PDF:祖霊大祭_真明様聖言
「愛の翼」
於:グランドニッコー東京 台場(パレロワイヤル)
皆様、こんにちは。
最近思わされることは、私たちは当然明主様の信徒ですから、よく、「明主様信仰」とか「明主様帰一」ということを言うんですけれども、ではそういう時に私たちが思い描いている「明主様」とは一体どういうご存在なんだろうか、ということです。その辺が実は我々は分かっていないのかなと思います。
教団浄化の時も、自分は教主様だ、いや自分は明主様だとか言って、簡単に「明主様」という言葉を使っていますが、その時の「明主様」というご存在が一体どういうご存在なのか。割と自分の都合で作り上げた「明主様」像になってるんじゃないかなと思いますね。教団が打ち出している「明主様」像が本当の「明主様」だと思い込んでいたりね。
そういうことを思う中で、今日はいろいろお話ししたいんですけれども、今8月ですので、今日の聖言にもあったように、世界平和のこととか、あるいは病──病気のこととか──そういうことを通して、本当の明主様像、本当の明主様とはなんなのかということに迫っていきたいなと思います。
ですので皆様、今日は、「本当の明主様とはなんなんだろうか」ということを心に置いて私の話を聞いていただきたいなと、そう思います。
明主様ご在世中、世界メシア教にはモットーがあったんですけれども、ご存じの方いらっしゃいますか?
それは、「病貧争絶無の世界を造る」。病貧争絶無の世界を造る。これが、明主様ご在世中の世界メシア教のモットーであった。病(びょう)、病(やまい)ですね。貧は、貧しい、貧しさ。そして、争は争い。
病と貧しさと争い、ただそれが「無い」世界を造るのではなくて、明主様は、「絶無」ですから、「絶対に無い」ということですね、病貧争が絶対に無い世界を造る、それがモットーであった。しかもこれは、架空の話じゃないんですよ。現実的な地球上の営みとして、病貧争絶無の世界を造るというのが明主様ご在世当時の世界メシア教のモットーであった。
しかも明主様は、それを、ご自分が生きている間に造ると、そう仰せになった。そういう言い方もされていますし、ご自分が生きている間に病貧争絶無の世界の基礎だけは造るという言い方もされています。ご自分が生きている間にこの世の病を全部無くすということも仰せですね。
というように明主様は、ご自分が生きている間に世の病全部を無くすと仰せになったにもかかわらず、それは実現されずにご昇天になった。だとすると、それについて今、我々明主様の信徒がこれをどう受けとめるのかということは、我々の課題として残されてますよ。ただ無視するというわけにはいかない。
そして、2023年の今日、現実的にこの世において病貧争ということがどういう状況かというと、まず病は、まあ、日本をはじめ世界の多くの傾向だと思いますけれども、三大死因としてはまずガンですね。悪性腫瘍。体のガン。それから心臓ですね。心筋梗塞とかの心臓病。そして脳ですね。脳溢血とか脳梗塞とか脳系の病気。
日本においては、ほぼ毎年のように医療費が上がってるようですので、基本的には病気の人はどんどん増えているということですね。
明主様は、「病貧争絶無の世界を造る」「自分が生きている間に造る」と仰せになったにもかかわらず、今のこの現状がありますね。
そもそも、病無き世界を造ると仰せになった明主様ですら今言った三大死因の一つである脳溢血でお亡くなりになったんですよ。「病貧争絶無の世界を造る」がモットーのお方、自分が生きてる間に地球上の病を全部無くすと仰せになったお方自身が、脳溢血という病によって72歳にしてこの世を去ったというこの事実。
これ、もし地球上に明主様の信徒しかいなければ、この事実を無視して生きていくことは可能ですけれども、普通、世の中の人が我々の教団を見たら、「あなた方の教祖は生きてるうちに世の病気全部無くすと言ったのに、自分自身が脳溢血という病で死んじゃってるじゃないか」と言われてしまいますよ。
だから、そのように言われた時に皆様お一人おひとりが何を持ってるかですよ。何を言えるかですよ。それは触れられたくないことなので困ったな、ではどうにもなりませんよ。
だから、今まではそれは事実上無視してきた。無視というか、あれは神秘的なご浄化だったんだ、ということにしてきた。そういう言い方は、内輪の話としてなら通じますよ。だけど世の人に対してはそれでは厳しいんじゃないですか。
