〝余を真似よ〟

 

〔明主様〕
現在の教団には真の信者は一人もない。
余を真似よ。
1954年7月11日 側近奉仕者の日記より

 

〔聖書〕
神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
「エペソ人への手紙」第5章1節

 

〔教主様〕
 明主様は、ご昇天になってから、天国に上られたのではありません。ご昇天になってから、メシアとして新しくお生まれになったのではありません。
 目に見えるご肉体をお持ちのまま、天国に上られ、新しくお生まれになったのです。そして、永遠に生きるものとなられたのです。
 主神は、明主様だけをメシアとして新しく生まれさせるために、地上にお遣わしになったのでしょうか。決してそうではありません。
 全人類の模範として、私どもが明主様に倣うものとなるように、お遣わしくださったのです。
 明主様が私どもの模範であられるということは、明主様を自分とは別の所におられる方、また、過去の方と思って、模範とさせていただくことではありません。
 模範とさせていただくということは、新しくお生まれになった明主様が自分の中におられることを認めることです。そして、明主様に倣うものとなるように養い育てられていることを認めることです。
2019年12月23日「御生誕祭」

 

〔真明様〕
 〇〇先生が、神様に、「私もあなたを愛しています」ということをおっしゃっている、というご報告がありましたが、それは良かったなと思ってお聞きしていました。
 例えば赤ちゃんも、親がずっと「〇〇ちゃん愛してるよ」とか言っていると、少し大きくなった時に、「ママ愛してるよ」という言葉を発しだすじゃないですか。
 子供は、親が言っていることを聞いて、同じ言葉を使う。その時子供は、その言葉の意味についてものすごく分かっているわけではないと思うんですよ。
 でも、親が使うから自分も使ってみようと思って使ってみる。そうすると、「あっ、こういう言葉を使うとママ、パパは喜ぶんだ」みたいなことを思ったりして、そうこうしているうちに、もっと大人になって、「愛」ということの意味をよりつかんでいくと、そういうことですね。
 というように我々は、たとえ意味が分からなくても、この世においてもまねごとから入っているわけですよね。これは現界の話。
 そして我々は今、教主様から、神様は私たちのことを愛してくださっているということを聞いていますね。ということは、神様が私たちに対して「愛してるよ」と言ってくださっているということが前提です。
 だとしたら、私たちもまねごとから入る。「愛してるよ」と言われているんだとしたら、たとえ実感が無くても──神様に愛されるということの意味が分からなくても──神様のまねをさせていただいて、「神様、愛しています」と言ってみる。
 そういうふうにすることによって何か感じることができて、そして、そのうち神の愛ということの本当の意味についてだんだん知ることができるということもあり得るんじゃないかなと、そう思うわけです。
 だけど、音として発しなければそれは一生分からないですよ。だから、そういう意味において、〇〇先生がそういうふうにされていることはいいことだなと思います。
 もし赤ちゃんが、親の愛の全貌をつかんでから初めて親に対して「愛してるよ」と言うのだとしたら、もうずっと黙ったままになりますよ。
 でも赤ちゃんは、よく分からないけどまねごとから入って、そして、それを通してその言葉に込められているいろんなことについて段々知っていくわけですから、我々も、似たようなことがあるかなと思います。
 ですので、神様が私たちのことを愛していると教えていただいているんだとしたら、それは神様に「愛してるよ」と言っていただいているわけですから、その神様のまねをして、「神様、あなたを愛しています」ということを言わせていただいたらどうかなと、そう思いますね。
2022年5月1日「教主様ご面会(理事・教区長)」

 

教会誌『グローリー』No. 44, 2023/9月号掲載
 聖書出典:『口語訳聖書 1954/1955年改訳』(日本聖書協会)