分たちのほうがすばらしいとしてきたわけです。
 だけど本当は、私が言ったことや、明主様が仰せのことに矛盾があるのかというと当然そこに矛盾は無いわけです。私たちが目標としてるのは、要は、イエス・キリストを受け入れて、さらにキリスト教が到達していないところまでも行こうじゃないかということなわけで、そこに一切矛盾は無い。
 でも我々は、まずこの、イエス・キリストを受け入れるというところでもういきなりつまずくわけです。贖いのイエス・キリストを受け入れるということ自体が大変なステップですからね。ということで、もうずーっと、明主様のほうがイエスより上だという世界だけで今日まで来た。
 というように我々は、こういう話をしますね、いやメシア教がどうだとか、キリスト教がどうだとか、アーメンという言葉がどうだとか、ハレルヤという言葉がどうだとか。
 でも今日の明主様の聖言、「世界人たれ」。明主様は、何々教だとか、何々宗だとか、そんなことを言うのはもう時代遅れだと仰せですよ。「何々教だ」どうだというのはもう時代遅れなんですよ、本来は。
 そうにもかかわらず、我々は、いや教主様がキリスト教化してるんじゃないかとか、キリスト教に近づいちゃうんじゃないかとか、メシア教はキリスト教になっちゃうんじゃないかとか言って、本来、「何々教」うんぬんというのは明主様から見れば時代遅れであり小乗的であるのに、我々はその世界ど真ん中じゃないですか。
 しかも明主様は、他の宗教にるるななどというケチな考えは聊かもない」、ですよ?それが明主様のご姿勢ですよ?ところが自慢じゃないが本教は違う、ということで、むしろ「触るるのを喜ぶ位である」と仰せです。ということは、積極的に他の宗教に触れに行きなさいと仰せだということです。
 というように、他の宗教に触るるななどというケチな考えはいささかもないのが明主様の宗教なのに、教主様にはキリスト教の友人がいるんじゃないか、なんか他の宗教に触れてるんじゃないか、よしじゃあ隠れて付け回してみようじゃないか、ということですよね、世界救世(きゅうせい)教側としては。「世界人たれ」にもあるような明主様の大きさに比べて、もう本当に小さいですよ。「ケチな考え」と明主様仰せですけれどもね。本当に、小乗的でケチな考え、それが表現されたことですよね、教主様に対してなされたことは。
 もし本当に明主様の信徒であれば、の宗教は仲間同志と心得るんですよ?しかも、ただの他の宗教ではなくて、明主様が呼応して人類救済を進めようというキリスト教の話ですからね。
 明主様の「世界人たれ」の精神からすると、もし、キリスト教の集いで学んでる、キリスト教に触れてる、キリスト教の友人がいる、ということが問題になるんだとしたら、それを問題にしている人は、もう自分は明主様の信徒ではありませんという宣言をしたことになってしまいますよ、だって明主様は他の宗教に触れることを喜ばれるお方なんですからね。
 そしてなぜ明主様がこういうことをおっしゃることができたかというと、それは結局、明主様の中に真理が貫いてるからですよね。
 教団浄化の時、母がキリスト教系の学校に行ってたことが問題だったんじゃないかということを言ってた方もいましたけれども、明主様のミッションスクールの聖言がございますね。
 それはどういう内容かというと、ある信徒が、「自分の娘はミッションスクールに行ってます」と言うと、明主様が、「それがどうしたんだ」「いいじゃないか」というような感じでお返事になって、そうするとその信徒は、「いや、娘が、家では観音様──明主様のことですね──を拝んで、学校ではイエスを拝むのがどうも」というようなことを言って、まあ、悩んでるわけですね、信徒は。
 それに対して明主様は、何を言ってるんだということで、イエス・キリストは西洋の観音様、観音様は東洋のキリストなんだ、だからなんの問題も無い、あなた方が和服を着たり洋服を着たりするのと同じだと、そういう旨のことをおっしゃいます。
 というように、ミッションスクールでは西洋の明主様のことが学べるんだとしたら、なんの否定材料も無いじゃないですか。この聖言にあるように、もし本当にイエス・キリストと明主様が一つなんだとしたら、むしろ、ミッションスクールには行けるなら行ったほうがいいぐらいですよ。だっての学校で西洋の明主様のことを学べますか?
