PDF:七月度月次祭 真明様聖言
「前進、前進、また前進」
於:本部ご神前
皆様、こんにちは。
今日は少し雨が降ったりしておりますけれども、足元の悪い中、教主様のもとに集ってくださいまして、ありがとうございます。
昨日の夜ベッドで数えてたんですけれども、メシア降誕祭が行われたのは今日から数えて16日前なんですね。だから16日経ってまたすぐこうやって皆様とお会いできて私は喜んでおります。
今日参拝に来ておられる方の中でも実際の演奏に関わってくださった方もいらっしゃると思いますけれども、メシア降誕祭では音楽をたくさん披露させていただきましたね。
ハレルヤコーラスは今までもさせていただいたことはあったんですけれども、「アーメンコーラス」は初めてでしたね。「ほふられた子羊こそ」というのから「アーメンコーラス」。この2曲ひとくくりで「アーメンコーラス」とも呼ばれるみたいですね。
この「アーメンコーラス」は、今まで私もYouTube等で拝見したことはあったんですけれども、今回生で聴かせていただいた時にものすごい感動しまして、それはもちろん練習等励んでくださった方々や、関わった方々のおかげだとは思うんですけれども、今回生で聴いて、本当にすばらしいなと思って感動して、その時に、あ、明主様はどうなんだろう、明主様は、ヘンデルの『メサイア』の全曲聴かれたわけですから、「アーメンコーラス」も何度も聴かれたと思うんですけれども、でも、それを生で聴かれたことはなかった。だから、祭典の時に拝聴しながら、「ああ、明主様に聴いていただきたかったな」「残念だな」と思って、でも、ふと横を見ましたら教主様がいらっしゃったので、「教主様を通して明主様に聴いていただいてるんだ」と思って、それでなんか安心したりしてました、一人で。
もちろん教主様だけではなくて、明主様を信じる皆様方の耳を通しても明主様はお聴きくださったと思います。皆様の感想を読ませていただいて、「アーメンコーラス」がすばらしかったという方がたくさんいらしたので、きっと皆様は、明主様のお喜びを感じておられたのかなと思っております。
また今回私は、新しい2曲の詞を書かせていただいて、「永遠(とわ)にあなたに」と「わが子よ」という曲なんですが、聴いてくださった方もいらっしゃるかなと思います。
「永遠にあなたに」という曲で祭典をスタートしたんですけれども、この「あなたに」というのは神様のことですね。神様に永遠にすべてをお捧げします、ということですね。
と言っても、このようにここで曲の説明をするのもちょっと野暮ったい感じもありますね。説明うんぬんではなく、もう詞と曲のままなんですけれども、ただ、ちょっと私なりの思いを説明したいなと思って今お話ししております。
とにかく、神様のみ前に私のすべてをお捧げします、ということで祭典を始めました。もちろんこれは、祭典だけではなく、日常生活においてもですね。日常生活においてもすべてを神様にお捧げするわけですね、私たちは。
そして祭典の一番最後の「わが子よ」。これは私としては初めて神様側の視点、神様の思いというのを書かせていただいた詞なんですけれども、内容としては、「私があなたを愛していたことを思い出しなさい、思い出しなさい」という、そういう歌詞です。
この2曲を通して私がお伝えしたかったことは、我々は、人間の思いとしては、「神様に一生懸命捧げる」とか、ありますね。日常生活の中で、お委ねをしたり、でも、神様のことを思える時と思えない時というのもあったり、で、思えた時には、「神様受け取ってください」とか、「こういうふうにお使いくださったんですね」とか、そういうふうな思いを抱いて日々過ごしている。
でも、そういうふうに神様のことを思うことができるのは、本当は、まず、神様からの、「思い出しなさい。私があなたを愛をもって包んでるんだから、それを思い出しなさい」という呼びかけがある。その声は私たちには聞こえない、聞こえないけれども、本当は、神様は、ずっと、今も、「思い出しなさい、思い出しなさい、私の愛を思い出しなさい」と呼びかけてくださっていて、その呼びかけに我々が反応して、「あ、お委ねさせていただこうかな」とか、「ああ、これは神様がこのようにされてるんですね」ということを思うことができるんです、本当はね。
だから、信仰という営みは人間発みたいになりがちですけれども、本当は神様の呼びかけにお応えしている姿が「信仰」と呼ばれるものですね。
だから、祭典の最後の曲を、「わが子よ」とさせていただいたのは、我々は自分たちでいろいろ信仰をしているつもりですけれども、本当は、神様のあふれんばかりの愛、思い出しなさい、帰ってきなさいというその神様の思いを我々が常に感じているから、「あ、神様」と思えたり、「今回は参拝してみようかな」という気持ちが湧いてくる。
人間的に見ると、参拝しませんか?と言われて、どうしようかなと悩んだりいろいろあるじゃないですか、一人ひとりの状況が。そういうことがあるから我々は自分の意思で参拝しているようだけれども本当は違うんですよ。
本当は我々の意思で参拝に来ているのではなくて、神様が常に「私のもとにいらっしゃい」と呼びかけてくださっているから私たちは参拝もできるし、朝拝もできるし、夕拝もできるし、神様のことに心を向けることができる。
そんなことを共に思えたらいいなと思って、あの2曲──子供側の思いの曲と親側の思いの曲──それをそれぞれ表現させていただきました。
またメシア降誕祭にはアフリカ参拝団の方も来られまして、それで、祭典の中で私はアフリカの聖地のことについて話したんですけれども、ちょっと説明不足だったかなと思いまして、アフリカに聖地を造るというのは、私の海外ビデオメッセージの「ああ、アフリカよ」というのの中で、アフリカの皆さんも一緒にぜひ聖地を造ろうじゃないかとアフリカの皆様に呼びかけたんですね。
