PDF:メシア降誕祭_教主様聖言

 

於:ホテルニューオータニ大阪(鳳凰)

 

本日は、「メシア降誕祭 ~本祝典1周年記念祝典~」おめでとうございます。
 本日の祭典行事につきましては、ここ「ホテルニューオータニ大阪」の皆様より、格別のご理解とご協力、また、数々のご配慮をいただきまして、開催させていただくことができました。ここに、「ホテルニューオータニ大阪」の皆様に、厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございます。

 

1年前の615日、私どもは、メシア降誕本祝典を執り行わせていただきました。
 その祝典において、全世界の信徒が、明主様を模範として神の子たるメシアとして新しく生まれることを心に定めるとともに、キリスト教と呼応して全人類を救うという、明主様の願っておられる救いのみ業に、全信徒一丸となってお仕えすることを誓い、その誓いを神様の前に供えさせていただきました。
 私どもが御前に誓いをお供えしたということは、そのごとく神様は今、私どもをお使いくださっているということであります。
 そうした中で、本日、メシア降誕祭を迎えました。
 神様は、私どもの内なる天国で常に祭典を開いてくださっています。
 その神様が、私どもに本日の祭典を執り行うことを許してくださり、大きな愛をもって、すべてのものを永遠の生命と安らぎの中に招き入れてくださっていますことに対し、心からなる感謝を捧げさせていただきたいと思います。

 

この615日という日は、今から92年前の昭和6(1931)年、明主様が千葉県鋸山において、「霊界の夜昼転換」の啓示をお受けになった日であります。
 この日は、明主様にとって、人類を真理に目覚めさせ、救いに導く道に本格的に踏み出される契機となった、重大な日となりました。
 そして、今から69年前の昭和29(1954)年のこの615日に、明主様は「メシア降誕仮祝典」を執り行われたのであります。
 このことからも、私は、メシア降誕という事実は、夜昼転換という事実と密接な関係にあると思わざるを得ません。
 この夜昼転換は、神様の恵みによる大転換であり、その意義を明主様は、ご生涯を通じて繰り返しお説きになりました。
 明主様は、御歌に、「昭和十五の佳き日いとやかに岩戸けぬ」とお詠みになり、夜昼転換によって岩戸が開けたことをお示しになりました。
 岩戸とは、私どもの心の岩戸のことであります。
 今までの私どもの心は、岩のように固い扉で閉ざされ、暗い闇に包まれておりました。
 私どもの心は、神様がご自身の子を生むためにお造りになった心であるにもかかわらず、私どもは、神様に背き、神様が大切に育てようとしておられる、その心を人間のものとするという過ちを犯しました。
 私どもは、心を自分のものとしたために、自分の好き嫌いや都合を優先した善悪の尺度によって、相手や自分を評価し、裁くようにならざるを得なくなりました。
 権勢、権力、支配、所有、優越性という思いに縛られ、心のくまま、思い思いに生きてまいりました。
 このようにして、私どもは、創造の始まりの天国において、神様のみもとにあって、神様にお仕えしていたことを忘れ、そして、神の子となるべく定められて世に遣わされたことを忘れ、神様から離れた者のようになっておりました。
 神様は、そうした私どもをご覧になって、私どものなな心の岩戸を開いてくださいました。
 そして、明主様が御歌に、「諸人の心の岩戸くれば世の闇は打消ゆるなり」とお詠みになりましたように、神様は、私どもの心の闇を消し去ってしまわれたのです。
 私どもを光の中に取り入れ、今までの心の営みにピリオドを打ってくださり、永遠の生命至る、全く新しい営みの中に解放してくださったのです。
 そして、私どもの父であられる神様と、再び思いを通わせることを許してくださったのです。
 明主様は、御歌に、「大前にがむ心こそ岩戸けししなるらむ」とお詠みになっておられます。
 私どもは、自分が少しでも神様に心を向けることができるのは、神様が、夜昼転換という恵みをもって、私どもの心の岩戸を開いてくださった証しと受けとめて、神様に感謝させていただくべきではないでしょうか。

 