だから、真正面からこの問題を見つめて、明主様の信徒である我々一人ひとりが、内輪だけで通じる話ではなくて、どういう説明を持ってるかですね。世に対して自信を持って何を言えるかですね。
というように今の世の中まだまだ病はある。
次は貧。貧しさも世の中にはまだまだありますね。その日に食べる物も困るという種類のものすごい貧しさもありますし、あるいは、そこまでいかなくても、こうするためにはこれが足りないとか、もう少しお金があればこれができるのに、これも買えるのに、子供に対してこれができるのに、自分もこれができるのに、という種類の貧しさもありますね。というように貧しさの度合いはいろいろですけれども、どちらにしろ貧しさはまだまだ存在してますね。
そして争い。大きなものとしては戦争ですね。これ、無くなってますか?無くなってないですよね。まだまだ大きな戦争もしてますし、また、我々個人個人の日常においても、あの人がああ言ったからこう言おうとか、こうされたからこうしようとか、こう言われたから思わずこうした、という争いはまだまだありますね。
というように、一方では「病貧争絶無の世界を造る」という明主様の聖言がある。もう一方では今のこの世の現状がある。これを通して、私たちは何を感じるのでしょうか。
普通に考えたら、病貧争絶無の世界が来るとは絶対に思えませんね。病も増えてる、戦争はいつ終わるか分からない、貧しい人はいくらでも貧しい。貧しさも、いろいろ見ていくと、そこには政治的な構造上の問題とかあったりして、一部の人たちががんばってもどうにもならないことのようにも見えますしね、一見。というように、ニュースを見たら、病貧争絶無とはかけ離れた世界が我々の日常で繰り広げられてますね。
だから、それについて我々は長年、明主様が仰せなんだからということで、明主様ご昇天後、病貧争絶無の世界を造らなきゃいけない、造らなきゃいけないということで努力してきたと思うんですよ。
でも、そう言いながら、内輪同士で教団浄化と言われる争いをずっとしてきまして、自分たちですでにモットーを捨て去っておりますね。
ま、とにかく、明主様ご昇天後、なんとか病貧争絶無の世界を造らなきゃいけないということで我々はいろいろがんばってきたと、そういうことになってますね。浄霊をするとか、お花を通して人心を癒すとか、そういうことを通して、世の中良くなったらいいな、病貧争絶無の世界が来たらいいなということでがんばってきた。
そうなんだけど、その我々に対して教主様は、「そもそも前提が違う」と、そう仰せになった。
我々は、病貧争絶無の世界を造らなきゃいけない、造らなきゃいけない、世の中大変だからもっとがんばんなきゃいけない、もっとがんばんなきゃいけない、としてきたことについて教主様は、「前提が違うんですよ」と、そう仰せになった。
それはどういう意味かというと、今日の明主様聖言にもあったように、明主様は、病貧争絶無の世界とか、永遠の平和とか、そういうすばらしい世界ができるということは、神様が遠き神代の時代にもうすでに定めてあるんだ、自分の人間的な考えで言っているのではない、それがどんどん現れる時が来て、もう人間ではどうすることもできないんだと、そのように仰せであって(「大光明世界の建設 最後の審判」1935年1月11日)、この前提のことです、教主様が仰せなのは。
病貧争絶無の世界とか永遠の平和ができるということを遠き神代の時代にすでに定めたということは、神様は、すでにその時に成し遂げられたんです、ご自分の御心を。
というように最初にそう定めたんだけど、今日4つあった中の最後の聖言には、この大光明世界というのは主神の最後の御目的でもあると、そう明主様は仰せですね。だから最初に定めたんだけど、同時にそれは最後の目的でもあるわけです。
ということで我々はその最後の目的に向かってがんばんなきゃいけないというふうにずっとしてきたんですけれども、教主様は、「「最初に定めた」というその最も大切な前提が抜けてたんですよ」ということをご指摘になっていらっしゃる。
あなた方は遠き神代の時代に、神様とご一緒にそのすばらしい世界を共に成し遂げるという業に仕えたじゃないか、それを忘れたのかと仰せになっていらっしゃる。
この前提が無ければ、我々の歩みは本当は暗中模索になってしまうんですよ。
今お話ししていること、分かりにくいなと思うかもしれませんけれども、例えば水戸黄門、時代劇の。格さんと助さんが登場する水戸黄門。