アフリカの方々はそれを真正面から受けとめてくださって、アフリカでも、よし聖地造ろう、ということになったんですね。
アフリカはものすごい発展していますね。今度の入信式も、メシア降誕祭の時に理事長は300人とおっしゃってましたけれども、その後さらに増え続けて、僕が知ってる時点では437人にまで増えていました。だから今はもっと増えてるのかもしれないです。437人。1回の入信式で、ですね。だからすごい発展してるわけです。だとしたら、ぜひアフリカで聖地を造らせていただいたらすばらしいことじゃないかと思ったわけですね。
で、アフリカに聖地を造らせていただくのはすばらしいことだなというのは思っていたのですが、メシア降誕祭の時、アフリカの方々の前で話してるまさにその瞬間、これは本当に大変なことだなということを強く思わされました。
それはどういうことかというと、アフリカは人類発祥の地ですね。人類は世界中に散らばっているけれども、どの人をたどってもアフリカまで行き着きますね。その人類発祥の地・アフリカで聖地を造る。これは本当に大変なことだなというのを、メシア降誕祭で皆様にお話ししている時から強く思うようになりました。
アフリカは人類発祥の地。一方明主様はどのようなご存在かというと、ご自分で強調しておられたのは、ご自分は世界の端の極東で生まれたということ。極東と言っても、それはイギリスを中心としたその時の世界の見方ですね。ということは、それは象徴的な意味として、ですよ。
だって、我々が普通習っている世界地図は日本が中心だから、ブラジルとかアメリカの東海岸が世界の極東ですね。だけど、そういうことではなくて、当時の世界の状況の象徴的な意味として、世界の一番端の極東の日本の、その東の都の東京の、そのさらに一番東の端の橋場というところでお生まれになったことについて、明主様は非常に意義付けをしておられますね。
そして、端までたどり着いたから今度は西に向かって返していくんだと仰せですね。
もちろん、エルサレムと明主様の関係のことはありますね。エルサレムから出たメシアの御名が極東の日本まで到達して、そしてまたエルサレムに帰るということ。それを明主様は仰せになっていて、そのことの意義はありますね、確かに。
それプラス、このアフリカのこともあると思うんですよ。
人類がアフリカから出た。そしてずっと広がって、遂に端の端である日本において明主様がお生まれになった。アフリカという人類の始め、スタート地点から、明主様という終わり地点まで到達した。そして今度はそこから帰っていくわけですね。
だから、日本においては明主様の本当のみ心が込められたメシア聖堂を造る。それと同じタイミングで、日本と呼応して、人類発祥の地・アフリカでも、同じ気持ちで聖地を造る。
人類の始めのアフリカ。そして、人類の終わりの日本。一旦アフリカから出た人類が日本まで到達した。そして、人類の端の端で明主様が神様の真実をお受けになって、そしてその明主様の教えが人類発祥の地まで戻ったわけです、だって今、アフリカにいるほとんどの信徒が教主様と共に立ち上がったわけですから。
このように人類発祥の地で多くの信徒が教主様と共に立ち上がったのはただの偶然なのかというと、僕は偶然じゃないと思うんですね。
世界の端の明主様のもとに到達した神様の真実が、今度は、人類発祥であり始まりの地であるアフリカにおいてそれを皆様が受け入れて、そしてその地で聖地を造る。
というように、アフリカと日本の両方で聖地が造られれば、それは全人類に対してのすばらしいメッセージになると思うんですよ。全人類が受くべき神様の真実の救いの福音──これを世界メシア教が担ってるんだというそういうすばらしい意義を示すことができる。
そして、メシア降誕祭の時にも言いましたように、もし人類発祥の地・アフリカにご自身の聖地ができたら、明主様は絶対にそこに行かれたいと思いますよ。
だからそれぐらい大変なことが今行われているんだなということをメシア降誕祭の時からずっと考えておりましたし、そういう意味において、日本にいる我々は、明主様のそのスケールの大きな救いにお仕えさせていただくべく、がんばってメシア聖堂を建てようじゃないかと、そういうことだと思います。
そして、実際に建てるにはもちろんお金が必要になりますのでね、みんなで協力しながら、皆様の大いなるお力添えをいただきながら、なんとかメシア聖堂を建てたいなと、今そんなことを思っています。
メシア降誕祭のことで皆様にお話ししたかったのは、これくらいですね。
今日はお話ししたいことがいくつかありまして──というか、今の時点ですでにだいぶ話しておりますけれども(一同笑声)──メシア降誕祭のことだけではなく、他にちょっとお話ししたいことがあります。
それは何かというと、明主様とイエス・キリストの関係、ということはずっとありますよね。明主様とイエス、どっちが上なんだ、ということとかですね。で、そのことについては、教主様はもちろんですけれども、私もすでにある程度話しておりますので、今日はそこには踏み込みません。
私が今日お話ししたいのは、明主様とイエス、どっちが上なんだ、という問いもありますけれども、実は、明主様と我々、どっちが上なんだという問いもあると思うんですよ。明主様と我々、どっちが上なんだ、という問い。
普通、「いやいや、当然明主様のほうが上です」となりますね、だって、我々は明主様の信徒なんですから。だけど、じゃあ、「明主様のほうが上です。はい、おしまい」と言って終われるのかというと、なかなかそうはいかないものもあるんですよ、本当はね。
要は、皆様方お一人おひとりの存在は一体何かということですね。私たち一人ひとりの存在が一体何かということが分からなければ、明主様と自分、どっちが上なんだというのは本当は分かりようがないわけですね。だから、そこに考えなきゃいけないことが本当はある。
「眼に見えぬ一つの魂が大自然の恵みによりて人となるなり」。
