「新時代の食 ~明主様の願いをお受けして~」
於:本部ご神前
今回私は「食」のお話をいたしました。そのような具体的なことについてお話をさせていただいたのは、まず、何をおいても、皆様が日々上げておられる聖旨にもあります、「全身全霊」という言葉をお受けすることの厳しさ、難しさ、不可能さについて皆様に知っていただきたかったからです。
私たちは、本当は、全身全霊を捧げることなどできないのに、全身全霊という言葉を、自分の都合の「全身」とし、その言葉をもって神様に誓っているというその姿を共に見つめたいと思ったからです。
私は、食のことをお話しした時、「仮に」と強調いたしました。
なぜなら、具体的な食のあり方というのは、今までのそれぞれの人生も、ご家庭の状況も、好みも違うのであり、そこに具体的に踏み込むことは避けなければならないと思っていたからです。
私が最も危惧するのは、「こういう食事をしなければならないんだ」とか、「これは食べてはダメなんだ」とか、「肉はもう食べられないんだ」というような戒律的な思想が広がってしまうことです。私は一切そのようなことは願っておりませんし、そのようなことはひと言も申しておりません。
私自身のことで言えば、基本的には和食をいただきますが、洋食もいただきます。世界中のさまざまな食もいただきます。獣肉を絶対食べないわけでもなく、魚をいただく時もございます。
つまり、「これは食べてもいい」「これは食べてはダメだ」という発想は私の中では皆無であり、食べたいものを、おいしいと思い、いただいています。それは基本的には明主様も同様であったと拝察します。もちろん、ご浄化の時は菜食にされた事実、これはございます。
食というテーマが極めて具体的であったがゆえに、皆様の中に、食について上記のような戒律的な思いが生まれてしまっているのではと心配しております。もしそうだとしましたら、それは私の責任でございます。
私は、教団から皆様のご体調に関するさまざまなご報告を伺う中で、ガンになっても、明主様が「ガンは肉食病」と仰せであるのにそれをご存じないようなお姿や、また、実際問題明主様は、新時代の食について聖言くださっておられ、ミロクの世は菜食だと仰せなのですから、そのことを少しは心の片隅に置いたほうがよいのではないかとも思い、あのような話をいたしました。そこは受けとめていただきたく存じます。明主様聖言は明主様聖言であり、私たちにとりまして、それは、永遠に神聖且つ服従すべきものであり、否定のしようはございません。
「明主様は魚や野菜のバランスの取れた食事をお説きになっていた」などという事実では無い言葉をもって、自分たちの都合のいいように明主様のみ心を曲げることの無いように注意せねばならない、と思います。明主様の食についての最終的なみ心は、紛れもなく、「菜食」であり、皆様がどのような食事をされようとも、この事実には少なくとも向き合わねばならぬと思う次第です。
しかし、結論的には、私が言うまでもないことですが、皆様には、ぜひとも今まで通りの食生活をお続けいただきたいのであって、決して、これは食べていい、これは食べてはダメだというような思いに囚われないでいただきたく存じます。それについては、なにとぞお願いしたいと思います。
ただ、もし病になったり、何か体調が優れないような時、あるいは、ガンになった時などに、心のどこか、ほんの片隅に、祭典で私がああいう話をしていたな、というのを思い出していただければそれだけで充分でございます。
もちろん、私がお話しした食についての明主様聖言を聞かれ、今後私はできるだけ獣肉は食べないようにしようとか、菜食になろうと思われることも自由でございます。そうならずとも全く自由でございます。皆様の日々の具体的なお食事の内容について、私は一切立ち入ろうとはしておりません。
私が最も恐れるのは、私どもがすでに解放されたはずの戒律信仰であり、食というテーマが具体的であるがゆえに、戒律化しやすく、それは私が願っている方向とは正反対でございます。私たちは、イエスと明主様により、戒律信仰からすでに解放されたのではないでしょうか。
演台が新しくなりましたね(一同笑声)。
これは、4年前、教主様とご一緒にポルトガルに行った時、こんな透明な演台だったんですけれども、その時に、日本でもこういうのを作ったらいいんじゃないかと思いまして、これ、シンプルに見えますけれども、実は構想から3、4年かけて作られたものです。
私のほうでイメージを大体持って、それをもとに、専従者の方がホームセンターで買った物を使って試作品を何個も作って、ここをもっとこうしたほうがいいんじゃないか、正面に教団マーク付けたらどうか、というようなことで、最終的には、完成した模型をもとに業者に作ってもらいました。
皆様からは見えませんけれども、ここ、原稿台のところ、英語で「世界メシア教(World Church of Messiah)」の文字が入っているんです。おしゃれ的に、ということでですね。
かっこいいですか?(一同拍手)。
透明なので、なんか丸裸みたいな感じですね(一同笑声)、今までは演台に守られていたのに。ちょっとなんかソワソワします(一同笑声)。
演台も新しくなって、明主様が、「どんどん新しくなりなさい。どんどん前進しなさい」、ということを我々に求めておられるのかなと、そんなふうに思っております。
「全身全霊」という言葉がございますね。聖旨にも「全身全霊を捧げ歩むものなり」とあります。この「全身全霊」という言葉について最近非常に考えさせられるんですね。
普通で考えたら全霊のほうが難しそうですよね。全身は、自分は全身捧げてます、体一生懸命使ってます、だから全身はできますと思って、一方全霊はなかなか難しいというふうに僕も思ってたんですけれども、本当にそうなのかなということを最近強く思うんですね。
全霊というのは目に見えませんから、一生懸命お委ねしてますとか、神様のこと信じてます、全霊をお捧げしてますというのは、言ったもん勝ちじゃないですけれども、そのようなことを言えば、聞いてるほうとしては、「ああ、そうですか」「すばらしい」ということにはなりますね。