水戸黄門は、途中どたばたして、格さんと助さんとかが活躍して、そして最後、水戸光圀公が印籠を出して物事を解決しますよね。
それを私たちは、途中ハラハラドキドキするんだけど、最後にすべてうまくいくことは知っている。まさか水戸光圀公が途中で殺されるということは想定してないですからね(一同笑声)。最後に、チャンチャンといってうまく終わることは知ってるから、安心して楽しんで観てるわけですね。
何が言いたいかというと、我々がテレビで水戸黄門を観てる時は、もう脚本は仕上がってますよね。最後に水戸光圀公が印籠を出して、みんな「ハハー」と言って幸せに終わる、ということはすでに脚本では書き切られている。
というように、最後、ハッピーエンドで終わるということを無意識にでも分かっているから、途中いろいろハラハラするのも楽しんで観てるわけですね。
あるいは本。すごい本が出たと言って、いやーどういう物語だろうと我々は思うけれども、本が発売される時点ではもう結末まで書き切られてますよね。
確かにそれを実際読む時は、これはすごい物語、すごい展開だ、この先どうなるんだろうと思いながら読み進めるわけなんですけれども、実際は書き切られているわけですから、読む前からもう結末はあるんです、すでに。
でも、水戸黄門の物語とかどんなすばらしい本どころじゃない、それより遥かに優る大きな神様のラブストーリーというのがあるんです、本当はね。そのラブストーリーが人類の歩みですよね。
ということを言うと、最初から脚本が決まってたら面白くないじゃないかというようなことを言いたいかもしれませんけれども、神様のラブストーリーはそんなスケールの小さなものじゃないんですよ。
我々では想像もつかないようなすばらしい愛の物語を神様は全人類に用意してくださって、そしてその物語を、神様はもう遠き神代の時代に書き終えられたんです。
だから我々は、「もう神様は物語を書き終えられた」という前提無しにして歩んできたじゃないかということを教主様が仰せなわけです。なにも複雑な話ではない。
だって明主様の聖言はもう確信に満ちあふれていますよね。すばらしい世界はできる、絶対できるという確信に満ちあふれている。
それはなぜかと言ったら、明主様は、「最初に成し遂げられた」ということをはっきりお受けになってるからです。神様の愛の物語、神様のラブストーリーをお受けになってるから、明主様は、神様はご自身の光と愛の力によって、その物語を絶対成し遂げられるんだと思うことがお出来になるわけです。
だから、もし明主様の信徒であるならば、まず、明主様に倣ってその愛の物語をお受けします、と思わせていただくことが大切なことですね。
では、それはそれとして、この世の営みとして具体的にその神様の物語がどう推移していくのかというと、それは、明主様の聖言にありますね。
「世界平和が宗教の力で実現可能ですか」という問いに対しての明主様のお答え、そこにある(「可能な世界平和 キリスト教と呼応する」1950年3月11日)。
世界平和と言っても、明主様はそれを「永遠の平和」と言い換えておられるように、それは、詰まるところ、病貧争絶無の世界のことですよね。
だから、「病貧争絶無の世界を造るのが宗教の力で可能ですか」という問いですね、事実上。それに対して明主様は「絶対可能と信じている」と仰せになりました。
だから、明主様は、信じておられるということですね。目に見えるなにかがこうだからその世界はできるとか、あるいは、病貧争絶無の世界とか世界平和が来るというのをなにか理屈で理解したから、じゃないんです。
明主様は、「絶対可能と信じている」と仰せになったんですから、信じてるわけです。「信じる」ということは理屈を超えてますよ。信じるということは逆に理屈が無いということでもありますね。だって理屈があったら「信じる」ということにはならないですからね。理屈がある場合は、「あ、理解しました」ですね、信じるというより。
だから、「絶対可能と信じている」という聖言。神様に対する明主様のものすごい信頼ですね。信頼と信仰。この一行だけでも明主様のすごさが分かりますね。「絶対可能と信じている」という一行を見るだけで、我々が明主様に結ばせていただいたことは本当に畏れ多いことだなと思わせる、そういう一行ですね。そういう信仰心を自分も与えていただきたいなと思う一行ですね。
そして、その一行のあと、具体的にどう仰せになるかというと、西洋にキリストあり、東洋にメシアあり、この二大勢力が東西相呼応して真面目にたたかってゆくなら、永遠の平和が必ずもたらされると、そう仰せです。
