PDFメシア降誕祭_真明様聖言

「人類発祥の地、アフリカに聖地を造る」

於:ホテルニューオータニ大阪(鳳凰)

 

皆様、こんにちは。
 今日は「継承」ということについてお話ししたいと思います。
 今日の祭典は、メシア降誕祭と、また、「本祝典1周年記念祝典」ということになっていますが、これは、去年ったメシア降誕本祝典を継承しようということですね。
 そして、去年のメシア降誕本祝典は、実はその68年前、1954615日に明主様が執り行われたメシア降誕仮祝典を継承しようということでしたね。
 ということは、メシア降誕仮祝典に込められた明主様の思い、み心、これが分からなければ、当然メシア降誕本祝典をなぜ去年執り行ったのかも分からないし、さらに今日、この祭典になんのために臨んでいるのかということも分からない。
 では、メシア降誕仮祝典に込められた明主様のみ心、これは一体なんなのか。
 それをどうやって知ろうかというと、当然それは、メシア降誕仮祝典に至るまでに明主様のおっしゃったこととかされたこと──明主様のご言動ですね──これを知らなければならない。
 そして、その一番の拠り所となるのが、メシア降誕仮祝典10日前の195465日、明主様が幹部500人を集めて話されたわけですが、この時に何を話されたかというのが当然大きな拠り所ですね。
 で、その時なんておっしゃったのかというと、皆様ご存じのように、「ずいぶん若くなってるよ私のほうは」で始まる、私が、至聖言と呼ばせていただいている聖言を宣べてくださったわけですね。ずいぶん若くなってるよ私のほうは、から始まって、生まれ変わるというんじゃないですね、新しく生まれるわけですねとか、メシアが生まれたわけですとか、キングオブキングスだとか、大いに若返って仕事をしなきゃいけないとか、そういうことを仰せになった。これは皆様もご存じだと思います。
 でもこの時明主様は、そういうこともおっしゃったけれども、他にも、「今度のことについては、もう奇蹟っていうどころじゃない、奇蹟以上の奇蹟がたくさんあった」んだと、そしてそれについては、「さしつかえない点だけはだんだん発表します」ということもおっしゃってますね。さしつかえない点だけはだんだん発表していくとおっしゃった。
 僕がここで大事だなと思うのは、差し支える点もあったということですよ。明主様がその時感得されたことの中で、当時の信徒の認識や信仰では受け入れることが難しいこと、差し支えるであろう点があったということですよ、だって、「さしつかえない点だけはだんだん発表」すると仰せになったんですから。当時ではまだ言えないような種類のことがありますよ、ということですね。
 そしてこの至聖言は、最終的には、自分は生まれたての赤ん坊で面倒くさいことは嫌だから詳しい話は15日にします、ということで終わっています。これは615日のことですよ、メシア降誕仮祝典の日。この時に詳しいお話をされると仰せです。
 10日後、メシア降誕仮祝典の日が来ました。ではその詳しいお話はなんだろうと思っていたけれども、明主様はその日、脳溢血の影響だと思いますけれども、脳に痛みありひと言も聖言をくださらなかった。だから、差し支えない点だけはだんだん発表するとか、15日に詳しい話をするということの内容について、我々は聞くことはできなかった。
 そしてそのまま脳溢血の回復を待ちながら半年ぐらい経って、水晶殿が完成した時の1954年の1211日、この時も私たちにいわゆる資格三条件と言われる種類の聖言を阿部執事への伝言という形で教えてくださるわけですけれども、実際に明主様がおっしゃったのは、これからいろいろな変わりごとがあるからまごつかないように、ということと、明主様は神様から知らされているからいいけれども、よっぽど肝っを据えていかないとだめですよ、ということですね。でも、ここでも、内容については何もおっしゃっていませんよ。ただ、よっぽど覚悟を決めていかないと大変だよと、そういうことを仰せなだけですね。
 だから、明主様がおっしゃりたい内容は一体なんだろうと、そうなりますね。65日の時、615日に詳しい話をすると仰せになったけれども、その話はまだされてませんね、この1954年の12月の時点で。
 そこから3週間ぐらい経って、年が明けました。195511日、お正月、元旦ですね。その元旦の日にまた明主様が聖言くださるんですけれども、でもそれも短いものですね。
 その時なんと仰せになったかというと、皆さんにお話ししたいこと、打ち明けたいこと、教えることがたくさんある、でもそれは、時が経つに従ってだんだん話していきますよと、そう仰せになった。
 ここで少しヒントが出ましたね。確かにまだ内容については教えていただけていませんが、「打ち明ける」という言葉、これは大きな言葉ですね。打ち明けるということは、それまで自分の胸に秘めていたけれどもまだオープンにしていないことがあって、それを公にする──それが打ち明けるということですね。
 だからそれまで明主様がおっしゃってきたこととは違う内容ですよ、明主様が私たちに話そうとされているのは。