でも、全身ということになると、結局、体を使うことですから、この世の生活すべてが関わってきますね。そうすると、いわゆる衣食住のすべても含まれますね、当然。ということは、「全身を捧げる」ということは、衣食住も含む自分の生活すべてを神様、明主様にお捧げするという意味ですね。
もちろん落とし穴としては、「自分は全身のほうはやってます、だから神様にお仕えしてます」ということで、要は、形のほうをやれば心では神様に対して無礼なことを思ってもいいんだとか、見えることだけをしてれば自分は信仰があるということを示せるんだ、というその落とし穴はもちろんありますね。
でも、「全身」ということは衣食住すべてですから、これを捧げなさいと言われると、我々にとって結構厳しいこともあるんじゃないかと思ったりするわけですね。
そして、衣食住といっても、宗教的には特に「食」ということが非常に大きなテーマですね。
例えばイスラムは、皆様ご存じのように、豚は食べてはいけない。豚以外の肉の処理の仕方もいろいろあるらしくて、ちゃんと手順を踏んで処理された物じゃないと食べられない。アルコールもだめですね、基本的に。だから、イスラムは、豚肉とアルコールはだめ。
あるいはユダヤ教は、聖なるものと俗なものということで、これは食べていいですよ、これは食べちゃだめですよというのが旧約聖書等にも詳しく書かれておりまして、ユダヤ教の人はそれを守る。
ではこういうことは世界の宗教だけなのかなというとそんなこともなくて、日本においては仏教ですね。仏教の精進料理というのは、これは動物性がすべてだめですから、肉、魚、全部だめということですね。ニラとかネギとかニンニクとか、そういう物もだめ。
もちろん私たちは、こういう戒律的な食のあり方、とでも言うのでしょうか、からは解放されている。ではだからといって、食のことが我々とは全然関係無いかというと、そうでもないんですよ。
どういうことかと言うと、私が今言ったような食の実践から思うのは、まず、私たちは、「神様」というと天上の神様というイメージが非常に強いわけですね。神様というのは天上を司っておられる方である、ということ。
でも本当は、神様というのは地上の神様でもあるわけですね。地上の王様でもある。
それも、話としては、「神様は地上の神様でもあられるんだ。すばらしい」と思われるかもしれませんけれども、神様が地上の王ということは、自分の極めて具体的な生活にまで神様が臨んでこられることを受け入れなければならないということですから、本来これはなかなか都合が悪いんですよ。
それを思うと、例えばこういうイスラムとかユダヤ教とか仏教の方々は、少なくとも神様とか霊的な存在が、天の神様だけではなくて地の神様でもあるということを、そのような食の実践を通して体感させられてるという点において、その信仰から学ぶべきことはあるのかなと思うんですね。
というのは、彼らは、衣食住という非常に具体的な、超具体的なことにまで神様の御心というのが及んでいるということを認めているわけです。
我々は、ややもすると、信仰のことは信仰のこと、この世のことはこの世のこととして、この世のことは自分の好きなようにやって、それを神様は許してくださってるんだ、くらいの感覚かもしれない。そういう感覚ですと、神様が地上の王様であるということをなかなか認めることはないのかなと思うんですね。
そういう意味においては、イスラムとかユダヤ教の方がこのように食の実践をされていることは、「全身全霊を捧げる」という信仰を求める私たちにとっては参考になる点もあるんじゃないかなと、そう思うわけです。
もちろん、皆様もご存じのように、明主様も食のことについてはたくさん仰せですね。明主様は、戒律がどうとか、どの食が清いとか清くないとかそういう観点ではなくて、健康ですね、健康。「病貧争絶無の世界を造る」ですからね。
明主様は、健康という観点から食のことについてたくさんの聖言を遺していらっしゃる。我々は最近それらの聖言に触れる機会というのはあまり無かったのかもしれませんけれども、でも、遺していらっしゃる。
例えば、ガン。
このガンについて明主様は、簡単に治りますよ、ガンは肉食病なんだから肉をやめれば簡単に治りますよと、もう繰り返し仰せですね。肉をやめて野菜をもっと食べればガンなんていうのは治っちゃいますよと仰せです。
当然、野菜と言ってもどういう種類の野菜かということはもちろんありますけれどもね。野菜がいいんだと言ってサラダ、生野菜ばかり食べていたら、生野菜は水分ですから、結果体をどんどん冷やしてしまって、浄化力が弱まることによりガンがなかなか治らないというようなこともあるでしょうけれども、今日はその話は置いといて。
というようにガンについてのこともありますし、また、明主様ご在世当時は、肉食どれぐらいと野菜どれぐらい食べるのが体にいいんだというのもありましたね。5割5割とか3割7割とか、そういうのもありましたね。
でも、「肉食」と聞くと、我々は豚牛を思いますけれども、明主様のおっしゃる肉食というのは基本、魚と鳥ですよ。基本的には魚ですね。だから明主様は、基本的には、当時は、魚、野菜をメインとする食事をしなさいと仰せだったということですね。もちろん主食はありますよ。穀物のことですね。
で、我々が肉食だと思う牛とか豚は、これを明主様は「獣肉」とお呼びになって、これはいわゆる血を汚す、濁すということで、できるだけ食べるなと仰せだった。
やむを得ず食べるにしても1週間に1回ぐらいにしなさいと、そう仰せだったんですよ、明主様はね。
そういうことで、なんとなくバランスの取れた食事という方向に進んでいかれるのかなと思っていたら、そうではなくて、明主様は、最終的には、これは有名な聖言なのでご存じの方もいらっしゃるかもしれませんけれども、バーナード・ショウというイギリスの作家の方が菜食であることの話をされた時に、菜食は大変いいことだとして、「ミロクの世の一つの条件は菜食だ」ということを言われた、明主様は。