西洋のキリスト、東洋のメシアの二大勢力ということは、西洋の──というかキリスト教が生まれたのは中東ですけれども──だから、西洋に広がっているキリスト教と日本で生まれたメシア教、この二大勢力の全信徒が真面目にたたかってゆくことによって病貧争絶無の世界を造ると、そういうことですね。具体的にそのような世界を造っていく進め方としてはそういうあり方なんだと、そう明主様は仰せです。
そして明主様は、キリスト教と呼応しつつ人類の善導と救済に全智全能をあげて働いてゆきたいと、そう仰せです(「キリスト教と呼応 東洋に洽く布教」1950年2月4日)。つまり明主様は、キリスト教と呼応して人類の救済と善導を進めるのに、ご自身のすべての智慧とすべての能力を使っていきたいと、そう仰せなんです。これ、大変な表現をされていますよ、だって、全智全能ですよ、明主様の。
全智ということは明主様のすべての智慧ですから、少なくとも明主様の聖言に関わることすべてですね。そして全能ということは能力ですから、体を動かすこと、だから、明主様のご事蹟に関わることすべてですね。そのすべてが、キリスト教と呼応して人類の救済と善導を進めることに注がれていると、そういうことです。
これらのこと、ただ、なんか周りの人にぼそぼそと言ったことではないんですよ。これは、1950年に明主様が世界メシア教を開教された時、わざわざ教団のインタビューをお受けになって、その中でそれを仰せになって、当時の教団が出していた雑誌とか新聞で大々的に全信徒に公表した内容です。
そして当然明主様は嘘つきではない。明主様は、嘘つきではない。ということは、1950年2月4日に世界メシア教を開教されて以降、明主様は、キリスト教と呼応するとか、キリスト教の信徒と真面目にたたかっていくんだ、というおつもりですべてのことをなさった、ということです。だってキリスト教と呼応して人類を救うことに全智全能を注がれると仰せなんですからね。
我々、世界メシア教開教以降の明主様の聖言とご事蹟をそのような思いで受けとめてきたのでしょうか。
明主様が、1950年の年末に「浄霊法変る」というのをお出しになったこととか、最晩年、脳溢血のご浄化のあとメシアとして新しく生まれると仰せになったこととか──また、その時は、このことは特にキリスト教と関係があると仰せになった、メシアとして新しくお生まれになったことは、特にキリスト教と関係があると仰せになった──あるいは、浄霊は二の問題でこれから想念の世界だ、悔い改めなさいと仰せになったこととか、それらすべてのこと、明主様は、キリスト教と呼応するぞ、キリスト教の方々と真面目にたたかっていくぞという思いで、それらすべてのことをされてたんですよ。
でも我々は、世界メシア教の前が、大日本観音会とか日本観音教団とか日本五六七教会とかいうような仏教的な名前であったのに、その仏教的な名前からいきなり、「世界メシア教」というユダヤ・キリスト教に関わる名前になってしまった。そして、大体、我々が信仰する神様はキリスト教の神様のエホバだと仰せになってしまわれた。だから、結局、明主様の思いは受けとめきれてなかったと思うんですよ。受けとめきれてないまま──あ然としたまま──時は流れていった。
脳溢血のご浄化でお倒れになって、これは特にキリスト教と関係があると仰せになった時、普通、「どういう関係があるんだろう」と思いますよね。でも、具体的にどういう関係かということについて、明主様は仰せにならなかったんですよ、その時。
でも今、私たちが分かったのは、明主様が脳溢血のご浄化をお受けになった前日がその年のイースターであった。さらには、メシア降誕を宣言されたのがその年のペンテコステに極めて近い日であった、ということ。
もし我々が、当時、明主様の聖言を真剣にお受けして、これからはキリスト教と呼応するんだ、キリスト教徒と真面目にたたかっていかなきゃいけないんだと思っていたら、明主様が、「特にキリスト教と関係がある」と仰せになった時、「ご浄化の前日がイースターだったから、明主様のメシア降誕はイエスの復活とか永遠の命ということとなにか関係があるのだろうか」というようなことを思えていたかもしれないですよ。でも当時、誰も思えてなかったと思いますよ。当時どころか、それから70年経っても誰も思えてなかったじゃないですか。