これは明主様の御歌なんですけれども、人というのは、よく言われているように、いわゆる大自然がただ進化して人となったのではない、ということですね、ここで明主様が仰せなのは。
眼に見えない一つの魂が大自然の恵みによって人となると、そう仰せです。
眼に見えない一つの魂とは何かと言ったら、当然それは神様の魂ですよ。だから我々の本質は、動物の延長線上じゃない、ということです。
猿かなんかが、どっかのタイミングでうまく知恵を獲得して人間になったんじゃないんですよ。ま、世の中ではそんな感じになっていますよね。科学的にいくとそうなってしまうわけです。人間はチンパンジーと99%同じだ、もう猿も人もほとんど同じじゃないか(一同笑声)となるんですけれども、本当は違うんですよ、人という存在はね。
そして僕は、この御歌、心を静めて、落ち着いて拝読すると、教主様がご教導くださっている世界観が見えてくるんですね。
どういうことかというと、教主様は、我々は昔、天国でまず生まれたと仰せですね。天国で神様の霊の子として生まれて、そしてそれぞれ「メシア」という名前を付けていただいた。そのあと神様は、宇宙とか地球とかの世界を造られて、それで、その準備ができた時に我々人間を地球に送ったと、そう教主様は仰せですよね。
僕、この明主様の御歌を拝見していると、その教主様がお説きくださっている世界観が目の前に広がるんですね。
「眼に見えぬ一つの魂が大自然の恵みによりて人となるなり」。
落ち着いて拝読すると、この眼に見えない一つの魂というのは、大自然が存在する前に存在してたんじゃないか、ということが見えてきますね。
というように、大自然ができる前に存在していた眼に見えない一つの魂が人となっているのですから、我々の本質は、その魂ですよ。猿が偶然に知恵や言語を獲得したのではなくてね。
だから教主様が仰せになっている、「天上において私たちは昔生まれさせられていた」、ということが示されている御歌ですね、これは。
眼に見えない一つの魂が「人」となったということは、「人」の本質というのは、その眼に見えない一つの魂だ、ということですよ。ということは我々人間は大自然が存在する前に存在してたと、そういうことです。
それに、昔、天上の世界で、神様が目に見えない魂を無数にお生みになって、そして「人」である明主様が、「メシアとして新しく生まれる」となったのだとすると、その眼に見えない一つの魂には、最初から、メシアという名前が付いていた、ということ以外あり得ないじゃないですか。
だから教主様が仰せのように、我々は元々天上では筋子のようにたくさんの無数の魂としてひと塊であって、でも地上に出てくる時にイクラみたいに分かれて一人ひとりになったと、そういうことですね。
だから、今日の祭典の2首目の明主様の御歌、「いと高き尊きものは人なりと思ふ人こそ人たる人なり」。
普通これ、いと高き尊きものは「神」なりと、ということなら分かりますよね。最も高くて尊いものは神様なんだと思える人こそ本当の人なんだよと言われたら、「それはごもっとも!」となりますよね。
だけど明主様は、いと高き尊きものは「人」なりと、ですよ、神じゃないんですよ。ここ、ポイントですね、この御歌の。
「いと高き尊きものは」という形容詞は、普通神に対して使われる形容の言葉ですよ、最も高くて、最も尊いものですから。
だけど明主様は「人」とお詠みになった。なぜ明主様がこういう御歌をお詠みになれたのかというと、それは、明主様が、人というのは、一人ひとり本質的には、眼に見えぬ一つの魂、神様の魂を宿している神的存在であると思っていらしたから、「いと高き尊きものは人なりと思ふ人こそ人たる人なり」とお詠みになることができた。
そして、もし我々の本質が眼に見えぬ一つの魂、神様の魂だとしたら、明主様と我々どっちが上かなんて区別しようがないですよ。だって神様は唯一の神様なんでしょ?そしてその神様の魂が私たちの本質なんでしょ?私たちは神様の分霊なんでしょ?
だって、リンゴの一部分どこを取ってもリンゴですよ。リンゴのどこをかじってもリンゴの味がしますでしょ。確かに真ん中のほうにいくとちょっと渋いけれどもね、種に近いところは(一同笑声)。でもリンゴですよね。
だから、神様のもとにあって、明主様と私たちは同じですよ。どっちが上か下かも無い。もちろん、使命という点はありますよ。明主様のご使命。これは偉大ですよ。だけど、本質的には、誰もが神様の魂をいただいているんですから、明主様と我々の間に上も下もないんですよ、本当はね。
だから明主様は我々のことを同胞と呼んでくださっているんです。今日の御歌でもありましたね、神様の光を被ってから我々は同胞と睦み合うようになった、という御歌(「同胞と睦み合ふ身となりにける神の御光蒙ふりてより」)。同胞。兄弟姉妹ということですね。
そう言うと、いやこの御歌で明主様は、明主様以外の人たちのことを詠まれているんだ、という反論もあるかもしれません。
でももう一つの明主様の御歌、この大和心の御歌で、明主様は、天の下にいるすべての人を兄弟姉妹と思うのが我が日の本の大和心なんだと、そう仰せですよ(「天ヶ下悉同胞と思ふなりわが日の本の大和心は」)。
大和心が何か、というのはいろいろありますよね。でも明主様は、地球上のすべての人を兄弟姉妹と思うのが、我が日の本の大和心なんだと、そう仰せなんですよ。
で、明主様は日本人ですよ──いや、「世界人たれ」というのもありますけれども(一同笑声)。でも、ここの御歌で明主様が仰せになっているのは、私がいる日の本の最も大切な心というのは──というのは明主様のみ心はということですよ、明主様は日本人なんですから──その私の心というのは、地球上すべての人を兄弟姉妹と思う、これが私の心なんだと、これはそういう御歌です。
我々、このようなことが大和心だとあんまり思ったことないんじゃないですか?