明主様がお受けになった夜昼転換は、畏れ多くも、全人類に対する神の赦しでありました。
 その赦しは、二千年前にすでに賜っていた赦しであります。
 イエスが私どものために神様にとりなしてくださったからこそ、成し遂げられた赦しであります。
 イエスは、私ども人類の罪の赦しを神様に願い求め、罪の贖いとして自らの血汐を捧げ、御霊を委ねられました。
 神様は、その血汐と共に、そのとりなしの祈りをお聞き入れになり、私どもを赦してくださいました。
 それは、私どもを罪なき者として天国に迎え入れ、ご自身の子とするという神の愛を全うするためであります。
 神様は、人類の罪の贖いに仕えたイエスを死の世界から甦らせ、神の子たるキリスト、すなわち、メシアとして復活させられました。
 そして、神様は、イエスを復活させられただけではなく、その復活後50日目のペンテコステと言われる祭りの日、聖霊を発せられました。
 その聖霊は、すべてを赦し、すべてを甦らせる光と力をもって、天を貫き、地を貫き、今までの天地を全く新しい天地に転換してしまったのです。
 私どもは、世に遣わされる前、天国において、明主様と共に、このペンテコステの聖霊をすべてのものと共に授けられていたのです。
 世に遣わされた明主様は、イエスの贖いと復活を信じ、そのの血汐をお受けになるとともに、ペンテコステの聖霊の光と力による転換を夜昼転換という聖言をもって、もう一度新しく受けられたのが、今から92年前、昭和6年の6月15日でありました。
 そして、最終的に、ご昇天の前年、昭和29年の6月15日に、「メシア降誕仮祝典」を執り行うことによって、メシア降誕、すなわち、新しくお生まれになったことを、全信徒に向けてご発表になりました。
 新しく生まれるという、その喜びは、明主様にとって、何ものにも代えがたい喜びであり、その喜びをご自分の中だけに留めておくのではなく、この全人類に対する福音を一人でも多くの人に知らせたいと思われたに違いありません。
 私は、神様が私どもに、昨年は「メシア降誕本祝典」を、そして、本年は「メシア降誕祭」を執り行うことを許してくださったのは、神様が、私ども一人ひとりに対し、明主様を模範として、自らの内にメシア降誕を成し遂げてほしい、そして、その喜びを味わってほしい、と強く願っておられるからであると思います。
 その心にお応えするために、私どもは、イエスの血汐をお受けし、贖われ、赦され、生きた者として天国に立ち返らなければなりません。
 そして、イエスを甦らせ、明主様を甦らせた新しい息と共に、ペンテコステの聖霊を、もう一度新しくお受けし、自らの内にメシア降誕を成し遂げる、すなわち、新しく生まれる務めがあると思います。

 

ここで申し上げなければならないことがあります。
 新しく生まれると申しましても、主体は神様であられます。
 生命と意識と魂は、私どものものではなく、神様のものであります。
 新しく生まれるということは、〝わたし〟が新しく生まれるのではなく、神様が、天国に立ち返った〝わたし〟の中で、神の子たるメシアとしてお生まれになるのです。
 神様は、ご自身が子として現れるために、私どもを必要としておられるのです。
 私どもは、神の子たるメシアを受胎する器なのです。
 明主様が「メシア降誕」、あるいは、「メシアが生まれた」と仰せになったのは、このことだったのではないでしょうか。

 

神様は、私どもを天国において新しく生まれさせ、私どもと共に住まわれるために、私どもが天国に帰ってくることを、忍耐強く待っておられます。
 そして今、私どもに対し、立ち返ってきなさい、立ち返ってきなさいと、一生懸命呼びかけてくださっています。
 そのために、私どもが天国にいたことを思い出してほしい、そして今も、その天国が私どもの意識の中心に存在していることを認めてほしい、と願っておられます。
 その神様の思いを明主様は継承されて、人々が自らの中に存在する天国に少しでも心を向けることができるようにと、その天国の写しとして、地上の聖地のご造営に熱い情熱を注がれました。
 その尊いみ心と情熱にお応えし、私ども明主様の聖徒一同が、まず天国に立ち返らせていただき、天国の写しとしての「メシア聖堂」の建設に向けて一丸となって精一杯努め、天国であらかじめ成し遂げられた祝福を、すべてのものに分け与える御用にお仕えさせていただきましょう。
 そして、畏れ多くも、メシアの御名を唱えることをお許しくださった神様に感謝し、一人ひとりの内にメシア降誕を成し遂げようとしておられる神様に、全人類とその父母先祖の方々と共に、万物と共にお仕えさせていただきましょう。
 そのようにお仕えすることを許してくださっている唯一の神に、メシアの御名にあって、権威、栄光、祝福を帰させていただきます。
 ありがとうございました。