「新しく生まれる」という表現を聞いた時も、我々は、「これは聖書に書いてある表現だな」と思えてもよかったと思いますよ、だって聖書には「新しく生まれる」という言葉があるんですから。
でも、結局、「キリスト教」ということを言われても明主様のご意図が我々には分からなかったし、また、明主様もはっきりおっしゃってくださらなかったし、そしてまた、その時、「「特にキリスト教と関係がある」とおっしゃったのはどういう意味でしょうか?」と聞く勇気も無かったでしょうね、当時の我々は。だって明主様が仰せになったことを真面目にお受けしてないんですから。
というように明主様は、「特にキリスト教と関係がある」と仰せになったり、メシアとして新しく生まれることとか、ヘンデルの「ハレルヤ」とか、ご自分のご神業とキリスト教との関係について少し手がかりを残してくださっていたんですけれども、明主様がご昇天になったあとは、普通ではもう分かりませんからね、明主様の本当のみ心は。
それで我々が結局どうなったかというと、神道とか、仏教とか、まあ、日本人が慣れ親しんでることのほうが心地いいとなったわけですね。祭典の形式も、明主様は祭典の形は変わっていくことを仰せだったのに、もうずっとこの神道的な形式のほうが落ち着くと思ったり、あるいは、明主様の教えということに関しても、結局我々は、一日一善じゃないですけれども、そういう仏教的な教えが心地いいと感じる。利他、利他愛は仏教で説いていることですからね。
明主様は、利他愛は神の愛、つまり赦しということで説いていらっしゃるんだけれども、そういうふうに受けとめるより、「人にいいことしましょう」「人に寄り添いましょう」「感謝しましょう」「それが明主様のおっしゃってる利他の心なんだ」としてきた。その世界が我々は好きなんですよ。耳触りがいいと感じてしまう。
一方、「贖い」という言葉とか、「イエス・キリスト」とか、「赦し」とか、「罪」「悔い改め」「ハレルヤ」「アーメン」、これらの言葉に対してのほうがなじみが無いみたいになってるじゃないですか、我々。これ、おかしいことなんですよ。
だって明主様は、メシア教を開教された時、もう仏滅で仏教の時代は終わり、これからは神様が出る、出るけれども、それは神道の神様ではなくて、これからはキリスト教の神様が出る、そしてメシア教はそのキリスト教と呼応する、とおっしゃって、それから70年も経ってるんですから、本来我々はキリスト教用語のほうになじみがあるべきなんですよ。でも、なじみ、無いじゃないですか。
贖いとはなんだろう、アーメンという言葉を発しにくい、イエス・キリストはなんだろう、罪人だと思いたくないとか、そんなことばっかり思ってるじゃないですか。
というように、キリスト教用語になじみが無いという私たちの姿自身が、もう、明主様のみ心をずっとお受けしていなかった何よりの証拠ですよ。これは、我々みんなですよ。実際明主様も、その辺は「時期」ということがあって、当時はぼかして仰せになってた部分もあるんでしょうけれどもね。
そして我々は、明主様のみ心も分からないけれども、結局我々は本質的に「神様」というご存在そのものがよく分かってないんです、本当はね。
我々の信じる神様はエホバ──ヤハウェですね──と呼ばれる神様ですけれども、そもそも「神様」とか「エホバ」とか「ヤハウェ」という言葉を発すること自身が本当はあまりにも畏れ多いことなんだけど、そういうことすら我々はあんまり感じない。
天の父とも言いますね。天の父であられ、そして唯一のお方であられる。でも我々は、そう言われてもなんかよく分からない、となってますよ。
明主様は、天の父がやることがご自分のされることだとはっきり仰せなのに、明主様ご昇天後、もし誰かが、天の父じゃなくて天の母という存在がいてもいいじゃないかと言った時、「いや、天の父です」と断固と言える人が一体どれだけ教団にいたのだろうか。
それどころか我々は、神様という言葉を出すよりも、「大自然」とか、「宇宙のエネルギー」的なこととか、そういう言葉に言い換えて、まあそれでもいいじゃないか、言う側の意図は神様のことを言ってるんだからそれでいいじゃないかと、その程度ですよ、我々の認識は。
で、結局分からないとどうなるかというと、隠すという方向に行きますね。隠す。
神様隠していいじゃないか、宗教隠していいじゃないか、という方向。
我々が世界救世(きゅうせい)教時代長年関わってきた、МOA活動なんかがその最たるものですね。だって我々、それ、宗教じゃない、神様を出さないということでするんでしょ?