というように、明主様は我々のことを兄弟姉妹とお呼びですよ。兄弟姉妹。だから我々は、明主様の兄弟姉妹なんですね、本当は。
しかも、「友」とも呼んでくださっていますよ。「光の友たち」と呼んでくださっていますね(「奴羽玉の暗にさ迷ふ諸人の灯火となれ光の友たち」)。
明主様は私たちに対して、あなた方は私の兄弟姉妹であり友なんだと仰せなのに、ただ、「いやいや明主様のほうが上です、明主様のほうが上です」とだけ言い続けるのは逆に明主様にとって失礼になってしまいますよ。そうではなくて、やはり、明主様が兄弟姉妹であり友と仰せくださっているわけですから、私たちは、「明主様と私は兄弟姉妹です」「友です」と言わせていただく必要があるのかなと思います。
我々は、人間的な世界と神様的な世界というのがごっちゃになってるんじゃないかなと思いますね。そこの差がはっきりしてない。だから結局、人間的な目だけをもって、我々より明主様のほうが当然上だとか、明主様はこういうことをされたんだからイエスより上だとか、それくらいのことしか思えない。
でも、どっちが上も何も、本当は、讃えられるべきお方はお一人しかいらっしゃらないんですよ。我々が讃えるべきお方はお一人しかおられない。
だからそれが神様ですよ。神様。神様お一方のみが、唯一讃えられるべきお方なんですね。
だって、明主様が「新しく生まれた」と仰せになったということは、新しく生まれさせた方がいらっしゃるわけですよ。絶対にそれが前提ですね。
今日拝聴した聖書(「ローマ人への手紙」第8章全部)にもありましたが、我々の中に宿っている御霊は、イエス・キリストを甦らせた方の御霊なんですよ。
だから、「イエス・キリストは甦った!イエスすごい!」じゃないんですよ。イエスを甦らせた方がいらっしゃるんですよ。だから誰がすごいって、すごいのはその方ですよ。
これが一見当たり前のような話なんだけれども、明主様もイエスも神様と一体の働きをされますのでね、そこで我々は人間的な思いが出てきて、人間明主様とか、人間岡田茂吉とか、人間イエス・キリストというところに引っ張られてしまって、こういうことをしたんだからイエスのほうが偉いとか、いや明主様のほうが偉いとかそういうところで終わってしまっている。
でも本当は、明主様とイエスの奥にはお父様と言いますか、神様、このお方がいらっしゃる。本当は我々はこの方のみしか讃えることはできないんですよ。
だって、イエスを甦らせた方の御霊が私たちの中にあって、それが、死ぬべき私たちを生かしてくださるとありましたでしょ?(「ローマ人への手紙」第8章11節)新しく生まれさせてくださる、ということですよ、これは。だからそれをされるのは神様ですよ。
この御神影も(真明様、ご神前脇の御神影を指し示される)、以前もちょっとお話ししましたように(2022年7月1日「若く、清く、強く」)、明主様は、あえて、お顔じゃなくてお腹に焦点を当ててほしいとご指示なさった。腹中に神様の魂が宿られている、ということでそうされた。だからこれ、よく見ると、お腹に近い左手とかが非常にはっきり写っていますね。これはあの辺に焦点が合ってるからです。明主様は、顔には焦点を合わせるなと指示された。
だけど我々は、その後、顔のところを明るくしたり、顔がはっきり見えるように修正を重ねていった。ここに掲げられているのは修正されてないものですね。
ということは、明主様は、ご自分を見てほしかったわけではないんですよ。そうではなくて、ご自分の中に働いておられる神様を見てほしかったわけですね、私たちに。
だからなぜ明主様がそうされたのか、というその辺に、私たちが分からないとかあやふやなところがあるのかなと思います。
明主様の人間的な使命について私たちは、もうそれは、拝して崇め奉るわけなんですけれども、でもそれも、神様が明主様を通して働いたことについて崇めさせていただくんですよ、本当はね。
だから、結論的に言えば、私たちは、本質的には、明主様と兄弟姉妹であり友である、ということです。だって神様が唯一の親であって、あとはもう明主様も含めてみな神様の子供なんですから、私たち全員。
そうすると、ああ、それはすばらしいな、ということになるんですけれども、今日の二代様の御歌にもあるように、「へだてなき神の心にかへるなら」、私たちは兄弟姉妹となり得るんですよ(「へだてなき神の心にかへるなら世界はひとつ人類は兄弟」)。「へだてなき神の心にかへるなら」、ですよ。ただ横のつながりだけを見て、ああ、これから私は明主様とは兄弟姉妹だ、ということではないんですよ。へだてがない神様の心に帰るなら、世界はひとつ人類は兄弟、なんですから。
明主様の御歌も、「同胞と睦み合ふ身」となったのは──兄弟姉妹として仲良く打ち解け合うようになったのは──神の御光を蒙ふりてより、となってますよ。神の御光を被ってから私たちは兄弟姉妹となったと、そうありますよ。
神の光、ですから、「神は光にして 光のあるところ平和と幸福と歓喜あり」、ですね、「光のお言葉」にあるように。そして、「来れ」とおっしゃっていますね。神の光のところに来なさいと、そう明主様は仰せです。ただ、「ここにいれば神の光を被れる」じゃないんですよ。
最初明主様は、「観世音菩薩の御名を奉称せよ さらば救われん」。でも観音はメシアになったんですから、「メシアの御名を奉称せよ さらば救われん」、ですね。
神の光のもとに「来れ」と仰せなんですから、私たちが、「神の光のところに行きます」と言わなければ、明主様と友にもなれないし兄弟姉妹にもなれませんよ。横のつながりだけ、人間的な意味だけで考えていたらそうはなれませんよ。
