PDF:「神のビジョンは我らの中に在り」 真明様メッセージ No. 18

 

※英語とポルトガル語でなされたビデオメッセージの和訳

神のビジョンは我らの中に在り

明主様は、次のように聖言くださっています。
 「世には、の宗教にるる事を、るる宗教あり。こは、必ず弱点あればなり」「わが観音会員は、他の宗教に触れ、又は研究する事を、最も喜ぶものなり」。
 また明主様は、
 「右にて今一つ注意したい事がある。それは他の宗教に触るるのを恐れる理由は、其宗教より以上の宗教があるかも知れないとの懸念の為であろう。というのは其宗教に弱点があるからで、大いに注意すべきである」
と仰せになり、続けて、次のようにもべられました。
 「そうして自画自讃で言いいが、我メシア教に限って其点実に自由である。之は信者はよく知っているが、他のどんな宗教にでも大いに触れるべしと云っている。勿論研究も結構で、それだけ見聞が拡まるからである」。
 明主様はまた、「世界人たれ」の聖言の中で、自分の信仰の仲間が他の宗教に触れるのを恐れることは時代遅れ、小乗的、ケチな考えであると聖言くださっています。
 ではここで、教主様を追放した世界救世(きゅうせい)教の方々がなんと言っていたか、もう一度確認したいと思います。
 彼らは、「なんということだ、教主様にはキリスト教の友人がいる。そして、キリスト教に触れて、キリスト教の研究、聖書の研究もしている」と言いました。
 いや、彼らは明主様のことをなんにも知らないのでしょうか。明主様の聖言をまったく読まないのでしょうか。「世界人たれ」は、明主様の、言わば有名な聖言の一つです。明主様の信徒となってから何度も読み、その内容は十二分に知っているべきものではないのでしょうか。
 それを思う時、「明主様の信徒」と名乗る方々が、上記のような理由で教主様を追放しなければならないと思ったことは、驚き以外の何物でもございません。
 明主様は、我々に、他の宗教に触れてほしいのです。いや、触れるどころか、研究してほしいのです。それを明主様は最も喜ばれるのです。
 しかも、教主様が触れていたのは、ただの宗教ではありません。キリスト教です。明主様が、ご自分の宗教がよほど近くなると仰せになったキリスト教、共に歩み世界平和を成し遂げたいと思われていたキリスト教です。明主様は、キリスト教のみ特別扱いをされたのです。そして、明主様の宗教とキリスト教が協力し合い、人類救済を進めていきたいと仰せになったのです。
 あまりにも当たり前のことを言ってしまい申し訳ないくらいですが、明主様の信徒となるには明主様が教えてくださっていることに従わなければなりません。どなたかが、どんなに「私は明主様の信徒だ」と口に出そうとも、もしそのような方々が教主様がキリスト教の方々と接触していることが問題だと思うほどケチで小乗的なのであれば、それは、「私は明主様の信徒ではありません」と宣言をしているのと同じことです。
 ですので、明主様がお使いになった言葉を使わせていただくとすれば、教主様を追い出したのは、まさに、時代遅れで、ケチな考えを持っている方々であったと断ぜざるを得ません。
 口だけではなく、実際に明主様の聖言を読み、実践している人は、本来明主様の教義に反し、明主様の前から取り除かれなければならなかったのは世界救世(きゅうせい)教の方々であることは自明の理であろうと存じます。
 というのは、もし明主様の信徒であれば、仲間がキリスト教に触れ、キリスト教の研究をしていることを「最も喜ぶもの」だからです。明主様はそう仰せではないですか?
 一方教主様はいかがでしょうか。長年、私たちが明主様のみ心に背いていることをご存じでありながら、また、それを指摘するあらゆる権限をお持ちでいらっしゃるにもかかわらず、ただの一度でさえ、例えば、今まで、そして今も明主様の教義違反であり続けるMOA活動について、それは教義違反だと言われたことなどありませんでした。それを裁くあらゆる権限をお持ちでいらっしゃるにもかかわらず、教主様は、唯一裁きの権能をお持ちなのは神様であられると信じられ、その活動に裁きを下されることはなさりませんでした。世界救世(きゅうせい)教は、「自分たちは人を裁く」として教主様を裁いたつもりになっていますが、教主様はそのような方々を裁くようなことをただの一度もされませんでした。むしろ教主様は、忍耐を持って、私たちを明主様の真実に導いてきてくださいました。私たちが今日までしてきたあらゆる活動に祝福を与えてくださり、また、私たちの明主様聖言の解釈がいかに誤ったものであろうとも、それもご自分の姿として包み込んできてくださいました。
 キリスト教徒のことをだと思われず、「仲間同志と心得、おに手を携え、仲良く進もうと」(「世界人たれ」)してくださいました。
 教主様は、教主様のことを尾行や盗撮した方々のことをプライバシーの侵害等で訴え、彼らに、彼らがしたことの代償を支払わせることも充分お出来になりましたが、それすらもなさりませんでした。むしろ教主様は、彼らさえもご自身の大きな愛で包み込んでしまわれたのです。
 つまり教主様は、ご自身の生きざまを通して、ご自身の心の広さと寛容性と大乗的なご姿勢を通して、どのようにすれば世界人になれるか、どのようにすれば明主様のようになれるかをお示しくださったのです。
 明主様に対して少し申し訳ないと思うことは、明主様の信徒だと名乗る方々が、他の宗教に触れることを問題視する弱点のある宗教に行ってしまい、また、ケチで小乗的な考えにわれてしまっていることです。しかしこのような姿も、私自身の中にある姿として、裁かず、神様にお委ねしたいと思います。