今私は仮の話をしてるんですよ、仮の話をしてるんですけれども、もし、時の教主が、今もうミロクの世が来た、明主様が仰せのように菜食の時が来たと仰せになったら我々はどうするのか、というここですね。
しかも明主様はバーナード・ショウという外国の方を引き合いに出してるわけですから、これは日本だけの話ではないですよ。世界中の信徒に関わることです。
だから、「神様は地上の神様でもある」「全身全霊を捧げます」というこれ、これは言葉としてはすばらしいですよ。でも、もし、時の教主がそういうことを言われて、それこそ我々の生活の本当に具体的なところに神様が臨んでこられた時、我々の心にどういう思いが湧いてくるのだろうか、というここですね。
もし我々の心に、「都合悪いなあ、今の生活変えたくないなあ」という思いが湧くのだとしたら、我々は、確かに全霊は捧げているのかもしれないですけれども、全身を捧げるということではなくなってしまうのではないのかなと思います。
皆様、今私はあくまでも仮の話をしてるんですよ、仮の話。
だけど、明主様はそうやって具体的に仰せだったわけですね。この世のことまで明主様は具体的に仰せだった。
である以上、そこに本当に神様が臨んでこられた時、「今までの生活や食生活変えたくないな」という思いが湧いてくるのだとしたら、我々は毎日聖旨で「全身全霊を捧げ歩む」と言ってしまってますから、これは大変なことになりますよ。
聖旨を通して毎日聖なる誓いをしているわけですよね。というか、聖旨ですから、聖なるみ旨ですね。それを守ることを毎日誓っている。
だから、「全身全霊を捧げ歩む」という言葉を発している以上、もし具体的な問題について時の教主が臨んできた時に──例えば、ミロクの世はもう来た、ということを仰せになったとして──その時に我々の信仰が本当に全身全霊を捧げ歩んでいるものかどうかがあぶり出されるんじゃないのかなと、そんなことを思います。
霊界のことは問題無いですよね。「お委ねしてます、こうです、神様信じてます、赦し、罪人」、それらの内容については全部問題無いですよ、この世のことじゃないですし、自分の生活はなんら変えなくていいわけですからね。「ああ、すばらしい教えですね。悔い改めます」。これは簡単な話ですね。でも、「全身」というのは結構大変ですよ。
また、先日の祖霊大祭の時にもお話ししたように、「病貧争絶無の世界を造る」というのは架空の話ではない。病と貧しさと争いが無い世界を造るのが我々のモットー、ですね。
当然、その1丁目1番地は、明主様時代から変わらない。つまり、ご浄霊ですね。ご浄霊。これが病貧争絶無の世界を造る我々の1丁目1番地。
そして我々は本当のご浄霊を教えていただいてますね。
これは、実践しなきゃだめなんですよ。手を掲げるご浄霊の時はずっとされてませんでしたか?されてましたよね。
昔は、いわば、手を掲げるという姿さえ見せていれば、それで、「あなたは信仰ありますね」となってた。でも、今は形としては見せられないんですから、神様からの見方としては、もっと厳しくなってるということですよ。
前の時代は手さえ掲げていれば、「あの人は毎日浄霊してるすばらしい人だ」となったし、また実践している本人も、「私は信仰の実践してます」ということにできた。
でも、教主様が、「浄霊の神様の手は私たち一人ひとりの中にある」「その浄霊により、全人類の心に湧いているありとあらゆる思いを照らして迎え入れていらっしゃる」という本当のご浄霊を教えていただいた。
ということは、日々の生活の中で、「神様、今あなたがご浄霊の手をかざしてくださっているんですね」「今湧いてきている思い、この照らされているすべてを携えて、あなたの光のもとに行きます」という思いをお捧げする、これは、実践しなきゃだめなんですよ。知ってるだけではどうにもなりませんよ。「手を掲げなくていいんだからご浄霊はもうしなくていいんだ」、ではないんですよ。本当は昔以上にさせていただかなきゃいけないぐらいかもしれないですよ。昔だって、なんかあったらしょっちゅうご浄霊してましたよね。それは今も一緒ですよ。なにも変わっていない。
というように、明主様時代から、病貧争絶無の世界を造る1丁目1番地がご浄霊であることは変わらない。病の床に伏せていても、手が無い方でも、死ぬようなご浄化をいただいているような方でも、誰でも、いつでも、24時間実践できる、本当のご浄霊を今、私たちは託されている。
そしてまた、病貧争絶無の世界を造るということでは、明主様は、ご浄霊の他には、薬と食事、ですね。
薬と食事。これが血を汚すということを仰せになった。食事というか、獣肉ですね。牛と豚、これが血を汚すということを仰せになった。
教主様の、「万物はすべて神様がお造りになった」、確かにこれは大事な点ですね。そして、実際、薬をどうしても飲まなければいけない状況の方がいらっしゃって、そして、明主様の聖言との間で葛藤していたところを教主様が、「万物も人間のお役に立ちたいとしてすべて神様が造られたんだ」とご教導くださった。それは間違いない。
でも、だからといって、必要も無いのに積極的に薬を摂るとか、西洋医学を無批判的に受け入れるということとは当然違いますよ。
万物は神様が造られた、じゃあ毎日マクドナルド食べようじゃないか、お酒どんどん飲もうじゃないか、不摂生いくらでもしていいんだということとは違いますからね。
私がなぜこんな話をしてるのかというと、私は、専従者の方々や信徒の皆様のいろんな体の状況について、教団のほうから毎日のようにご報告をいただきます。で、それについては、教主様と共にお聞きして、明主様にその状況をお見せするということ以外、特別具体的に何かさせていただくということはほぼ無いんですけれども、でも、お聞きしていると、ガンも本当に多いですね。専従者の方のガンや、信徒の方のガン、本当に多い。