だからそれは、へだてない神の心に帰るなら、とか、神の光に来れ、とおっしゃってるわけですから、その意味が分かっても分からなくても、光のところに行きます、神の心に帰ります、とさせていただかなければならないし、もしそうさせていただければ、我々は、明主様の光の友、兄弟姉妹として、今も一日一日を過ごすことができる。
またもう一つ大事な点があるんですね。確かに「兄弟姉妹」という言葉は非常に温かみのある良い言葉ですね。
アフリカ参拝団の方が来られた時もよく聞きました、アフリカの方々は教主様のみもとにあって我々の兄弟姉妹だと思った、とかね。ま、それはすばらしいことだなとは思うんですけれどもね、でも私たちは、下手をすると、こういうアフリカの方々みたいに、要は、自分からは遠いところに住んでいて、肌の色も違う、そういう方々に対しては、「ああ、あなたは私の兄弟姉妹です」と言いやすいかもしれないですよ。
でも例えば、自分に迷惑をかけてくる隣人とか、肌の色が同じ人とか、そういう人に対しては兄弟姉妹とは言わないで、もしアフリカの人たちとか、そういう自分の境遇から遠い人たちだけに対して、「あなたは私の兄弟姉妹です」と言ってるんだとしたら、もしかしたら自分の都合が入った「兄弟姉妹」という言葉の使い方をしているかもしれないですよ。
「みんな兄弟姉妹だ」とか、そういうの好きですからね、私たちは。兄弟姉妹という言葉の響きが良いですからね。
遠くから来たアフリカの人たち、肌の色も違う、その方々は兄弟姉妹、これは思いやすいんですね、私たちは。だって別にその人たちから日常的になにか嫌がらせをされているわけでもないし、今後その人たちとずっとお付き合いしなければいけないわけでもないし、今回来てまたすぐ去っちゃうわけですからね。だから、打ち解けたままで終われる(一同笑声)。そういう方々に対しては兄弟姉妹と言いやすいですよ。
でも本当は、もしアフリカの方々を兄弟姉妹と呼ぶなら、本当は、明主様に対しても言えなきゃだめだし、イエスに対しても言えなきゃだめだし、また、同じ意味において、自分のお父さんとかお母さんとか、自分の隣人とか、今日ここに来る時にタクシーを運転してくれた人とか、バスを運転してくれた人とか、新幹線で偶然隣に座った人とか、あるいは自分の子供とか孫、自分の肉親の兄弟姉妹もいますね、それらの方々に対しても全部、アフリカの方々に対して「兄弟姉妹」と呼ばせていただいたのと全く同じ感覚で「兄弟姉妹」と呼ばせていただけるなら、アフリカの人たちに対して、「私たちの兄弟姉妹よ」と言わせていただく言葉の重みがあるのかなと、そう思います。
そうじゃないと、なにか、「兄弟姉妹」という言葉を自分たちの都合で利用している私たちの姿というのがあるかもしれないですよ。
だから、「兄弟姉妹」というのは本当にすばらしい言葉ですし、そして事実また私たちは兄弟姉妹であって、それは疑いようもない事実ですね、神様が唯一のお父様でいらっしゃるわけですから。だけど、我々の都合で安易に使わないように気を付けなきゃいけないなと思います。
もし使わせていただくなら、やはり一種の慎ましさというんですかね、それがなければならない。「私にとって、全人類もれなく、私の実の兄弟姉妹も、迷惑かけてくる隣人も、全然仲良くないあの人もこの人も全員兄弟姉妹です」という思いを持って、アフリカの方たちに対して、「私の兄弟姉妹よ」というふうに言わせていただけたらそれはすばらしいことだなと思います。
今日拝聴した聖書ですが、「アバ、父よ」という箇所がございましたね(「ローマ人への手紙」第8章15節)。神様をお呼びさせていただいているわけですね。
その前後も含めて、一見難しいみたいな内容でしたけれども、でもここで言われていることは本当は難しいことでもなんでもなくて、私たちが「アバ、父よ」という言葉を使っていること自体、あなた方が神様がお父さんであることを認めてしまっている証拠じゃないか、あなた方が神様の子供だという証拠じゃないか、ということですね。
要は、我々、なんかあった時に、「ああ、神様」となるじゃないですか。それと同じですよ。
で、明主様の神様は、「キリストの父なる神は主の神と知れよ信徒吾と併せて」ですから、明主様が仰せの主の神は父なる神である。だから我々の参拝対象である大光明は父なる神様。
ということは、我々が「神様」という言葉を使ったり、あるいは、「参拝させていただきます」としているその事実によって、すでに私たちは神様を親として認めてしまっているし、そしてまた、自分が神様の子供であるということを、私たちの御霊自ら──私たちの魂自ら──証明してしまっていると、そういうことです。
そして書かれていたのは、もし子供であるなら、神の相続人でもあると、そうありましたね(「ローマ人への手紙」第8章17節)。
子供は親のものを相続する。私、メシア降誕祭では、我々は神様を継承しなきゃいけないという話をしたんですけれども、ここ、同じことですよ。
ということは、我々がもし神様の子供であるならば、神様がお持ちのものを相続する権利があると、そういうことです。
そして私たちは、なんと、イエス・キリストと共同の相続人なんですよ(「ローマ人への手紙」第8章17節)。だから普通、キリスト教徒は、「イエス・キリストは特別だ」、ですよ。でもここ、私たちはイエス・キリストと共同の相続人なんだとありますよ。共同の相続人なんですよ。
ということは「神様の性質を相続していい」ということですから、それはどういうことかというと、メシアとなれる、ということですよ。
確かに、イエス・キリストは長子だということがありましたけれども、でも、「イエス・キリストと共同の相続人」なんですから、イエス・キリストだけが特別だということではないんですよ。
イエスと共同の相続人ということは、イエスが相続したものをあなた方も相続できますよ、という意味です。だから我々は明主様と共同の相続人でもありますよ。