 あるいは教えたいことがあると仰せです。ということは、その時までに我々が教えられてきた内容とは違いますよ。だって今まで教えられてきた内容だったら、「教えたいことがある」とは言われずに、「以前にも教えたように」というような言い方をされるはずですからね。
 ですので、この元旦の聖言を聞いた信徒としては、「脳溢血の症状が治ってきたらだんだん教えていただけるんだ。では待たせていただきます」ということになりますね。
 明主様が1954419日に脳溢血のご浄化をお受けになって、65日、その時に、615日に詳しい話をするよ、差し支えない点を発表するよとおっしゃっていただいたけれども、その内容をずっと知らされないまま、まだ待たされてるわけです。
 だからその内容は、当然、水晶殿の時に仰せになった資格三条件のことではないですよ。もしそれが明主様が話されたいことだったら、その3週間後の1955年の正月の時に、「もう自分が伝えたいことは全部伝えたから」と言われるはずですからね。だから、資格三条件のことではない。
 そしてその元旦から1か月ほど経った1955年の立春の24日。この時も明主様は聖言をくださいます。これもまた短い聖言だったんですけれども、とにかく明主様がおっしゃったのは、体調が良くなったら、実に奇想天外な話をする、実に奇想天外な話をするので、それだけに楽しみにしててほしいと、そう信徒に言われたわけですね。
 これが24日ですよ。ご昇天の6日前。もう6日後にはご昇天ですからね。でも、当時の信徒はそれは知りませんから、当然。明主様はもっと生きられると思っていますから。
 打ち明けるというのも大きな言葉でしたけれども、今度は「奇想天外な話」ですよ。すごい言葉をお使いになってますね、明主様。
 「奇想天外」を辞書で調べたら、「考えが普通では思いもよらない奇抜なさま」とありました。ということは、明主様は、普通私たちでは考えつかないようなことを我々に伝えようとされてたんだと、そういうことですね。
 もし今明主様がその内容をおっしゃったら、我々は、「明主様、それは教義違反です」と言うような内容かもしれませんよ。だって我々は、脳溢血以前に出された明主様の御教えしか存在しないという前提で自分たちの明主様像を作り上げてますからね。
 だから、もし今明主様がその奇想天外な内容を言われたら、「そんなのは明主様の御教え、聖言には無い」と我々が言うような内容かもしれませんよ、だって普通では思いもよらない奇抜な考えなんですから。
 というような内容なのでそれを楽しみにしててほしいと、そう明主様は信徒に言われた。
 でも結局その後どうなったかというと、奇想天外な話をするから楽しみにしててほしいと信徒に言われたその6日後、結局その話はされずに、1955210日、明主様はご昇天になってしまわれた。
 だからよく、資格三条件が明主様のご遺言だと言われる方がいますけれども、本当の明主様のご遺言は、「奇想天外な話をするから楽しみにしててほしい」ですよ。「あなた方が思いもよらないような話をするから楽しみにしててほしい」が明主様のご遺言ですよ。
 ということは、195465日に、615日には詳しい話をするからということで待たされた私たちは、結局その内容を教えていただけないまま明主様はご昇天になってしまわれた。だんだん発表されると仰せになった差し支えない点も分からなかったですね。差し支える点どころか、差し支えない点も教えていただけないまま明主様はご昇天になってしまわれた。
 だから、メシア降誕仮祝典に込められた明主様のみ心──それはつまり、明主様の本当のみ心ですが──について我々は教えていただけなかった。明主様があんなに話したい、打ち明けたい、教えたいことがあると言われて、そしてまた、奇想天外な話をするから楽しみにしててほしいと言われたことについて、それを聞かせていただけないまま明主様はご昇天になってしまわれた。
 ということは、我々は、明主様のみ心であり、本当の願いを知らせていただけないまま明主様はご昇天になってしまわれた。明主様の信徒にとってこれは大変なことですよ。だってもし明主様が我々に打ち明けたいことがおありだったとしたら、明主様の信徒としてはそれは知ったほうがいいじゃないですか、当然。
 だけど結局、それを我々は聞かせていただくことはできなかった。そして、明主様のみ心を知る望みは明主様のご昇天によって永遠に失われてしまったと、そういうことですね。
 ところが明主様は、最後の最後に、私たちに救いの綱を残してくださっていたんです。
 それは何かというと、これを私たちは明主様ご昇天後に知ることになるわけですけれども、なんと明主様は、ご遺言によって、世界救世(メシア)教教主の座を二代様に託されたと、そういうことですね。
 だからこれこそが本当の最後のご遺言ですね。もちろん当時の時代ですからスマホで簡単に録音することもできないけれども、でもそれが一番最後に明主様がおっしゃったこと。明主様のご遺言によって自分は教主の座を託されたんだと二代様が仰せになって、それは教団機関紙である『栄光』にも発表された(『栄光』296号)。