 結局何を言わんとしているのかというと、我々は、イエス・キリストと言う時、普通、イエス・キリストはキリスト教徒のものだと思ってますけれども、本当は、イエス・キリストは全人類のものですよ。同様に、明主様というご存在も、世界救世(きゅうせい)教とか世界メシア教のものと思ってますけれども、全人類の明主様ですよ。
 なのに我々は、イエス・キリストはキリスト教のものだ、聖書もキリスト教のものだ、明主様はメシア教のものだ、きゅうせい教のものだ、メシア教とキリスト教どっちが上なんだろうとか、我々の見方はもうそんな小さい世界ですよ。
 でも本当は、今日お上げした教主様のお歌にもあったように、真実はある、ということなんですね。真実と真理。真実と真理はもうすべてを超越しますよ。太陽は東から昇る。これはもうすべてを超越しますよ。どんな信仰をしてようとも、誰にとっても、太陽は東から昇るわけですから。というように、真実と真理はすべてを超越する。
 で、真実とか真理というのは、これ、ややこしいことではないんです。真実とか真理という言葉を聞くと、なんか複雑だなと思うかもしれませんけれども、なんにも複雑なことではない。
 だって、我々の生きざまを見れば分かるじゃないですか。人間は、親が子供を愛して、その親の愛に子供が応えたら嬉しい。それが幸せですよね。というように、本当は神様が私たちの親なんですから、その神様の愛に我々が気づいて、「神様、愛してくださってたんですね。私もあなたを愛します」という、それだけですよ、真理と言ったって。だって我々そうやって生きてるじゃないですか、この世で。だから、それだけのことですよ。
 もちろん、この世の親子関係、簡単にはうまくいかないですよ。でも、そうやってうまくいかないということを通して──この世の愛ということがうまくいかないということを通して──神様の愛に目覚めさせてくださろうとしてらっしゃるんです、毎日毎日、神様はね。だから、なんにも複雑じゃないんですよ。
 真理とか真実というと、一瞬難しいなと思うかもしれませんけれども、本当はそんなことはなくて、神様は、「私の愛を受けてくれるか」「私はいろいろ言ってるようだけれども、それを貫いているのは私の親としての愛なんだ、親心としての愛なんだ」と仰せなんです。その親心に対して、「神様がずっと愛してくださってたんですね」という我々の子心、それだけですよ。
 だから、ひと言で言えば、親の愛が真理ですよ。真理であり真実。そしてその愛をお持ちの神様は天国において──ご自身の家において──我々の帰りを、愛情を持って待っておられるんです。それこそお母さんが特別な料理をこしらえて子供が帰ってくるのを楽しみに待つように、神様は、本当に大きな愛をもって天国で待っておられるんですよね。
 だからその親の愛の象徴としての「メシア聖堂」ですよ。だってメシア聖堂は天国の写しなんでしょ?そして、天国というのは親が愛情をもって息子や娘を迎え入れたいとしてる場所なんですから、その親の愛を象徴するのがメシア聖堂ですよ。
 ということは、もし、「いや、私にとって親の愛は別にそんな大事じゃない」「この世のほうが大事だ」と言うんなら、別に建てなくてもいいんですよ、メシア聖堂。
 だけど、東から昇る太陽を誰も止めることができないように、真理というのは必ず成し遂げられる。そして今、その神様の唯一の真理がメシア教にってきてるわけです。これは大変なことなんですよ、本当はね。この機会をせば、神様は、「代わりはいくらでもいる」と、「私の真理に敵うものは無いんだから、じゃあメシア教ではなくて違う団体にさせよう」と、そういうことは簡単にされますよ、神様は。
 でもせっかく賜ってるこの真理ですからね。ま、本当は賜っていたんですけれどもね、昔、天上において。「お前のことを愛するよ」と言っていただいて、「お父さん、私もあなたのことを愛します」としてたんですよ、本当はね、昔。
 真理はこんなに簡単なんです。真理は愛だということなんですから。そして今、その真理の愛を我々は知らせていただいてるんですから、もうなんとしても、神様の親心にお応えして、私たちの手で、「神様の愛の象徴としてのメシア聖堂」、これをぜひ建てたいじゃないですか。この機会をみすみす逃してしまう我々ではないと思いますよ。
 そして、真理ということは全人類に関わることなんですから、メシア聖堂は、イエスのためでもあり、明主様のためでもあり、ユダヤ教徒のためでもあり、仏教徒のためでもあり、神道を信じる人のためでもあり、イスラム教を信じる人のためでもあり、神様を信じない人のためでもあり、というように、すべての人のためのメシア聖堂ですよ、だって真理は一つで、それは全人類普遍のものなんですからね。
 だから我々も、もしメシア聖堂を建てるなら、そのつもりで建てないとだめですよ。メシア教のためのメシア聖堂だとか、やれキリスト教がどうだ、やれメシア教がどうだ、じゃなくてね。
 というように我々は、全人類が求めてやまない真理を託された我々なのであって、いて名前を付けるなら「メシア教」という名前になってるだけなんですからね。
 最近私は「使命」ということについてよく話してますけれども、メシア聖堂を建てるのは、今の時期に生かされている我々の使命だと思いますよ。
 イエスから二千年、明主様ご昇天から70年弱経って今、明主様の真実が私たちに託されてるわけですから、それをぜひ、なんとかメシア聖堂という形にする、そして全人類に光と希望と救いを与える、それが我々という存在ではないのですか?
 だからもちろん希望もあるんですけれども、我々の使命は本当に大変なものだと思いますよ。
 確かに我々自体は、メシア聖堂を建てたらこの世からいなくなっちゃいますよ。だけど形として残るじゃないですか。メシア聖堂という神の愛の象徴がこの世に残せるじゃないですか。将来、誰かが、神様の真理、神様の愛に目覚めてくれる場所をこの地上に残せたら、私たちがこの地上に生まれた意味も少しはあったのかなと思えるじゃないですか。
 だから共に、唯一の真理を託された我々として、ぜひ一致団結して精一杯メシア聖堂を建ててまいりましょう。
 ありがとうございました。