当然、私は西洋医学の必要性を否定しているわけでは一切ないですよ。だけど、明主様はもう何度も何度も繰り返し肉食の害、肉食がガンになるということを仰せなのに、そのことについて、なんと言いますか、完全に忘れ去ってしまい、むしろ西洋医学の抗ガン剤だけ、西洋医学だけという──今そういう状況だと思うんですけれども──そういうことをお聞きして、でも私は、先ほどから触れている明主様の聖言を知っていますから、だからそこに私の中に葛藤があるわけです。
浄化は神様の愛。確かにそれは分かりますよ、分かるけれども、でも、私としては、可能であれば信徒の皆様にできるだけ健康でいてほしいじゃないですか。
だから、何かこう、そのようなご報告をお聞きすることが重なるにつれ、今言ったようにもちろん私は西洋医学を否定してるわけではないですし──明主様ははっきり否定していらしたんですけれども──西洋医学の必要性もあるし、それに頼っていらっしゃる方もたくさんいらっしゃる、それは分かるんですけれどもね、だけど、食のことについて明主様が仰せだったこと、こういうこともあるんだよということを皆様にも少しは知っていただきたいなと、そう思うわけですね。
私たち、明主様時代は知ってたと思うんですよ。それがなぜ今あまり焦点を浴びないようになってるかというと、もちろんご経綸の推移はあると思いますけれども、それだけではなくて、やはり、今話しています、全身全霊を捧げるということの都合の悪さ、これですね。
明主様時代の信徒は、それはもう西洋医学も薬も完全排除で、食べる物についても文字通り明主様に全身全霊を捧げておられた。だから、それは最も純粋な信仰ですね。
ただ、この信仰は非常につらいですね。全身も捧げなければいけない、というのはきついですよ。生活の身の回りのことは自分で決めたいということがありますからね。また、いろんな面でハードルが高いですよね、家族が信徒ではない人はどうすればいいんだとかね。
そうすると結局、体に直接的に関わる聖言は都合が悪いということになっていきますのでね、そういう聖言は無いほうがいいと、そうなって、結局、好きなものを好きな時に好きなだけ食べる、この聖言だけはなんか生き残って(一同笑声)、明主様が好きなものを好きな時に好きなだけ食べろとおっしゃってるんだから何を食べてもいいんだろうと、そうなっていったし、そうなっている。
ただ、実はこれも結構難しいですね。明主様は、本当にお腹が空いた時に食えということを仰せなんだけど、我々は、結構、三食食べるということでがんじがらめになっていたりして、割とお腹が空いてなくても食べてたりしますよね、自分はそれは好きな時に食べてると思い込んでるかもしれませんけれども。だから、本当に自由にできるというのはなかなか難しいですよね。
こういう聖言も、本来は、「明主様のみ心の中で」ということだと思いますけれども、結局自分の都合のいいように解釈してますからね。だってそうでなければ、明主様が食のことについてあんなに言われたことと矛盾しちゃいますからね。
好きなものを食べていいということと、獣肉に気をつけなさいということ、矛盾しちゃいますからね。
だから、人間中心の自分の好きなものを好きな時に好きなだけ、ではなくて、やはり自分の中に神的存在がいらっしゃるわけですから、その存在が何を求めていらっしゃるんだろうかということだと思うんですけれどもね、本当は。
というように、今回は「食」を取り上げたんですけれども、この世のことで神様のことを受け入れるのは本当に大変ですよ。だから、全身全霊を捧げ歩むと言っても、これはなかなか難しいことだと思いませんか?
我々の家に明主様が来て、食事のこと、こうだこうだと言われてしまったら、とっさに言い訳してしまうとかね、そういう姿が私たちにあるんじゃないのかなと思うわけです。そうだとしたら、それは「全身」は捧げてないですよ。聖旨をお上げする時に「全身」の部分を取って、「全霊を捧げ」とするならいいですけれどもね(一同笑声)。
でも本当は、体よりも霊のほうが難しいんですからね。だから、全身すら捧げられなければ、本当は全霊もとうてい捧げられないんですよ、本当はね。
というようにまあ、全身全霊というのは本当に大変なことだなと、そういうことを最近強く思っております。
話は少し変わるんですけれども、昨日まで子供たちが夏休みだったのでいろいろ連れていったりもしたんですけれども、夏休みの最初のころのほうに、どこかに出かけて車で家に帰る途中、もう結構周りも暗くなってくる時間だったんですけれども、6歳になる長女が、「ビーチ行きたい、ビーチ行きたい」ということをさかんに言ってたんですね。
一方次女は今年3歳で、去年ビーチに行った時は波が怖くて、「やだやだ」ということで、彼女にとってビーチに特別いい思い出は無いんですけれども、だけど、長女がさかんに「行きたい」と言ってるから、次女も去年のことを忘れたのか、海に行きたい気持ちになって、「今から?」「今から?」と言うんですね。
今からと言っても、もう夜の7時ぐらいですから(一同笑声)、周りはもう暗い。長女はもう6歳近いので分かっているわけです、今から行くのが無理なのは。6歳ぐらいだと時の感覚がだいぶはっきりしてきますのでね。だから、今度連れていってもらえるかもしれない、「やったー」と楽しみにしていたら、次女がさかんに「今から?」と言うので、みんなで少し笑ったり、「今からは行けないんだよ」と言ったりしてたんですね。
それでその晩、子供を寝かしつけたあとになんか思わされることがあって、それは、「今から?」と言ってた次女を、かわいらしいなあということでみなで笑ってたんですけれども、でも、なんて言いますか、その純粋さがすごいなと思ったんですね。
行きたいところがあったら、時間とか周りの状況とか関係無く、もうすぐにでも行きたいという子供の純粋さ、それがすごいなあと思って、我々の信仰でも似たようなことがあるんじゃないかなと思ったんですね。
我々は教主様から、「天国行きなさい」と言われてますね。それは、明主様がそう仰せになってたんですけれどもね。
「天国、今行けますよ」「今行けますよ」と聞いて、この次女の精神だったら、「はい、行きます」となると思うんですよ。「今から?」「今から行けるんですか?」「すぐ行きます」と言って喜んで行くと思うんですよ。実際、今もう行けるんですからね。