 ご昇天前、明主様は、「これからは今まで私が言ってきたことを中心にみんなで考えてやってくれ」とおっしゃったんじゃないんですよ。「私が今まで言ってきたことを中心に役員の人と信徒が協力してやってくれ」が明主様のご遺言ではないんですよ。
 むしろ明主様は、ご遺言によって教主の座を二代様に託された。
 明主様は、ご自分が死んでもなんの問題も無い、なぜなら霊界からむしろ力をどんどん出すからと仰せですよね。でもどこにそれを出されるんですか?だから、それが教主の座ですよ。誰にご自分の力を出されるかというのを、明主様は、ご昇天前にご自分で指名、指定されたんです。ご昇天後は霊界から働いて自分の心を世界メシア教の教主の座に伝えていこうと、それを指名、指定された。
 二代様は、私の言うことは明主様がおっしゃること、私の示す方向が明主様の示される方向だと仰せになりましたね。
 それは何も二代様はご自分が偉くなりたいからそうおっしゃったわけではないんですよ。むしろ、明主様が自分に託してくださったみ心を本当に謙虚にお受けになって、「私は明主様とは別の岡田よという存在だ」「私が言うことは明主様とは違う二代教主としての言葉だ」というふうに偉ぶられるのではなくて、むしろ大いにへりくだって、明主様が私を使ってくださっているんです、なぜなら明主様が私に教主の座を託してくださったから、ということで大いにへりくだってああいうことをおっしゃった、二代様は。
 だから我々は、もう明主様のみ心を知るは無い、詳しい話をするとおっしゃってそれをされないまま亡くなってしまわれた、もう絶望するしかないと思ったら、なんと明主様は、我々に救いの綱を残してくださっていた。だって、教主の座を二代様に託されたわけですからね。そうでなければ、誰が明主様がずっと伝えたいと思われていた内容を話すことができるんですか。誰が奇想天外な話ができるんですか。
 だから明主様は、我々が絶望しないように世界メシア教の教主の座というのを用意してくださって、そしてそれを二代様に託されたことによって、私たちに救いの綱を残してくださった、そういうことです。
 でもね、じゃあ二代様がすぐその奇想天外な話をされたのかというと、それはされなかったんですよ、二代様は。
 結論から先に言うと、メシア降誕に関して明主様が打ち明けられたかったこととか、奇想天外な話というのは、長年現教主様が伝えてくださってるすべてのことですよ。
 明主様というのは全人類のひな型である、明主様だけではなくて、全人類がメシアとして新しく生まれる運命にある、ひと言で言えばこれですよ、明主様が仰せになりたかったのは。
 では二代様がすぐそのお話ができたかというとそれはできなかった。当然二代様はこの真理はご存じでしたよ、だって明主様が中にいらっしゃったわけですから。
 だけど、当時の我々の信仰というのは、特に明主様ご昇天後すぐですから、明主様だけがメシアであるとか、明主様は創造主そのものなんだというような、自分の信じている教祖だけが偉いといういわば独善的、小乗的、カルト的な信仰であって、それをご覧になった二代様は、まだこの真実は出せないと判断されたんですね。
 では二代様は何をされたかというと、神様──大神様ですね──というご存在は絶対動かすことのできないすばらしいご存在なんだというのを必死に教えてくださろうとした。明主様は確かにすばらしい、だけど、その上に大神様というのがいらっしゃるんだよ、というのを教えてくださろうとした。それで二代様は批判もされましたよ、明主様の扱いが軽いんじゃないかという批判も受けられた。
 でも二代様は、我々のカルト的、独善的、小乗的、いわば幼稚な信仰から、もう一歩先、もっと大乗的な信仰、大きな信仰、大人の信仰に導くために、明主様のおっしゃってることと違うじゃないかというような批判を受けられながらも、狭い世界に生きている我々をもっと大きな信仰に導かなきゃいけないということで大神様ということの大切さを説いてくださったんです。
 その二代様のご努力がなければ今日の我々もありませんよ。いまだに、明主様だけがメシアだ、イエス・キリスト関係無い、他の宗教関係無いとか言っていたと思いますよ。でもそれは幼稚な信仰ですよ。
 だから二代様は大神様というご存在がどれだけすごいかということを一生懸命教えてくださったんです。そして二代様は、それが将来的に本当の意味で明主様を高めることになると信じていらした。
 そしてもう一つ。二代様は、当然、世界メシア教という名前を愛しておられたし、メシアという言葉の大切さを百もご承知でいらしたけれども、我々の信仰をより成長させなきゃいけないということで、このメシアの御名を、明主様を通していったん神様に返された。まだ時期じゃない、ということで返された。
 今メシアという言葉を使ってしまうと、信徒は、明主様だけがメシアだということで突っ走ってしまう、それではだめだ、だからまだ時期じゃない、ということで、二代様にとっては苦渋の決断だったんですけれども、メシアの御名を神様にお返しになった。