 

このメッセージの一番最初に取り上げた明主様聖言は、次のように終わります。「何となれば、世界広しとも、かかる完全無欠にして、大いなる救いと、教えは、有史以来、未だ曽てありたる事なければなり」。
 明主様は、ビジョンをお持ちだったのです。明主様は、ご自分が知るに至った真実は、全人類が待ち望んでいたものであったという明確なビジョンをお持ちだったのです。
 明主様が、御歌に「キリストのらせ給ひし天国の福音吾は伝へむとすも」とお詠みになりましたように、明主様が知るに至った真実は、二千年前、まずイエス・キリストによって説かれたものであります。
 教主様は、この真実を──このビジョンを──明主様より受け継がれました。だからこそ教主様は、明主様同様、他の宗教に触れることなどまったく意に介されなかったのです。教主様は、神の真実、神のビジョンはイエスと明主様に貫かれていると確信され、それがゆえに、自信に満ちあふれておられるのです。
 傲慢に聞こえるかもしれませんが、私、真明も、神様のお許しをいただき、このビジョンを持つに至りました。だからこそ私は、教主様がお説きになっていることが真実であると分かるのです。だからこそ私は、私たちの宗教にる宗教はこの世に存在しないと分かるのです。だからこそ私は、常に大胆に語ることができるのです。
 皆様。もし皆様も教主様と共におられるならば、皆様もこのビジョンを獲得することができるかもしれません。なぜなら、本来このビジョンは、ずっと昔、天国において、神様が皆様お一人おひとりに授けたものだからです。
 ビジョンを、神の真実を、唯一の真実を、
 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」。
 「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(「マタイによる福音書」第77節~8節、13節~14節)。
 皆様、求める時が来たのです。「多い」と呼ばれる者ではなく、「少ない」と呼ばれる者になり、真実を──永遠の命を──見いだす時が来たのです。天国の門は今皆様の眼前にあります。門をたたいてください。たたいて、天の父にお目にかかってください。その刹那、皆様は再び神様の子供となることができるのです。
 神様のビジョン、真実は、皆様の中に在ります。である以上、何を失おうともそれをつかむべきです。その先に待っているのは永遠の命であり、永遠の幸せです。

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