確かに小さい時はいいですよ。でも成長してくるとなかなか難しくなってくる。次女の年齢の3歳ぐらいは良かったけれども、これが6歳ぐらいになるともう分かってくるわけですね、今は行けないというのが。だいたい、水着も持ってないじゃないか、タオルも持ってないじゃないか、ということもあるので、克服しなきゃいけない問題は時間の問題だけではないですよね。
というようにだんだん大人になると知恵を付けてきますね、私たちは。もちろんそれは必要なことですよ。その時にみんなで、「よしじゃあビーチ行こう」と言って実際行ったら服もなにもかもびちょびちょになったりして大変ですよね(一同笑声)。
だから、今日拝聴した明主様聖言(「再びベルグソンに就て」1951年7月18日)にも、子供がとっさに返す言葉で大人が学ぶことがある、というようなことがありましたね。
逆に大人というのは、だんだんいろんな既成学問、つまり知恵を付けていって、そしてそれが棒のようになってしまう、また、そもそも、先祖代々、何十年何百年と続いている棒が我々の中にあって、それが我々の考え方になってしまっている、そして、その棒に気づく者もいないと、そう明主様は仰せですね。
だから我々は、教主様から、「天国に立ち返れますよ」、というのを聞いた時、我々の中に先祖代々から続いている考え方があって──それは棒とか、あるいは聖書で「梁」と表現されてますね──それによって、正しくそのことを捉えられないんですね。
それで具体的にどうなるかというと、我々の中に、「いや、なかなか実感が湧きません」とか、「自分のような者が」という思いが湧いてきてる。
本当は、ビーチはすぐに行けないかもしれないけれども、天国は、もう、すぐ行けるんです。だって明主様は、まず天国に上がりなさいと仰せなんですから、今すぐ行ける。それなのに、「いや、なかなか実感が無いから」とか、「自分のような者が」とか、「こういう信仰実践をしてからじゃないと天国人になれません」ということを私たちはずっと言っているわけです。
今日拝聴した聖書(「マタイによる福音書」第18章1節~14節; 第7章1節~14節)においても、イエスが、「この幼な子のようにならなければ、天国に入れない」と言ってますね。
幼な子は、「ああ、いいんだ」と思ったら、もう、すぐなわけです。私の次女の例のように、去年はビーチは好きじゃなかったんですけれども、「お姉ちゃんがそう言うならいいところだろう」と言って、すぐ行きたいと思う。その子供の素直さというのはすごいですね、いや、私の次女がすばらしいと言ってるのではなくて(一同笑声)、子供全般の話として言ってるんですね。子供心の素直さ。
一方大人の我々は、ある物事を考えるにはこういうことがある、というのが染みついちゃってるわけですね、そんなうまい話があるわけないとか。
で、明主様も、棒があるのに気づかない、と仰せのように、我々は、「みんなもそう思ってるだろう」というふうにして、自分に棒があることにすら気づいてないわけです。その棒によって天国に上がることができてないということに気づいてないわけです。
だから、これをどうするのか、ということが出てくるんですね。
だって明主様は、「刹那の吾になれ」「その棒を取り除いて刹那の吾になりなさい」と仰せですし、聖書においても、「目から梁を取ればはっきり見えるようになる」、あるいは、「心を入れ替えて幼な子のようにならなければ天国には入れない」ということがさぞ簡単にできることかのようにして書かれてますからね。
だとしたら、これをどうするのかというのが一大問題のはずですね。棒をどうやって取り除くか。どうやって心を入れ替えるか。どうやって目の梁を取り除くか。
聖言とか聖書では簡単に書かれている。でも、「棒を取って刹那の吾になりなさい」「あ、そうですか」と簡単にいきますか?簡単にはいかないですよ、だって棒があることにも気づいてないんですから。だから、これをどうするんですか、ということになるわけです。
だいたい明主様は、まず天国に上がって天国人となり、と仰せですよね。これも簡単に言われてますね。だとしたら、「分かりました、じゃあ天国に行きます」という、そんな簡単なことでいいんですか、という感じですよね。
そして、この、「まず天国に上がる」というのは、それを説かれている聖言のタイトルも「本教救いの特異性」ですから、メシア教信徒、聖徒の前提は、「まず天国に上がる」ということ、それが一番最初に来て、それからすべてが始まるんだと、僕はずっとそう思っていました。
だけど今日お上げした御歌の6首目の明主様御歌。これは、「身も魂も神の光に浄められ天国に住む吾となりける」。「身も魂も神の光に浄められ」て、天国に住む私となった、そういう御歌ですね。
ということは、私はずっと、何も無しでとにかくまず天国に上がる、というのがスタート、前提だと思ってたけれども、その前の大前提があった、ということですね。それは何かというと、まず、身も魂も神の光に浄められなければ天国に上がることはできない、ということです。というか明主様は、身も魂も神の光に浄められて、天国に入るご存在となったと、そういうことですね、だって、「吾となりける」と言われてますから。
というように、この御歌の大変なところは、もちろん一つ目のポイントとしては、「まず天国に上がる」が明主様の信徒の前提だと思ってたけれども、その前提の前の大前提があったんだ、ということ。
もう一つのすごいポイントは、「明主様を浄めるご存在がいらっしゃった」ということですね。ここでは「神の光」と表現されていますね。ご浄霊は明主様の光だ、ということを思われた方もいらっしゃると思いますけれども、明主様のおっしゃる「神の光」は明主様の身も魂も浄められたんですから、少なくとも明主様より上のご存在ですよ。
一つはっきりさせておきたいのは、明主様が仰せになる「神の光」というのは、有名な聖言「光明如来」においても書かれていますように、罪障消滅の光、罪を消す光ですから、すなわち「赦しの光」であるということ。