 だから、世界救世(メシア)教だったのが世界救世(きゅうせい)教に変えられたし、救世(メシア)会館も救世(きゅうせい)会館に変えられたし、明主様がお作りになった『讃歌集』の改訂版に掲載されていた「メシア」という言葉が入っていた御歌を全部取り除いて、皆様がしばらく前までずっと使っておられた『祈りの栞』に変えられた。その『祈りの栞』にはメシアという言葉が一個も無いですからね。ということによって二代様はメシアの御名を完全に一度神様にお返しになった。
 二代様を継承された三代様も、二代様が打ち立てられた方針を守られて、そして、四代教主様にバトンタッチされた、継承させられた。
 そして四代教主様の時代になった時、明主様は、機は熟した、時は来たということで、二代様、三代様から預かっておられたメシアの御名を再びご自分の信徒に与えてくださろうとして、教主様を通してメシアのことについてずっと説いてくださっている。
 だから、冒頭から話しているように、明主様は、奇想天外なお話とか、打ち明けたいこととか、我々に話されたいことがいっぱいおありだったんです。でも我々は、その歴史を全部無しにして、その前の明主様の御教えだけでずっと来ましたよ、今日まで。
 明主様はなにか話されたかったみたいだけど、結局何も聖言を遺されなかったんだからそれは関係無いとか、この資格三条件、これは便利だ、献金いっぱいする人を大切にしなさいみたいな内容だから、これは教団運営に便利だ、これを明主様のご遺言にしてしまって、これが大切だと打ち出していけばいいじゃないかとか言いながら、明主様が一番最後、教主の座にご自分のご神業を継承されて、そして、ご昇天後も教主の座を通してご自分のみ心を信徒に伝え続ける、ということを全部無視してきましたよ、我々は。
 でも明主様は、なんとしてもご自身のみ心を、教主様を通して我々にお伝えになりたかった。
 だって明主様としてはお悔しいじゃないですか。明主様は、いつかは浄化も良くなって信徒に話せるとずっと思われてたんですよ。だから、お受けできなかった我々は確かに残念だけど、明主様はもっとお悔しいですよ。良くなって話すぞ、今度話すぞということで65日から8か月くらいずっと、これを話したい、話したい、話したいという思いのままこの世を去られたんですよ。明主様にとって無念じゃないですか。その明主様の無念を我々はほとんど無視してきましたよ。その前の聖言だけを、「これが明主様の聖言だ」「これを大切にしなきゃいけない」と言ってきたじゃないですか。そうだとしたら、この奇想天外な話とかについてはどうするんですか。
 だから、その明主様の無念を教主様が求めてくださって、そして、明主様は、なんと、ただの一宗の教祖ではなくて、人類のひな型であって、みんな明主様のようになりる存在なんだということを教主様は教えてくださった。これ、一見簡単そうな内容ですけれども、大変なことですよ。
 というように明主様は霊界から教主の座を通して働かれるわけですから、ご自身の本当のみ心を教主様を通して今まで教えてくださっていたし、そしてまた今後も、教主の座を通して教えてくださる、そういうことです。
 だから我々としては、明主様のみ心をお受けできなかったのが無念だったんですけれども、今、明主様が教主様をお使いになってそれを知らせていただいているのは本当に幸せなことですよ、明主様の信徒としては。
 でなければ、我々の選択肢というのは、奇想天外な話とか打ち明けたいことというのは無視して、自分で作り上げた明主様像の「明主様」を信仰して生きていくというだけですからね。
 だから今、教主様を通して明主様のみ心をお受けしてることは本当に大変なことなんだけれども、実はそれだけではない。
 どういうことかというと、明主様は、イエス・キリストとかお釈迦さんの本当の継承者は自分だということをいたるところでおっしゃってますね。イエスの本当のみ心を知っているのは自分だ、イエスのを継承しているのは自分だ、お釈迦さんの本当のみ心、願いを継承してるのは自分だ、その二人が言ってたことを完成するのが自分だ、という強い自負心をお持ちであった。
 でも、お釈迦さんのことについては、結局、世界メシア教を開教された時、仏教というのは夜の時代の救いでもうそれは滅びる、そして世界メシア教と共に神がお出になると仰せになった。それはどういう神かというと、ユダヤ・キリスト教の神様であるエホバでありヤハウェなんだと仰せになった。
 だから、お釈迦さんの役割はそこで終わったわけですから、詰まるところ、明主様は、イエス・キリストの本当の願いを継承しておられるお方である、ということです。
 ということは、我々が今教主様から知らされていることは、明主様のみ心は当然ですが、それだけではなく、プラス、人類20億が信奉するイエス・キリストの願いも知らされている、ということです。だって教主様は明主様を継承しておられて、明主様はイエスのの継承者であられるんですからね。
 だから、そのようなことが今世界メシア教に託されているという中で今日の「メシア降誕祭 ~本祝典1周年記念祝典~」を迎えたと、そういうことですね。

