九月度月次祭並びに三代教主十年祭
2023年9月1日
御歌
自づから己が好みや善悪を基にし生くる者となりたり 教主様
心をば我が物とせしが主の神に背きし罪とは気づかざりけり 教主様
忍耐と寛容をもて主の神は御心砕きて導き給ふ 教主様
心開き悔い改めてありのまま今の「わたし」を神に捧げむ 教主様
赦されし罪を素直に今認め悔い改めて御国に帰らむ 教主様
身も魂も神の光に浄められ天国に住む吾となりける 明主様
誰一人漏るることなく必ずや救はせ給へ唯一の神 教主様
明主様聖言
再びベルグソンに就て 昭和26年7月18日
私は以前、仏蘭西の有名な近代哲学者である、彼のアンリ・ベルグソンに就てかいた事があるが今度再びかいてみたい心が起ったので筆をとったのである。というのは、よく私に対って、色々な事を訊いたり、又私の方から話す場合、其意味が簡単に判る人は洵に少ないのであって、事柄としては実に簡単で判りそうなものだが、仲々判らない。訊く人は相当の教養があり乍ら頷けないので、私は色々な例を挙げて、諄々しく並べてやっと判るのである。其都度思い出すのは、ベルグソンの哲学である。
何故、簡単な事がそれ程判らないかを考えてみると、斯ういう理由がある。それはベルグソンの所謂刹那の吾にならないからで、勿論それを意識しないからでもあろう。彼の説によれば人間は誰でも物心がつき始めると、色々な事を聞いたり、伝説や既成学問を詰め込まれたりするので、一人前になる迄には、それが棒のようなものになって心の中に出来て了う。だから棒以外の説を聞いても、其棒が邪魔をして想念の中へ其まま入らない。だから想念の中が空ッポなら、苦もなく入るから直ぐ判る訳で、よく白紙になれなどと曰われるが全く其通りである。そうは言うものの棒などに気がつく者は殆んどないらしい。だから此文を読んだ人は、今からでも刹那の吾となる事である。刹那の吾とは、物を見たり聞いたりした其瞬間、咄嗟の感じを言うのである。全く棒が邪魔をする間隙のない、恰度子供と同じようにする。よく子供が大人の言葉をきき、返えす言葉に感心させられる事がよくあるが、全く棒の邪魔がないからである。
此事を彼は又、直観の哲学とも曰った。此意味も歪めないで真ッ直に物を見よ、それが正しい観方であるという訳で、刹那の吾に附随したものである。それから又彼の哲学には、万物流転という言葉がある。之も仲々面白いと思う。それは万有一切は一瞬の停滞もなく動いていると言う意味で、例えば去年と今年とは一切が何処か異っている。世界も社会も同様であり、自分自身の想念も環境もそうである。否昨日の自分とも、五分前の自分とも必ず異っている処がある。としたら昔からいう一寸先は闇という言葉もそれである。此様に何でも彼んでも一秒の停止もなく流動してやまないのである。
従って、此理を人間に当嵌めてみる時、斯ういう事になろう。何かの事にブツかった時、去年の観方も考え方も、今のそれと異っていなければならない。大きく見れば終戦前と終戦後とは丸きり異っているではないか、僅かの間に驚異的である。処が多くの人は、何百年前の行り方や、何十年前の考え方が、先祖代々から棒のように続いているから、適確に現在を把握する事が出来ない。之を称して封建とか、旧い頭とか言うのであろう。つまり一切が流転しているのに、御自分だけは泥水のように停滞しているからで、斯ういう人こそ世の中から置き去りを喰ったり、不幸な運命となるのである。
『栄光』113号
*抜粋
聖書
「マタイによる福音書」第18章1節~14節; 第7章1節~14節
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
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人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(⽇本聖書協会)