これが何を意味するかというと、明主様は、少なくとも、自分の身も魂も罪にまみれていると思われていた、ということですね。これは大変なことですね。そう思いませんか?明主様はご自分のことを罪人だと思われて、神の赦しの光によって浄められなければならないご存在であると認識していらした。
だから、この明主様の御歌は大変な御歌ですね。膨大な量の明主様の聖言すべてを踏まえた上でこの御歌を捉えると、この御歌のすばらしさが非常に胸に迫ってくるものがあるなと、そう思います。
だから、先ほどから話している、棒を取るとか、梁を取るとか、心を入れ替える、というのは、まずあなたの身も魂も神の光に浄められなさい、ということです。
「浄める」ということは、罪とか汚れとか穢れとかを浄めて清いものにするということですね。ということは、我々も、明主様と同じように、まず自分が罪人であるということを認めなければ天国には入れませんよ。
罪人だと認めないとしたら、確かに自分のイメージしている天国には入れるかもしれませんけれども、明主様が行かれている天国には入れませんよ。罪人であって、身も魂も浄まった私がいるのが天国だと、そう明主様は仰せなんですから。
明主様は、ご自分が罪人であって、ご自分の魂だけではなく身も、ということはそのお体もその内側も全部が罪まみれだと思われてたから、神の光に浄められることがお出来になったし、また天国に上がることもお出来になった。
子供の時は簡単でいいですよ、直感的にそれができるから。だけど、大人になってくると、ありとあらゆる我々の先祖代々の考え方が出てくる。我々の中にいらっしゃるご先祖様のことですね。だって我々は祖先の綜合体であって、ご先祖様とは一体なんですから。
そして、罪を浄めてくれる存在を我々は教えていただいてますね。贖い主、ということですね。「贖い」というのは罪を取り除く、ということですよ。それが贖いの目的ですからね。しかも、贖いは、ただ罪を取り除くのではなくて、代償を払って罪を取り除く、それが贖いです。代償。だって、贖うというのはお金を払うというようなことですからね。
だから、我々の罪が取り除かれるのに代償が支払われてるわけです。そして、それは何かと言ったら、紛れもなくキリスト・イエスの血ですね。
明主様は、確かにイエスが贖罪主だということははっきり何度も仰せになりましたけれども、ご自分とイエスの関係についてはあまりはっきり仰せにならず、その辺はぼやかされておられましたね。二千年の時を経てなにか霊的連繫があるとか、イエスとご自分の間にはなにか神の密意があるとか、そういう言い方をされて、はっきりは仰せにならなかった。
ではそれはなぜかというと、もし明主様が最初からイエス・キリストのことを打ち出しておられたら、結局、「世界メシア教はキリスト教の一派だね」で終わりになってしまう。
でも、全人類がメシアとして新しく生まれるというこの救いはキリスト教に託されたものではなくて、メシア教に託された。
神様は、いわゆる一般的なキリスト教ではない別のルートをお使いになってその業を進めようとされたから、明主様としても、ご在世中なかなかイエスのことをはっきりと打ち出せなかった。明主様は、メシアとして新しく生まれるという人類が倣うべきひな型を遺されなければなりませんでしたのでね。
でも、我々が、刹那の吾になるとか、心を入れ替えて天国に入るとか、目の梁を取り除くということ、それを成し遂げる唯一の道は、キリスト・イエスの十字架の血を受け入れること、これが唯一の道です。
私は今何も劇的なことを言ってるんじゃないんですよ。人間として当たり前のことをお話ししてるんです。だってイエスが贖罪主なんだとしたら、その血によって私たちの代償を支払ってくださったんでしょ?
代償を支払ってくださったということは、今我々はあたかも普通に生きてますけれども、本当は、借金まみれだったということですよ。
我々は一人ひとり、何十億何百億円の借金を抱えて、もうがんじがらめ、何もできないんです、本当はね。
我々は、自分一人という存在で生きてて、家族との関係、友人関係、地域での活動を通して、そういうことを構築していけばこの世で生きていけると思ってますけれども、イエスの血を受け入れなければ、本当は借金だらけでそんなことできる存在じゃないんです、我々は。
何十億何百億円どころじゃないですよ、実際は。数にはできがたいほどのすごい借金なんですよ。だって人の命をお金に換算できますか?イエスは私たちのために死んでくださったんですよ。ということは、我々一人ひとり、換算できないほどの多額の負債をしょってたんです。それを支払ってくださったんです、イエスがね。だからこれは本当に大変なことなんですよ。
この世の中では、借金が払えなくて、下手をすれば追い込まれて自殺ですよ。どこかに逃げるとか。なぜそういうことを見せられているのか、人類が経験させられているのかというと、それぐらい我々はがんじがらめだったからですよ。でも我々は、「イエスがいなければ自分はがんじがらめなんだ」ということにも気づいてないですね。
全人類と言っても、それは、我々一人ひとりのことですよ。我々一人ひとりが抱えている負債を、ご自分の血によって贖ってくださって、我々の借金の代償を支払ってくださった方がいるんです。その方を受け入れない限り、我々は浄まることもないし、天国に上がることもできない。
そこで問題となってくるのが、「求めよ、さらば与えられん」。「求めよ、さらば与えられん」。
新しく生まれること、天国に入ること。そもそも私たちはこれを望んでるんですか?求めてるんですか?その問題があります。
「求めよ、さらば与えられん」。これを、「好きな時に好きなものを好きなだけ食べる」の問題点と同じように、「求めよ」と聞いて、何か自分中心の願いをもって、「じゃあ自分はこういうものを求めます、これを求めます」と言って、でもそれが与えられないという時に、我々は、神様は与えてくれないじゃないかとなるんですか?