 

ちょっと話は変わりますが、継承というと「信仰継承」ということがありますね。信仰継承というのは、なにも複雑な話ではなくて、要は、自分の子供とか孫が「おひかり」をいただくとか、御神体をいただくとか、そういうことですね。
 我々は自分の家族に信仰継承してほしいなと願ってますけれども、信仰継承がうまくいく場合もあるし、逆に、子供がなかなか信仰を理解してくれないとか、「おひかり」をなかなかいただいてくれないとか、「おひかり」を小さい時にいただいたけれども全然今は関係無いとか、そういうことがありますね。信仰継承がなかなかされないということですね。
 でも僕は、そのように信仰継承が今なかなかうまくいかないというのは、我々のこの半世紀、この40年、50年ぐらいの歩みを見れば当たり前だと思うんですよ。
 というのは、世の中で宗教が受け入れられている時はいいですよ。だけど、ひとたび宗教に対して人の目が厳しいと、我々は「宗教」を隠そうとしてきた。本来、今の日本において宗教をすることはなにも悪いことじゃないんですよ、法律によって信教の自由が守られているわけですから。
 ただ、いかに憲法において、「どんな信条があっても社会的に差別されない」とされていても、実際は宗教差別は存在してますよ。住居を借りられないとか、教会がなかなか決まらないとか。そして国もそれを完全に見て見ぬふりしてますよね。宗教差別があっても良しとしている。だけど、本当は信教の自由は保障されてるんです。
 にもかかわらず世界救世(きゅうせい)教時代の我々は、いや、宗教じゃなくてこういう伝え方のほうがいいんじゃないか、世の中に対して宗教とか神様を出すのではなくて、MOA美術館のこととか、あるいはこういう野菜を作ってますとか、そういうことでいったほうがいいのではないか、としてきたじゃないですか。
 自分たちで「そういうふうにしたほうが結局明主様のみ心が伝わるから」という言い方をもって正当化してもいいですよ、いくらでも。でも根底にあるのは、宗教という色眼鏡で見られたくない、宗教を隠したいという思いですよ。宗教をしてる人だと思われたくない、というそれですよ、根底にあるのは。
 だから宗教じゃないことで人に伝えるのが楽だなと思ってきたんですよ。
 その姿を子供たちが見て、自分の親は本当に立派な信仰をしているな、と思えないじゃないですか。どうやって思えるんですか。
 宗教を表に出すことによって、住居も借りられない、憲法で保障されてるにもかかわらずいろんな差別を受ける──ただ、日本においては少なくとも殺されないですから。世界メシア教を信仰してても殺されはしないですから──でもいろんな差別を受ける中にあっても本当に「宗教」ということを貫けば、確かに子供たちから格好悪いとか言われることもあるかもしれないですよ、「宗教格好悪い」とか「やめてお父さん」「やめてお母さん」と言われるかもしれないですよ。でも、もし世の中の宗教に対する批判的な目に負けて自分の信仰を曲げてしまったら、隠してしまったら、どうやって子供たちに本当の意味で将来この信仰を継承してもらう種を残せるんですか?残せないですよ。
 もしかして自分が生きているは、ずっと子供から、「お父さんお母さんはあんな宗教やってて格好悪い」と言われ続けるかもしれませんよ。それはいろいろですよね。受け入れてくれる子供もいるし、受け入れてくれない子供もいる。
 だけど、たとえ世の中からどんな批判にっても「自分は、イエスを継承した明主様を継承した教主様のもとにある世界メシア教の信徒です」ということを貫いて、それを隠さずに堂々としてたら、もしかして我々が死んだあとに、子供たちが、「ああ、私のお父さん、お母さんは、本当に立派な信仰をしてたんだな」と思ってもらえるかもしれないじゃないですか。