何より、明主様が、「あなた方はイエス・キリストと共同の相続人である」という聖書の御言葉を御身をもって証し立てられたわけです、メシアとして新しく生まれるというご事蹟を成し遂げてくださったことによって。
メシアは一人だけだというキリスト教で信じられている世界から大きく羽ばたいて、いやそうではない、人というのは眼に見えない神様の魂を受け継いでメシアという存在になれるんだ、イエス・キリストだけが特別なのではない、我々はイエスとも共同の相続人なんだ、という世界を示してくださった、明主様が。
でも、キリスト教においては、「イエス・キリストは神のひとり子なのでその考え方は違います」となるんですね。
イエス・キリストは神の唯一のひとり子。我々はちょっと段階が落ちて、養子みたいな扱いになるわけですね。実際、養子という表現もあるんですけれどもね、聖書の中には(真明様注:「養子」という表現が使われているのは日本語の『口語訳聖書』においてではなく、英語等の聖書において)。
結局我々は、そういう「ひとり子」とかそういう言葉に引っかかって、真理について中途半端にしているわけです。イエスはすごい、という人間的な感覚でしか捉えられない。それに、「共同の相続人」と言われても、何を相続していいかも分かってないですからね。でも本当は、神そのものを相続しなければならない。
親がものすごい財産を遺して死んだら、親はその一部を墓場まで持っていけないですよね。もし子供が一人だとしたら、それ、全部継承しますよ。ということは、あなた方は親である神様の性質全部を、全人類で共同で相続しなさいということです。
だから、メシアはイエス・キリストだけではないんです。もしそうだとしたら、明主様のご神業は一体なんだったんだということになりますよ。
だからそう考えると、「世界メシア教」と明主様が名付けられた、私たちのご神業のスケールの大きさが感じられるかなと思います。
でも本当は、イエスは、神様の御心を行うものは私の兄弟姉妹であるということも仰せだったんですけれども、やっぱり、「ひとり子」という表現に引っかかっちゃっていますね、キリスト教徒の方々は。
キリスト教徒の方々は、イエスは神様のひとり子だという表現を、イエスだけが特別だ、ということで受けとめてしまっている。
でも僕は、なぜ神様はこういう表現をされたのかなというふうに思いまして、「神のひとり子」ということは、感覚としては、イエスは神様側に属している、みたいになりますね。イエス・キリストというのは、人間側というよりも、神様側に属していらっしゃる存在なんだという感じを強く受けますね。神様と、神様のひとり子であるイエス、このお二人だけが特別なんだという感じでですね。
そして、この神のひとり子・イエスによって、全人類の罪を贖ったとされてますね。
でも、よく考えると、普通、もし全人類の罪を贖うなら、ひとり子を送り込むのではなくて、それこそ、人類の中でなんか一番悪いことをしてそうな人を捕まえて、「あなたは悪いことをしたんだからあなたに代表して死んでもらう」「あなたは全人類の罪を非常に集約した形で現しているのであなた死んでください」「あなたが死んだら人類の罪を赦す」という、こっちのシナリオのほうが良さそうじゃないですか、普通で考えたら。分かりやすいですよ。
そしたら私たちも、「あんな悪い人が殺されたことによって神様は私たちのことを赦してくださったんだ。じゃあ、贖いの血汐をお受けします」と思いやすそうじゃないですか、一見。
そういうシナリオでも良かったと思うんですよ。でもそうはされなかったんですよね、神様は。そうではなくて神様は、ご自身のひとり子、ご自分に属する存在を送られることによって我々の罪を贖った。
というようにされた神様のご意図はなんなんだと、そこを私は思うわけです。
今言ったように、もし、どこの馬の骨かも分からない人を捕まえて、「あなた死んでください」「あなたを通して全人類の罪を贖う」となったら、我々は、「ああ私たちは罪を犯したんですね。この人のおかげで赦してもらったんですね」と思いやすいというか、思わざるを得ない。だって「人類の代表」が死んでるわけですからね。これ、分かりやすいですよ。
神様のひとり子が死ぬのと、人類の代表が死ぬのとどっちが分かりやすいかと言ったら、人類の代表が死んだほうが分かりやすかったですよ。そしたら私たちも、「お受けします」となると思うんですよ。
でも神様は、むしろ、神のひとり子というご自分に属する存在を送られたことによって、実は、神様ご自身が責任を取ったみたいな形にされたんですね。
神様が、「私のひとり子であるイエスを送って人類の罪を贖った」と言われたら、それを聞く我々も、「それは神様側の話ですか?」という感じで少し距離を置いて受け取ることも可能ですね。
岡田真明という人を殺して人類の罪を贖いましたと言われたら、「あ、じゃあそれは我々と同じ人間のことだから我々も贖いを受けなきゃいけないな」となると思うんですけれども、でも神様はそうされなかった。
むしろ、ご自分のひとり子を送るということにより、神様ご自身が責任を取る、という形にされたんですね。それによって神様は、実は、我々に大いなる選択肢を残されたんです。
神様は、私たちが罪の贖い主を受けるということについて、強制的にではなく、我々の自発の意思を尊重するあり方を選択された。
神様が、ご自分に属する子供を送ったことにより、神様ご自身が責任を取られた。
だから、我々としては、「お前責任取れ」と言われたら、「すみません」としか言いようがないですよね。でも神様は、「私が責任を取った」とされたんですよ。そうされたことにより、我々が、ただ、「すみません」となるのではなくて、我々一人ひとり自発の意思で贖いの血を受けるかどうかという選択肢を残されたんです。