そうではなくて、神様の御心に適ってることを求めるならば、それは与えられますよ、という意味ですね。「奇びなり噫奇びなり願事の」の明主様の御歌にもあるじゃないですか(「奇びなり噫奇びなり願事の正しかりせば叶へますなり」)。なんと不思議なことだろう、願いごとが正しければ叶いますよと、そう仰せですね。だから、好きな時に好きなものをと仰せなんだから、マクドナルド食べたい、これ食べたい、これ食べたい、それでもいいんだ、ということではないんじゃないかと、そういうことですね。
門をたたけ、ともありますね。我々はそもそも門をたたこうとしているのだろうか。天国に上がりなさい、立ち返りなさい、新しく生まれなさいということをどれだけ聞いても、もし我々が求めるのはこの世の喜びと楽しみであれば、それらのことをずっと与えられないですよ。
だから、「求めよ、さらば与えられん」というのはすばらしい言葉ですけれども、本当にそれを自分が求めているのだろうか、それを見つめる必要はあるのかなと思います。
我々はこの世のことで頭がいっぱいですね。だから、なんかこの世のことがうまくいってて、自分の体調もいい、家族も調子がいい、という時に、「ああ、これが神様の子供となることなのかなあ」とか、「これが天国なのかなあ」とか、それは思えますよ、誰でもね。
でも、いざ何か不都合なことが起きた時に、「私は天国を求めてます」「新しく生まれることを求めてます」「神様の天の扉に入らせてください」と思ってるかどうか、ここだと思います。
でも、たとえそのようなことを聞いても、「そう言われてもなかなかそうは思えない自分がいます」「イエスの十字架と言われてもなかなかそうは思えません」「求めよと言われてるけれども、求めていない自分に気づきました。なかなかそうは思えません」「この世に執着してる自分を見つけましたけどなかなか難しいです」、というふうな思いも湧くかもしれませんね、我々の中に。
でも、本当は、そのような思いこそ、我々や我々の先祖の方が神様と一つとなるのを避けるために、巧みに知恵を使って作ってきた棒なんですよ、今言ったような思いそのものが。私たちは、それに気づいていないだけ。「いや、これは自分の実感です」「棒じゃありません、自分の実感です」というようにして、そのような思いを逃げ場所にしている。
というのは、「なかなかそうは思えません」と言うと神様を受け入れることを先延ばしにできますからね。そうすると自分の世界を保てるんです。だって我々は、「「なかなかそうは思えない」という自分」を大切にしたいですからね。
でも本当は、その、「なかなかそうは思えない」、というところに神様はもう来られてるんです。今、来ていらっしゃる。それが、今日の聖書にもあった、「迷い出た最後の一匹の羊」なんですよ。
我々は、「なかなか思えない」という言葉や思いを、神様を受け入れるとか、教主様を通して明主様を受け入れるというのから逃れるための隠れ蓑に使いたいんですね。だって、私たちの先祖は、神様を受け入れないためにずっとそうしてきたんですから。
だから本当は、そのような先祖の姿を神様が救おうとされてるから、「なかなかそうは思えない」「求めよと言われても、なかなか求めたくないな」という思いが湧いてるんです。
聖書にあった、百匹の羊がいてそのうちの九十九匹はいる、でも一匹が迷い出てしまって、この一匹を神様が救いに行く、というのは確かに愛の言葉ですね。あるいは「全人類を救う」という言葉や、本日の御歌の7首目の教主様のお歌にもあったように、誰一人も漏らさないで救うというのは、確かに愛の言葉ですよ。
だけど、これらの言葉は、神様の愛を受け入れたくない者にとっては恐ろしい言葉ですよ。だってそれらの言葉は、言い換えれば、我々の逃げ場所はどこにも無い、ということなんですから。
最後の一匹まで捕まえてしまう、ということは、どんなに、「そう言われてもなかなかそうは思えません」と言って、「よし、これで逃げ切った。神様もここまでは来られないだろう。ふー、ああ良かった」と思って目を開けた瞬間神様が目の前にいらっしゃるという感じですね。「えっ!?」と驚いたりしてね(一同笑声)。というように、我々がどんな思いを持ったとしても、そこまで神様は来られている。
我々は、「なかなか思えない」「新しく生まれられるとは思えない」「実感が無い」というような言葉を巧みに使い神様から羊のように逃げてきた。でも神様は、今、その思いを救うために私たちのもとまで来られて、そして、「帰ってきなさい」と仰せになっている。
だから、神様からの逃げ場がどこにも無いというのは、神の愛に満たされたい者にとってそれは愛の手ですけれども、そうではない者にとっては都合悪いわけですから、もう逃げたいわけですね。
でも本当は、その逃げてる最後の一匹の羊の思いというのは、何も他人事ではなくて、我々一人ひとりの中にあるんですね。分かりますよね?神様の真実を聞いた時、「都合悪いな」という思いもありますでしょ?それですよね。それをまさに今神様が、「それを携えて私のもとに帰ってきなさい」というふうにしていらっしゃる。
という、本当に、最高で最後の救いを託されているのが私たちですから、これは大変なことなんですよ、本当はね。
そもそも、このキリスト・イエスの十字架の血を受け入れるということ自体が大事になってしまってますけれども、本当は、語弊があるけれども、それぐらいのことはメシア教の我々はさっさと通り越して、今度は、教主様が「第二段階の創造」(明主様は「第二紀元の誕生」と仰せ)とおっしゃる、天国に上がってすべてのものを迎え入れて、そしてすべてのものに祝福を分け与えるという本当の救いの御用に我々は使われなければならない。