 でもそれを一歩目から宗教隠し、神様隠しということで歩めば、どんなに上手な理由で正当化しても、子供はその我々の逃げの姿勢を見抜きますよ。
 よく、明主様は「箱根美術館館長」ということを非常に誇りに思っていらしたということで、だから宗教を出さずに美術館ということで進めてもいいんだというようなことを今でもおっしゃる方がいらっしゃいますが、明主様は、箱根美術館館長として一般の人に話す時も、普通に、「私はメシア教教主です」とおっしゃってますよ。なんにも隠しておられないですよ。
 だけれども我々は、いや、芸術活動は宗教とは関係ありません、みたいなことをずっと言ってきたじゃないですか。
 明主様は、一般向けに、「天国の苑」という映画も作られましたけれども、そこでも明主様は、冒頭、いきなり、「私はメシア教教主岡田茂吉であります」とおっしゃってますよ。なんにも隠しておられないじゃないですか、メシアとか宗教を。
 聖言の中でも、明主様は、ある政治家の方の話をされているところがあるのですが、宗教がまだ日本で認められてない時代、「浄化療法」ということでご神業を進めておられたことがあって、でもそれから信教の自由が保障されて宗教団体である日本観音教団を立ち上げられたんですけれども、宗教として進むようになった時、その政治家の方は離れてしまったんですね。浄化療法という非宗教ならいいが、宗教をやるならということで離れた。その政治家について明主様は、メシア教が悪いことなら隠すのは分かるけれども、そうでもないのに我々から離れたからこの政治家はこのの選挙で落選したんだ、という趣旨のことをおっしゃる。
 ということは、ここで明主様がおっしゃってるのは、我々が、宗教とか、明主様という名前とか、メシアという名前とか、そもそも隠す必要のないものを、世の中からの目が怖いということで隠せば、神様、明主様からの祝福はいただけませんよということですよ。その政治家の人が落選するというのは、神様からの祝福は受けられませんよ、という意味で仰せですよね。
 だから我々も、もし宗教や神様を隠したいということで行けば、神様、明主様からの祝福を受けることはできないと、そういう意味です。
 というようにこの40年、50年ぐらいずっとそういうことで来たんですから、今信仰継承がうまくいかないのは当然ですよ。子供たちは我々の姿を見抜くわけですからね。
 もちろん、信仰は強制することではないですよ。あなたはこの信仰をしなさい、ということではない。そうではなくて、私が今話してるのは、自分の生きざまの問題ですよ。
 だから、これからは、今までそういう歩みをしてきたことを悔い改めて、そしてもう何も隠さずに歩んでいく。
 だって、日本では信教の自由が保障されてるんですよ。宗教していいんですよ。神様を信じていい。なんか独裁政権で宗教をしてたら弾圧されるということじゃないんでしょ?これは本当に幸運なことなんですよ。
 だから、これから我々が堂々とすれば、その我々の姿勢を子供たちや孫たちが見てくれて、そして、この教団も、次世代、若い人たちが担っていかなきゃいけないわけですから、その人たちが、「自分の親の世代は本当に立派な信仰だった」「その信仰を継承したいな」と、自然にそうなりますよ。それが起きるのがすぐ今日明日じゃないかもしれないですよ。でも子供は我々を見てますからね。
 だから、生涯その生き方を貫けば、たとえ今は反対している子供がいたとしても、もしかしたら死んだあとにその子供が、「ぜひ自分の親の信仰を継承したい」と言って、明主様、二代様、三代様からずっと続いてきている信仰が継承されるようになるんじゃないかなと思うんですね。