よく、「全人類の罪が赦されているなら何をしてもいいんですか」みたいなことを言われる方がいらっしゃいますね。
ま、そういう気持ちが湧くのも分かりますけれどもね、でも、例えば自分が万引きをしました、それで、その駄菓子屋さんの店主が非常に怒ってるという時に、自分のお父さんが、「いや、子供ではなくて私が盗ったんです」と言ってくれた。
これ、イエスのことも同じ状況が起きてるんですよ。親である神様が、ご自分に属するイエスという存在を送ることによって、神様ご自身が責任を取った形にしてくださったんですから。
駄菓子屋さんの店主が、とんでもない子供だと言って罰しようとしたところ、親が、「いや、実は私が盗んだんだ」と言って駄菓子屋さんの店主に許しを乞い、店主が許してくれたとしますね。
その時にその子供が、「もう店主はこの罪を許してくれたんだからまた盗んでもいいや」となりますか?「罪が赦されてるなら何をしてもいいんですか?」というのはそれと同じ姿勢ですよ。もう許してくれたんだからまた盗めばいいじゃないかと、そういう姿勢ですよ。
だからそこに私たちの選択肢が残されてるんです。それを、「もう許してくれたし、今度盗んでもまたお父さんが肩代わりしてくれるからまた盗んでもいい」とするのかどうなのか。しかも、人類の罪は、駄菓子を盗むどころの騒ぎじゃないんですよ。今、日常出てくるニュースをちょっと見たってそれどころの騒ぎじゃないですよ、我々が犯してることは。
そういう罪について神様は、「それは私の責任でした」と仰せくださっている。それについてどうするのかという選択肢が私たちに残されてるんですよ。
駄菓子を自分が盗んでいるのに、親が、代わりに、「いや、私が盗んだんです」と言ったことについて、子供は、「そうだ、お父さんが盗んだんだ。あなたの責任だ」とは言わないですよ、普通。そして、言うべきではないですよ。
だからその時に私たちに残されている選択肢は、「本当は自分が犯した罪なのにお父さんが身代わりになってくれて本当にありがたい、申し訳ない」と思うこと。
それが悔い改めですよ。
それを、「お父さんが謝ってくれるから悔い改めなくてもいいや」という姿勢で生きていくのは、独り立ちしない、甘えた存在としてただ生きていくというだけですよ。人としては、ずっと独り立ちしない、ということだけですよ。
だから、神様が「私のひとり子を送る」という表現は、「私が責任を取る」ということの意味でもあるんですね。
だって、「神様のひとり子・イエス」というのと、「全人類神様の子供だ」というの、矛盾してるじゃないですか。被造物は、神の子たちの出現を待ち望んでるんですよ(「ローマ人への手紙」第8章19節)。神の子たちですよ。複数形。イエスだけじゃないということですね。ということは、万物は、我々が現れるのを待ち望んでいるということです、イエスだけではなくて。
だから明主様は、メシアとしてお生まれになった時に、「大変な事件なんです」とおっしゃったじゃないですか。なぜかというと、万物も、すべての人々も人類がメシアとして生まれるのを待ち望んでるからですよ。
だから、神様のひとり子と言っても、本来我々はイエスとは兄弟姉妹なんであって、そこに差は無い。確かに、救いの道を示してくれたイエスも明主様も讃えても讃え尽くせないご存在ではあるんですけれども、でも結局は、神様がそういうふうにお二人をお使いになったわけですからね。
だから正直なところ、我々は、神様が、「私は私のひとり子を遣わした」と仰せになった御言葉に甘えてるんです。我々全部殺されてもよかったんですよ。実際ノアの箱舟の時にはほとんど殺されちゃいましたしね。だから、今我々人類が生き残ってるのは奇蹟なんです、本当はね。
だからそれを、今まで生き残ってたんだから今までしてきたことぐらい大目に見てもらえるだろうとして生きていくのか、それとも悔い改めに至るまでの猶予をくださっている神様の信じられないぐらい深い大きな愛に目覚めさせていただくのか、その選択肢が我々にはある。
だって明主様は最晩年に、「悔い改めなさい」とおっしゃってるじゃないですか。「悔い改めなさい」「念じなさい」「浄霊は二の問題で、これから想念の世界である」ということを度々仰せになった。
でも僕はここで何が鍵かというと、この時明主様は、「これこれを悔い改めなさい」とは仰せにならなかった。「お念じしなさい」とは仰せになったけれども、「何を念じなさい」とは仰せにならなかった。ということは、その内容については後世に残されたということです。
だからその「後世」とは私たちですよ。今、教主様を通してそれを教えていただいてるじゃないですか。
もしあの時明主様が、こうこうこういうふうに念じなさいと仰せになれば分かりやすかったですよね。でも言われなかったんです。
「悔い改めなさい」「お念じしなさい」と言われたら、普通、「何を?」となりますよ。
それを当時明主様が言われなかったのは神様の御仕組なんでしょうけれども、でも今、何を悔い改めなければいけないか、どういうふうな言葉をもって念じたらいいか、ということにつき教主様はずっとお説きくださっている。例えば、なにかあった時、簡単に人を糾弾するような姿勢で生きていくのではなくて、「ああ、この人の姿は自分の姿なんだな」と、いつも思えなくてもいいんですけれども、思える時にはそういうふうに思わせていただく。
また、「イエスの贖いの血をちゃんと受け入れなさい」ということも今教えていただいていますね。だから、明主様が言わずに残されたことを、今私たちの信仰によって完結させることができるわけです。