確かに明主様は、芸術活動とか、自然農法とかいろいろされたけれども、メシアという名前とか神様ということは一切お隠しになってなかったですよ。自分の宗教団体に所属しなくてもできますよ、信じなくてもできますよ、というようなことは仰せですけれどもね。
でも我々は、明主様の聖言でここでこう言ってるとか、こじつけみたいなのを持ってきて、そして、「だから神様出さなくてもいい」「宗教出さなくてもいいんだ」と言って、もう明主様に対してとんだ非礼ですよ。もうご昇天になってるから文句言われることはないだろうと、明主様を甘く見てるわけですね。
だって明主様は、今の時代は無神論みたいのがインテリの資格、時代の先端みたいになってしまって、むしろ、有神論を唱える人が古臭い人みたいになってるけれども、本当はそれは逆なんだ、本当は無神論が古くなって、「神が有る」という考えが時代の先端をゆくようにならないと明るい明朗な社会にならないと、そう仰せですよ(「唯物主義が悪人を作る」1952年5月7日)。
と仰せなのに我々は、無神論を表現してるMOA活動をずっとしてきましたよ。
で、無神論を唱えるとどうなるかというと、結局それが悪の母体となって、汚職とか、世の中の悪いものを作り出していくんだと、そう明主様は仰せです。
にもかかわらず我々は、MOA活動とか言って、世に対しては、宗教じゃありません、神様無し、ということでしてきたじゃないですか。
だから結局どうなったかというと、「神様無しということでもいけるじゃないか」という我々の姿勢が悪を生み出したじゃないですか。教主様に対してのああいう尾行のような悪の行為となって現れたじゃないですか。あれは我々の姿ですよ、他人事じゃなくて。無神論はそういうものを生み出すんですよ。
MOA活動とかを積極的に支持している方々がああいう行為をされましたね。だから、そのことについて我々がどう受けとめるかですよ。「あっ、私の無神思想がこういう悪の形となって現れたんだな」と思わなきゃだめですよ、それはね。他人事じゃないんですから。
無神思想が普通になると世の中どうなるかというと、「いろんな価値観があっていいじゃないか」みたいな発想にもなりますね。いろんな考え方があっていいじゃないか、人間一人ひとり違うんだからいろんな価値観があっていいじゃないか、という考えが生まれてくる。もちろん一人ひとりの人格とか生きざまというのは尊重されるべきものではありますよ。だけど、価値観は一つしか存在しないに決まってるじゃないですか。神様の価値観しか存在しないんですから。
でも我々はそれをお受けしたくないから、いろんな価値観があるのはいいことだ、私は自分の信じる道を行く、みたいなことを言って、しかも今の世の中そういう考え方がいいことだとされている。それが新しいんだ、自由な思想、リベラルな思想なんだとされている。でもそれ、本当は古いんですよ。明主様はそれが古いんだと仰せですよ。それは古くならなきゃいけない、有神論こそ新しい思想とならなきゃいけないと、そう仰せです。
信教の自由ということもありますね。もちろん弾圧されて信仰ができないという状況は克服されるべき状況ではあるけれども、信教は自由だ、何を信じてもいいと言ったって、神様はお一方しかおられないんですからね。
そもそも、信じさせる方もその神様なんですから、本当は我々に自由なんて無い。我々が信じることができるのも神様のお力だし、信じないのも神様のお力によって、なんですから。
だって、神様が本当で唯一の親なんですよ。その方しかいらっしゃらないのに、「信教の自由」って意味が分からないですよ。他の親の子供となりたいですと、そんなことですよ、信教の自由と言ったって。
でも、そんな我々であっても、信教の自由という言葉を使うことやそういう我々の姿を赦してくださって、そして、「いろんなところに行ってきてもいい」「でもいつか私のところに帰ってきなさい」とおっしゃって見守って待っててくださる神様の親の愛に気づいたら、「ああ、信教の自由という言葉を使って、いかにも自分が信じる権利があるみたいに思ってきて、なんて自分は恥ずかしいんだろう」「本当に神様に対して申し訳なかったな」という思いが湧いてきたらすばらしいことだなと思いますね。
価値観ということも、自分はこれを信じてるとか、いろんな価値観があっていいとか言って驕っていたとしても、神様はご自身の赦しの中で、そういう我々人類の歩みを見守ってくださっている。その神様の大きなお心に触れることができて、「いろんな価値観があっていいとか、価値観は一人ひとりだと言ってた自分はなんて恥ずかしいんだろう」と思えたらいいことだなと思いますね。
大体、今の時代、信教の自由だ、政教分離だと言われてますけれども、僕は、正しい神様を信じ、「神様います」と国が言うのはなんの問題も無いと思いますよ。むしろそうであってほしいと思いますよ、私はね。今、政教分離が新しくて正義みたいになってますけれども、本当の正しい神様であれば、それを信じるということを国が言うのはなんの問題も無いと思いますよ。