 

今日、結論的に私が申し上げたいのは、私たちは、よく、命が救われたということを言いますね。前も少しお話ししましたけれども、お医者さんがテレビのドラマとかで、「まだ救える命がある」と言って必死になって手術とか治療してくださって、それで助かる、命が救われたと、そういうことがありますね。
 あるいは、世の中のいろんな健康法がありますね。運動するとか、呼吸とか、食べ物とか。それらのいろんな健康法によって、死ぬような状態だったんだけれども生きられるようになったと、そういうこともありますね。
 もちろん私は、そういうこと自身を否定してるわけではないんですよ。神様のお導きによって、そういう自分に合う健康法に出会うとか、あるいは、自分の心、自分の体をちゃんと治してくれるお医者さんに病気の時に出会わせていただけてとか、そういうことで、この地上で今私自身に与えられている役割をできる限り健康で全うさせていただかなければならない、というそういう思いは私の中にありますよ、当然。
 だけど、どんなにそれで「救える命がある」と言っても、それは結局この世の命の話をしてるわけですよね。この世の命。
 だから最終的には死にますよ。長くても80歳とか90歳になったら、誰もが死にますよ。この世の命を主体としている限り、誰もが救われないということですよ、人は必ず死にますからね。ということは、「救える命は無い」ですよ、全員死ぬんですから。
 早死にしました、長生きしましたと言っても、何十億年という長い時から考えたら、ほんのちょっとこの地上にいる時間の差があるくらいで、結局はみんな死にますよ。
 すばらしい健康法によって120歳まで生きることができました、とか、死にそうになったけどお医者さんのおかげで助かって長生きしました、とか言っても、結局我々に待ってるのは死ですよ。
 だから、どんなにお医者さんが、「救える命がある」と言っても、それはこの世の命の話ですよ。どんなにすばらしい健康法があって120歳まで元気に長生きしたとしても、長生きして死にました、というそれだけの話ですよ。
 でも、私、そして私たちは、明主様によってもう命を救われたんです、本当はね。明主様というか、明主様ののみ心を教えてくださる教主様によって、私や私たちはもう命を救われたんです。だって永遠の命ですよ、我々が教えていただいているのは。
 それも、生まれ変わり死に変わりでずっとこの地上に戻ってこなきゃいけない永遠の命ではなくて、天上において神様の子供となる永遠の命です。
 今日の祭典の御歌でもいっぱいありましたね、永遠の命の御歌。永遠の命のことを知ることが万人の救いなんだよと、そうありましたでしょ。
 だから私たちは、明主様のみ心を伝えてくださる教主様によって永遠の命のことを教えていただき、それによって命を救われたんです。
 我々は、すばらしいお医者さんに出会ったとか、すばらしい健康法に出会って体がよくなったというこれらのこと、ものすごい感謝するじゃないですか。でも我々は、教主様によって、本当はそれよりももっとすばらしいことに出会わせていただいたんですよ、だって死なないんですから。
 そして、永遠の命と言っても、本当の永遠をお持ちなのは神様お一人なんですから、今日私は「継承」のことについてお話ししておりますけれども、本当は何を継承しなければいけないかというと、それは、我々は、神様を継承しなきゃいけないんです。
 我々が本当に継承しなければいけないのは、神様なんですよ。
 だって今日の聖書にも、神様がご自分の姿にかたどって人間を造られたとあったじゃないですか。さらに明主様はダメ押しして、「神に似せて造ったという聖書の言葉は、確かに真理である」(1935年「自然療法」)と言い切っておられますよ。
 我々は普通、神様ってどういう見た目なんだろうとか、どういうお姿なんだろうとか言っていますけれども、本来これは、発想が逆なんです。神様がこういう姿形をしてらっしゃるから(真明様、ご自分のお体全体を指し示されながら)、我々もこういう姿形をしてるんです。
 その人間の体、神様の体について、今日の明主様聖言で、明主様は讃え尽くされてましたけれども、それくらいすばらしい神様のお姿通りの体を私たち人間はいただいている。
 いや、それはね、手足不自由とか手足が無い方もいらっしゃいますよ。でも霊の体では完全なものをいただいているんです。
 だから、誰もがですよ、誰もが神様と同じ姿形をさせていただいている。
 私たちは今まで、神様がこういう人間の体のような見た目をしてるということ、あまり深く考えたことがなかったんじゃないですか。むしろ、「神様は人格神なんだろうか」「どういうご存在なんだろうか」と漠然と思ってきたくらいですよ。
 でも、神様がこういう人間の見た目をしていらっしゃるということは、神様は目もお持ちだし、耳もお持ちだし、口もお持ちだし、鼻もお持ちだし、手も足もお持ちだということです。
 