だから、信仰継承。信仰継承の話を私はメシア降誕祭の時にもしたんですけれども、それは、私たちの神様を信じる姿勢、生きざまが周りの人とか自分の家族とか子供とかに伝わっていき、それによってこの信仰が次世代につながっていくという話をしました。
そのあとにふと思ったんですけれども、それは、たとえ我々がどんなに継承しようと思っても、神様の真実でなければそれは継承されないですよ。どんなに我々が努力しようとも、真実でなければ継承はされない。
世の中には宗教たくさんありますね。そして、いろんな巧みな方法によって信仰継承がうまくいっている団体もあるかもしれない。
でも、どんなに人間力を尽くして、人間的な知恵と技術と能力を駆使して信仰継承ということを巧みに人間の業で進めても、もしそれが神様の真実でなければ、それは途絶えますよ、絶対。継承され続けることはない。
だけど、この世界メシア教においては、これはおごりと言われようとも、真実は真実なんですから、そしてその神様の真実が、世界メシア教に託されている。
だから、もちろん信仰継承をしようとする努力というのは確かに大切ですけれども、たとえ我々がなんにも努力をしなくても、この信仰が途絶えることはあり得ないんですよ。
たとえメシア教が滅んで──今いるメシア教の信徒が誰もいなくなったとしても──神様にとっては何の問題も無いんですよ。その翌日に、全人類をそういう思いにさせるのも思いのままにされるお方なんですから。
あるいは、たとえメシア教が滅んでも、ある人物を生み出して、そしてそこから全人類に神様の真実を広めるということを神様は千年後にされるかもしれない、二千年後にされるかもしれない。そうして全人類に神様の真実をお知らせになるかもしれない。
でも、私は──我々は──その千年後、二千年後が今だと信じている。そうですね?今、神様が全人類にご自分の真実の福音を継承させたいとして臨んでくださっていると信じている。そうですね?
そして、メシア聖堂がその象徴なんです。メシア教は神様の真実を継承してる、という象徴なんです。
世界中に何百万も宗教はあるのかもしれませんが、それらの団体では神様の真実は受けてないんですよ。私たちだけ、なんですよ。
「メシア教はキリスト教と似てるかな?」と思うかもしれませんけれども全然違いますよ、説いてる内容は。
だから、我々がメシア聖堂を建てさせていただいて、そして人類発祥の地で明主様の聖地をアフリカの方にがんばって造っていただいて、そして我々は、イエス・キリストが本当に伝えたかったことも継承していると信じているわけですから、我々が造る聖地が、キリスト教の人にとっても、宗教を信じない人にとっても、神道の人も仏教の人もイスラムの人にとっても、本当に、オアシスとなるすばらしい場所になったらなと、そう思います。
もちろん、明主様は元はそのおつもりで聖地を造られたんですよ。聖地に全人類を招き入れて、魂を憩わせたい、安らかになってほしい、が明主様の願いだったんでしょ?
でも明主様ご昇天後残された我々は、もう争い、争い、争い。聖地を自分のものにして、争い、争い、争い。魂が浄まっているはずの存在が、とんでもないことをしてきてるじゃないですか。
ということによってもうそれは限界まで来て、今、明主様は、「新しいスタートを切りなさい」「出発しなさい」と、そう仰せなんです。
だって浄霊。聖地よりも大事と思われる浄霊ですら、明主様は、ご神業のためには次のステップにすぐ行かれて、浄霊は二の問題である、もう想念の世界に入ったと仰せになったじゃないですか。
当然、明主様が聖地をお造りになったそのみ心を我々は最も尊ぶわけですよ。それは継承させていただく。
だけど、今「聖地」と呼ばれている場所は、結局今までは争いばかりでしたね。追い出したり、追い出されたり、警察沙汰になったり。そして最終的には、明主様の聖業を継承されている教主様に対してあんな扱いをして、もうどう考えてもこの聖地は汚されてしまったわけですからね。
もちろん、誰にとっても、教団浄化が起きなければよかったですよ。だけどそういうことが起きたことによって、私たちは、本当に明主様のみ心に適う場所、人々が来て、救いの光に触れて喜ぶことができる場所を私たちの手で造ることになったし、そしてアフリカの方たちと呼応して、神様が私たち世界メシア教信徒に託しておられるこの救いにお仕えする時が来た。
冒頭お話ししましたように、アフリカで聖地が造られるということは、全人類が神様の真実を受けたということの証明であり、象徴でもあるんですからね。
だから、我々は今、日本にいますけれども、日本だけのそんなスケールの小さい話じゃないんですよ、このご神業は。
キリスト教がどうだとか、イエスがどうだとか、そういう小乗的な今までの信仰は捨て去らなければならない。だって、神様の視点に立てば、全員兄弟姉妹なんであって、その全部の兄弟姉妹を迎え入れるというのが神様のご計画なんですから、ひと言で言えば。
だから、「あなた方は兄弟姉妹であって、私のもとへ帰ってこい」、これだけですよ、我々の教えは、もし教えがあるとすれば。だって真実は簡単なんでしょ、明主様が仰せのように。
だから、神様の真実と言っても、それは簡単なことですよ。でもその簡単なことを今メシア教は託されて、日本とアフリカ、そして世界中に──ブラジルにもアメリカにもヨーロッパにも──我々の信仰の仲間がたくさんいる。だからこれは日本だけのことじゃないんです。
なので私たちは、世界中の信仰の仲間と共に、という思いで、その方たちの期待にも応えられるように、日本にいる我々はすばらしいメシア聖堂を建てて、そしてアフリカを始めとする海外の方が来たらそこに迎え入れさせていただいて、また私たちもアフリカの聖地に行かせていただいてという、そういう未来の一部にぜひ一致団結してお仕えしてまいりましょう。
ありがとうございました。