神となるか人となるか、選ぶのはあなた自身である
〔明主様〕
折角貴き人間と生れ乍ら、獣類に堕して生を終るという事は、何たる情ない事であろう。人間堕落すれば獣となり、向上すれば神となるというのは不変の真理で、全く人間とは「神と獣との中間である生物」である。此意味に於て真の文化人とは、獣性から脱却した人間であって、文化の進歩とは、獣性人間が神性人間に向上する事であると私は信ずるのである。従而、神性人間の集る所──それが地上天国でなくて何であろう。
1948年9月5日「善と悪」
〔聖書〕
そのころ、エルサレムで宮きよめの祭*が行われた。時は冬であった。イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである」。そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
「ヨハネによる福音書」第10章22節~36節
* 宮きよめの祭 別名「ハヌカ祭」「光の祭り」。紀元前2世紀、ユダヤ人を支配していたセレウコス朝シリアのアンティオコス4世はエルサレム神殿にゼウス像を置き、ユダヤ教の祭儀を禁ずるなど弾圧を行っていたが、ユダヤ人のユダ・マカベアが蜂起して反乱軍を導き、エルサレム神殿を奪還。その時にユダヤ教の祭儀で重要な油壺が一つだけ見つかり、わずかな油の量だったが、8日間も燃え続けたという。宮きよめの祭は、これらの出来事を祝うもの。
〔教主様〕
「磯の辺の真砂に等しき身にしあれど受けさせ給へ誠のしるしを」。あるいは、「数ならぬ身にしあれども御心のままに召さしめ給へと祈るも」。
ご自分も数ならぬ身であると仰っている。磯の辺の真砂、砂粒みたいな存在だと仰っている。
こういう感覚があればこそ、明主様は神格というものを把握できたのではないかと思います。私の場合は、自分の中心に人間性という自我意識をどっかと置いているから…。
これは言葉では言えるけども、本当に主神の御前において、誰にも別に言わないで──別に公言する必要はないですから──そういう心境になれるかどうか、そこを主神が、私たちの中側をご覧になっていると思います。
もし、本当に主神にとってご自分の子供である人間が、「あ、私はこんな身ですけども」と申し上げて、そしてその気持ちが本当に主神の御心と合致していれば、主神は何でも教えたくなると思いますよ。どんな力でも与えたいとお思いになると思いますよ。
今ちょっと御歌を拝見しただけですけども、本来我々は、明主様の残されたちょっとしたものからだけでも、いろんなことを学ぶ──学問としてではなくて──学ぶことが出来ると思います。
だから、二つの存在があるわけですね。明主様は、ご自分の中に、「神格」というように主神という方がいらっしゃるということ、また一方では、受け皿としての人間性を造っていただいた存在であり、主神に造られた身分だということも明確に把握していらっしゃる。
だからこれが「神人合一」と表現しておられるように、「人にして人にしあらで神にして神にしあらじな我身思へば」。あるいは、「神の業人の業との境なき身こそ神人合一なるらむ」。
これを、明主様だけではなく、私たちも、このように造った方が内在しているのと同時に造られた存在でもあるというのを、ご自分の中で矛盾なく会得することが本当に出来れば、神様は、私たちも、明主様と同じように、ご自分の子供として受け入れてくださって、新しく永遠の命の中に生きることが出来るようにしてくださると思います。
2004年5月26日「包括役員(当時)に対しての聖言」
〔真明様〕
人間の子供も、どんな子供であっても、親が話してる言葉の真似をしながら言葉を覚えていきますよね。親が日本語を話してたら、子供も日本語を話すようになるし、親が下品な言葉を使ってたら、子供もそれを覚える。
そうだとして、確かに我々では神様の声は聞こえない、分からない。でも、神様側の立場があなた方にはあるんだよと、それを明主様は教えてくださってるわけですから、自分がそういう立場の存在だという前提に立って、「私はこれを救いに来た」という言葉を発してみる。
だから、「赦してください」ではなくて「私は赦す」ですよ、むしろ。そういう言葉を発する、ということです。
自分が今抱えている問題について、自分自身はそれにどっぷり浸かってますけれども、本当はそれを救いに来てるんだとしたら、自分自身の中に向かって「赦す」「祝福を与える」、そういう言葉を発しなければならない。
だってそれが神様がおっしゃる言葉ですよね。神様は、「迎え入れてください」「お赦しください」とはおっしゃらないじゃないですか。
我々は神様の真似事をしたいんだとしたら、神様のおっしゃる言葉はこういうことかなと思って、「赦す」「祝福する」という言葉を、真似事でもいいから使ってみる。そうしたら、いつか一人前の神様の子供になれるかもしれないですよ。だって人間の子供でも、人間の親の真似事をしていつの日か一人前になりますからね。
2022年7月1日「若く、清く、強く」
教会誌『グローリー』No. 40, 2023/5月号掲載
聖書出典:『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(日本聖書協会)
※注釈は世界メシア教によるもの。