ということは、誰もが神様に抱きつくチャンスがあるということです、だって神様は人間の形をしてるんですから。だとしたら、少なくとも「会ってみたい」と思ったほうがいいと思いますよ。
 人類70億全部が神様と同じ姿をしてるんです。大変なことですよ、これは。でも普通それを我々は、「人間というのはこういう存在で、神様というのはこういうご存在である」と分けてしまってね、でもそういうことでは自分の人生は普通のどこにでもある、輝かない小石のような人生で終わってしまうんですよ。
 それに我々は、自分たちの至らなさとか悔い改めなきゃいけないということばかりに心が向きがちですけれども、本当は我々は神様ですからね、神様に似せて造っていただいたんですから。

 だから、世界メシア教において我々が世に伝えんとするのは、「我々は神様を継承しなければいけない」と、そうなるわけです。
 そうなってくると、メシア聖堂。メシア聖堂は当然世界メシア教が世に伝えようとすることの象徴ですね。
 だからメシア聖堂は、もちろん目に見えない天国の写しであるメシア聖堂でもある。またこの間の祭典でちょっとお話ししたように、我々は迷子のような存在だったけれども、神様はご自身の愛によって私たちすべてを迎え入れてくださるんだと、だから、その神様の親の愛の象徴としてのメシア聖堂でもある。そして今お話ししているように、メシア聖堂というのは永遠の命の象徴でもありますし、また、神を継承することを伝えるのが世界メシア教であるということの象徴でもありますよ、メシア聖堂は。

 これらのことは、今日、アフリカの方が参拝に来ていらっしゃいますけれども、アフリカの聖地も同じですよ。
 アフリカの聖地も、天国の写しの象徴としてのアフリカの聖地であり、神様の親の愛の象徴としてのアフリカの聖地であり、永遠の命の象徴としてのアフリカの聖地であり、神様を継承するのが人間である、という人間の使命を象徴するアフリカの聖地でもある。

 だから、ありきたりな表現ですけれども、アフリカは人類発祥の地。その人類発祥の地・アフリカに明主様の聖地を造ろうとしてるんですよ。これ、大変なことじゃないですか。
 日本において私たちは、明主様が生まれられた地に聖地を造る。アフリカにおいては、人類発祥の地に聖地を造る。

 そして、日本の聖地とアフリカの聖地が呼応して、教主様が今継承してくださっている明主様の本当のみ心を世の人に示していくんです。
 だからそういうことを、これから我々の手で行おうとしているんです。
 日本の聖地とアフリカの聖地が呼応して──明主様が生まれられた地の聖地と人類発祥の地の聖地が呼応して──人類に本当の神様の願い、これを伝えていこうというのが我々世界メシア教ですよ。だから、日本だけのスケールの小さな話に関わってるんじゃないんです、我々は。だいたいなんでこんなにアフリカで世界メシア教が発展してるんですか。

 今日本にいる我々は、この明主様の壮大な願いに応えるチャンスをいただいているわけなんですから、なんとしても私たちの手でメシア聖堂を建てる。
 それに、人類発祥の地に聖地ができたら、明主様でしたら絶対に行かれたいと思いますよ。大変なことですよ、本当に。

 というように今我々は、教主様のもと、明主様のみ心の中を歩んでるわけであって、そして、メシア聖堂の建設によって全世界にわたって行われているその明主様のご神業の一部になれるんですから、一致団結して、なんとしてもメシア聖堂を建てようと、そういうことだと思います。
 我々は、明主様から、アフリカの方々と共に、本当の意味で世の人を救う教えを託されているんですから、日本の信徒も、アフリカの信徒も、世界中の信徒も共に、明主様とイエスの願いを継承された教主様のもと、大いなる希望を持って、力強く歩んでまいりましょう。

 ありがとうございました。