キリスト教の方々は、「イエスが贖い主だ、すばらしい」で止まってるわけです。「イエスだけがメシアだ」で止まってるわけです。
でも我々は、本来、イエスの十字架を受け入れるとか、贖罪主を受け入れるということくらいは簡単にクリアして、そして、メシア教に託されている、「ありとあらゆる思いを救う」という救いにお使いいただかないといけない。何が心に湧いてきても、「そうだ。これを救うために私は来たんだ」、ということですね。
だとしたら、今日の明主様の御歌、身も魂も神の光に浄められてまず天国に住む人となる、と仰せなんですから、そして明主様は救いに使われたければまず天国に上がりなさいと仰せなんですから、まず大前提である、「自分自身が悔い改めて罪の贖いと赦しを受ける」ということをお受けして、その上で天国に上がって、そしてメシア教の皆様に託されている光と救いをすべての人たちに分け与えるということ、この業にお仕えしなければならない。これ、全部抽象的な話だと思うかもしれませんけれども、大変なことなんですよ、これは。
本来イエスも、ただ、全人類が、「あなたのおかげで私たちは生きてます」だけで終わってほしいわけじゃないんです。その先の、「ではこれからはもっと神様に近づく存在となりなさい」というところに行かなきゃいけないのに、人類はずっと、「イエスを信じる自分」で留まってるんです。
そうではなくて、メシア教の我々は、キリスト教徒の信じてることくらいは簡単にクリアして、そして、日々の生活の中で湧いてくる思いを神様にお委ねする。これは、実践しなきゃだめなんですよ。
どんな困難な状況、どんな心の苦しみの中にあっても、「ああ、ありがとうございます。ここはもう浄めて救っていただいたんですね」ということ、これを実践しなければならない。
だから、その御用にお仕えさせていただくために、できれば心身共に健康で仕えてほしいということを願われてたから、明主様は食のことについてあんなに仰せになったんだと思いますよ。確かに、必要があって病にならなければならない方はいらっしゃいますけれどもね。
でも、できれば霊肉共に健康で神様の御用にお仕えしてほしいと願われてた、それは間違いないですよ。
もちろん、浄化を抱えている方も神様の大切な御用をしてるんですよ。だって、その方たちでしか思えない思いがあるじゃないですか。病になった人でしか思えない思い、ありますよ。だからそれは、救いのために、どうしても必要があってそうなっている。生まれた時から不治の病の方もいらっしゃいますしね。
そのような方たちの思いというのは、他の人はいろいろ言ったりしますけれどもね、でも結局は分からないですよ。その病を経験した人にしか分からない。
ということは、その人に神様が、「お前に任せたぞ」と託してらっしゃるわけです。我々は、なにか答えがほしくて、「他の人がなかなか分かってくれない」というのがつらさになったりもしますけれども、でも、神様は分かってらっしゃいますよ、そのつらさをね。「私は分かってる」「お前にこの大切な御用を任せたいんだ」「お前を通してお前と同じような病で苦しんでいる人を救いたいんだ」と仰せになってる。
だから、いつも言うように、何が起きるか分かりませんよ。病を感じておられる方が、どうにもならない絶望感を味わった時、「神様、ありがとうございます」「ここを照らしてくださったんですね」と思う。でも、本来それすらも思えないですから、「それすらも思えません。でも神様、キリスト・イエスの贖いの血を受けたいのです。天国に入りたいのです」と言ってね、それで、「祝福を分け与える御用にお使いいただきたいのです。だって私はメシア教の信徒ですから」と思わせていただく。そしたら、それによってこの世の病が消えていくということもあり得ないことではないんですよ。
ということはあります。そういう方もいらっしゃる。それは間違いないですね。
でも、やはり一方で、明主様としては、できればこの地上で我々には健康で過ごしてほしいと願っておられるわけですから、その明主様の願いをこのまま終わらせては申し訳ないなというのがどうしても感じられるんですね、私には。
だから、健康な人も病気の人もお互い協力して支え合って、そして我々に託されている本当の救い、我々の心を使って神様が進めておられる救い、その救いの御用に日々お使いいただかないといけない。
そして、メシア聖堂。キリスト教を超えるメシア教の象徴となるメシア聖堂。
これが建つことを教主様が願ってらっしゃるということは、明主様も願ってらっしゃるんだ、ということにはなりますけれども、それだけではなくて、今日は、三代教主十年祭も執り行いましたけれども、三代様も願ってらっしゃるんですよ。二代様も願ってらっしゃる。
二代様時代の信徒もいたし、三代様時代の信徒もいたし、明主様時代の信徒もいた。でも今、明主様と二代様と三代様のみ心を全部お受けして、メシア聖堂を建てる使命が我々に下ったわけですから、文字通り全身全霊をもって、そしてメシア教の我々が一致団結して、日々救いの御用を実践しつつ、そしてまた神様の愛を周りの方々に伝えて、そしてメシア聖堂を建てなければならない。だって我々はキリスト教の方々を始めとする全人類を救わなきゃいけないんですからね。
そのような道を成し遂げようとしておられる神様、明主様に、教主様を先頭にして喜びを持ってお互い支え合ってお仕えしてまいりましょう。
ありがとうございました。