でも、多くの人は、神様ということとか宗教団体に入るというと、なんか自分が制約されるというか、自由に生きられなくなるというふうに思って、なかなか受け入れられない、みたいになってますね。神様を信じちゃうと、なかなか思うように生きていけないんじゃないかと思って、だから、なかなか神様を信じないという人類になってますけれども、でも本当に神様がお望みなのは、「私はあなたには自由に生きてほしい」と仰せなんです。
「私のことを罵ってもいい、否定してもいい、唾を吐きかけてもいい。だけど、私はあなたと共に歩みたいんだ」と仰せなんです。「お前の人生の悩み苦しみ、行き詰まり、喜び、悲しみ、それを私もあなたと共に味わいたいんだ」とそう仰せであって、それが神様の願いなんです。だから神様は、一切制約されようとはしておられない、本当はね。ただ、「共に歩んでいいか」と仰せなんです、神様は。
その神様の御心というのは、例えばこの世の親でも、子供が反抗期になって、親に対して「お前のこと嫌いだ」と言ってきたとしても、親は、自分の子供はずっと愛しますよね。自分の子供と共に歩みたい、そんな子供であっても共に歩みたいと、そう思う親の愛というのはありますよね。
人間の愛ですらそうなのに、神様の愛はもっと大きいんですよ。
だから神様は、「いくらでも私のことを否定していい。でも、そのお前の心に居てもいいか」「私を否定するお前の心の中に私も居てもいいか」と仰せなんです、神様はね。
神様は、そういう大きな愛によって私たち全人類を包んでくださっている。二代様の御歌に「愛の翼」とありましたね(「国境を人種を越えて結びゆく愛の翼のへだて無きかも」)。神様は、その愛の翼を持って我々全人類を包んでくださっている。
だから神様は、「これしなさい、あれしなさい」、じゃないんですよ。「これしなきゃ怒るぞ、これしなきゃこうだ、これしなきゃあれだ」、じゃないんですよ。
神様は、「失敗してもいい、成功してもいい、怒ってもいい、泣いてもいい。でもお前と一緒に居てもいいか」と、そういうお心なんです。
その愛に気づいて、その愛に包まれるのは幸せなことだと思いますよ。そして、その愛に包まれた私たちの波動が周りの人に波及して、多くの人が本当の神様の愛に触れたらいいですよね。その愛を広めるのが世界メシア教なんですから。その愛を説くのが世界メシア教なんですから。
私たちは、今日も、その愛のもとに生かされている。
だから結局私が今日何を言わんとしているのかというと、「病貧争絶無の世界を造る」というこの明主様のモットー、私たちはこの表看板はまだ下げてないんですよ。「それは明主様時代のことだ」、じゃないんですよ。
そもそも、下げてないどころか、すでに我々の中にあるんです。神様の愛が貫かれた病貧争絶無の世界がある、永遠の平和という世界もあるんです、私たちの中に。
というように、私たち一人ひとりの中に完全なご存在がもういらっしゃるんです、神様という完全なご存在が。
最晩年、明主様はそれに目覚められた。確かに、ご使命によって脳溢血というご浄化をお受けになりましたけれどもね。
でも明主様は、病貧争絶無の世界を自分が生きている間に造る、あるいはその基礎を造るとか、また、自分が生きている間に世の病気全部無くすと仰せになって、そして結論的には、神様の愛と一つとなり、永遠の命を獲得して、メシアとして新しくお生まれになったことによって、病貧争絶無の世界の基礎を造ってくださったんです。病貧争絶無の存在というのを見せてくださったんです。だって永遠の命を獲得されたんでしょ、明主様は。
外見は確かに病気がありましたよ、明主様は。脳溢血で苦しまれた。
だけど、永遠の命を獲得されたんでしょ?永遠の命。ということは、明主様は、病で死ぬこともない、争うこともない、貧しくなることもないというそういう完全なご存在と一つになられたんです。
だから、基礎を造ると仰せになったように、それをひな型として遺してくださったんです、我々に。病貧争絶無の世界のひな型を基礎として遺してくださったんです、我々に。
だってもしそういう受けとめでなければ、明主様はただの嘘つきで終わりですよ。「ご自分の在世中に病気を無くせませんでした」「それどころかその張本人が病気で亡くなりました」、ですよ。
病貧争絶無の世界を造る──私は架空の話をしてるんじゃないですよ。確かに明主様はどうしてもご使命があって72歳で病によってこの世を去られた。だけど、明主様も私も、架空の話をしているのではない。
明主様は、病貧争絶無の世界はご浄霊によって造るんだと仰せになりましたね。病貧争と言っても、病が一番の元であって、それをご浄霊によって解決していくんだと仰せでしたね。ご浄霊というんだから、「霊を浄める」んでしょ?
そして今、我々は本当のご浄霊を教えていただいてるじゃないですか、教主様から。
怒り、妬み、不安、嫉妬が私たちの心に湧いてくる。それは一見ネガティブなことのように見えるけれども、実はそれは、光が当たると影ができるように、光を当てて救ってあげるよ、あなたの心を通して多くの者を救うよ、そして、心である霊が浄まることにより、結果、霊主体従の法則によってこの地上にもすばらしい世界が顕現されていくんだよと、そういうことなわけです。
今、世の中は、確かに見た目は病貧争に満ちている。でもそれを確実に変えていけるんです。まあ、神様が変えていくというんですかね。というように、病貧争絶無の世界を造る、本当に造る、という業に関われるんです、私たちは、本当のご浄霊を通して。だって今、神様は、私たちの中で浄霊してくださっているわけですからね。
我々の心。我々の心が浄まって、「ああ、多くの者を神様は救ってくださっていたんですね。一番最初の時にすでにすべて救ってくださっていたんですね」と思うことができたら、神様は、「そうだ」とおっしゃってくださって、そして、霊主体従の法則によって、本当にこの地上に病貧争絶無の世界を造り出すという業にお使いいただけるんです。今、お使いいただいているんです。
というようにこの本当のご浄霊もありますし、またそれだけではなく、明主様は、具体的には、薬とか食事とか、それを変えることによって体に影響を及ぼすこともありますよ、ということも仰せくださいましたね。それは神様から導かれてそういうふうにお話しくださったんでしょうけれどもね。
明主様もそうであったように、確かに役割によっていろんな病気を担ってくださっている方々がいたとしても、そしてまた世の中にいろんな病気があるのは事実だけれども、でも、我々は、病貧争絶無の世界を造るというモットーは下ろさないんですよ。
というのは、我々の心が神様の御心に適えば、自分の息がもっと生き生きとして自分の体が活性化するというのは不可能なことじゃないんです。神様の命に触れれば、不可能なことじゃないんです。
だから、現状を見ると世の中は病貧争だらけですから、私は途方もないことを話しているように思うかもしれませんけれども、メシア聖堂。メシア聖堂がありますね。
メシア聖堂。今から造ろうとしているメシア聖堂は、本物の場所じゃないですよ、もちろん。本当の聖堂、教会は私たちの中にある。それは人智を遥かに超えたものです。
だけど、もし、我々の建てるメシア聖堂が、「ああ、本当は、私の中にも、永遠の教会、永遠の聖堂、病貧争絶無の世界、永遠の平和、永遠の天国がある」「神様がいらっしゃる」、それを思い出すきっかけとしてのメシア聖堂だとしたら、神様は建てるのをお許しくださるかもしれないですね。
地上のメシア聖堂を唯一の場所とするなら、神様は、「私はそんなところにいない」「だって私はあなた方一人ひとりの中にいるんだから」となっちゃいますけれどもね。
だけど、「病貧争絶無の世界は私の中にあります。永遠の平和は私の中にあります。その象徴としてのメシア聖堂です」ということで進めるのであれば、かろうじてお許しをいただけるかもしれない。
というように、我々に託されている使命がある。
それは、明主様のモットーである、病貧争絶無の世界を造るということ。
そして我々は、本当のご浄霊を教主様を通して教えていただいたわけですから、やっぱり、今までの私たちの明主様像は全然違ったんだということをまず認める。
そして、この明主様というお方は、永遠の平和、病貧争絶無の世界をすでにお受けになったご存在ですからね、それも認める。
そして、その本当の明主様のみ心の象徴であるメシア聖堂を我々で建てて、多くの人に、あなた方は命に満ち満ちた存在となって輝くことができるんだ、あなたの中にあるじゃないか、もう打ち樹てられてるじゃないか、忘れたのかと、そういうことを訴えていく。
もちろん、今話していることは教主様が長年お伝えくださっていることではあると思いますけれども、メシア聖堂という形あるものができた時に我々の信仰がまたブレないようにしなければならない。
そして我々は、病貧争絶無の世界を造ると言われた明主様のみ心をまっすぐお受けして、共に明主様の本当のみ心にお応えできるように信じて歩む。だって我々は信じるしかないんですよ。明主様も信じられたんですから。信じるということはそこに理屈は無いですからね。「私の中にあります。それを信じます」、だけですね。というように、信じて、共に歩んでまいりましょう。
ありがとうございました。